昨夜の護摩供養から
令和5年4月29日
東福寺の静慈彰師の護摩木の入れ方がそれほど大きくない入れ物の中で(一説によると天ぷら鍋を活用しているとか)火の勢いがあまりに凄まじいので「大丈夫なのか」と思ったり「火の粉がいっぱい飛んでるがな」とか思うと共に凄まじい勢いの火に負けないようにご真言を唱えさせて頂きました。(然り気無くガラケーの携帯で写真も撮っていますが)



静慈彰師の護摩供養の祈りをされている姿は祈りの言葉は鮮明であり一つ一つの仕草が真剣勝負であり、護摩供養後の静慈彰師の様子を見ていると「エネルギーを全て費やしたな」と思った次第です。その様な状態であっても段を降りて来てからのお話は明快で分かり易く色々な事を教えて頂けたのはありがたかったです。
例えば私が印象に残っているのは、1つには「あ」と「うん」(本当は「ん」)のお話でした。金剛力士像の口が開いているのが「阿形像」で口が閉じているのが「吽形像」で日本語の50音順の最初が「あ」であり最後が「ん」であるのは「サンスクリット語」から来ているとの話を聞いて「やはり日本の国は仏教がベースにある。」と思いました。そして、私がよく静慈圓前官大僧正の書を指しながら「梵字です。」と言っていたのですが、この梵字と言うのはサンスクリット語から来ている事が理解出来ました。


2つ目に印象に残ったのは例えば薬師如来様の真言を唱える時に「おん ころころ せんたり まり そわか」と言うし、地蔵菩薩様の真言は「おん かかかび さんまえい そわか」だし、文殊菩薩様は「おん あらはしゃ なう」で「おん」と言う言葉が最初につくのですが、この「おん」と言うのは人を呼び止める時に「おい」と言う風に言う事が語源だ。と言われてみて「そうなんや」と思った次第です。
こんな事を書いていて30年程前に私の福祉の師である吉田宏岳先生(私が出会った時は日本福祉大学中央福祉専門学校の校長であり、「教育と福祉を考える会」と言う研究集団の代表者でその頃の私はその研究集団の末席にいました。)から、「お経の中身を読み解くと綺麗な文学の世界が書いてある。」と言われたのを思い出しました。
そして本日の妙応寺本堂の大谷徹奘師の言葉には「その一言 待っている 人がいます」に、色んな配慮をするにも相手に対する言葉かけの大切さを改めて知りました。

私が今後の展開を考えての私の真意が伝わらず、私の言った言葉にしんどい思いをする方がいるとしたら、私の思いは何の意味も成さない事になります。「う~ん。阿でいくより吽でいくべきなのかな。でもそれでは私らしさが出ない。リピーターの皆さん、私はとても悩んでいます。何か良きアドバイスがあれば宜しくお願いします。