『桜まつり』では無くて『春祭り』でした

招待状では『桜まつり招待』と謳ってあったと思うのですが、流石に関ケ原の桜も殆ど散っていて「桜まつりと銘打つのはしんどい話しだな」と思って入場門の所まで進むと『春祭り』と大きく書いてあったので「なるほど」と思った次第です。

今どきなのでキッチンカーが何台か来ていて、ラーメン・焼きそば・たこ焼きなど皆が喜びそうなものが並んでいました。

受付で名前を書くと食事券と共に飲み物も頂けたのは「流石に企業がされる事はこういう事か」と思いつつ、(当施設においてはボランティアも職員も汗をかいて模擬店の商品も作り、安価に美味しいものを提供するスタンスです。)『たこ焼き』8個800円の品物を頼み「食事券で大丈夫ですか」と聞くと「それで大丈夫ですよ」と言われて「サービスにフランクフルトを1本差し上げます。」と言われたので、フランクフルトと飲み物を休憩所で頂いて『たこ焼き』は本部施設の職員のお土産にして持ち帰る事にしました。

11時に業者さんとの打ち合わせが入っていたので、10時30分に出口に向かうと関ケ原町長さんが歩いてみえたので声を掛けて当施設の祭りは10月4日である事をお話しながら、敢えて関ケ原町のお祭りの日に実施する理由をお話すると「それは有難い」と言って頂けたので正直「ほっと」しました。

その上で勢い余って「今年のお祭りにはベリーダンスが4人のチームを組んで来てもらう事になっています」と話をしました。

11時からの打ち合わせをした業者は3度目の打ち合わせだったのですが、私は見積もり等で納得がいかない説明をされると徹底的に納得がいくまで話を聞かないと駄目な性分なので色んな所で時間がかかってしまうので11時30分からの次の予定の時間に食い込んでしまいました。

正直身体が一つでは足らない様な生き方なのですが、何とかこれからも頑張って行きたいと思っています。

アラーム

令和8年4月10日

昨日車を運転している時にラジオを聞いていて「アラームをセットして眠る派かしないで眠る派か」のやり取りがあり、その中で「私は必ず起きなければいけない時間の前に目を覚ますのでアラームはセットしません。」との意見の後で最終的には「アラームをセットするのは保険の様なものでアラームをセットしておいた方が安心ですよね」と言う結論が落としところになりました。

その落としところを聞いて私は「確かにそうだ。私も毎朝5時には目を覚ましていながら、5時25分のアラームで気合を入れて行動開始をしてお参りに行く毎日だよね。でもね、5時からアラームが鳴る20分近くの時間に一日の予定を整理したり、コラムの内容を考えたりしているのも有意義だと思うし。」と思っていて、昨日の今日で私にとってはアラームの事で『事件』が起きました。本当は『事件』と言う程大した事では無いのですが・・・。

今朝も5時前に目が覚めたので、いつもの様に一日の予定の整理等をしながらアラームが鳴るのを待っていて、天気の良い日なら今の時期なら明るくなってくるので「そろそろアラームが鳴るぞ」と分かるのですが本日はあいにくの雨で明るくなってこなくて、「そろそろアラームが鳴らなければ」と思いながら携帯で時間を確認すると5時35分になっていたので慌てて準備してお参りに出掛けたのですが、お参りで歩きながら昨日のラジオでの話の「アラームは保険」との話を思いだし「アラームのセットが上手く出来ていなかったので保険が仇になる事もあるのか」と思った次第です。

話をこじつけたのでは無くて「こんな偶然もあるのだ」と言う事でリピーターの皆さんがご理解下されたら助かります。

聖はじめさんと打ち合わせをしました

『聖はじめ一座』の公演をして頂く日程等の打ち合わせを聖はじめさんとしました。

この公演では私自身も『花魁』の姿で登場する特別企画があるので、私自身もワクワクになるのですが母秋江さんの餅肌譲りの肌なので化粧ののりが良いので?今年も綺麗に化ける事が出来て入居者さんの喜ばれる顔が見られるのを今から楽しみにしています。

「本部施設と和合の施設の2か所で花魁にならなければいけないので大変だ」と言いつつ「めっちゃ嬉しい」と思って私がいます。

日程が確定しました。

本部施設が6月6日(土曜日)で和合の施設が6月21日(日曜日)です。

花魁3人の揃い踏みでしゃなりしゃなりと歩く姿を思い浮かべると正直、うっしっしと言う事です。

6月の公演の話が済んだ後で本部施設での秋祭りの話になり、私が賑やかなものにしたいと言うと聖はじめさんが「いつもの公演ではベリーダンスの踊り手は一人ですが、屋外で実施するのであれはベリーダンスの踊り手を4人揃えますよ」と言って頂いたので、地域の方々が度肝を抜かれる反応をされるのか「若山が企画するのは驚きばかりだ」と言われるのかどっちなのかと考えていると「楽しみが増えた」と思っています。

ちなみに秋祭りの日程は10月4日(日曜日)です。

盛り沢山の企画にするので一体焼きそばを何百食作れば良いのか、生ビールが20ℓでたるのかと考えていると楽しくなってきます。

秋祭りの日を10月4日にしたのは関ヶ原町のお祭りの日にぶつけました。

その理由はかつての秋祭りには神輿が出たり、子ども相撲がひらかれたり、餅まきが行われたりして所謂収穫祭的な催しが多くあったのですが、今は「何もない」と言う事で、せめて施設で賑やかに実施出来ればとの思いからです。

地元の方々にワクワク感を持って頂くのも社会福祉法人の大切な事だと考えています。

半年後のイベントの告知をリピーターの皆さんにさせて頂きましたので良ければ参加して頂けたら嬉しいです。

小さい頃の私は『感謝の心』が無かった様です

令和8年4月8日

昨日のコラムで姉光子さんの事を書いていて、ふと「私が姉である父進さん、母秋江さん光子さん、春子さんを始め多くの方々にお世話になった事を『当たり前』と思っていたのではないか」と思ったので、小さい頃の出来事を改めてこのコラムで書いて『懺悔』としたいと思っています。とは言え今の私は職員に対して「当たり前を当たり前だと思うな」と激を飛ばすことが多くなっているので『昭和おじさん』と言われる所以なのかもしれませんが。

具体的に以下に書きます。かつてのコラムでも書きましたが【小さい頃、姉二人で1個の卵を分け合っている時に「体を丈夫にする為」と言う事で一番年下の私が1個の卵を当たり前の様に食べていた事。冬になると両手両足がボンボンに霜焼けで腫れて靴も履けない状態だと言う事で小学校に行く時に姉光子さんが私を背負い、姉春子さんが私のカバンを持って学校へ行く事。】この逸話については姉春子さんから聞いた話しなのです。

と言う事は私にとっては当たり前の事で記憶の隅にも無かったと言う事は当たり前の事として記憶にも無かったと言う事で、今となっては『感謝』もしていなかったと言う事で大変申し訳ない事だと思っています。

(コラムでではありますが春子さん「本当に有難うございました。)これも田舎のボンボンの私としては当然の様に思っていたのですが、母秋江さんが小学1年の冬になり、その当時暖を取るのは燃料がコークスの達磨ストーブで、ストーブの周りに柵が無い状態であったので、柵を6個購入して校長先生に「寄付をする条件として息子をストーブの前の席にするように」と直談判してその様に配慮して貰ったり、私が小学に入学して初めての遠足の時に同級生のお母さんと2人でその当時の事ですから本体の後ろからリヤカーで付いてきたと言うのは、建前的には「誰でも乗せますよ」と言う事なのでしょうが本心は「宏が歩けなくなった時にはいつでものせる」と言う事であったと思います。

今から考えても『超過保護』と言われても仕方が無かった事を何の違和感も無く実行に移せた母秋江さんの存在を当たり前と思っていた私が存在しているのは今に思えば「何と幸せな幼少期」と言う事なので一杯いっぱい甘えられた事への恩返しはをすることは出来ませんので今の私の立場で出来うる事を地域の中で精一杯させて頂き恩返しに返させて頂きます。

母親代わりだった姉光ちゃんが急逝した日です

令和8年4月7日

高校2年生の新学期が始まった4月7日は姉光子が急逝した日です。56年も前の話しなのですが私にとっては忘れられない日であります。そこで姉光子の事を走馬灯の様に思い出されていることを時系列など関係なく今日のコラムで書かせて頂きます。

姉光子は私にとって6歳上の頼れる姉でした。と言うよりは私が小学4年の頃から生母秋江は末期癌で入退院を繰り返し(既にこのコラムで何度か書いています)私が中学1年の1月16日に亡くなっているのですが、姉光子は私が小学4年の頃から文字通り『母親代わり』だったと思います。僅か6歳年上だったのですが「頼りになり、甘えられる存在」だったと思います。

以前に書いた私が中学1年の夏の中体連の応援に行き母秋江さんのめっちゃ心配を掛けて怒られて多分感情が高ぶってだと今に思えば理解出来る事ですが母秋江さんが「いけない事する子はご飯を食べなくていい。」と言った時に姉光子が毅然と「悪いことした事を反省しているのにご飯を食べなくてもいいと言うのは間違っている。」と言ってくれて両親共に冷静になれたので、ご飯を泣きながら食べた事を今でもはっきりと覚えています。

姉光子さんが中学生の時にはバレーボール部に所属していてそれ程背が高くなかったのですが前衛のポジションでガッツあるプレイをしている姿を何度か運動場で見ていて「お姉ちゃんは凄い」と思ったものでした。姉光子は私が高校1年の10月に22歳で関ヶ原町職員同士で結婚したのですが結婚する前に結婚する相手の方の事を「股下90cmで180cmで格好良いし優しいの」と何度も嬉しそうに話してくれました。

そんな姉が新婚生活真っ最中の最高に楽しいはずの半年後に23歳と言うこれからと言う4月7日に急逝したのは悔しくて仕方が有りません。亡くなる前前日には入院先の岐阜大学病院に一人で見舞いに行った時には「頑張って良くなるから気を付けて帰りなさいね」と本当は大変な状態の中で行ってくれた言葉は今も耳に残っています。

見舞いに行った翌日は春休み最後の日で家に一人でいたのですは従姉弟から電話がかかってきて「宏君、何で家にいるの」と言われたので「春休みで一人留守番している」と言うと「光ちゃんが亡くなったと連絡が入ったよ」と言われて頭が真っ白になったのを覚えています。

家にいてはいけないと言う事で姉光子の嫁ぎ先に行って姉が帰って来るのを待っていたのですが、なかなか帰ってこないので理由を聞くと「23歳の若さでの病気なので病院側が解剖をしたいと言われて時間がかかっている」と言われ。その頃の私は「何で死んでから切り刻まれなければいけないんだ」と腹が立ちましたが今考えると父進は「流石に教育者だった」と思っています。

つまり、「医療の進歩に寄与すべき」と考えたのだと思えるようになりました。姉光子は弟の私からみても姉御肌だったと思いますが姉光子が今も健在だったら今の私は無かったと思っています。走馬灯の様に思い出してコラムにしたことで供養になったのではと思っています。

『どんな自分を育てていますか』

朝のお参りでの妙応寺本堂にある奈良薬師寺執事長(私がお会いした時は、副執事長さんでした。)の、大谷徹奘氏の日めくりカレンダーの今日の言葉です。

何回も『6日』の日の言葉として目にしているはずなのに、本日はこの言葉が心に引っかかったので本日のコラムにします。何度もコラムで書かせて頂いていますが、小さい頃は生母秋江さんに『溺愛』して頂いた事によって、何に対しても依頼心が強くて、何か主張をしたいと思っていることもしっかり言えない様な状態だったのが、13歳で生母が他界して、17歳の時に文字通り母親代わりだった姉光子さんが急逝して、四国遍路に巡り合ってからの私は「相手の事を考えたら、何かをして差し上げなければ」との考えが芽生え、自分の運命の中で『やるべき事』を真摯に捉えて、頑張ってきた生き方であったと思います。ただし、『自分の考えを押し通す中で』と言う、考え方によっては「やっかいゴーインマイウェイ」だったのではないかと言う事で、不安を覚えた瞬間でもありました。

26歳から勤めた児童養護施設の指導員時代には「私は大学5年間も肝心な授業もそれほど受けずに、学生会活動に重きをおいていたし、教員を辞めての5か月間は、旧徳山村で飲めや語れの毎日だったので、長期の有休を貰っていたので公休などいらない」と豪語して、10時には施設に行き、23時まで子どもの学習指導に打ち込む生活で。30歳と10日で結婚してからもその生活は変わらなかったので、2人のこどもが出来てもその生活は殆ど変えなかったので、家族揃っての朝食とか夕食が無くて、めったにない夕食を共にする時は、子どもが喜んでいたとの話を今になって奥さんから聞くと、忸怩たる思いになります。

児童養護施設を退職してからも、在宅で大変な思いをしている子供たちを何とかしたいとの思いと、生活の糧は何とかしなければいけないとの思いで、大学等の非常勤講師の依頼は目一杯受け、尚且つ家庭教師もさせて頂いての生活も『私の思いを形にしたい』との事で、我が家の事は何ら考えていない生活だったと思います。『どんな自分を育てていますか』と仏さんに聞かれた答えは「家族の生活より、自分の思いを突き進む」と言う事だったと言う答えに辿り着きました。

「お酒は家での晩酌はしないで、外でのお付き合いの時に浴びる程飲みます。」と言うのも自分の考えの中での問題であって、家族には何にも関係の無い話だと思っています。『地域の為に。入居者の為に。福祉の為に』とは言え、少しは色んな意味での配慮が出来ていなかったと思いました。これからは少し力を抜いて、ぼちぼちとする事にも心掛けなければと思っていますが、自分の蒔いた種を刈り取るまでは正直無理かもと思う自分がいますし、今頃気が付いたのと言う気持ちも多分にあります。

4月4日の岐阜新聞から

岐阜新聞の一面に『身寄りのない高齢者公的支援』『法改正案 政府が制度創設』『入退院や葬儀、手続きサポート』の見出しが目に入ったので、興味を持って読ませて頂いた事に対しての私なりのコメントをこのコラムでさせて頂きます。

記事の中で【単身世帯の増加、親族のつながりの薄れを背景に身寄りのない高齢者が増えている。民間サービスは料金が高額で使いづらいケースがあり、無料や低額でも利用できる体制を整える。】具体的な誌面の中で【各地の社会福祉協議会などを支援事業の運営主体に想定する。改正案では、介護福祉士らによる都道府県の「災害派遣福祉チーム(DWAT)の体制強化のため、国によるチーム員の登録制度も盛り込む。2024年の能登半島地震では、初動対応の遅れが指摘されていた。介護分野では、人口減少が進む中山間地などで、事業所の職員配置基準を緩和できる仕組みを導入する。利用者や担い手が少ない地域でもサービスを維持する狙い。(中略)上野賢一郎厚生労働大臣は、3日の記者会見で「福祉、介護ニーズに的確に対応できる体制の構築が重要だ。今国会で速やかに審議いただくようお願いしたい。」と述べた。】

この記事を見て思った事は、地道な活動をしていく事によって、地震等の災害時にも役に立つ様に是正していく事は良い事だと思ったのですが、それと共に福祉施設が担うべき役割についても、整理して頂けたらと思っています。勿論、当法人においては地域に寄り添った施設運営に心掛けていて、常に社会福祉協議会等との連携を密にしていますので、役割をより具体的に示して頂けるとより活動しやすくなるように思っています。

本部施設がある関ヶ原町は人口が6000人を切ってしまった中で、民生委員児童委員のなり手にも苦慮しながら、かなり前に青年会組織はなくなり、老人会組織についても婦人会組織も解散するところが多くあり、ますます地域での情報が入りにくくなっている状況の中ではありますが、関ヶ原町、関ヶ原町社協等との連携を密にして頑張って行きたいと思っています。

関ヶ原町においては地域連携会議等において情報の共有化が出来ていますが、そうでないところで、高齢独居の方や認知症の方が悪徳に近い業者によって被害を受けている事を耳にすると、心が痛みます。そういう意味では、法整備がされていく事は有意義な事だとは思いますが「お金がある方は別」の考え方では悪徳業者をのさばらせる結果にならないかとの懸念を抱きます。

生母秋江さんが優しくしてくれるのは当たり前だと思っていた私なのです

朝のお参りで若山家のお墓で般若心経を唱えている時に、母秋江さんの事を想い出している時の事です。「一杯いっぱい私の為に色んな事をしてくれていたはずなのに、母秋江さんに怒られて泣いた記憶ばかりが浮かんでくるのは、どうしてなのか」と思ったのです。とは言え、母に怒られて泣いた記憶は2度だけなのですが。

一度は、昔の事ですから火鉢で向かい合う形で私が国語の本読みを聞いて貰っている時に、上手く本読みが出来なくて、苛々している母秋江さんの様子を見ていて涙が出てきたのと(この状況は何度もあったのだと思いますが。)、もう一度は私が中学1年生の時に、卓球のラケットを友達から譲り受ける為に学校にお金を持っていって、気が大きくなったのか何人かの同級生とバスに乗って、当時の郡大会の試合を応援に行って帰りが遅くなり、我が家が大騒ぎになり、隣のおばさんが車で関ヶ原駅まで迎えに来て下さり、車の中でおばさんから「あきちゃんがめちゃくちゃ心配していたので、ちゃんと謝りなさいね」と言われただけで、涙を一杯目に貯める様な中学生だったのですが、母秋江は心配して心配して心配していて、ほっとした反動だったと今の私は理解出来るのですが、機関銃の如く言葉が飛んできて、泣きじゃくる私にもこの時ばかりは感情が抑えられなかった様に怒られました。(その時に、毅然と私をかばってくれたのは長女光子さんでした。)

母秋江さんの3人の子どもの中で『特別待遇』であった一つの現象としては、60年以上前、1個10円していた卵を、姉2人は1個を分け合っていて、一番小さい私だけが1個食べれたと言う事からも大切にされていた事が読み取れます。母秋江さんの思いの中には「宏は体が弱いので、丈夫な体になる為にはその様にしなければ」と思っていたと思うのですが、食べ盛りの姉二人にしてみたら、きっと面白くなかったと思います。

コラムを書きながら『当たり前が当たり前で無い事』に気が付きました。例えば、私が熱を出した時には、私の好きな食べものを用意してくれたり、霜焼けで手も足もボンボンに腫れている時に、家に帰るとごぼう等のとぎ汁と冷たい水が洗面器に入って待っていてくれたりと言う事で、随分手間をかけたのにそれを当たり前だと思っていた私は『田舎のバカボン』だったなと、自戒を込めて思っています。母秋江さんとは13年と短い期間でしかなかったですが、密度の濃い13年だったと今になって思っています。

感無量を味わいたくて

令和8年4月3日

朝のお参りに家を出たのが5時30分で風も無く良い天気で「爽やかだ」と思いながら歩いていて「昨日予定していた花見が雨の為に順延になったと言う事で本日は最高の花見日和だ」と言う事で「私が本部施設本館の建設が進んでいた平成9年に岐阜県庁まで桜の苗木を頂きに行って手植えをしたのが大きく育ち立派な花が咲いているので私も入居者さんと一緒に楽しみたい。」と思ったので、本日10時から本部施設においてフロア責任者会議があり、13時30分から和合でのカラオケが予定されていたのですが、「和合での、カラオケはまたの機会もあるので申し訳ないけど延期して、8時30分までに和合の施設に行き、今月から夜勤が4人体制に変更された2日目と言う事で昨日も確認したのですが、昨夜の夜勤責任者にも混乱はなかったかの確認をして、10時からの本部施設フロア責任者会議に間に合う様な対応にしよう。」と言う事で、朝のお参り後のお風呂と朝食を終えて和合に向けて車を走らせました。

10時からの本部施設での会議が終了すると何人かの職員が花見の準備を手際よくしてくれていたので頼もしく思うと共に午後からの特養入居者を集めての花見の事を考えるとワクワクしてきました。13時30分前から続々と入居者さんが集まってきて、立派に大きくなった桜の木の麓で花見が始まりました。ノンアルの日本酒にビールの他にオレンジ・アップル・梅のジュースに甘酒とお茶を準備し、みんなで盛り上がりました。

お酒が好きだった方で飲める方にはノンアルの日本酒とビールを注いで廻っていたのですが、あまりに美味しそうに飲まれているので、ついつい「本物のお酒を少しでも味わって貰おう」と思い、先般頂いた地元揖斐大野が販売元になっている『条里』と言うお酒を嘗める程度にですが飲んで頂くと益々盛り上がりました。絵画終わりお酒の箱に書いてあるのを確認してびっくりです。

と言うのもこのお酒は『日本酒』ではなくて『リキュール』であり、原材料はブラジル産の芋だと言う事でした。どちらにしても素晴らしい笑顔を一杯見る事が出来たのは本当に嬉しいし、尚且つ、私が28年前に植えた桜の花が立派に咲いていたのは文字通り『感無量』の気分になりました。

     

本部施設は少し桜の開花が遅くてラッキーです。

今朝のお参り時に、妙応寺境内の大きな桜の木の花びらが結構砂利に落ちていて、昨日の「花が満開だったのに一日で寂しくなったのは残念だ。」と思っていて8時過ぎに大垣に向けて車を走らせていて、大垣市内の御首神社の境内の桜の花びらが舞っていて「花が少なくなって寂しくなった」と思いながら車を走らせました。

和合の施設に着き、昨夜の夜勤責任者に4月1日から夜勤体制が5人から4人体制になった事での問題点についての報告を受け、書類の決裁等をして10時30分から1階のお参り(入居者さんと一緒に『正信偈』と『般若心経』等を唱えます。)を終えて、11時30分から業者によるマットレス等の介護用品の提案を受けてから本部施設の駐車場に着くと、入居者さんが満開に近い桜の花を楽しんでみえ、「明日は皆さんで花見をします。」との報告を受けたので「本部施設の桜は、大垣より遅く満開になるんだ」と改めて思った次第です。

話しは変わりますが、水不足でダムの貯水率が0%になったのが今回の雨で14%にまで戻ったとの報道の後、愛知県の大村知事が「田植えの時期を延ばす様に指示を出した。」との報道に対して、私は「大村知事は、田植えの事も含めて農業の事が分かっているのか」と思ってしまいました。と言うのは、田植えをする時の苗の大きさは機械にしっかり収まらないと上手くいきませんし、大きくなり過ぎた苗は病気になりやすい事をご存じなのでしょうか。確かに雨が少なく生活水の節水も言われていますが、田植えの日を遅らせる事のリスクに対しての根回しや、理解が出来ているのかが分からないで意見を言うのは、慎まなければいけないとも思っています。

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