逃げれば こわさが ましますよ
令和5年4月19日
妙応寺本堂の大谷徹奘師(奈良 薬師寺 執事長)の日めくりカレンダーの言葉なのですが、1カ月に1回は目にしているのですが、本日の朝の受け止め方がいつもと違っていたのでコラムに書く事にします。

今の私は何事にも正面からぶつかっていく性格になったと自他ともに認めている次第ですが、小さい頃の私はぶつかっていきたい気持ちがあってもぶつかる事が出来なくて結果が出てからうじうじしている様な性格だったのです。「今とは真逆な性格だね。」と思われるとリピーターの皆さんも多くみえる事と思います。「だったらどうして今の様になったのか」と疑問に思われる方もあると思うので、その事についてお話をします。
このコラムでも何度か書いていますが、私は生まれつきの虚弱児で尚且つ生母秋江さんは私を溺愛されていたので何もしなくても母秋江さんの命令下で父進さんと姉2人がしてくれたので今の私から言わせると「何も考えなくても良い」生活だったと思います。そんな中で母秋江が中学1年の1月16日に他界したのですが、6歳年上の姉光子さんが文字通り『母親代り』でこれまた何もしなくて良い生活だったのです。ところが母親代りだった姉光子は私が高校2年の4月7日に急逝して私の生活は一変しました。
正直悲しくて、寂しくてそれでいて私の心の中の箍が切れたのだと思います。高校2年の1学期の間は凧の糸が切れた様に荒れ狂った様な生活に一変しました。普通だとこの段階で人生が狂い始めるのでしょうが私の人生の狂いを救ってくれたのは2つのラッキーがあったのです。一つには色んな形で迷惑を掛けた事に対してその頃小学校の校長をしていた父進が根気よく謝り続けてくれて問題が大きくならない様にしてくれた事と2つ目はその年の夏休みに熊の様な伯父さんに進められて四国遍路に行って私でも役に立つ事があるのだと言う事を理解した事です。
その勢いでその年の秋には生徒会会長になり、自分に出来る事を精一杯する事を学んだし今も四国遍路のつながりで色んな展開が出来ています。つまりは色んな人に恵まれたから『逃げる』どころか『火中の栗』でも『わしがやらねば 誰がやる』とばかりの人生になっています。本部施設にある日めくりカレンダーの本日は『覚悟のない道は行き止まる』とありました。

この言葉も私の心にスッと入ってきました。つまり、『覚悟があるから突き進む事ができる』と言う事です。確かに火中の栗を拾う事は大変ですがやり切る事が人の為地域の為と考えているから頑張れるのだと考えています。こんな私ですがリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

