お墓を守ると言う事

令和7年4月23日

妙応寺の本堂裏手に墓地があり、墓地の入り口には『墓仕舞』したお墓が地蔵菩薩様を中心に多く安置されています。放置するのではなくて『墓仕舞』をされているのですから「止む無し」と言う事なのですが、『昭和おじさん』の私としては残念な気持ちもあり、少し違和感があります。

確かにお墓を新たに建てられる時には、建てられた方の思いが強く表れると思っています。事実、私が17歳の時に、新婚生活半年で23歳の若さで他界した姉光子の場合は、慌てて姉光子だけのお墓を他界して早々に建てられたのです。つまり、姉光子の旦那さんの強い意向で建てられたのだと思うのですが、姉光子の旦那さんはこれまた早々に再婚され、姉光子の墓を訪れるのは次姉の春子さんと弟である私がお参りをするのですが、姉光子の嫁ぎ先のお墓がずらっと並んでいる中で、姉のお墓にはお花が供えられていないと忸怩たる思いになったものです。

23歳と若くして他界したとは言え、私にとっては母秋江さんが入退院を繰り返していた小学校3年生の頃から『母親替わり』の存在だったし、姉春子さんにとっても、姉光子は頼りになる存在だったわけで、当然ながら姉光子のお墓に手を合わせるのは当然の事なのです。

私が17歳の時に他界しているのですから、姉春子さんと私の2人以外には姉光子の存在は無いのです。2人が元気な内は良いのですが・・・。こんな状況はどの家でも起きうる話です。ましてや人間関係が希薄になってきている昨今、お墓を建てた方の思いがある内にしっかりとした対応をしていかなければいけないと思います。

このような問題はお墓だけでなくいろんな対応に対して言える事だと思いますので、私自身も色んな対応を元気な内にしていかなければと思っています。

毎日の様に見ているはずなのに

いつもの様に朝のお墓参りの時の妙応寺本堂でずっと前から置いてあるチラシを何となく手にした時に目に飛び込んできたのが妙応寺のチラシで表面の真ん中に県下最古の曹洞宗寺院との文字に先般インターネットて検索したばかりのことが書いてある。「文字通り灯台下暗しと言う事だな」と思った次第です。

インターネットで書いてあった以上に情報を得る事ができました。私が小さい頃に妙応寺を創建された方の母親が強欲な方で鬼に食べられて、その供養の為に創建された絵を見せて貰ったのですがその絵を描いた方が江戸後期から明治初期に活躍された地元今須出身の喜田華堂と言う日本画家だったとは。その他にも毎月第4土曜日午前7時から座禅会が行われているとか、要予約ではありますが精進料理が提供出来ると言う事を私は地元にいながら知りませんでした。

「確かにかなり前にはクコ料理が大々的にされていて観光バスもよく停まっていたように記憶していますが今は多分ほそぼそとされているのかな?と思うと勿体ないな。」と思った次第です。私も他人事の様に言うばかりでは無くて今須に住んでいる者として脱げればと一肌脱げればと考えています。

リピーターの皆さんも支援してもらえると嬉しいです。

父進さんの事を改めて書きます

令和7年4月21日

父進さんは明治最後の年である明治45年4月生まれで、生まれつき視力が悪かった為に兵隊に行ったのがとことん日本の状況が厳しくなってからの出兵だったので30歳を過ぎてからで終戦時にはロシアのシベリアに抑留されたとの事で日本に帰り着いたのは結構遅かったと聞いています。(ロシア兵は腕時計のゼンマイを巻く事を知らなくて、時計が止まると捨ててしまうので捨てられたのを拾って再び使ったなどの話を面白く話してくれましたが本当は大変な状況だったと思います。)戦前の教育を受けている父進さんは師範学校に通う為の学費を朝早くの新聞配達をして卒業したと言う事でとても苦労と共に非常な努力家だったと聞いています。

父進さんは戦地から実家のある垂井町に戻って早々に母秋江さんを石垣の陰から見て母秋江さんに一目ぼれをして若山春吉じいさんの末娘の養子になり、3人の子宝に恵まれ(私は末っ子の長男です。)私が小学生の時には加茂郡七宗町の小学校の校長に赴任していました。父進さんは戦地から帰って来て直ぐに岐阜市にある加納小学校に赴任していて、その時代に岐阜県教育委員会の幹部の方々とのネットワークを構築した事を父進さんから聞いた話から推測しています。

教員生活最後は自分が卒業したその当時不破郡の中では一番規模が大きかった垂井小学校の校長で退職しました。私の聞くところによると「部下の先生を大切にしていた。」と言う事で、父進の一文字を冠にした『垂進会』と言う親睦会は父進が他界するまで続いていたと理解しています。校長を退職してからは垂井町の教育長を長く勤め、その職を辞してからは関ケ原町歴史民俗資料館の設立に尽力して事業開始と共に初代館長を勤め、館長を辞めてからもアドバイザーのような立場でいて、80歳になった6月に入院するまで(その年の8月12日に逝去)虫食いの本を時間があると読んでいたように記憶しています。

私はまったく古文書に興味が無く「何が面白いの」と聞いた時に「虫食いで分からない文字を推理するのが楽しい」と言うような父でした。息子である私からみても「温厚な努力家」と言う方だったと思います。今となっては「温厚は努力家の爪の垢を飲むことが出来ませんが、父進さんのDNAを受けついでいない自分である事が悔やまれます。」「孝行したいときに親は無し」とは良く言い当てた言葉ですが、何ともならない息子を黙って見守っていてくれたからこそ今の私があると思うと、父に出来なかった恩返しを入居者さん頑張ってしていきたいと思っています。

岐阜新聞1面から

『ケアマネ33%カスハラ経験』の大きな見出しが1面トップ記事に載っていました。

ケアマネは利用者さんの自宅を訪れる事が多く利用者さんやその家族からの「言葉の暴力や精神的攻撃」「過度な要求や不当な要求」「不当なクレームや根拠のないクレーム」等を受けている実態が調査の結果として浮き彫りになってきています。

この様な行為は複数回答によって、利用者の介護を担う家族や身元保証人らが71.8%と最も多く、次は利用者本人の44.3%と言う結果だとの事。

自由記述の中で「『おまえは役立たずだ』」とのメールが来た」「精神的に病んでしない休職、退職した」との訴えが寄せられていていた。

経験者の22.5%は仕事を「辞めたい」「どちらかといえば辞めたい」と答えており、対策が不十分なら介護現場の人手不足に拍車をかける恐れがある。

との指摘に対して私なりの見解を以後に述べさせて頂きます。

『ケアマネージャー』の資格は『医師』『歯科医師』『薬剤師』『保健師』『助産師』『看護師』『准看護師』『理学療法士』『作業療法士』『社会福祉士』『介護福祉士』『視能訓練士』『技師装具士』『歯科衛生士』『言語聴覚士』『あん摩マッサージ指圧師』『はり師』『きゅう師』『柔道整復師』『栄養士』『管理栄養士』『精神保健福祉士』のいずれかの資格を持っており、実績を5年以上かつ900日以上積んでいる者が受験資格を持ち、尚且つ『ケアマネージャー』の試験に合格した者が国家ライセンスを持ち、5年毎に更新していく為の講義を受けていくと言う非常にハードルの高い資格であるにも関わらず社会的評価が決して高くないのが実態だと思っています。

『社会的評価が高い』ものであれば、この様な実態にはならないと思うのです。

社会的評価は『世間の常識』によって作られるものだと思います。

と言うのも、私の実体験の中で児童養護施設の指導員をしていた時にはそれ程の評価を受けなかったのに、児童養護施設の指導員を退職して大学の講師の仕事を引き受けた途端に「若山さんの息子さんは大学で勉強を教えているから大したものだ」との評価がされているのに対して私は違和感を持ったものです。

話を戻します。

『ケアマネージャー』の資格はかなり厳しい条件をクリアしての国家資格なのだから、国家的評価を上げていく事をしていく事によって自ずと不当なクレームは無くなっていくのでは無いでしょうか。

『フレンドリーな関係』を構築することも大切ですが、『大切な役割を担っている』と言う事が利用者さんやその家族にも理解される様なシステムを作っていく事も大切ではないかと思います。

権利主張も大切な事だとは思いますが一生懸命に頑張っているケアマネージャーの方がモチベーションを下げたのでは介護保険制度も崩壊してしまうと思うので。リピーターの皆さん、決して全くない話では無いと思いますのでご理解下さい。

4月15日のコラムでの宿題を少しだけ紐解きます

先ずは花山院が何者であるかをパソコンで検索しました。天皇であることは前回のコラムで書きましたが、より詳しく調べてみました。パソコン上での情報では第63代冷泉天皇の第一皇子で母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘で968年に生を受け1008年に亡くなられたと言う事なのですが、65代天皇としての在位は984年~986年の僅か年あまりだった様です。

妙応寺の創建は1360年にその当時の今須領主だった長江重景が亡き母『妙応』の為に創建された岐阜県最古の曹洞宗の寺だと言う事ですが『花山院』が生きられていた時代には妙応寺は存在していないので「どうして花山院の社(やしろ)があるのだ」と不思議に思いました。『関ヶ原与一の墓』が妙応寺にあるのはしっかりとした説明書きの看板があっているので「なるほど」と理解できるのですが、階段を6段上ったところに設置してあって何の説明も無いのは残念な気がします。

ちょっと待って下さい。私も今回インターネットで情報を調べて妙応寺が岐阜県最古の曹洞宗の寺であることを知ったのだから71年も(来月には誕生日が来て72年になるのですが)今須に住んでいながら知らなかったのだから、決して批判出来る立場では無いですよね。かつてこのコラムで「美濃13宿で加納宿について2番目に人口が多かった」と言う事実だけを書かせて頂きましたが、先般和合の遠足で岐阜関ヶ原古戦場記念館に行き「お土産品に地元の物が無いのは残念」と思っていましたが、歴史ある関ヶ原・今須の事を理解してなくて他人事の様に思っていてはいけないので、花山院の事を契機にして皆さんで来ていただいて興味を持って頂ける様に微力ながら貢献出来る様にアクションを起こしていきたいと考えています。

リピーターの皆さんの中でも協力して頂けたら有難いです。

次男の子ども、つまり私の孫二人の話です

令和7年4月18日

次男の子どもは、長女が来月15日に2歳の誕生日(ちなみに私は1日違いの16日が誕生日で、72歳になります。)長男は生後5か月なので、いわゆる『年子』なのですが、次男一家とお正月以来久しぶりに会食をしたのですが、孫二人の成長の早さには目を見張るものがあります。

お正月に会った時、長男は生後2か月になってなくて「小さくて壊れそうだけど、可愛いく愛おしいな」と思い抱かせて貰った時に、ドキドキしたものでした。そして久しぶりに会った長男は首もしっかりすわった状態で「確かな育ちをしている」と思った次第です。長女は1歳7か月で「動きが早くて活発で可愛い」と思っていたのですが、久しぶりに会った長女は「出来ることに挑戦したい」と言う動きに『じいじ』の私は(メロメロになりながら)「たくましいな」と思った次第です。

しかしながら、年子と言うのは「大変だ」と思うばかりで、次男夫婦の頑張りは尊敬に値します。2歳を前にした長女はじっとしていませんし、正直目が離せません。勿論、5か月の長男は何も出来ないので、全て親が全ての事をやらなければいけないので、夫婦の連携が無ければ育児が出来ていきません。父親の私が言うのも可笑しな話なのですが、次男の子育てに対する姿勢には舌を巻くような状況です。と言うのも、会食中に自分の子どもに対して数え切らないくらいに「可愛い」を連発するのです。そして『じいじ』になった私は「こんなに一生懸命に取り組む人間だったか」と自分の子どものオムツを1回も替えた事が無い私は不思議でならないのですが「これが親になって成長したと言う事か」と思うと頼もしい姿の次男を誇りに思っています。

和合のバス遠足

昨日和合においてバス遠足として『岐阜 関ケ原古戦場記念館』に出掛けました。

12時30時には岐阜県社協所有の『ながら号』が日タクのプロの運転手によって迎えにきて下さいました。

予定通り13時から参加される方を各フロアから1階玄関に誘導して貰い家族の方も参加して頂いて13時26分に施設を出発しました。

バスが動き出した時には久しぶりの大型バスでの移動と言うこともあり、入居者さんから「何処に行くの」と言う声があちらこちらからあがりましたが職員の声掛けでそれぞれに落ち着かれて外の風景を楽しまれる様な状況になったタイミングで職員から改めて行き場所の告知と共に『関ケ原の戦い』についての説明があり、参加者のワクワク感が高まった様に思います。

バスは順調に走り14時過ぎには目的地である『岐阜 関ケ原古戦場記念館』に着き、全員の方が入館された後、集合写真を撮ったり大きな武将の絵が掲示されているところで写真を撮ったりしてメインイベントのシアターの予約時間である14時45分まで時間を過ごして貰いました。

その間に私は事務所にご挨拶に行くと、かつて県庁の地域福祉課におみえになった方が挨拶にこられ親しくお話をさせて頂きました。

シアターの設備と内容は圧巻で参加された方は少し興奮気味に嬉しさを表してみえて「この企画は大成功だった」と思った次第です。

シアターの鑑賞を終えて5階の展望室や展示室を職員の付き添いの中で見て貰い、見学が終わった方から1階のレストランでそれぞれに好きな飲み物を飲んで頂き、16時10分にバスに戻って貰ったのですが、玄関先にこの3月まで健康福祉政策課の課長をされていてこれまたお世話になった記念館の副館長さんがバスにまで乗り込んでご挨拶をして下さるサプライズもあり「感謝、感謝」でした。

帰りのバスの中では職員が企画したゲームなどを楽しまれ17時過ぎにはなんのトラブルもなく、しかも喜んだお顔でバスを降りられました。

しっかりとした計画を職員が立ててくれた事に感謝すると共にこれからも楽しい企画をどんどんしていきたいと思っています。

コロナ感染症対策の緩和によって可能になってきたこと

令和7年4月16日

永く続いたコロナ感染症対策も、感染がゼロでは無いが落ちきている状況の中で、全面的ではありませんが少しずつ緩和されてきた事により、施設での面会やボランティア活動も、ある程度の規制はありますが出来る様になってきました。和合においては、何日かに分けて施設の車で花見にも出かけましたし、今後も藤棚、バラ園にも順次行く予定をしていますが、本日は午後から、岐阜県社会福祉協議会が所有している『ながら号』と言うバスを借りて、(バス会社のプロの運転手が運転して下さいます。)何と『関ヶ原古戦場記念館』に見学に入居者さんと共に出掛けます。(家族の方も2人参加して下さいます。)

私が和合の施設長に就任してから初めての企画ですが、入居者さん共々ワクワクしています。関ヶ原までは約40分の乗車時間ですが、「40分は短いようでも、されど40分」なので、バスに私も同乗させて貰い、入居者さんと共にバスの中でも楽しく会話していきたいと思います。わざわざ『会話』と書いたのは、事前に職員から「理事長、残念ながらバスにはカラオケはありませんよ。」とダメ押しの様に言われていたので、敢えて『会話』と強調したわけです。

『関ヶ原古戦場記念館』は私の住んでいる町内にあるのですが、「だから、関ヶ原古戦場記念館に来たのではなく、入居者さんが歴史のある所に行きたい。」との要望に沿ったのです。実は私自身は地元にあっても、まだ2回しか行った事が無いので、私自身も楽しみにしながらも、それ以上に楽しみにしているのは入居者さんが久しぶりのバスにどんなアクションをされるのか、関ヶ原古戦場記念館の中ではどんな会話や表情をされるのかが楽しみです。「施設で生活されているからこそ出来る事」をしっかり味わって頂こうと思っています。

朝のお参りから2題

令和7年4月15日

いつもの様に妙応寺の山門まで来るといつもと違う旗と提灯が掛っていて「そう言えば駐車場に入る所の掲示板に『今須稲荷』のお知らせがしてあり4月15日は本日だ。」と気が付きました。そしてその瞬間に「中学時代に実施されていた今須稲荷の大祭は盛大に行われていて、色んな話題で持ち切りだったな。」と思った次第です。

 

具体的に言うと今須稲荷の大祭の日は学校もお昼の給食が終了後は休みになり文字通り『地域行事』の様な感覚であったと思います。演芸もあり、15時からは終了を知らせる様に『餅撒き』が行われお餅の裏に何かが書いてあると景品まで貰えた様に記憶しています。お寺が地域の中に溶け込んでいる形だったと思います。だからその当時は妙応寺において『日曜学校』も行われていました。

今も私は妙応寺からほぼ近くに住んでいますが、何の話題も聞こえてこないのは非常に残念です。そう言えば8月初旬に毎年実施されている『施餓鬼法要』も、盛大に行われていた時はお供えを準備して朝早くに順番を取りに行き、順番が来る前に家族揃って食事を頂くのも楽しみの一つだったと思うのですが一週間に渡って朝7時から21時まで行っていたのも3日で午前中のみの様な状態です。何か寂しいです。

二つ目の話題はいつもお墓参りの時に3仏(観音様・毘沙門天様・不動明王様)に水を手向けた後に7段の階段を上って2つのお社にお参りするのですが一つは地蔵菩薩さんで、その隣のお社にある奥家さん風の石仏に手を合わせていたのですがお社の屋根の所に木札があり『花山院』とあったのを何となくスマホで写真を撮り、

改めて本部施設のパソコンで検索してみると「なななんと、天皇様だった」と言う事で「何で天皇様のお墓が妙応寺にあるんだ。」と思ったのですが「この情報はいずれまた」と言う事で。

毎日の朝のお参りでも色んな変化があるものですし、4代揃い踏みは圧巻でした。

令和7年4月14日

雨が降っても雪が降っても毎日朝のお墓参りに行けるのは私自身が元気だからこそだと思っています。勿論『槍』が降ってきたら流石に無理ですが。と言う事は戦火に襲われている地区では『散歩』などと言う発想すら出てこないと思います。と言う事は私の今の状況は『平和であり健康である』からだと言う事で毎日が充実しているのが『幸せ』と言う事だと思っています。正に静慈圓前官大僧正の書にある『平安之福』の言葉がピッタリの毎日である事に感謝です。

さて、本題に入ります。妙応寺駐車場内に幸福地蔵様がある事は何度もこのコラムで書かせて頂いていますが、幸福地蔵様の前掛けは新しくなったのですが、帽子が無くて(元々は笠だったのですが)丸坊主の頭でお上手にも「恰好が良い」とは言えなかったのですが、最近帽子をかぶっていたので一先ず安心はしたのですが、正直帽子が小さい様です。

 

リピーターの皆さんの中で、もう少し大きめのを作って頂けたら嬉しいです。

次に桜の話です。妙応寺の境内の桜は立派なのですが、大垣市内の桜が咲いてもなかなか『満開』と言うわけにはいかなくて、ようやく「満開になって綺麗だ」と思っていたら昨日の日曜日にかなり厳しい雨が降ったので、かなり花が散ってしまい残念なのですが、その分『桜の花びらロード』の様になって「これも綺麗なものだ」と思った次第です。

      

本日13時30分から着き回の『てるてる座のボランティア』があったのですが、『座長の母』『座長』『座長の娘』『座長の孫』と4代にわたる催しは圧巻でした。座長の母は「粋な計らいができるから流石に座長の母だ。」と思いましたし、娘さんと孫さんは「流石に座長の血を継いでいる」と思った次第です。毎日が刺激一杯で私は本当に幸せ者です。

 

 

 

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