関ヶ原与市を検索したら

令和7年4月26日

朝のお参りで歩いている時にも「今日のコラムの題材を何にしようか」と考えている毎日なのですが、(そうでなければコラム連続更新は出来ません。)今朝は関ヶ原与市の墓にきて「よし、インターネットで詳しく検索して、コラムにしよう。」と考えて、「今は思っていても忘れてはいけないので、スマホに記憶させよう。」と言う事で、メモをしてから再び歩き出しました。そして、今パソコンで検索して驚いた事を見つけたので、そのことから書きます。

それは、私が令和4年6月21日に書いたコラムが『講談社』の次に紹介されていたからです。但し、残念だったのは当法人は『杉和会』なのですが『杉脇会』になっていたからです。検索の結果一番最初に出て来たのは『与市宮』(よいちのみや)と出て来て、妙応寺の五輪塔とは違う立派なお社で「しっかりお祀りされている。と言う感じなのですが、正直私は見たことがなかったので「こんな恥ずかしい事はないので、近いうちに行ってみよう。」と思った次第です。

次のページを開くと『関ヶ原開拓の祖』との大きな見出しがあり、【関ヶ原与市(本名:藤原基清)は平安時代の貴族で、用水の乏しかった関ヶ原へ、揖斐郡粕川上流から水を引こうと計画します。粕川は、関ヶ原からいくつかの山を越えた向こうにあり、工事は困難を極めました。権力者であった与市はこの地を通行する者は、何人といえども一日はこの工事に参加しなければ通さないようにし、使役したのです。この努力の結果が現在の関ヶ原の基盤になっているといえるでしょう。子孫の方が作った与市宮は今も手入れが行き届き、関ヶ原開拓の祖であるといわれている与市への尊敬がうかがえます。】との説明にあり、

私は関ヶ原町で71年(来月16日で72年になります)になりますが『関ヶ原開拓の祖』などと言う事は全く知りませんでした。少し言い訳をさせて貰うと『関ヶ原』と『今須』では大きな峠を越えなければいけないので『旧関ヶ原邑』の事だからしらなくて当然と居直った見解をしています。とは言え私は大学5年間所属していたサークルは『郷土研究の会』と言う民俗学調査をするサークルだったのに、地元の事は知らないでいたのですから情けない話です。もう一つ大きな見出しで『与市を斬ったのは、牛若丸!?』についてはいつの日か検証してコラムで書きます。

8本から9本に・・・

令和7年4月25日

「何の話や」と思われたリピーターの皆さん「慌てない、慌てない」と言う事で謎解き?をします。それは朝のお参りの背中に背負ったリュックサックの水を入れたペットボトルの数です。毎日お参りに行っている内に色んな所の花筒や湯飲みに水を入れる所が増えてペットボトルの数が本日から9本になったと言う事です。

お参りを始めた時は1本のペットボトルに水を入れ、我が家のお墓に持って行く為に1本のペットボトルを左手に右手に金剛杖を持って歩いていました。しばらくは1本だけでしたが、2本持って行くようになってからはビニール袋に2本の水入りのペットボトルをブラブラさせながら歩いて、2本が3本になり4本になった時に「手に持ってブラブラさせるのには限界がある」と言う事で家に眠っていたリュックサックに水入りのペットボトルを背負う様になった次第です。

毎日お参りをしている中で「このお地蔵さんや仏さんにも」と考えている内に本数が増えていったのです。とは言え、今使っているリュックサックでは9本が限界なのでこれ以上には増やせないのですが、ペットボトルの容量は500mlばかりではなくて、容量の多いので600mlのもあるので、リュックサックの中の水は5000mlにはなるので「背中に背負っているのは5㎏にはなる」と思うので朝背負って歩いている時にずっしりと重みを感じたので「これまた修行」と思った次第です。そして改めて「岐阜県最古の曹洞宗のお寺だけに色んな仏さんがおいでになる」としみじみ思いました。

毎日の日課になると手を抜いて進もうとしても「これが出来ないのです。」そのことを思った瞬間に思い出したのは、私が26歳から13年間お世話になった児童養護施設の理事長さんが妙心寺派の老僧でその方に教えて頂いた『陰徳』の話です。だって誰も見ているわけでなく、ましてや仏さんが文句を言うわけが無いのに、律義に水を手向けている私なのであります。

う~ん本日のコラムは何が言いたかったのかが分からない状態ですが「こんな私です。と言う事を知って頂ければ」と思っています。

午前3時40分にスマホがなって

令和7年4月24日

昨夜は21時には爆睡して午前3時に一旦目覚めて、再び眠りについて、「うとっ」とした時にスマホが鳴り慌てて出ると「胸が痛くて救急車を呼んで欲しい」との事。本人さんが会話も出来る状態なので「救急車は呼べないと」伝えると「タクシーで行く」と言われるので「一人で行かせるわけにはいかないので私が施設に向かい対応をします」との旨を伝えて電話を切り、着替えてから急いで車に乗り込み施設に向かいました。

午前4時前と言う事で車は少なかったのですが、トラックばかりが走っている様に思いました。運転をしながら真っ暗の中、星と月が鮮やかに輝いているのを感じながら運転出来たのは本人さんと話が出来るような状況だったからだと思います。と言うのは施設を開始して間もなくの頃夜中に部屋から出られた方が「外の石垣で頭を打たれて血を流して倒れられているのを発見した。」との連絡を頂いた時にはそれ程の経験も無い頃だった事もあり、施設に向かう時に運転していた時に足が震えて大変だった事を覚えているからです。

和合の施設に着き本人をお乗せして病院に着き、緊急用のインターフォンを押すと直ぐに入り口を開けて下さり、本人がしっかりされているのと何度も自分で対応されていて夜勤の看護師さんも馴染の方だった様で、CT、レントゲン、心電図、血液検査と手際よくして頂き本人が気にしていた『心不全』でのえらさでは無くて『貧血』の数値が非常に悪くてえらかったと言う事をドクターから説明を受けて入院することになりました。

本人が「えらい」と言われて不安になられていたことに対して対応出来たのは良かったと思いますし、貧血状態を改善されて元気に帰ってきて貰えればと願っています。多くの方が入居されている施設ですからこの様な事態は想定内なのですが、とにかく入居されて見える方が元気に楽しく生活して頂ける様に頑張っていきますのでリピーターの皆さんのご理解、ご支援を宜しくお願い致します。

 

お墓を守ると言う事

令和7年4月23日

妙応寺の本堂裏手に墓地があり、墓地の入り口には『墓仕舞』したお墓が地蔵菩薩様を中心に多く安置されています。放置するのではなくて『墓仕舞』をされているのですから「止む無し」と言う事なのですが、『昭和おじさん』の私としては残念な気持ちもあり、少し違和感があります。

確かにお墓を新たに建てられる時には、建てられた方の思いが強く表れると思っています。事実、私が17歳の時に、新婚生活半年で23歳の若さで他界した姉光子の場合は、慌てて姉光子だけのお墓を他界して早々に建てられたのです。つまり、姉光子の旦那さんの強い意向で建てられたのだと思うのですが、姉光子の旦那さんはこれまた早々に再婚され、姉光子の墓を訪れるのは次姉の春子さんと弟である私がお参りをするのですが、姉光子の嫁ぎ先のお墓がずらっと並んでいる中で、姉のお墓にはお花が供えられていないと忸怩たる思いになったものです。

23歳と若くして他界したとは言え、私にとっては母秋江さんが入退院を繰り返していた小学校3年生の頃から『母親替わり』の存在だったし、姉春子さんにとっても、姉光子は頼りになる存在だったわけで、当然ながら姉光子のお墓に手を合わせるのは当然の事なのです。

私が17歳の時に他界しているのですから、姉春子さんと私の2人以外には姉光子の存在は無いのです。2人が元気な内は良いのですが・・・。こんな状況はどの家でも起きうる話です。ましてや人間関係が希薄になってきている昨今、お墓を建てた方の思いがある内にしっかりとした対応をしていかなければいけないと思います。

このような問題はお墓だけでなくいろんな対応に対して言える事だと思いますので、私自身も色んな対応を元気な内にしていかなければと思っています。

毎日の様に見ているはずなのに

いつもの様に朝のお墓参りの時の妙応寺本堂でずっと前から置いてあるチラシを何となく手にした時に目に飛び込んできたのが妙応寺のチラシで表面の真ん中に県下最古の曹洞宗寺院との文字に先般インターネットて検索したばかりのことが書いてある。「文字通り灯台下暗しと言う事だな」と思った次第です。

インターネットで書いてあった以上に情報を得る事ができました。私が小さい頃に妙応寺を創建された方の母親が強欲な方で鬼に食べられて、その供養の為に創建された絵を見せて貰ったのですがその絵を描いた方が江戸後期から明治初期に活躍された地元今須出身の喜田華堂と言う日本画家だったとは。その他にも毎月第4土曜日午前7時から座禅会が行われているとか、要予約ではありますが精進料理が提供出来ると言う事を私は地元にいながら知りませんでした。

「確かにかなり前にはクコ料理が大々的にされていて観光バスもよく停まっていたように記憶していますが今は多分ほそぼそとされているのかな?と思うと勿体ないな。」と思った次第です。私も他人事の様に言うばかりでは無くて今須に住んでいる者として脱げればと一肌脱げればと考えています。

リピーターの皆さんも支援してもらえると嬉しいです。

父進さんの事を改めて書きます

令和7年4月21日

父進さんは明治最後の年である明治45年4月生まれで、生まれつき視力が悪かった為に兵隊に行ったのがとことん日本の状況が厳しくなってからの出兵だったので30歳を過ぎてからで終戦時にはロシアのシベリアに抑留されたとの事で日本に帰り着いたのは結構遅かったと聞いています。(ロシア兵は腕時計のゼンマイを巻く事を知らなくて、時計が止まると捨ててしまうので捨てられたのを拾って再び使ったなどの話を面白く話してくれましたが本当は大変な状況だったと思います。)戦前の教育を受けている父進さんは師範学校に通う為の学費を朝早くの新聞配達をして卒業したと言う事でとても苦労と共に非常な努力家だったと聞いています。

父進さんは戦地から実家のある垂井町に戻って早々に母秋江さんを石垣の陰から見て母秋江さんに一目ぼれをして若山春吉じいさんの末娘の養子になり、3人の子宝に恵まれ(私は末っ子の長男です。)私が小学生の時には加茂郡七宗町の小学校の校長に赴任していました。父進さんは戦地から帰って来て直ぐに岐阜市にある加納小学校に赴任していて、その時代に岐阜県教育委員会の幹部の方々とのネットワークを構築した事を父進さんから聞いた話から推測しています。

教員生活最後は自分が卒業したその当時不破郡の中では一番規模が大きかった垂井小学校の校長で退職しました。私の聞くところによると「部下の先生を大切にしていた。」と言う事で、父進の一文字を冠にした『垂進会』と言う親睦会は父進が他界するまで続いていたと理解しています。校長を退職してからは垂井町の教育長を長く勤め、その職を辞してからは関ケ原町歴史民俗資料館の設立に尽力して事業開始と共に初代館長を勤め、館長を辞めてからもアドバイザーのような立場でいて、80歳になった6月に入院するまで(その年の8月12日に逝去)虫食いの本を時間があると読んでいたように記憶しています。

私はまったく古文書に興味が無く「何が面白いの」と聞いた時に「虫食いで分からない文字を推理するのが楽しい」と言うような父でした。息子である私からみても「温厚な努力家」と言う方だったと思います。今となっては「温厚は努力家の爪の垢を飲むことが出来ませんが、父進さんのDNAを受けついでいない自分である事が悔やまれます。」「孝行したいときに親は無し」とは良く言い当てた言葉ですが、何ともならない息子を黙って見守っていてくれたからこそ今の私があると思うと、父に出来なかった恩返しを入居者さん頑張ってしていきたいと思っています。

岐阜新聞1面から

『ケアマネ33%カスハラ経験』の大きな見出しが1面トップ記事に載っていました。

ケアマネは利用者さんの自宅を訪れる事が多く利用者さんやその家族からの「言葉の暴力や精神的攻撃」「過度な要求や不当な要求」「不当なクレームや根拠のないクレーム」等を受けている実態が調査の結果として浮き彫りになってきています。

この様な行為は複数回答によって、利用者の介護を担う家族や身元保証人らが71.8%と最も多く、次は利用者本人の44.3%と言う結果だとの事。

自由記述の中で「『おまえは役立たずだ』」とのメールが来た」「精神的に病んでしない休職、退職した」との訴えが寄せられていていた。

経験者の22.5%は仕事を「辞めたい」「どちらかといえば辞めたい」と答えており、対策が不十分なら介護現場の人手不足に拍車をかける恐れがある。

との指摘に対して私なりの見解を以後に述べさせて頂きます。

『ケアマネージャー』の資格は『医師』『歯科医師』『薬剤師』『保健師』『助産師』『看護師』『准看護師』『理学療法士』『作業療法士』『社会福祉士』『介護福祉士』『視能訓練士』『技師装具士』『歯科衛生士』『言語聴覚士』『あん摩マッサージ指圧師』『はり師』『きゅう師』『柔道整復師』『栄養士』『管理栄養士』『精神保健福祉士』のいずれかの資格を持っており、実績を5年以上かつ900日以上積んでいる者が受験資格を持ち、尚且つ『ケアマネージャー』の試験に合格した者が国家ライセンスを持ち、5年毎に更新していく為の講義を受けていくと言う非常にハードルの高い資格であるにも関わらず社会的評価が決して高くないのが実態だと思っています。

『社会的評価が高い』ものであれば、この様な実態にはならないと思うのです。

社会的評価は『世間の常識』によって作られるものだと思います。

と言うのも、私の実体験の中で児童養護施設の指導員をしていた時にはそれ程の評価を受けなかったのに、児童養護施設の指導員を退職して大学の講師の仕事を引き受けた途端に「若山さんの息子さんは大学で勉強を教えているから大したものだ」との評価がされているのに対して私は違和感を持ったものです。

話を戻します。

『ケアマネージャー』の資格はかなり厳しい条件をクリアしての国家資格なのだから、国家的評価を上げていく事をしていく事によって自ずと不当なクレームは無くなっていくのでは無いでしょうか。

『フレンドリーな関係』を構築することも大切ですが、『大切な役割を担っている』と言う事が利用者さんやその家族にも理解される様なシステムを作っていく事も大切ではないかと思います。

権利主張も大切な事だとは思いますが一生懸命に頑張っているケアマネージャーの方がモチベーションを下げたのでは介護保険制度も崩壊してしまうと思うので。リピーターの皆さん、決して全くない話では無いと思いますのでご理解下さい。

4月15日のコラムでの宿題を少しだけ紐解きます

先ずは花山院が何者であるかをパソコンで検索しました。天皇であることは前回のコラムで書きましたが、より詳しく調べてみました。パソコン上での情報では第63代冷泉天皇の第一皇子で母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘で968年に生を受け1008年に亡くなられたと言う事なのですが、65代天皇としての在位は984年~986年の僅か年あまりだった様です。

妙応寺の創建は1360年にその当時の今須領主だった長江重景が亡き母『妙応』の為に創建された岐阜県最古の曹洞宗の寺だと言う事ですが『花山院』が生きられていた時代には妙応寺は存在していないので「どうして花山院の社(やしろ)があるのだ」と不思議に思いました。『関ヶ原与一の墓』が妙応寺にあるのはしっかりとした説明書きの看板があっているので「なるほど」と理解できるのですが、階段を6段上ったところに設置してあって何の説明も無いのは残念な気がします。

ちょっと待って下さい。私も今回インターネットで情報を調べて妙応寺が岐阜県最古の曹洞宗の寺であることを知ったのだから71年も(来月には誕生日が来て72年になるのですが)今須に住んでいながら知らなかったのだから、決して批判出来る立場では無いですよね。かつてこのコラムで「美濃13宿で加納宿について2番目に人口が多かった」と言う事実だけを書かせて頂きましたが、先般和合の遠足で岐阜関ヶ原古戦場記念館に行き「お土産品に地元の物が無いのは残念」と思っていましたが、歴史ある関ヶ原・今須の事を理解してなくて他人事の様に思っていてはいけないので、花山院の事を契機にして皆さんで来ていただいて興味を持って頂ける様に微力ながら貢献出来る様にアクションを起こしていきたいと考えています。

リピーターの皆さんの中でも協力して頂けたら有難いです。

次男の子ども、つまり私の孫二人の話です

令和7年4月18日

次男の子どもは、長女が来月15日に2歳の誕生日(ちなみに私は1日違いの16日が誕生日で、72歳になります。)長男は生後5か月なので、いわゆる『年子』なのですが、次男一家とお正月以来久しぶりに会食をしたのですが、孫二人の成長の早さには目を見張るものがあります。

お正月に会った時、長男は生後2か月になってなくて「小さくて壊れそうだけど、可愛いく愛おしいな」と思い抱かせて貰った時に、ドキドキしたものでした。そして久しぶりに会った長男は首もしっかりすわった状態で「確かな育ちをしている」と思った次第です。長女は1歳7か月で「動きが早くて活発で可愛い」と思っていたのですが、久しぶりに会った長女は「出来ることに挑戦したい」と言う動きに『じいじ』の私は(メロメロになりながら)「たくましいな」と思った次第です。

しかしながら、年子と言うのは「大変だ」と思うばかりで、次男夫婦の頑張りは尊敬に値します。2歳を前にした長女はじっとしていませんし、正直目が離せません。勿論、5か月の長男は何も出来ないので、全て親が全ての事をやらなければいけないので、夫婦の連携が無ければ育児が出来ていきません。父親の私が言うのも可笑しな話なのですが、次男の子育てに対する姿勢には舌を巻くような状況です。と言うのも、会食中に自分の子どもに対して数え切らないくらいに「可愛い」を連発するのです。そして『じいじ』になった私は「こんなに一生懸命に取り組む人間だったか」と自分の子どものオムツを1回も替えた事が無い私は不思議でならないのですが「これが親になって成長したと言う事か」と思うと頼もしい姿の次男を誇りに思っています。

和合のバス遠足

昨日和合においてバス遠足として『岐阜 関ケ原古戦場記念館』に出掛けました。

12時30時には岐阜県社協所有の『ながら号』が日タクのプロの運転手によって迎えにきて下さいました。

予定通り13時から参加される方を各フロアから1階玄関に誘導して貰い家族の方も参加して頂いて13時26分に施設を出発しました。

バスが動き出した時には久しぶりの大型バスでの移動と言うこともあり、入居者さんから「何処に行くの」と言う声があちらこちらからあがりましたが職員の声掛けでそれぞれに落ち着かれて外の風景を楽しまれる様な状況になったタイミングで職員から改めて行き場所の告知と共に『関ケ原の戦い』についての説明があり、参加者のワクワク感が高まった様に思います。

バスは順調に走り14時過ぎには目的地である『岐阜 関ケ原古戦場記念館』に着き、全員の方が入館された後、集合写真を撮ったり大きな武将の絵が掲示されているところで写真を撮ったりしてメインイベントのシアターの予約時間である14時45分まで時間を過ごして貰いました。

その間に私は事務所にご挨拶に行くと、かつて県庁の地域福祉課におみえになった方が挨拶にこられ親しくお話をさせて頂きました。

シアターの設備と内容は圧巻で参加された方は少し興奮気味に嬉しさを表してみえて「この企画は大成功だった」と思った次第です。

シアターの鑑賞を終えて5階の展望室や展示室を職員の付き添いの中で見て貰い、見学が終わった方から1階のレストランでそれぞれに好きな飲み物を飲んで頂き、16時10分にバスに戻って貰ったのですが、玄関先にこの3月まで健康福祉政策課の課長をされていてこれまたお世話になった記念館の副館長さんがバスにまで乗り込んでご挨拶をして下さるサプライズもあり「感謝、感謝」でした。

帰りのバスの中では職員が企画したゲームなどを楽しまれ17時過ぎにはなんのトラブルもなく、しかも喜んだお顔でバスを降りられました。

しっかりとした計画を職員が立ててくれた事に感謝すると共にこれからも楽しい企画をどんどんしていきたいと思っています。

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