すべて自分が蒔いた種だね

いつもの様に奈良薬師寺執事長の大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉です。この言葉通りに『良縁も悪縁も自分で蒔いたもの』と言われると「ずしり」と堪えます。勿論私の場合は生母秋江の教えの通り「種を一杯蒔きなさい」の結果として、高校2年生からの四国遍路のご縁が色んな形で実を結んでいる『良縁』が沢山あります。例えば滋賀信行会の青年部のメンバーである内藤会長との縁もその一つだし、児童養護施設を退職してから、『教育と福祉を考える会』の責任者である吉田宏岳先生も先生が真言宗豊山派のお寺であり、四国遍路のご案内をした事に寄り素晴らしいご縁・良縁を頂く事が出来たし、本部施設の新館建設(平成16年)の時に内藤会長の紹介を受けて新館に沢山の書を書いて頂いてから毎年8月20日と決めて施設に来て頂き交流をさせて頂く事になった静慈圓前官様とは、中国の杭州での王義之の墓誌の隣に静慈圓前官の碑の除幕式には随行させて頂く事が出来ましたし、先般も弘法大師生誕1250年記念行事が高野山金剛峰寺金堂に静慈圓前官の壁画が設置される前の披露宴にも参加させて頂く事が出来たし、38歳の時に児童養護施設を退職して大学の非常勤講師の傍らで家庭教師をさせて頂いた事に寄り教え子の祖父がその当時大垣商工会の会頭をされていて、私の事業が厳しい状況の時に手を差し伸べて下さった事もありました。また、私が関ケ原町今須の地で高齢者の施設を建てたいとの話題を聞きつけて3学年上の吉田儀一さんが『今須後援会を設立しよう。』と駆け付けて下さり、今でも本部施設の家族会の会長を勤めて頂いています。この様に書いてくると私は本当に多くの良縁を頂いて今があると言う事です。私の生き方は「相手の身になって出来る事をする。」であり「引き受けた役割はしっかりさせて頂く。」です。そんな中で良縁を沢山頂けているのかと考えています。『悪縁』なんて見つからない。だって悪縁だと思っていたかたもみんな良縁に変えて来たから・・・。確かに私にとって困った存在の方は出てきます。でも、困って悩んでのたうち回っているうちに良い関係になっていく。それはそれで有難い。私の弱い部分を強くしてくれる為の存在と思えば大丈夫。勿論厳しい状況に追い込まれている時には弱音も出ますし、恨み言を言う事もありますが厳しい状況が良い形で展開して行った時には厳しく辛かったことはすっかり忘れて良い事しか覚えていない。そんな風に思えれば辛い事を含めて『蒔いた種』なのだから自分で刈り取る。今も厳しい状況は続いていますが『北風と太陽』の様にいずれは良い展開になる様に頑張りますのでリピーターの皆さんこれからも私の展開を見ていて下さい。

日々のくりかえし、これに飽きた人が負け

令和4年11月23日

奈良・薬師寺執事長 大谷徹奘師の妙応寺の本堂日めくりカレンダーの言葉です。この言葉を確認した時間は今朝の5時50分頃で、本堂は真っ暗で街灯が境内には無いので遠くからの光が僅かにあるだけの状態。しかもその時間帯は今にも雨が落ちてきそうな天気(今は13時10分で雨が降っています。)で。と言う事は暗くてカレンダーの文字を読めるような状況で無かったのでガラケーの携帯の灯りで何とか読んだ次第です。

本題に入ります。『日々のくりかえし、これに飽きた人が負け』の文字を確認した時に自嘲気味に「私には無縁の言葉だな」と思った次第です。と言うのは先ず『日々のくりかえし』の言葉に対して「私は毎日が変化に富んでいるので『くりかえし』とは無縁の生活だ。」と思うと共に「『生活に飽きる』と言う生活とも無縁だな」と思った次第です。事実本日もデイサービス朝の送迎に始まり、送迎が終了次第岐阜市司町で昨日から開催されている『ささえあいフェスタ』(介護機器等の展示や講演等)の様子を見に行くと共に挨拶に回る為に出掛けました。

色々な機器を見て回りながら、介護用品の日進月歩の状態には舌を巻く思いでした。施設での導入を考えても良いのでは無いかと思えるものについては、担当されている方に名刺をお渡しして出来たら施設に来て頂いてのプレゼンテーションが出来たらとお願いしました。ぐるぐるッと回らせて頂き、途中では筋肉の割合を調べて頂く為に靴も靴下も脱いだりして(年齢の割にはしっかりした数値だと言われていい気分でした。)11時25分になり急いで本部施設に帰り、本日は『寿司バイキング』と言う事で私も頂きました。

そして13時35分(予定より5分遅れで)から本館1階及び本館2階のお参り及びカラオケの披露をさせて頂き、今は15時と言う事で、本日17時30分には次男が我が家に来るのでこのコラムが打てたら本日は帰らせて貰い、仏壇のお花を買いに行ったりテイクアウトで予約してある品物を取りに行ったりしたいと考えています。つまり、公私共に充実した日々に感謝すると共に「今日は何して過ごそうか」ではなくて「如何に効率的に時間を使いながら過ごそうか」と言う事にも感謝です。

ただし、朝のお参りの時に六地蔵様でお線香に火を点けている時に指を火傷して我が家のお墓に行った時には「お母さん火傷して痛い。」と甘えると「ペットボトルにある水を火傷した所に掛けなさい。」との声がした様に思ったのでその通りにすると痛みが治まったのには、「お母さん、痛く無くなった」と話しかけると「良かったね」と返ってきたので、険しい生き方には何ともない私なのにいつまでも母親に甘えているのは不思議な思いをしています。リピーターの皆さんこんな私ですがこれからも宜しくお願い致します。

明るくなるのが段々と遅くなります。

令和4年11月22日

確かに仏間でのお参りを終えて家を出たのは5時23分と言う事でいつもより少なくとも7分は早かったとは思いますが、それにしても外は真っ暗でしたがラッキーな事にお星さまは綺麗に見ることが出来ました。しかしながら、冬至の日まではまだまだ日にちが有り、日の出は遅くなり、日の入りは早くなるのだから、「朝のお墓参りは少し暗さ対策をしなければいけないな。」と考えています。さて、話は変わりますが高齢者の人身事故の話題がよく新聞やテレビで報道されているので、本日はその話題について私なりの考え方を述べる事にします。

一昨日の19日に福島市で97歳の高齢者の方により5人もの死傷者を出した事件についてはリピーターの方の中にもご存じの方もおみえになるかと思いますがあまりにも悲惨な事故と言わざるを得ません。勿論個人差はあるにしても97歳で運転されていたのは驚きです。インターネット情報ではありますが97歳で容疑者となられた方は福島県歌人会に70年以上かかわられていて、会長も勤められて今も顧問をされているとの事が掲載されていました。

私はこの記事を見た時に「先生はいつまでもお元気でうらやましい。」等と言われていて、「まだまだ若いもんには負けんわい。」と思われていたのではないかと思います。だからこそ、97歳でも色んな所に出掛けられていたのだと思います。しかしながら、自覚症状がないまま、知らず知らずの内に身体機能も認知機能も衰えていたのだと思います。きっと周りの方でも「いつか事故を起こすのではないか。」と思われている方はあったのではないでしょうか。事故が起きてからでは取り返しがつかないのです。「だったら免許証の返納をすればいいではないか。」との意見が何処からともなく聞こえてきそうです。私もその意見については賛成すべきだと思いますが『ただし、その考え方には条件付きでの賛成なのであります。

つまり、家族が「車の免許を返納すべき」と言うのであれば、今迄自分で運転をして好きに出掛けられた分のせめて半分でも車の運転を家族がすべきだと思います。と言うのは車の免許証が無い事によって『行動範囲』は絶対数減ります。つまり、毎日毎日の生活の中にメリハリのある生活が保障されないのです。私は高齢者の色んな面を見て来た者として免許証を返納された方の厳しくなった生活を沢山見てきました。私の父進は生涯車の免許を取らなかったので、私が大学生になり免許をを取得した時には取得した日に中古車とは言え車を購入してくれました。そう言う意味では息子に対して非常に甘い親であった事は間違いありませんが、車を運転する事が嬉しかった事もあり、可能な限り父進が行きたいと言う所には運転して行きました。

だから、80歳で他界する2か月前までは関ケ原歴史民俗資料館で好きな仕事をしていました。他界する2か月前に病院に入院するまでは。リピーターの皆さん私は思いっ切り親には甘えてきましたが、その分私が出来る事は精一杯してきました。それが私のスタンスなので、お世話になった方には今でも全力で対応します。お世話になっていると言う意味では地域の皆さんにもお世話になっているので私が出来る事は精一杯頑張ります。と言う事は今私が「私の趣味は『仕事です』」と言えるのは今の仕事が天職だからだと思うとまたまた『感謝です。』

 

癌治療の準備の2回目です。

本日は大垣市民病院の受診が9時の予約であるのでいつものように仏間とお墓のお参りを済ませてお風呂に入り7時から朝食を頂き7時30分に家を出発しました。1週間前の1回目の時はCTを何度も撮り直しだったので家を出る時も車を運転している時も気が重かったです。時間帯が時間帯なので渋滞はしましたが、8時20分に大垣市民病院の駐車場に比較的楽に停める事が出来、受付は『パスポート』なる機械でして、放射線科に行くと直ぐに担当の先生に呼ばれて今後の対応の説明を受けて、検査着に着替えてから恐怖のCTの順番を待っていました。だって、一週間前は本当に大変だったから。そして順番が来てCTの台に寝た時には正直ドキドキものでした。

ところが『案ずるより産むがやすし』で1回目で上手く撮れたので嬉しいし、午前の時間にも仕事が出来るしと言う事で嬉しい限りです。ところが放射線科を終えて会計の所に行ってはたと困りました。と言うのは駐車券が無いのです。ズボンのポケットにも上着のポケットにも背中に背負っていたリュックサックの中身を全部見ても無い、ない、無いのです。「ここは居直って会計で正直に言うしかない」と言う事で係りの方に言うと「玄関前の警備員室で駐車券を失くした。と言って貰ったら対応してくれますよ。」と言われて警備員室に行くと、私と同じ様に失くす方がいるのか、パスポートの紙を見せると書類に必要事項を書いてから「このまま駐車場に差し入れて下されば大丈夫です。」と言われて「ありがとうございます。」と言ってジャケットの胸ポケットに入れようとして「はっ」と気が付きました。と言うのは胸ポケットに入れた事を今迄忘れていたにも関わらずその事を新たに発行して貰った駐車券を胸ポケットにいれた瞬間に最初に受け取った駐車券が胸ポケットに納まっている事を思い出したのです。

リピーターの皆さん、あと3分で本部施設の幹部会なのでここまでにします。多分幹部会が終了した時にはくたくたでコラムを書く気力は萎えていると思いますのでここまででお許し下さい。なお、明日も岐阜県庁に行ってから本部施設に帰ってのリモート会議の13時には間に合わないので岐阜県老人福祉施設協議会事務局でリモート会議の対応する事になるので明日も目いっぱいです。体に鞭打って頑張ります。

 

昨日の施設見学にまつわるお話からです。

令和4年11月20日

東京青梅の施設に行って来たのですが、東京も広いんですね。

朝8時15分に吉澤施設長に我が家まで向かいに来て貰い岐阜羽島まで行き、私がいつも駐車場として使っている24時間まで550円の駐車場を案内するとまだ、9時前だと言うのに『満車』なのであります。よくよく見渡すとその近くにある駐車場は全て『満車』の標示ばかり。「おいおい、多くの方が紅葉を楽しみに出掛けられるのか。私は決して遊びでは無いのに・・・。」と思いながら吉澤施設長の運転で駅からより遠い所にあったパーキングに何とか止めて岐阜羽島駅に行きました。正直、「時間に余裕がある設定で良かった。と思った次第です。

昨日大阪に行く前に米原駅で切符を手に入れた時に駅員さんから「この列車は込み合っていますので通路側2席で準備します。」と聞いていたとは言え、名古屋を出る時には満席状態です。「コロナに対しては感覚が鈍くなっているのか。勿論経済が回る様にするのも大切な事だけど。」と思いながら列車に乗っていました。そして、一日の中で時間があるのは列車の中だけだと思ったので品川に着く前にコラムは完成させる事が出来ました。

東京駅からの乗り継ぎは中央線なので2番ホームに向かったのですが、構内は凄い人で賑わっていました。3番ホームの所までは順調に行けたのですが「2番の掲示がない。」と吉澤施設長共々に焦ってしまいましたが、そのまま歩いて行くと奥の方に2番、1番の掲示が確認出来てホッとした次第です。東京が始発の筈ですが、ぐるぐると回っている為に車内にはある程度の乗客がみえましたが二人ともに座る事が出来ました。いくつかの駅に停まる度に乗客が増えて来て「流石に東京は人が多いんだな。車両も10両つないでいるとの放送が入ったけど、関ケ原では2両か4両だよね。」とこれまた感心してしまいました。

降りる駅は『東青梅』なのですが、東青梅が近づくに従って正直田舎の風景に変わってきて改めて「東京と言っても色々だな」と思った次第です。そしてもう一つ思ったのは、乗っている列車は『青梅』止まりなのに私が降りる駅は『東青梅』と言う事は青梅よりは手前で東青梅と言う事は列車は西に向かっていたんだと東青梅を降りた時に思った次第です。つまり、私はどちらの方向に走っているのかも理解しないで乗っていたと言う事なのであります。

東青梅駅で降りると駅員さんは誰もみえなくてシャッターが閉まった状態・・・。実際に改札を済まして駅を見ると「関ケ原駅と変わらんがね。」但し、『モスバーガー』『ラーメン屋』『派出所』は駅前にありました。但し、タクシー乗り場にはタクシーが停まっていなくて少し不安になりましたが、取り敢えずお昼をラーメン屋で食べようと行きましたが外の椅子で待っている方がいたのでモスバーガーの店に行き、吉澤施設長に注文を任せて待っているとしばらくして吉澤施設長から「機械が故障したので20分は待って下さい。」との話しで再びラーメン屋に行くとすっと入れたので2人共にメンマラーメン・半チャーハンを頼みました。ご夫婦二人でされてみえるお店の様ですが『メンマラーメン』と言うだけにメンマは沢山入っていました。(チャーハンは絶品でした。)

昼食を終えタクシー乗り場に行くとタクシーが待機していたので乗り込み、本間先生の施設である社会福祉法人聖明福祉協会に向かいました。3施設が一山の中に建っている感じで、本部施設がある盲養護老人ホームでタクシーを降りて玄関を入って行くと本間先生が出迎えて下さり先ずは本間昭雄会長にご挨拶に行きました。本間昭雄先生は年明けには94歳になると言う事ですが全く凜とされているので「私も90歳を越してもこうありたい。」と思った次第です。色んな話を聞きたいとお伝えしてあったので、30年は勤務されている職員で事務方の責任者の大野さんと介護の責任者の浅見さんの2人も同席して頂き色んなお話が聞けました。本間先生の配慮には本当に感謝するしかありません。

色んな話が出来、終了後は東青梅駅まで大野さんが送って下さったお陰で17時33分発のひかりににも乗れ予定よりも早く帰る事が出来ました。私は改めて『持つべきものはネットワークだ』と思った次第なのですがリピーターの皆さんもそう思われませんか。

昨日はとんでもない催しでした。

米原駅を9時50分発の新快速姫路行きで順調に大阪駅に着きリーガロイヤルホテル行きのシャトルバスの乗り場に内藤会長の案内で無事に着き、リーガロイヤルホテルへ。降ろして頂いた所から会場まではまるで迷路の様にして何とか着きました。

会場前の受付で会費を支払って会場内に入る前に静大僧正を中心にした作品を観賞しようと思っていたら静先生の奥様が目敏く私を見つけて下さりご挨拶に来てくださり、尚且つ作品の説明までしていただき恐縮するばかりでした。私の事ですから、ちゃっかりと「写真を撮らさせて良いですか。」と聞くと「何を撮って頂いてもかまいません。」と言われたのには少し驚いてしまいました。

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入り口前の作品を観賞した後、会場に入ると本日の主役の作品が左右に掛けられており、その二点に挟まれる様に大きな作品があったのですが、(具体的には後述します。)その作品を見た瞬間に「会の中でパフォーマンスで書の披露があるんだな。」と思いました。

いよいよ会が始まりました。正面には『大伽藍金堂内陣両壁画完成披露会』の大きな看板が掲げられていて会場内は関係者グループにテーブルが別れていて、滋賀信行会は7人のグループで前から2列目の配置だったので静先生のご配慮に感謝です。と言うより、たくさんの僧侶も参加されていましたが、そのような方は比較的後ろの方の席になっていたのは静先生のお考えの素晴らしさを感じました。

先ずは発起人代表挨拶を高野山真言宗宗務総長の今川泰伸師が静慈圓前官の功績の偉大さと80歳にしてのますますの向上心の凄まじさと昭和の始めに書き替えられて以来の偉業についての話に改めて私は「そんな偉大な方と親しくさせて頂いている事」に改めて感謝の気持ちが湧いてきました。次にお祝いの言葉の一人目は徳島    立江寺    長老で静先生と高野山大学の同級生だった庄野光昭師の挨拶では、静先生と同級生であり、同郷であったので得をした事が一杯あった。との話にますます静先生の素晴らしさを感じると共に私自身の事として40年以上前に19番立江寺で泊まらせて頂いた時の血気盛んな40歳前の長老の姿を思い出していました。もう一人兵庫医科大学名誉理事長の新家荘平先生のご挨拶がありました。先生は90歳を越された年齢でしたが、誠意の伝わるご挨拶でした。

そして、いよいよ披露会の主役である静慈圓前官が舞台に立たれて今回の製作に対する思いを語って頂き、引き続きデジタルフォトの先駆けである小川勝久さんが作成された大きな台紙に静慈圓先生が書によるパフォーマンスには身震いする思いでした。静先生のお話の中では小川勝久先生の誘いによって、製作意欲に火がついたと言われたのは驚きでしか無かったです。

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食事をしながらのものではありましたかあっと言う間の二時間で閉会が宣言されて殆どの方が帰られた後、(静先生が一人ひとりの方を見送られてから)滋賀信行会のメンバーは残ってゆっくりと静先生ご夫妻と親しく話をさせて貰うと共に記念写真もしっかり撮って頂きました。結構緊張する二時間でしたが普通では味会う事が出来ないのは事を体現させて頂きました。

本日は東京青梅の本間先生の施設に吉澤施設長と行く為に今は新幹線のなかてすが本間先生の施設でも有意義な時間が持てるように頭を切り替えて行きます。リピーターの皆さん。やるべき事が多くある日々に感謝した毎日なのでコラムも充実している事に感謝です。青梅情報は明日には書きます。

今は6時38分ですが、ワクワクしています。

本日はいつも以上に軽やかにお墓までの行程を歩きました。それは、以前のコラムで書きましたように、高野山前官の静大僧正が金剛峯寺に大壁画を納められる前に、静大僧正とご縁を頂いている方々に特別な企画として大阪で披露の為の会が催されるからです。

滋賀信行会米原支部に車を置かせて頂き、米原駅まで5分ほど歩いて行き、米原駅で合流する内藤会長を含めた5名を待つことにしたのですが、かなり時間に余裕があるので、明日東京青梅に吉澤施設長と施設見学に行くので切符の購入をする事にしました。切符の手配をしながら、指定をとるのに結構手間がかかったので、「時間が有るときに手配できたので苛々することもなくて良かった。」と思った次第です。

9時50分発の新快速に乗るのに最後に余裕綽々で9時35分に現れたのは予想通り内藤会長さんだったのですが、旅なれているから当然なのかとも思った次第です。米原から在来線に乗るのは多分生まれて初めての体験ですが本日、大阪で何が起きるかは明日のコラムに譲りますが、久しぶりにお会いしたかつての青年会のメンバーにお会いして、「お互いに歳をとったな。」とか「最近は目が見にくくなって夜の外出は控えとる。」等の話題で盛り上がるのは寂しい限りですが齢(よわい)70歳を間近にしているのだから仕方がないのかなと思っています。

今は列車の中なので段々と大阪に近づいているので静大僧正の事を考えていて、静先生は昭和17年生まれと聞いてますので、私より11歳年上なので考えてみたら80歳なんだ。しかしながら、あのエネルギッシュなパワーは何なんだと改めて思っています。今回作成された作品を実際に見ていないのでしっかりとは言えませんが、今回の作品は歴史的価値があることなんだろうと理解してます。

今日のリーガロイヤルホテルでの出来事は明日に譲るとして帰りの行程について書くことにします。リーガロイヤルホテルは滅茶苦茶広くて送迎用のバスの乗り場に行くのに一苦労でしたが、何とか乗り場にたどり着き大阪駅の改札に行くと新快速が10分遅れていて、丁度乗ることが出来て「ラッキー」と思って乗ったのですが、時間調整の為か結構時間がかかり、京都に着いたら、この列車は普通列車になるとの事で慌てて列車を降りて新快速を待ち乗り換えたので、結局大阪駅から米原駅まで二時間もかかってしまいました。

リピーターの皆さん。本日も予定は未定の事が起きてしまいましたが、何とか家には帰り、いつもより早い時間ですが明日は東京青梅まで行くのでゆっくり寝ます。

(追記)帰りの列車で久しぶりに懐かしい日除けの列車でしたのでガラケーで撮りました。

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『できるとき、できること、できるだけ』今朝の大谷徹奘師の言葉です。

「そうや、この言葉は私が一番心掛けた事や」と思っています。勿論、小さい頃から出来たのではありません。と言うより26歳で児童養護施設の指導員になり、世間知らずの私を徹底的に叩き直してくれる本当に厳しい指導をして下さる方がみえて、私は世間知らずが故にその教えを素直に聞いて実践してきたから今の自分が形成されたのだと思っています。多分私が少しは世間を知っていたのなら馬鹿馬鹿しくて13年も続かなかったと言うより半年も我慢出来なかったと思います。そう言う意味では何が功をこうするかは分からないものだと自分の事なのに第三者への評価の様に述べています。『出来る事を出来るだけ頑張ろう』と思えるようになって、私は児童養護施設においては、施設に入居している子どもの殆どが低学力の学力遅滞児だったのです。勤めだした頃は衝撃の毎日でした。この現象は子ども達自身の能力が無いのでは無く、親が子どもの学習に対して全く興味を示さない事に起因している事を勤めて3か月も経過する中で理解しました。「磨けば良いものを持っているのに磨かれていない。だったら、私が学習担当指導員何だから私が何とかするしかない。」と言う事で『できるとき』は・・・「気が付いた今でしょ。」『できること』は・・・「どの様にしたら良いのかわからないので、父進さんは教育者としては素晴らしい功績を築いた方なので聞くしかない。」と言う事で必死な思いで聞きました。その答えは「特別支援学校を紹介するので行ってきなさい。」と言うものでした。今考えると少しピントは外れていたのですが、私は藁おも掴む思いで特別支援学校に行きその当時の教務主任の先生から教えを請いました。『できるだけ』は・・・それを元に一人ひとりの計画を立てて一人ひとりに合うであろうと思われるプリントを手作りする毎日になりました。それと共に、中学生については集団学習の後がマンツーマン指導を実施すると言う事を自分で決めた事とは言え(納得をしてついてきてくれる素直な子ばかりで助かりました。)生活が一変しました。つまり、それまでは、14時から22時の就業時間が10時から23時の休みも殆ど取らないものになりました。勤務時間に対しては「勤務時間はフレックスで大丈夫」と豪語していました。そんな毎日の中、厚労省が後援している海外研修団『ボストン会』に参加して「在宅で大変な子どもに手を差し伸べたい。」と言う事で退職を決意してからは、紆余曲折が一杯山の様にありましたが、その都度のたうち回りながらも「今も生きて頑張っている。と言う状況です。昨日のコラムで『出過ぎた釘は打たれるけれども、出過ぎた釘は打たれて倒れる事はない』的な事を書きましたが、その真実は「自己責任が伴う」と言う事です。失敗をして成長する事もあるのでしょうが、私の場合は『火中の栗を拾う』ような事をしては多くの方に助けて頂いて今がある。」と思うとリピーターの皆さん「私は何と幸せな人生なんだ。感謝・感謝でこれからも頑張らなければ」と思っています。

弱い自分に出会った時が強い自分になるチャンス』

朝のお墓までのお参りの時に妙応寺の本堂の大谷徹奘師(奈良:薬師寺執事長)の日めくりカレンダーの本日の言葉を見た瞬間に、昨日若い職員が研修会の申し込みで締切日にも関わらず手続きが出来ていない状態で色々な職員に迷惑かけたと言う事で反省文を持ってきたので、改めて私から厳しく指導をしました。私も若い頃はしっかりと出来ていない事で厳しく注意された事が多々ありました。(若い頃は並外れた常識のない人間だったのです。)ただし、理不尽な指示も時にあったので、そんな指示については『他山の石』として、そのような理不尽な事はしないように心掛けています。ただし理にかなっている教えはしっかり心に秘めて実践しています。やらなければいけない事がわかっていながら出来ないのは当然の事ながら『弱い自分』です。そんな時は「前以てしっかりやっておけば良かった。」と思うのですがそれが出来ないから失敗したり、迷惑を掛けたりするのです。

今回多くの職員に迷惑を掛けた事を肝に銘じて今後は頑張って欲しいと考えています。自分の事として改めて『弱い自分に出会った時が強い自分になるチャンス』について述べて行く事にします。私は自分の生き方にリスクがあるとわかっていても突き進んでしまう生き方をしてきて後悔はしていませんが『難関』にぶち当たると時には『弱い自分に出会う』のです。胃に穴が空くのでは無いかと思う事に悩んだり、頭から布団を掛けて出てこれなかったりした事も何度かあり、そんな時は弱い自分が現れます。

だだし、私はその都度救世主が現れて今があります。施設を始めようと土地探しをしていた時にも根回しが悪くて暗礁に乗り上げましたし、事業を進めて行く中で資金繰りに困った事もありました。そんな時には「何で私はこの様な事業をやろうとしたのか。」と思いながらのたうち回るのです。そして、救世主が現れて問題解決していく毎に私は強くなっていった様に思います。

私は調子が良い時は「私が今この様に事業が出来ているのは話が出来て、お酒が飲めて、カラオケが上手だったから。」等と軽口を叩いているのですが、そんな簡単なものでは無いですよね。でも、周りの方々が私を理解して支援をして頂いたからこそ今があり、強い私がいるのだと思います。勿論、これからも弱い自分が登場する事はあるのでしょうが「出る釘は打たれるが、出過ぎた釘は打ち切れない。」等と言っているので少々な事では弱音は吐かないつもりですが・・・と書いていて「おいおい、忘れるなよ。今年の1月、2月は寒い中でも寝汗を毎日かいていたがね。」と頭に浮かびました。そうです、人間の能力の一つに『悪い事は忘れて、良い思い出だけが残る習性があるんや・・・ほんまかいな。」若山宏と言う人間はプラス思考の強力な生き方をしているのです。だからリピーターの皆さん、これからもよろしくお願いします。

 

 

朝から嬉しかった。

令和4年11月15日

いつもの様に我が家のお墓に行き若山家、吉澤家、そして及川家、柴田家にお水をお供えして回るのですが(もちろん、手を合わせてお祈りをしていますよ。いやいや『祈り』と言うよりも『会話』ですかね。)そんな中でめっちゃ嬉しかった事があります。それは、『及川家』のお墓に綺麗なお花がお供えしてあったからです。及川家の家族の方は県外に住んでみえると記憶しているので、滅多に今須に来てのお墓参りはできないのでしょうが、昨日お墓参りに来られたのだとわかり嬉しくなり、私の脳裏に鮮明に及川さんの顔と会話した事思い出した次第です。4軒のお墓に水を手向けた後には我が家のお墓で般若心経を唱えるのですが、手先が冷たくていつもの様に手を擦ってもなかなか温まらないので両頬に手を持っていって擦りました。私は頬は温かいものだと思っていたのですが頬も冷たかったので「頬は温かいものだと思っていたのに。」と69歳になって今更ながら感心している次第です。こんな調子で世間知らずの宏クンなのであります。そう言えば今朝のお参りでは吐く息が白くなっていたのも感動でした。だって今は秋そのものですよ。それは、これも朝のお参りで歩いている時に感動した事なのですが妙応寺の境内にある銀杏の木は見事に黄色く、紅葉だか楓だかは私は承知していないのですが(リピーターの皆さんご存じだったら教えてください。)赤く色ついていました。

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朝はゆったりとした時間が流れていたのですが、本日は10時からは全国老人福祉施設協議会の代議員の検討会が外部委員も入って頂いてありました。この会議では過去の歴史にも詳しい副会長として参加させて頂いたので自分なりの意見をしっかり言わせて頂きました。予定では12時までだったのですが課題も多くて活発な意見が交わされたので12時30分までと言う事で30分の延長もあり、13時30分から優・悠・邑 和合で行われる幹部会に参加しなければいけないので、昼食は急ぎラーメンを作って貰い胃袋に流し込み出発しました。途中で我が家で書類を取りに行かなければいけないし、ガソリンの残りがうっかりしていて、残り140キロと掲示されているし「う~ん、困った。とても間に合わない。」と言う事で信号で停まった時に「10分程度遅れます。」と連絡してガソリンの給油は帰りにする事にして優・悠・邑 和合に急ぎました。結局は5分弱遅れての到着で直ぐに会議を開いて頂き、15時20分(予定15時まで)その後、お参りが15時30分からあり、16時10分に和合の施設を出て、本部施設に帰る前に司法書士事務所に寄り書類を渡すと共に打ち合わせをして、本部施設に戻ると、先般柿を沢山持って来て頂いて私と共に仏壇でお参りをいたかつての入居者さんの家族の方がまたまた沢山の立派な柿を頂き、今回は職員の方にも食べて貰って下さい。との事だったので柿の分け方を指示して((盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)にもお裾分けする為の連絡もしました。』)今は18時25分ですがバタバタの中でも今日も充実した一日であった事に感謝です。ちなみに今週の18日(金曜日)は大阪で静慈圓大僧正の『大壁画披露会』に滋賀信行会の皆さんと参加して、翌19日(土曜日)は東京の青梅にある盲養護老人ホームと盲特養を運営されている本間先生の施設へ吉澤施設長と行く予定をしてます。ハードですが元気にいるからこその展開に感謝と言う事で・・・。

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