人それぞれです。

本日13時30分から和合の施設の2階において入居者さんとのカラオケを実施しました。実施している時に思った事をコラムに書くことにします。

「カラオケを実施する」とは言え、入居者さんの受け止め方は人それぞれです。と言う事は、カラオケの実施とは言え人それぞれなので、その人その人に合わせた対応が必要だと思ってはいるのですが、カラオケが実施出来るのは各フロア(3フロア)で月に3回から4回ですので、全員の方の思いを形にするまでには至っていません。そんな状態ですから相手の方の所作や表情を見ながらの対応をしています。

今は積極的に歌って頂ける方、歌を聞いて楽しんでみえる方、歌は歌われないけれどリクエストはして頂ける方、過去に歌われた事のある歌を選曲してマイクを持って行くと歌って貰える方と言う事は理解出来ていて、なるべく私が1曲歌わせて貰ってから入居者さんに歌って貰う様にしています。その他にもデュエット曲なら歌っても大丈夫と言う方もいます。

そんな中で今まで歌われなかった方が、本日独り言の様に「岸壁の母」と言われたのを目ざとく聞き取れたので「岸壁の母を歌って貰えますか」と話しかけると「歌ったことないから」と言われたのですが「とにかく入れますね」と言ってスイッチをオンにしてマイクをお持ちすると高音も綺麗な声で歌われたので「能ある鷹は爪を隠す」なのか、それとも私が上手く進めれなかったのかと思いつつ、2曲目をお願いしたら「石川さゆりの歌を」と言われても曲目が出てこなくて根気よくお薦めすると「二輪草なら歌ったことないけど・・・」と言われたので「入れますよ」と背中を押す形で歌って頂いたら、めっちゃ上手に歌われた後で「歌った事なかった」と何度も言われたので「でも上手でしたよ」と言うと満更でもない顔をして頂けました。と言う事でまたまた新たに『歌い手』が誕生です。

こんな調子でこれからも多くの方が歌って貰えるように頑張って行きたいと考えています。私自身もお経と共にカラオケもしっかりと歌えるようになってきたのでこれからも頑張って実施していきたいと思っています。

3月11日は東日本大震災が起きた日です

2011年(平成23年)の本日14時46分に、東北地方太平洋沖で宮城県牡鹿半島の東南東沖約130キロ、深さ約24キロでモーメントマグニチュード9.0、南北約500キロ、東西約200キロが揺れた観測史上最大の地震が発生して、津波及び火災によって関連死を含めて22.325人と言う甚大な被害が起きた日です。

改めて14年前に起きた衝撃的な出来事を思い出しています。

地震が起きた当日は岐阜市にあるホテルで人材についての会議が開催されていました。

その当時の中部学院大学学長だった古田先生が座長を務められていたのですが、岐阜市内も結構に揺れて、立派なシャンデリアがユサユサ揺れ、揺れが収まった段階で機敏にスマホで情報を入れた方から「東北地方で大きな地震があったようです」と教えて下さる方があり、会場が落ち着いた段階で会議の再会の時に古田学長が「一瞬、私の頭が変になったのかと思いました。」と言われたのが印象深くて記憶に残っています。

会議が終了した時にメールの着信が入っていたので、確認すると本部施設からで『結構揺れましたが、入居者さんに影響は無く、機械設備も全て正常です。』との報告に安堵したものです。

家に帰ってテレビを点けると映画を見ているような状況が映り出されて「こんな現実が東北地方で起きているのか」と思うと同時に「被害が無かった我々に出来ることは精一杯していかなければいけないし、備えを充分にしていかなければいけない」とも思いました。

その後当法人の職員を厳しい状況の施設に派遣したり(2か月連続で行った職員もいます。)私も現地の状況を確認に行って長期に滞在している職員の激励をしたりしました。

備えも大切だと言う事でリスクマネージメントが専門の烏野先生(びわこ学院大学教授)のアドバイスを受けて『災害備蓄倉庫』の設置も行いました。

今14時46分と言う事で町報の無線を通じてサイレンが鳴り1分間の黙祷をさせて頂きました。

地域の中での連携が叫ばれていますが(政府においては『自助』『共助』の大切さを広報していますが)『青年会』とか『自衛消防隊』の様な物が希薄になっている今、社会福祉法人として地域の中で出来る事を今まで以上に考えて展開していきたいと東日本大震災の記念日に思った次第です。

言い当てた言葉が生まれています。

令和7年3月10日

今年の冬から春にかけての天候です。

本来の流れは『三寒四温』と言うのでしょうが、今年に限っては(来年もそうなるかもわかりませんが)『三極寒四温』と言う言葉がラジオから流れて来た時には「う~ん、上手い事を言うな」と思ったものですから。今年の冬は、東京では「大雪」だと言うニュースが何度もあったかと(信じられない様な話ですが東京では3cmの雪でパニックになるので『大雪』と言う事なのですが)思ったら『20℃』くらいに一気に気温が上がったり、と言う事で気温の急降下、急上昇があり、文字通り『極寒』と言う言葉が似あう状況です。

最近の天気予報で気になったのは5月に『夏の陽気の気候になる』と言う事を言っていたので、「日本の気候で、春と秋が無くなって冬と夏だけになる」と言う言葉が真の様に思えてきます。もしも現実に冬と夏だけになったら・・・。春と秋に着る洋服は必要なくなるし、食べるものの中でも食べたくなるものが限定的になる様に思います。

日本にはきちっとした四季があればこその『風流』だと思っているので、現実に春と秋が無くなってしまったら日本人の感性も希薄になってしまう様で心配です。

岩手県の山火事もなかなか鎮火せずに大変な思いをされたのですが、この現象も異常な乾燥状態が続いたためだと思うと、今後もこの気象の変化についての対応もしっかりしていかなければいけないと考えています。東南海地震の確率も段々と高くなっている今、自然災害への備えを今まで以上にしていかなければと考えています。昔から「備えあって憂いなし」との言葉があります。先人の言葉を大切にしていく事にお互いに留意したいものです。

『ITO』の会議に参加させて頂きました。

『ITO』と言うのは今須小学校と今須中学校が関ヶ原小学校と関ヶ原中学校に統合される話し合いが行われた時に(6年程前)「校舎を活用しての活動を関ヶ原町として支援していく」との約束の中で出来た組織です。

関ヶ原小学校、関ヶ原中学校共にこの4月を迎えると全ての学年が単学級になるとの報告を先般行われた『わざみの会』での町長及び教育長の説明の中で聞きました。

そんな中でも『今須地区』を元気にする為に、何が出来るかと言う事で『ITO』のメンバーで企画を練り実践してきて来年度は5年目を迎える節目の年になると言う事で、本日9時30分から15名のメンバーが集まり話し合いが持たれました。

最初に会長の吉田さん(優・悠・邑家族会会長さんでもあります)から、本日集まった趣旨説明も含めたご挨拶があり、その後、2グループに分かれてのグループ討議が行われ、グループで話し合った内容の発表の後全体での討議になりました。

参加された方々は積極的に参加されている方々ばかりなので建設的な意見が一杯出ました。

その中で「若い方が取り組める企画の充実の為の配慮」とか、「地域全体が取り組める様に子ども会、婦人会、青年団、老人会等々がスクラムを組んで取り組むことの重要性」などについての真剣な話し合いがなされました。

人口減少に対して何もしないで手をこまねいていたのでは衰退していく進行を早めるばかりなので気が付いている者がアクションを起こしていく事が肝要だと改めて思った次第です。

私自身は魅力ある今須をどの様にアピールしていくのかと言う事を具体的に推し進めていく為に何が出来るかを考える良い機会になりました。

私自身、今須に育ち今須で生活している者としての責務だとも思いました。

会議の途中から今須駐在所のお巡りさんも加わって下さり「都会には無い地域同士の繋がりの強さは素晴らしい」との話を頂いたので私自身「強みを生かすことで出来る事を実践してより住みやすい今須にしていきたい」とも思った次第です。

リピーターの皆さんも良い知恵があれば教えて下さい。

お身内が無い入居者さんが亡くなりました

養護老人ホームで生活されていた方に要介護が付いて、令和3年7月に本部施設である特別養護老人ホーム優・悠・邑に入居されていた方が、残念ながら老衰の為、永眠されました。

この方は唯一の弟さんを先に無くされていて御身内の方が無いと言う事で『町長同意』と言う形で入居された方です。

看取りになられてからは食事がとれなくなり最後は眠る様にご逝去されました。

町長同意の形だったので町の職員さんに来て頂き今後の対応をどの様にするかを話し合いました。

基本的には直葬の形をとる事になったのですが、当法人の考え方は『ご縁を頂いた以上は永遠のご縁を』との考え方があるので、直葬だからと言って「単に荼毘にふすだけでは気持ちが収まらない」と言う事で2014年5月に当法人監事で寺の住職の方にかつての入居者さんの多額の寄付を基にして共同墓を作って頂いた事をお話して共同墓に埋葬して頂く話がまとまりました。

当法人監事でありお寺の住職である方に連絡したところ、「火葬場に行く前に施設でお経をあげましょう」と言う事になったので、本日朝の内に新館1階の共有スペースの所に仏壇もあるので、お参りが出来る様な会場を作りました。

花の飾りや焼香台も設けて12時からお経をあげて貰うと共に新館の職員には順番に焼香に来て貰い、町の職員も参加して頂けました。

 

お棺の中にはお花もご飯もお菓子も、そして元気だった頃の誕生会の写真なども入れて貰い、それなりの手向けが出来たと言う事で肩の荷を下ろして、火葬場でのお別れとお骨拾いもさせて貰いました。

その後、共同墓での納骨は私がさせて頂き、町職員の方もきて頂き亡くなられた方はきっと喜んでいて貰えていると思っています。

10年前に作らせて貰った共同墓がこの様な形で役に立ち当法人の「ご縁は永遠に」との考え方が具現化出来たことは本当に良かったと思っています。

これからも「良い事」と思う事は頑張って行っていきたいと思いますのでリピーターの皆さん、ご支援ご理解を今後共宜しくお願いいたします。

仲が良くなれない我が家の猫の話しです

若山家の初代飼い猫は『リット』と言って20年も生きてくれた猫で、最後の1年は私が盲養護老人ホームの厳しい経営状況で眠れなくて寝ついだと思ったら寝汗をかく毎日の中で、ご主人さまの心情が理解出来た為か、私が布団に入ると布団の上に乗って来て私が足で布団を持ち上げたり下げたりするのをお互いに楽しめる関係になって癒してくれました。それまでの関係はと言うと私の車のシャッターが上がって行くと慌てて2階に退避するような関係だったのですが・・・。

残念ながら可愛くなって1年で死んでしまい新たに来た猫が『おもち』だったのですが、私が『チュール』と言う棒状の食べ物を差し出す時のみ近づいて来るのみで「本当に可愛くない」と言う関係だったのですが、ある日、お酒を飲んで帰って来た時に出合い頭に『おもち』に会ったら牙を剝いたので徹底的に大きな声を挙げて追い掛け回してからは『チュール』で誘っても牙を剥く関係になってしまいました。

その『おもち』が玄関から逃げてしまい半年以上戻ってこなかったので新しく『まる』と言う猫を飼いました。『まる』が我が家に来たときは可哀そうなくらいに痩せていたのです骨格はしっかりしていたのに5.5キロでガリガリだったのですが、我が家に来てからの生活は餌を食べている時以外は寝ている様な猫で今では堂々の8.5キロです。新たに『まる』が来てから間もなく『おもち』を保護して頂いている事がわかり今は2匹の猫が我が家にいるのですが、2匹ともオスなのですが、いつもくっついて寝ています。私が近づくと『まる』は何もなかったかの様に寝ているのですが『おもち』はあいからわず牙を剥いて威嚇をしてきます。私が追いかけたのは1回だけなのですが余程その時の事が怖かったのかも知れませんが餌の提供者は私なのに、そんなことは関係なく威嚇されています。今も私が玄関を入って行くと1階で多分のんびりしていたのに私の顔を確認すると2階に一目散と退避する毎日です。いい加減仲良くなっても良いと思うのですが・・・。

 

私も牙を剥くのを面白がっている内は駄目何でしょうね。

魅力ある生き方をされている『玉村豊男』について

令和7年3月6日

週刊現代に連載されている『なりゆきまかせの 老年計画』3月8日号を読んでみて魅力ある生き方をされていると思いましたので紹介します。【(冬の鍋の話があった後の会話があり)「やっぱり温まるね」「寒い日はやっぱり鍋ね」そう言いながら、絶えず卓上のティッシュに手が伸びる。「温かいものを食べると鼻水が出るね」「昔はそんなことなかったよね」「最近はすぐ出る」毎日老人3人で食卓を囲んでいる。年齢を合計すると、今年の秋には3人で225歳になる勘定だ。

たしかに、鍋を食べながらしじゅう鼻をかんでいる若者など見たことがない。自分たちだって、若い頃は鼻水なんか出なかった。鍋に限らず、温かいものを食べるとなぜ老人は鼻水が出るのだろう。食べ終わった食卓の上には、ティッシュの花が咲いている。(中略)老人3人が乗っているクルマに、後から若者が乗り込んでくると、フロントグラスがフワッと曇る。「さすが若いね」「グラスが曇るからね「爺さんと婆さんじゃ曇りもしない」きっと私たちも、昔はフロントグラスを曇らせるほどの熱気を放っていたに違いない。

悔しいから口を丸めてハーっと息を吐いても、フロントグラスまで届かない。(フランスに遊学された時の下宿の主のお母さんの紹介があります。)このお母さんというのが見た目にも相当インパクトのあるお年寄りだった。なかば禿げて乱れた白髪に、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡。着古した粗衣をまとって、いつも暖炉の斜め前方に陣取っていた。

暖炉の火の勢いが衰えると、手もとにある炭入れからコークスをシャベルで掬って暖炉まで運ぶのが彼女の役割だった。椅子から立ち上がって、暖炉の火床にシャベルの先が届くまで、5歩か6歩。この数歩の間、彼女はかならずおならをしながら歩くのだ。一歩進むとプッ。もう一歩進むとプッ。プッ、プッ、プッ、プッ、プッ。毎日、毎回、往きだけで帰りはしないのだが、そのリズミカルな連動に感心すると同時に、まだ若かった私は不愉快な未来を見たようにうろたえた。そうか、歳を取るとこんなふうになるのか・・・。

ケンブリッジの夜を思い出したのは、つい最近、歩きながら無意識のうちに連続しておならをしたからだ。あれ、俺もとうとうあのお母さんになっちまったか。ひとつひとつ、着実に老人の兆候を重ねていく。小便が近いのはだいぶ以前からだが、最近、トイレにたどり着いてパンツの前に、我慢できずにチビッと漏らしそうになることがときどきある。去年までは我慢できたのに、その我慢が利かなくなってきた。このままだと、尿漏れパンツ界隈に突入する日も近い。】

※本日は殆ど玉村豊男さんの文を書き写しただけなのですが、私はお陰様で71歳の今も色んな出来事があり走り回る様な毎日ですが体の変調は頷くことがあり(どれとは言いませんが)この様に自分の中で起こっている事をすんなりと、しかも理路整然と書けるのは素晴らしいと思いました。玉村さんと私の共通点は「自分がしたいことをさせて貰える環境に恵まれた事だ」と思うと『感謝』以外の言葉は出てきません。

※玉村豊男さんの紹介・・・1945年東京都生まれ。大学(東京大学)在学中にフランスに留学し、世界を旅する。帰国後、エッセイストとして活躍。その後、長野県東御市に移住し、ワイナリー「ヴィラデストガーデンファームアンドワイナリー」を設立する。著書に「料理の四面体」「男子厨房学入門」など多数

介護労働安定センターの研修及び懇談会は為になりました。

令和7年3月5日

14時からの開始だったのですが、30分前に会場に着いたので支部長さんを始めスタッフの方にご挨拶をして、グループに分かれての席も決まっていたので、グループ一番乗りでグループの方がみえる度に名刺交換をして、14時になるまでグループの参加者とお話をしながら待ちました。

定刻になり、開会の挨拶に続いて支部長の挨拶後に講演になりました。社労士さんで、労働争議を専門にされている方だったので、現実に起きている話でしたので今後に参考になる話だったと思いました。印象に残った事例としては、退職届けを代行する会社があると言う事で、そんな話を聞いた事はありましたが、現実の話として聞くと最近の方の中では帰属精神の希薄化か進んでいるのだと思うと、私の考え方は昭和の時代なのだと自覚しなければいけないのだと、思わざるを得ませんでした。

次に退職勧奨をする時に、高齢者のかたの中には「まだまだ働ける」との思いの方があり、理解を得る為の書式を頂けましたが、介護事業においては高齢者も貴重な人材と言う考え方があるのですが、事業主と働き手で思いが違う事もあるので、そんな時には当然ながら、丁寧な対応が必要だと言う事を再認識した次第です。その他にも書式で参考になるものがあったので、大切な資料とさせて貰う事にします。

講演のあと15分の休憩後にグループ討議の時間になり、参加者の方は皆さん経験豊かな方ばかりで活発な話になりましたが、話題の中心は人材確保と育成についてでした。グループ討議も終了してまとめの案内があったのですが、誰も手を挙げる方がなく、司会者から私が指名されたので素直にお引き受けしました。その中で、「講師の先生の話は貴重なものだったのですが、資料にページを付けて頂けると有り難い」との話をしたところ、参加者の皆さんも同じ考えだったのか「良く言ってくれた」と言う雰囲気が伝わってきて、講師の先生からも「次回からその様にさせて頂きます。」と言って下さいました。

まとめの話は閉会の挨拶の様にさせて頂き、私の役割は果たす事が出来ました。終了後に講師の先生のところに行き、改めて名刺交換と共に豊橋からみえたとの事だったので、豊橋にある大法人の話を振ると大いに盛り上がりました。講師の先生と話をしていると参加者の方は皆さん帰られたので、支部長さんを始めスタッフの方に挨拶をして会場を出ました。

持つべきはネットワークです。講師の先生を始め名刺交換をした方との関係作りをしっかりとしていきたいと思っています。こんな生き方なので、毎日が充実しているのだと自画自賛している私の事を、リピーターの皆さんはどう思われますか。

情報交換は大切な事ですので

令和7年3月4日

昨日、岐阜県老施協事務局長から「『岐阜県高齢者安心計画作成・推進会議』の意見書の提出が出来ていない。」との連絡を頂き「忙しさの中で失念していた。」と言う事で、朝早くに本部施設に行き資料を開こうとしたら「期限切れで開かない」と言う事で「県庁の交換を通してだと8時30分まで待たなければいけない」と言う事で、直通の番号に連絡すると対応して下さると言う事で、早速にメールで送信して下さり、資料の文字が小さいので拡大鏡を駆使して(情けない話ですが)資料を読み、私なりの意見書を取りまとめさせて貰いメールで送信して、ホッとしながらコラムを打っています。

職員には「どうせしなければいけないものなら、早めにやって提出しなさい。」と言っている私が、期限に遅れてあたふたと意見書を書いたことに、大いに反省しています。

いまコラムを書いているのは、14時から介護労働安定センターの賛助会員との情報交流会が岐阜であるので、昼食を食べて出掛けて、交流会の対応をしてからではコラムが適当なものになってはいけないと考えたからです。

さて、標題の通り『情報交換は大切です。』の話ですが、自分一人の考えで突き進むのは視野が狭くなってしまうからです。なおかつ、先般実施された上智大学グリーフケア研究所の実習を、和合の施設で行って頂いた時に『傾聴の大切さ』を改めて認識したからです。介護事業を実施されている賛助会員の集まりですから、色んな意見や提案がある事を楽しみにしています。また、新たな出会いが産まれる事も楽しみにしています。私は多くの方々との出会いを大切にしてきて今があると思っているので尚更です。今日の出会いについては、明日のコラムで書けるような出会いがあればとワクワクしています。リピーターの皆さん、私はこんな人間なのですが今後共よろしくお願いいたします。

和合に向かっている時に流れて来たラジオの情報から

令和7年3月3日

最近の寒暖の差についての話がありました。話題になるはずです。東京では昨日の最高気温が『22℃』だったのに本日は雪が降るかもとの事ですから、『15℃』以上の寒暖差は体に応えますが今の季節の現実です。

そこでラジオから流れて来た投稿者の話として「冬から春になる時に20℃の温度で『暖かい』と感じて夏から秋になる時に20℃の気温の時には『涼しい』と感じるのは不思議な感じがします。」との意見にパーソナリティの方が「体が慣れてくるとそんな感じですね。」とサラッと言われたので、「確かにそうなんだろうけど、人間の環境に合わせる事が出来る能力は凄い。」と改めて思いました。

野生動物に目を向けると季節の変わり目に毛が生え変わったり、極冠の地に生息している動物は厳しい状況に合わせた生き方をしている。そんな事を考えながら思い出したのが『南極物語』でした。その物語は南極観測船『宗谷』の為に参加した15匹の犬を南極の地に置き去りにしていて、再び南極観測船が南極にいった時に過酷な状況の中で『タロ』と『ジロ』が生息していたという感動の物語です。

『生きる』と言う事は過酷であると言う事なのでしょうが、最近の日本の気候は昨年の夏は40℃前後の日が長く続き、今年の冬は地域においては豪雪に見舞われと大変な状況ですが人間には『知恵』があり、寒暖の差に合わせた衣服の調整やカイロを身に着けたり、適宜冷暖房を調整したりして過ごします。とは言え、最近の寒暖の差は体に応えますが、体を順応させていくしか無いのでリピーターの皆さんも頑張ってこの状況を凌いで頂ければと思います。

1 2 3 4 5 6 7 290