人生の分岐点が多くありましたが、その都度助け人が現れたのは幸せです。
令和7年8月3日
大学を卒業して教員になった時には私の父進さんの大いなる助言がありました。但し、私が生涯を遂げる世界ではないと思った私は早々に教員を辞して自分探しをする為とあんなに優しい存在だった父進さんから勘当されたのですが、その時には徳山村戸入で民宿を営んでいた増山たづ子さん(徳山村の語り部で写真家)の家に居候を決め込んだ時にも増山さんは二つ返事で引き受けて下さり、反って快適な日々を送ることが出来ました。
但し、あまりにも居心地が良くてどっぷりその生活に浸かってしまい、自分探しと言う目的が薄れてきた8月末に、その当時大垣市内の中学校の校長先生をされていた馬淵先生がわざわざ徳山村まできて頂いて児童養護施設の指導員の道を切り開いて下さいました。児童養護施設の指導員時代は文字通り『フレックス』で自分が決めた通りに思いっきり子ども達との生活に没頭して、その活動を評価して頂いた結果、その当時の厚生省が後援して頂いていて主催は資生堂財団による海外研修(ボストン会は37年の経過の中でも活動しています。)に35歳の時に参加させて頂きました。この研修は私にとって最も大きな分岐点になりました。
何故なら団員は私を含めて17名だったのですが私が3年後の38歳の時に児童養護施設を退職した時に色んな意味で支えになってくれたのはボストン会のメンバーだったからです。(特に大阪の大久保先生はいつも諭す様に励まして下さいました。)紆余曲折が有り、社会福祉法人を立ち上げて特別養護老人ホームの建設に対して力を貸して下さったのがその当時、日本福祉大学中央福祉専門学校の校長先生であった吉田宏岳先生(法人設立時の筆頭理事)であり、平成8年度の設立で順調に進んでいたはずの計画が大垣市に2つの大規模施設が計画されていると言う事で暗礁に乗り上げた時は、その当時家庭教師をしている教え子の祖父に当たる大垣商工会会頭だった河合達雄氏に窮状を訴えて、猫田県議を紹介して下さり岐阜県庁での話し合いを持つ事が出来て、1年遅れではありますが平成9年7月17日に法人認可を頂き、翌年5月15日に竣工式典を行う事が出来ました。
その後本部新館が平成16年に、和合が平成26年に、そして令和3年に盲養護老人ホームの新築と盤石な歩みを辿ってきたのですが、盲養護老人ホームはいわゆる『措置施設』と言う事で4年が経過した今も入居される方がなかなか入らない中で経営的にも厳しい状況で私自身法人の理事長として非常に厳しい状況の日々が続いています。そんな中でも理事会、評議員会の皆さんのご理解を頂きまた、色んな方のお骨折りを頂いた事により、少し明るい兆しも見えてきました。
明日は、盲養護老人ホームを先進的に行ってみえる東京都青梅の本間先生にお知恵を借りに行って来ます。明日の展開も私にとっても大きな分岐点になると思っていますが、電話をしただけで快く面談を受けて頂いた事にも感謝です。この様な展開が出来るのは私自身ネットワークを大切にしてきたからだと思うので、その生き方のスタンスはこれからも変えずに頑張っていきますのでリピーターの皆さん、これからの社会福祉法人杉和会を今まで以上によろしくお願いいたします。