雪が積もると健康に良い事があると理解しました

令和7年1月20日

『昨日は雪が積もる』との予報があったので一昨夜、和合で泊まったことは既にコラムで書いたのですが、本日の表題のテーマにあることに基づいて敢えて昨日の朝の出来事から書くことにします。平生の毎日では目が覚めたらベットの上での体操をしたら着替えをして朝食の為に1階に降りていくのです。ところが昨日の朝は布団上での体操の後に布団を押し入れに入れる作業があり「よっこらしょ、どっこらしょ」と押し入れに入れる作業をすると「結構な運動だ」と思いました。

そして、午前中の岐阜県健康福祉部と岐阜県老施協との懇談会を終えて5階のフロアでなかなかエレベーターが来なくて県庁の方が待ってみえる状況があって和合でのランチミーティングに遅れてはいけないと言う事で階段を使って降りました。ランチミーティングで「御飯が美味しい」と言って頂けたので私は食事をしながら武勇伝を一杯語りました。

その後本部施設に向かったのですが関ヶ原にかかると積雪が気になる状況でした。本部施設に戻ると職員用の大きな駐車場も本館から新館に行く道路も綺麗な除雪とは言えない状況だったので除雪を契約している地元の方に連絡をして改めて除雪を依頼して16時からの関ヶ原町地域ケア会議に挑み、17時過ぎに終了したのでそのまま家に帰らせて貰うと陽が長くなったので、まだ明るい状態だったので我が家の玄関先の雪を除ける事にしました。

日中は若干暖かかった為か屋根の雪が軒下に溜まっていたので頑張って川に捨てる作業をしました。1時間の作業でそれなりに綺麗になったので作業を終えてからゆっくりとお風呂に入りながらつくづく実感したのは「雪が積もるといつもより活動的になるから健康的だ」と思ったのですが、3日後にでも腰が痛くなったら「とほほ」と言う話になるのですが。

雪は大したこと無かったですが・・・

本日は午前中に岐阜県庁健康福祉部次長さんを始め主管課の担当者さんと岐阜県老施協の理事との意見交換会があります。

「雪で道路閉鎖したら大変だ」と言う事で、和合の施設に泊まらせて貰ってしっかり眠れて6時に起き出しました。外を見ると「大した事ない」と思い、本部施設に連絡すると宿直の水野係長が電話に出てくれて「20cm位ですよ。」との事でした。

「結果としては泊まる必要は無かったけれども『備えあって憂い無し』」と言う事で、「せっかく和合の施設で6時から行動開始出来るので時間を有効に使おう」

・・と言う事で先ずはコンビニで購入したパンを食べようとしてはたと気が付きました。

「この寒い時期に温かい物が無い」と言う事で非常食でとってあった『赤いきつね』にお湯を入れて食べながら「朝からカップ麵とは我ながら凄い」と思いつつパンと共に食べました。

食べ終わって、理事長室内にある手洗い場で歯を磨いていると「結構汚れているな。」と言う事で久しぶりに『AB型』の『A型』の特性が出てしまいました。

と言うのも綺麗にしているうちに『メラメラっと』「徹底的に綺麗にしたい」と言う気持ちになり、そんなに広くはない手洗い場ですが時間をかけて徹底的に拭き上げました。

綺麗になった段階で事務所に行き、自分の机の上が煩雑なのが気になり机の上も片付けました。

もっとも、『A型』が作用したのかどうかは定かではありません。

本日、岐阜県との意見交換会を終えて、急いで和合に帰り上智大学の受講生とのランチミーティングを当施設として催します。

と言うのは初日の私の講話の中で「拘りの一つに地元今須の米があります。」と言った事が後で話題になり「施設の米が食べたい」との話で盛り上がった事により開催される事になったのです。

私の生き方として周りを巻き込んででも最高の形にしたい性格なので、本部施設の水野施設長におかずの依頼をして、小栗管理栄養士さんに厨房との連携と準備のサポートをお願いしました。

自分一人では出来ないことも職員の協力を得て行う事によって相手の方が幸せに思って貰えれば何らかの形で生かされると思うからです。

形は違いますが私のコラムで上智大学のグリーフケアについて書いたのですが、岐阜新聞の関係者の方が私のコラムのリピーターでおみえになり「何らかの形で掲載したい」との事を言って貰えました。

これも色んな形でのアクションの結果だと思います。

『労を惜しまず』をこれからも続けていきますのでリピーターの皆さん、これからもよろしくお願いいたします。

 

悩ましい天気予報

令和7年2月18日

天気予報では寒冷前線が居座るような事を言っています。本日リモートで『岐阜県外国人介護人材対策協議会』が10時から実施されるので当初は「本部施設で会議を終えて昼食を食べてから岐阜県福祉会館で13時30分から行われる岐阜県老施協総務委員会の会議に出掛けよう。」と考えていたのですが、朝7時の我が家での窓越しでの外の状況は『激しい雪』と言う事で『方針変換』と言う事で「明日は10時から岐阜県健康福祉部の次長さんらとの懇談会があり、雪の為に参加出来ないのは老施協会長として許されない。

だから和合の施設で今夜は泊まりにしよう。」と言う事で、急遽泊まる準備をしてリモートでの会議は和合で対応することにして取り合えず和合に向かい、今はリモートの会議を終えて、福祉会館へ行く途中のコンビニで昼食を買って老施協事務局で昼食を食べさせて貰ってから会議に挑むことにしました。総務委員会も無事に終えて和合まで帰る途中で夕食を購入して、上智大学のまとめの講義に昨日同様参加させて頂きました。

昨日に「居室にいる入居者さんの所で話をして頂きたい。」と言っておいたのですが、「流石にキャリアを積んだ受講者さんばかりだったので、それぞれに工夫をして頂いたからだと思いますが「それぞれに上手に話を聞きだされている」と思ったので、私のまとめの話では「入居者さんたちはいつも以上に幸せな時間を持って頂けたと思います。」と感謝の意を示し、本日は和合で泊まらせて頂けるので大垣駅前のホテルに泊まられる方をお乗せしてお送りして、誰もいない事務所でこのコラムを打っています。

この後はゲストルームに布団を敷いてから理事長室に行き一人で夕食を頂きます。一人ではありますがお酒も少し頂きたいと考えています。お酒は本日一人での夕食でも明日が頑張れるようにとの『ご褒美』と言う事ですので、基本的には家での晩酌はしない私ですがリピーターの皆さんご理解下さい。

上智大学の集中臨床実習・演習Ⅱの会場として和合の施設を提供しました

令和7年2月17日

上智大学の社会人学生の方が1週間の研修の内5日間を和合の施設を会場にして実施されます。昨日は上智大学グリーフケア研究所大阪サテライトで事前学習を終えた8名と指導者2人の方だ8時30分過ぎから順次お見えになり多目的室で9時から施設でのオリエンテーションが始まり、その後施設見学を私の案内でして頂き10時過ぎから11時までのお約束で私が話をさせて頂きました。

受講生の経歴を事前に確認させて頂いていて素晴らしい経歴の方ばかりなので「どんな話をしようか」と直前まで悩んでいたのですが「私らしさと私の生き様の中で話をしよう。」と決めて、直前ではありましたが簡単なレジメを作成してお話をさせて頂きました。「多分時間通りに追われないだろうな。」と思ったので『11時』にスマホのアラームをセットして話始めました。と言う事は最初から11時をオーバーする予定でのセットです。(実際に11時にアラームが鳴ったので5分の延長の許可を得て、5分でまとめをして話を終えました。

私の臨死体験や四国遍路での不思議な体験、入居者さんが亡くなった方の家族へのサポートや毎年6月と決めて実施しているかつての家族を招待しての供養祭への思いについて語りました。勿論私が今、社会福祉法人杉和会理事長として高齢者施設の経営と運営に携わっての考え方についても語らせて頂きました。

ちなみにグリーフケアとは【大切な人が亡くなったことなどにより喪失感、悲嘆(グリーフ)を抱える人に対して、その声に傾け寄り添い、そのプロセスを見守ることで、その人の回復や成長を支援する事。】と言う事なのでその役割は非常に大切な事なので私の話が100%その意に沿ったものかは分かりませんが、私なりに伝えられたかと思っています。午後からは入居者と受講者の方とのコミュニケーションの時間なのですが受講者の皆さんは一生懸命な方ばかりなのでしっかりとした傾聴がして頂けるものと思っています。

資料を頂いたのですが

令和7年2月16日

おむつを提供して頂いている会社から、年間の提供数を書いた統計資料を頂いたのを見ながら思った事を、正直にレポートします。正直資料を見た瞬間に「せっかく頂いた資料だけれど、この資料を生かす見方が分からない。」と言う事で「私の能力が低いのか」と言う考え方もありますが、私的には「資料の分析をしたものを頂かないと、私にとっては『絵に描いた餅』だな。」と思ったのです。「親切に頂いたものにケチを付けるのは失礼だ」との思いもあるのですが、私の正直な気持ちは「業者として最低限の仕事をしている。つまり、作業としての仕事をしている」と辛口な事を言いたいのです。

おむつの購入は、本部施設も和合の施設も年間にすると結構な額になります。そして、当法人ではおむつに対する拘りは、事業開始から26年の経過の中でも大切にしている事なので・・・。基本的におむつは誰もがしたくないものだけれども、快適に過ごして貰うためにおむつをして貰う、必要な方にして頂く。そんなおむつの存在だから『尿漏れ』などと言うのは決して許されない。だからこそ「しっかり鼠径部にフィットする商品の選定は大切な事」と考えています。限りある財源の中で、最適なものを無駄なく提供する為には、業者さんとのコミュニケーションと助言が必須だと考えています。

来月には来年度の予算を提案して、理事会及び評議員会の承認を頂いて新年度を迎えなければいけないので、改めて供給して頂いている業者さんに直接お会いして説明を受けることによって、無駄のない予算組みにしていきたいと考えています。勿論、おむつだけでは無くて、色んなものについても同様にしていきたいと考えています。法人の努力でねん出された予算については、法人のストック、職員の給与への反映及び入居者さんへの愉しみやゆとりの分に3等分していきたいと考えています。

一生懸命の中から学んだ事

令和7年2月15日

児童養護施設の児童指導員になった26歳までの私は『自分が無くて』周りに流されながらも何とか脇道に反れる事もなく生活できたのは生母秋江さんの『溺愛』を一手に受けながら長姉光子さんの母親代わりのガードを受け、高校2年生からは父進さんの加護を受けての日々だったと思います。

そんな私が26歳の時に旧徳山村で自由奔放な生活をしている時に「児童養護施設での仕事をしないか」とのお誘いを受けて「遠く徳山村まで来てのお誘いだから半年位はやってみよう」位の軽い気持ちで勤めだしたのが正直な気持ちでした。ところが実際に勤めだして分かった事は「頑張れば形になる成功体験をさせてくれる仕事」と言う事で半年ではなくて13年も勤務させて貰い児童から高齢へとの種別の違いはありますが、26歳から71歳の今もどっぷりと福祉の仕事に関わらせて貰っています。

45年もの長きに渡って(まだまだ進行形ですが)『行動の老施協』ならぬ『行動の若山』で『労を惜しまず』が出来たのは児童養護施設時代の無手勝流の展開で『指導しているはずの私が子どもから教えて貰っている』事ばかりだった様に思うのです。その事実を具体的に語っていきます。最初に経験したのは勤務について3日程度経過した中学生の集団学習(当時は3学年で13名だったと記憶しています。)でその当時1年生だった女子から「数学の計算問題を教えて欲しい」と言われて勇んで傍に行ってその問題を見た瞬間に「解けないから教えられない」と思った事から、かつての教員仲間の先生に教えを乞うようになった事によって『分からないところが分かるカリスマ指導員』のスタートを切りました。

その後、中2の男子が小学1年生の計算も出来ないと言う事実が分かり、その当時の養護学校の先生を父進に紹介してもらい教えを請いに行き、独自の教材の作り方を教えて貰い、一人ひとりに合う教材作りの大切さを理解しました。また、小学3年生で施設の来た男子がひらがなも書けなかったので、50音が書ける様に根気よく頑張らせました。

その時に分かった事は馴染みのある言葉から書けるようにと自分の名前から始めたのですが、50音の内25文字が書ける様になるのにかなりのエネルギーが言ったのですが残りの25文字は楽に覚えられた事に驚き、その時に私自身が確信したのは『学習にはバイパスがある』と言う事でした。この様な実績が見えてくると私一人でしていた事に対して保母(今は保育士と言います)さんからの協力が得られる様になり、小学3年生で習う『九九』を覚える事を職員が子どもに合う度に問題を出すと言う協力をして貰った事により楽しく覚える事が出来たのも愉快な思い出です。

子どもたちには限りない可能性があります。その目を摘むことをしないで延ばしていく事に全力を尽くす事の大切さを実践の中から理解出来たのは私にとっての誇りです。今は高齢福祉に全力で取り組んでいます。と言う事で入居者さんには今までのそれぞれの歴史を大切にして頂き毎日を精一杯謳歌してもらえる様に「今日一日楽しかった」を実感して頂ける様に頑張って行きたいと思っていますのでリピーターの皆さんもご支援よろしくお願いいたします。

昨日のコラムで「私の思いと違う」との意味を書きます

私は小さい頃、「虚弱で勉強が出来なかった。」と言う事は何度もこのコラムで書いているのでリピーターの皆さんはご理解されているかと思いますが、だからこそ『勉強で分からないことが分からない』指導者ではなくて『分からないと言う事が分かる』カリスマ的学習指導者だったと居直った言い方をしていました。

「分からなかったからこそ勉強が出来ない事を共有できた。」と言う事で『人生無駄なし』だと思っています。

中学卒であったが為に社会に受け入れられず反社会的な人生を歩んでしまった卒業生には殆ど何も出来ない無力さを知った私は「最低でも高校卒業の資格を取得させる」との決意をして『鬼気迫る指導者』に徹した12年間だったと思います。

私の勤務時間は14時から22時で週2回の休みと言う事でしたが、2年目からは基本的には休みを取らず午前中には出勤して一人ひとりに合った教材を手作りして、16時から18時までは小学3年生から6年生の宿題+本読みを見させて貰い、18時から19時は子どもたちと共に夕食を頂き19時から22時まで中学生の集団指導、それ以降の時間は時間を決めずにマンツーマン指導を行いました。

子どもたちは「若山先生がしてくれる事は僕たちの為にしてくれているんだから頑張るしかない」と言う事を浸透させるのに2年近くかかりましたが、苦労して高校進学出来た先輩から後輩に伝えられ私が子どもたちに引っ張られるような事もありましたが13年間全うすることが出来ました。

頑張っても公立高校への進学が難しい女子2人が「それでも高校へ進学したい」との望みを叶えたい。と言う事でその当時の理事長にお願いしたところ「その子らの努力が足らなかったと思うが若山さんが夜遅くまで頑張っている事に免じて私立の入学金は私が出します。」と言う許可を貰ったので本人2人に「初めての事だからあなた達が無事卒業できなかったら後輩たちへの配慮は出来なくなるので頑張るしかないぞ。」と話をしたのを今でも鮮明に覚えています。

その後、この2人の実績により県単事業の補助が付くようになったのは有難い事に違いありませんが、他の施設では私が所属していた施設のようなプロセスはなくて、何の努力もさせずに「この点数で行けるのはこの高校だ」くらいの指導で安易に進学させていたのか「先生が高校へ行ける。と言ったから行っただけや」と簡単に高校を退学する子が続出する現象に苛立ちを覚えていたからです。

本題の意が理解して頂ければうれしいです。

人材確保と育成で私が実現したいこと

令和7年2月13日

私は38歳まで児童養護施設の児童指導員をしていて、その後6年の経過の中で紆余曲折の結果44歳の時に生まれ育った関ケ原町今須において特別養護老人ホームの事業開始をして27年の年月が経ちました。その間に本館・新館・和合・和(なごみ)の事業展開が出来るまでになり、職員も200名を数える組織にまでなったのです。そんな中にあっても『児童養護』への拘りは今も脈々と流れています。

介護事業での大きな課題の一つが『人材確保と育成』です。私を大きく育ててくれたのは児童養護施設における子どもたちとの格闘です。その中でも26歳で勤務した年の卒業生の中で高校に進学出来なくて就職した子の中で社会に適応出来なかった子がいたことに違和感を持った私は「とにかく親を頼る事が出来ない児童養護施設の子たちには自らが鎧を纏える様にしなければ」と高校全入とそれ以上の学歴や資格を取れるようにと自分で言うのも変ですが心血を注いできました。

ある年には公立高校に進学出来ない子に対して、その当時の理事長にお願いして私立の入学金を出して頂き、その対応が評価されて、それ以降の子には岐阜県単独の助成金が頂ける様になり、ある意味「努力もしない子が進学出来る」システムが出来てしまいました。(今となっては私の思いと違う形になってしまいましたが)27年前は専門学校、短大、大学を卒業した者が当たり前の様に採用出来ましたが今は外国人材に頼らなければいけないのが現実です。

そんな中で私は児童養護施設から高校へは進学したものの簡単に退学した子を徹底した支援をして介護で一人前の職員にしていく事を実現したいのです。その為にはマッチングのルートをしっかり確立することも、キャリアパスの道筋も確立しなければいけません。幸い岐阜県児童養護施設協議会会長は私が児童指導員をしていた時に私を慕ってくれた方なので、私が熱く語る中で確立していきたいと考えています。

負の遺産を正に素晴らしい遺産にすることは並大抵の事では無いことは分かっていますが、土地も資金も無かった私がそれなりの事業を出来るまでになったのは児童養護施設時代があればこそ。恩返しの意味も込めて頑張りたいと考えています。『夢は形にしてこそ価値がある。』リピーターの皆さんの支援を宜しくお願いします。

杉和会の職員にも色んな特技を持っている方がいます。

盲養護老人ホーム優・悠・邑和なごみで9時45分からお参りと全体会があり13時30分から労働局主催の就職氷河期プラットフォーム検討会があるのでなごみの施設で昼食を頂いたのですが、その時に私用のお餅らしきものが特別にあったので食べてみるとあきらかに餅米ではないことは理解したのですがお餅の食感でいて餅のような粘りが無いので餅を食べたような満足感があり尚且つ安全な食べ物と言う事で作ってくれた職員に話を聞くと旧春日村の食べ物で材料は大根と片栗粉で作ったとのこと。作った栄養士さんの話では旧春日村の職員に聞いて初めて作ったとの事に感心しきり。尚且つ職員同士のコミュニケーションも素晴らしいと思いました。

入居者さんにとって有利な事は他の施設でも作って貰いたいので栄養士さんが一生懸命説明して貰っても私は右の耳から左の耳に抜けてしまうの直接栄養士さん同士でやり取りしてもらう事にしたいと思っています。

週刊現代の記事から

令和年2月11日

2月15日号の最終ページの特集に『朽ちる団地』「千葉・茂原市「「真名団地」」を歩く」のタイトルが目に飛び込んできました。

(原文のまま)【まるで下界からの進入を拒むかのように、広大な畑を隔てた小高い丘の上に無数の寂れたアパートが立ち並ぶ。巨大な廃墟群にしか見えないが、いまも住民が生活を営む市営住宅だ。名を「真名団地」と言う。1971年から造成が始まったこの団地は、約5万6000㎡もの敷地に建てられた。主に2階建てメゾネットタイプの棟を中心とし、平屋建てや4階建ても含めておよそ60棟、全299戸から構成されている。この団地を歩いてみると、恐ろしいほどに人気がない。(中略)現在ここに住んでいるのは平屋建ての8世帯のみ。大半が2DKの間取りで家賃は1万円を切る。2021年には老朽化により団地を取り壊すことが決定。今後は3月までに5世帯が転居、来年3月までに残り3世帯が転居する予定だ。

団地近くの一軒家に住む農家の女性が往時を偲ぶ。「ここは市内の団地の中でも一番人気で抽選待ちは当たり前、299戸すべてが埋まっていました。若い家族なんかも多かったですよ。(中略)」折しも高度経済成長期、全国各地で団地の建設が盛んにおこなわれていた時期だ。ご多分に漏れず、真名団地も郊外につくられたニュータウンとして隆盛を極めた。当時の茂原市には日立製作所や東芝などの工場が立ち並び、県内から多くの働き手が集まって賑わいを見せていた。】

(ここからは私なりのコメントをします。)『1971年』と言えば私が高校3年生の時です。日本が経済的に最も元気だった時代です。当然の事ながら大きな工場が立ち並べば『衣食住』の必要性は高まり、街自体が元気になるのは当然です。そこで私が高校生だった頃の事を思いだしていても、関ケ原町には大きな工場として当時の『日本紡績』があり、多くの若い女工さんがいましたが、現在工場は完全撤退しています。男性工員が多かった関ケ原石材や関ケ原製作所はかなり縮小されて、勤められている方は半減以下の状態です。と言う事は同じ様な事は起きているので、人口減は著しいのですが、『真名団地』の様に建てられたものがそのまま放置されていないだけ良いと思えるのか、茂原市は先の見込みがかなり甘かったのかはわかりませんが、特集記事の中で「幽霊はいないがイノシシは出る」の様な自虐的は言葉が書かれているのには、コメントのしようがありませんが、日本のいたるところにこの様な状況の所が多くあると思うと、バブルに踊されたつけはこれからも払いつずける事になるのでしょうか。

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