続けると言う事は素晴らしい

令和7年10月9日

全国老施協でお世話になっていた税理士の宮内眞木子先生から『西脇基金チャリティーコンサート』が開催されたとの報告が来ました。私も頻繁に東京に出掛けさせて貰っていた時な何度かチャリティーコンサートも見に行っていたので、正直「今も開催されているんだ」と思うと共に「継続されているのはお世話される方がいるからだ。」と思うと宮内先生が一生懸命にされている姿が目に浮かびました。

開催チラシと共に東京新聞の記事も同封されていたのでその記事の抜粋によると

【『西脇基金』は1986年、公認会計士だった故西脇和昭さんの遺産を妻の摩耶さんが寄付して設立。都内の児童養護施設や里親のもとで育った若者を対象に、大学や専門学校などに通う間、月2万円を給付している。西脇さんの生前の言葉、「子どもたちが学ぶ気持ちになった時がチャンスだから成績や過去の素業で差別してはいけない。」をモットーに、施設や里親らの推薦で奨学生を決めており、本年度は298人。給付総額は年間で7千万円に上る。】

との記事を読み、素晴らしい提案が長く続いている事に敬意を表したいと思いました。児童養護施設や里親にスポットが当たる事はなかなかないので実情です。政策は政治によって決められるものなので、政治に興味を持たない親が多い児童養護施設の親の願いはなかなか伝わらないものに視点を当てられた『西脇基金』の存在はとても素晴らしいと思いますし、「子どもたちが学ぶ気持ちになった時がチャンス」との言葉は私が児童養護施設の指導員をしていた時の気持ちと似ています。

と言うより私の場合は『学ぶ気持ちになった時』では無い時に『気が付く為のアプローチを頑張っていたな」と自分なりにしみじみ思っています。私は今は高齢者福祉にどっぷりつかっているので児童養護施設の事を語る事は出来ないのですが、児童養護施設や里親にスポットが当たる事を切に望んでいます。その為のは今も児童養護施設や里親に関わっている方に今の状況をしっかり訴えて貰いたいと思っています。

公定価格の介護事業所は本当に困っています。

令和7年10月8日

石破総理が辞任され自民党の総裁選挙も終わり高市さんが自民党の総裁になられました。次に国会が開かれ想定通りであれば自民党総裁になられた高市さんが総理になられてようやく国会での政策が決められて行くものとは思います。10月1日からは最低賃金が6パーセントのアップが実施され、物価も色んなものが値上げされている状況にも関わらず、政策協議は全く進んでいなくて今後の協議についても皆目分からない状況に困惑しています。

以前のコラムでも書きましたが、前回の介護報酬改定の時には食費についての標準単価は0査定であった事に違和感を覚えて、全国の状況を調査して貰った結果は『一日当たり308円の持ち出し』と言う結果が出たにも関わらず若干の補助金だけでそれ以上の動きは無いのです。朝一で全国老施協大山会長に私なりに窮状を話ししました。その中で「補正予算で何とか対応して貰えるようにしていきたい」との事だったので最後に私から「私にでも出来る事があったら言って下さい。」と言って電話を切りました。

介護保険制度の中での事業展開である当施設では「困った」と言う窮状を以下に国に示していくかと言う事です。介護職員の確保をしていく為には職員が結婚をして子どもを育てられる環境にするには国民の平均給与より83000円も少ない状況は打破しなければ「霞を食べて生活する事は出来ない」し、入居者の生活を劣悪なものにすることは出来ない。

国民の安全安心の為にも私的には『最優先』で政策を立てて頂き、大山会長が言われた様に「補正予算でしっかりとした対応」をして頂きたいと考えています。この問題については我々の業界の努力だけでは何ともならないので、与党も野党も汗をかいて頂きたいと思っています。

第42回ふれあい広場の案内がきました

1979年にユネスコが『国際児童年』の宣言をした年で、いみじくも私が『児童福祉』の世界に足を踏み入れた年でもあります。全国各地で『児童』を対象にした催しがされた年でもありました。その年の9月から、私は児童養護施設の指導員として働くことになったのですが、施設を中心にした企画が11月23日に行う事は決まっているたのですが、正直「企画は決まっていても、準備らしい事は殆ど出来ていない」と言う事で、子ども達には手作りのポスターを作製して貰い、私自身は来る日も来る日も看板作成の為に、のこぎりと金槌と釘との格闘の毎日だったのを覚えています。実は、大学時代も授業に出るより、看板作りを頑張っていたので苦にはならなかったのですが・・・ 。

私は名誉ある第1回目から関わらせて頂いたのですが、特に1回目から3回目までが印象に残っています。と言うのは、第1回目は施設がある小学校区でのものだったのですが、校区内のPTA、子ども会育成会、老人会、民生委員児童委員協議会、婦人会、青年団、商工会等々の団体が模擬店、バザーや各種イベントを行って下さり、実に1500名の参加を得たので大成功でした。1回だけの予定であったのですが、「来年もやろう」との機運が高まり、旧穂積町4校下を巻き込んで実施する事になり、実に3000名の参加者になりました。「流石に毎年実施するのは大変だ」と言う事で、実行委員会の反省会で「取り合えず来年は実施しない」と決まったのですが、その年の12月にNHK財団の後援依頼があり、急遽第3回が実施される事になり、実に6000名の参加が得られたので、旧穂積町を挙げてのイベントになったので、今も継続されていると言う事です。

私自身は13回目までの関りだったのですが、招待状を頂くと、その当時の事が懐かしく思い出されます。但し、最初の熱い思いを持って関わらせて頂いた私ですので、敢えて『面倒くさい事』を言わせて貰います。『招待状』を見させて貰うと、それなりの『絵』も描いてあるのですが、私が関わっていた時はプリントゴッコで1枚1枚印刷したり、色鉛筆で色塗を子ども達と一緒にしていたのですが、その様な形跡が無いのは残念に思っています。そして、第1回から実施されている『バザー用品の寄付のお願い』の別紙も同封されていたのですが、47年の経過の中で「贈答品や引き出物などが家庭に多くあるのか」と思うと、「違う方法を考えなければいけないのではないか」と思ってしまいます。

30年以上離れている私が、一生懸命に実施している方々に指摘するのは如何な事かと思いますが、『これが正しく昭和おじさんの真骨頂』と言う事で、リピーターの皆さん宜しくご理解下さい。

10月10日に台風が来るとか

令和7年10月6日

『体育の日』が制定されたのは昭和39年10月10日(1964年)に東京オリンピックの開会式が行われて、「その日を祝日にしよう」と言う事で昭和41年に『体育の日』として制定されたと言う事です。その当時『10月10日』を開会式典の日に決定したのは「その日は台風も少なく統計的にも天候に恵まれる」と言う事だったと聞いています。

ところが今朝の天気予報では「10月10日に台風が襲う可能性が高い」と言われたのを聞いて私は「10月10日に台風が来ると言うのは世界的な異常気象に関係があるのか」と思った次第です。と言う事は気象の面でも『絶対』と言う事は無いし今後は『想定外』と言う事がいっぱい起きると言う事なのだと思った次第です。次の話題で興味を持って『体育の日』の情報を集めてみました。そうすると今は『体育の日』とは言わずに『スポーツの日』と言うのだと言う事を始めて知りました。

また、平成12年(2000年)に『10月10日』であったのが10月第2月曜日に変更され令和2年(2020年)から『スポーツの日』になったと言う事です。確かに言葉の重みを考えた時、制定を変えられた時にはいろんな事を考えられたのだと思いますが私なりに考えたのは「1964年に開催された東京オリンピックは遥か遠い存在になって天候が良いので国民の皆さんでスポーツを楽しむ日にして下さい。」と言う事の様に思いました。と言う事は『国民の祝日』の意味合いが『単なる国民の休日』の様な感じで余り私的には面白くないと思っています。

つまり、『祝日の意味』が『形骸化』されている様で残念です。最も当法人の様に入居者さんを365日24時間お預かりをしている事業所においては『国民の休日』と言ってもピンときませんが『国民の祝日』と言うのは入居者さんとの大切な話題の一つなのですが多くのものが『月曜日』になってしまったのは話題にしにくい状況になってしまった様に思っています。また、年中頑張っている事業所に対する評価を高めて貰えると有難いのですが。

急に涼しくなって

急に涼しくなった事によって、私の体は少し変調気味です。と言うのは涼しくなった事により、文字通り『食欲の秋』が私の中に起きています。最も暑い夏でも食欲が落ちる事が無い毎日だったのですが、「より食欲が増している」と言う事です。日常的には、和合の施設に15時くらいまで居て、その後本部施設に行く毎日なのですが、最近は本部施設に着いた段階で異常なる食欲で、口の中にパクパクと食べ物を入れてから仕事に取り組んでいるのです。そして、我が家に帰ってからは、19時過ぎに夕食を普通に食べているのです。

そして一昨日は、いつも以上にストレスがあった為か、大きなあられをぼりぼり食べながら尚且つ、移動販売で購入したクリームパンをペロリと食べたのです。その時私は「いつも以上に食べてしまったので、夕食は控えなければ」と思って我が家に帰って玄関を入ると、カレーの美味しそうな匂いがして、お風呂から上がると「夕食を控えなければ」と言う考えはどこかにいってしまい、お替りまでしてしまいました。以前にもコラムで書きましたが「満腹感の無い私」なので、ペロリと平らげてしまったのです。

そして昨日は朝からお腹が重い状態だったにも関わらず、朝食も昼食も普通に食べたのですが、夕食の時間になっても「食べたくない」と言う事で、牛乳のみ飲んで水分だけ摂るようにして寝る事にしました。今朝の食事も『おじやと梅干』のみにしたのですが、お昼になろうとしているのに『空腹感』が無い状態です。昔から言う様に『過ぎたるは猶及ばざるが如し』と言う事なのだと思っています。そしてもう一つは『長くて暑い夏』が急に涼しくなった為か『体が気怠い』のです。リピーターの皆さん、お互いに季節の変わり目ですので気を付けた生活をしたいと思っています。

しみじみカラオケが上手くなったと感じています

10月1日に東京での会食の後に二次会のスナックで熱唱しました。

『しみじみカラオケが上手くなった。』と感じたのは決して自惚れではなくて事実だと思っています。

(久々の登場になるのですが)私の姉春子さんに言わせると「宏は小さい頃音痴だった」と今でも言われるのですが、勿論小さい頃は音痴だったとしても、社会人になってからは否応なしにお付き合いで歌う様になって少しは『まともに』歌えるようになって、長男が小学6年の時にPTA会長をさせて頂いた時の役員によるバスでの研修の時にバスの中で歌えた時に小さい頃の『対人恐怖症の赤面症は解消されたな』と感じてからは人前でしっかり歌える様になったのです。

それでも今のレベルでは無かったと思います。

東京で『しみじみカラオケが上手くなった』事について本日10時30分から和合においての実施された1階での『お参り』で正信偈と般若心経を腹の底から声を出して決して気温が高くない日(と言うより涼しい日でした。)でしたが、背中に汗が流れる程に気合が入っていて、その時に思ったのは「人前でけれんみ無く声を出せる様になったので発声の仕方が上手くなって声を自由に操れる様になったのかな」と自分なりに納得しています。

これは、いわゆる『相乗効果』と言う事なのかと思いつつ、1階の入居者さんに対して「お腹の底から声を出せるのは健康の源です。」と話していました。

余談になりますが10月1日に赤坂のお店で2回目の出会いであった赤坂芸者の生き字引の育子さんと親しくさせて頂けたのは歌が歌えて会話もスムーズだったから私のスマホで写真も撮らせて頂けたのだと思っています。

これからもお経とカラオケに磨きを掛けていきたいと思っています。

秋はやっぱり椎茸祭りですよね

秋の味覚の王様は『松茸』と言われていますが、なかなか我々の口に入るものでは無いですが『椎茸』であれは本部施設の近くに椎茸栽培工場があるので、手軽に手にはいります。昔から『匂い松茸味しめじ』と言う言葉がありますが、味においては『しめじ』に負けていないのが『椎茸』だと思っています。特に七輪の炭火でいい香りがしてきたところで醤油を垂らした『焼き椎茸』は、全く美味しいと思います。

今月10日に和合の施設で『椎茸祭り』を行うので予約の電話を入れると、「9日に5キロの注文を聞いていますが、この予約とは違うのですか」と言われたので「5キロで大丈夫と言う事は、盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)だな」と思ったので「和合の施設は5キロでは足らないので、10キロを改めてお願いします。」と言うと「何か所も大変ですね」と言われたので「3施設ともに実施しますから、本部施設からも近近連絡がいくと思いますので、宜しくお願い致します。」と言って電話を切り、本部施設の水野施設長に連絡すると「19日のバイキング料理の1品として予定しています。」との事だったので「和合と同じく10キロ頼んだら良いと思います。10キロあれば、職員にも楽しんで貰えると思いますよ」と話をしました。

和合の施設でも、本部施設で実施してきた七輪の炭火で焼くパフォーマンスを実施したいとの思いで、私が令和5年8月に就任してからは実施しているのですが、醤油の焦げた匂いと実際に食べて頂いた時の入居者さんの喜ばれているお顔は、私自身のテンションを上げてくれます。当法人も3施設になり、お互いの良さを見習いながら、切磋琢磨していけたらと考えています。

今年は秋刀魚が豊漁だとの事なので、秋刀魚も入居者さんに食べて貰えたらとも考えています。食べる事は元気の源ですから。勿論『食の充実』だけではなく、ワクワクする企画をドンドン提案して貰って、実施していきたいと考えています。当面28日には本部施設で、31日には『ハロウィン』の計画があります。さてさて私は何に変身させて貰えるか今からワクワクです。

イメージ通りの展開になりました。

令和7年10月2日

17時30分に全国老施協の本部のある平河町塩崎ビルで石川会長と合流することになっていたので早めに行って待つことにするため 17時には 会長室に着いたのですが すでに石川会長は お見えになっていたので 少し 想定外でしたが 逆に 石川会長としっかりと話ができたのでよかったです。話の内容は介護事業の置かれでいる現状に対して組織として何をすべきなのかと言う事です。

具体的には諸物価の値上げの中食費の対応が厳しい事に対してしっかりとしたエビデンスを示し厚労省や財務省と折衝すると共に政治的アプローチをしていくべきで会員施設に対してその流れを逐一情報として示していく必要について熱く語りました。そしてもう一つの大きな課題である職員の処遇についてです。と言うのも正に10月1日から最低賃金が6%を上がる事に対する手立てが何ら示されていない現実についても熱く語りました。

一般賃金との格差が8万3千円あり、今のままでは格差は開くばかりでますます開いてしまうと介護人材を確保する事がますます厳しくなる事についても熱く語りました。17時40分になり元老健局長と合流する事になっている赤坂見附のお店に移動して、食事会場は2階なので石川会長と随行の下元さんには2階に上がって貰い私は1階で元局長を待ち、おみえになったので2階にお連れして石川会長と局長との挨拶の後は食事をしながら話が盛り上がりました。

会長も局長も多方面の話題で最後には今度の展開についても決める事が出来ました。そして今は新幹線の中ですが充実した話について思い出しながらも本日13時30分から関ヶ原町役場での話し合いについての進め方について考えて行く事にします。予断ですが東京駅は外国人で溢れていて、新幹線の中も大きな荷物を持った外国人で一杯です。

びっくりです。

令和7年10月1日

本日は元全国老施協石川会長と元老健局長だった宮島さんと東京でお会いする事になっているので12時15分発のひかりに乗り込みホッとしたところです。

午前10時から特別支援学校の先生との打ち合わせがあり、その後パソコンに向かって自分自身の10月11月のスケジュールを打ち込んでから岐阜羽島駅に向いいつも利用している駐車場に入れようとしたら満車の赤い表示がしてあり、慌ててあちらこちらの駐車場にチャレンジしたのですが何処も満車の表示になっていて、かなり離れた所の立体駐車場に空きがあったのでバーを開けて結局屋上に空きを見つけて駐車して、エレベーターもないので急な階段を何とか降りて下までたどり着き、岐阜羽島駅まで結構歩き、乗車券を手に入れようとみどりの窓口前に行くと10人以上並んでいたので券売機に挑戦しようとしたら駅員さんがみえたので聞かぬは一生の恥とお願いしたら親切に操作をして下さり10分の時間が出来たのでコンビニに行ってお茶とおにぎりとサンドイッチを手に入れる事が出来今はゆったりと買ったものを食べながらコラムをスマホで打っています。

しかしながら、平日のど真ん中であるにも関わらず駐車場がこんなに賑わっているのはどうしてなのかと考えています。現岐阜県知事の江崎さんが以前、岐阜羽島駅周辺のホテルは東京や大阪と比べたらめっちゃ安いので岐阜羽島周辺のホテルに連泊していろんな所に移動して楽しむ外国人が増えているとの話を聞きましたがその情報は正に当たっていると言う事か。

確かに列車の中も半分以上が、外国人だ。外国人イコール悪ではなくとて、良識ある観光をして貰ったら日本にとって外貨を得るチャンスと捉えればメリットは大きいのではないでしょうか。日本の繁栄の為にお互いに何をすべきなのかを駐車場に空きが無かった事で考えてみました。

さて、本日の素敵なメンバーで素敵な展開になる様にこれからイメージトレーニングをする事にします。成果は明日のコラムで書く事にします。

昨日コラムで書いた『正面衝突』の詳細を書きます。

児童養護施設の指導員をしている頃の事ですので、かれこれ40年程前の事ですが、今でもかつて勤務していた施設では『ふれあい広場』が11月23日と決めて実施されていて、その当時『カニのプレゼントコーナー』と言う企画があり、高校生3人を乗せて長良川の河口付近の砂地の所に、いくらでもカニが獲れると言う事で向かっている時の事です。事故を起こした対向車が、事故直前に左側のガードレールにぶつかりそうになっていたのを、助手席の高校生と共に「危ないなー」とのんびり構えていたら、突然右に急ハンドルを切って、私が運転している車に正面衝突したのです。その当時の事なので、私も助手席の高校生もシートベルトなど装着していなくて、私はぶつかった瞬間はハンドルをきつく握っていて、ハンドルが曲がる程でした。しかしながら、助手席の高校生は捕まるものがなくて、精一杯の結果フロントガラスにかすかに当たったのだと思うのですが、目と瞼の間を切ってしまったのです。

事故の瞬間はコマ送りの様に私の目に焼き付き「大変な事になってしまった」と言う事で、身動きできなかったのを今でも覚えています。私がいつまでも動かないでいたので、助手席の高校生が「先生大丈夫」と気丈に声を掛けてくれたので「助手席の子が声を掛けてくれたので」と少し安心して助手席の子を見ると、顔中ちまみれの状態だったので驚きながらも、取り合えず私の持っていたハンカチを渡して傷の状態を見て「目は大丈夫か」と聞くと「大丈夫」とこれまた気丈に答えてくれました。40年前と言う事で携帯などと言う便利なものは無かったので、必死に堤防を下りて民家に飛び込み、電話をお借りして、救急車を呼んでから警察にも連絡をして、施設の上司にも連絡をして、上司には救急で運んで下さる事になって大垣市民病院に駆けつけて貰う事にして、私は警察が来てからの事故対応をすることにしました。

お互いの車の前輪は全部がパンク状態で、ゴムの焼けた匂いがすさまじかったのを覚えています。警察の事情聴取を終えて、大垣市民病院での処置を終えて、上司が現場に迎えにきてくれ(その間にレッカー車で車を運んで貰いました。)ケガをした高校生の顔を見て「目には異常がない」と確認した時には「大難を小難にして貰えた」と思うと「感謝」しかない気持ちになりました。私自身は、翌朝新聞を見ようとするとまともに見る事が出来なかったので、しばらくの間針治療に通って通常になりました。

40年前の事ですがあまりにインパクトが強い出来事だったので、今もしっかり記憶している事を書かせて頂きました。

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