週刊現代の記事から
令和年2月11日
2月15日号の最終ページの特集に『朽ちる団地』「千葉・茂原市「「真名団地」」を歩く」のタイトルが目に飛び込んできました。
(原文のまま)【まるで下界からの進入を拒むかのように、広大な畑を隔てた小高い丘の上に無数の寂れたアパートが立ち並ぶ。巨大な廃墟群にしか見えないが、いまも住民が生活を営む市営住宅だ。名を「真名団地」と言う。1971年から造成が始まったこの団地は、約5万6000㎡もの敷地に建てられた。主に2階建てメゾネットタイプの棟を中心とし、平屋建てや4階建ても含めておよそ60棟、全299戸から構成されている。この団地を歩いてみると、恐ろしいほどに人気がない。(中略)現在ここに住んでいるのは平屋建ての8世帯のみ。大半が2DKの間取りで家賃は1万円を切る。2021年には老朽化により団地を取り壊すことが決定。今後は3月までに5世帯が転居、来年3月までに残り3世帯が転居する予定だ。
団地近くの一軒家に住む農家の女性が往時を偲ぶ。「ここは市内の団地の中でも一番人気で抽選待ちは当たり前、299戸すべてが埋まっていました。若い家族なんかも多かったですよ。(中略)」折しも高度経済成長期、全国各地で団地の建設が盛んにおこなわれていた時期だ。ご多分に漏れず、真名団地も郊外につくられたニュータウンとして隆盛を極めた。当時の茂原市には日立製作所や東芝などの工場が立ち並び、県内から多くの働き手が集まって賑わいを見せていた。】
(ここからは私なりのコメントをします。)『1971年』と言えば私が高校3年生の時です。日本が経済的に最も元気だった時代です。当然の事ながら大きな工場が立ち並べば『衣食住』の必要性は高まり、街自体が元気になるのは当然です。そこで私が高校生だった頃の事を思いだしていても、関ケ原町には大きな工場として当時の『日本紡績』があり、多くの若い女工さんがいましたが、現在工場は完全撤退しています。男性工員が多かった関ケ原石材や関ケ原製作所はかなり縮小されて、勤められている方は半減以下の状態です。と言う事は同じ様な事は起きているので、人口減は著しいのですが、『真名団地』の様に建てられたものがそのまま放置されていないだけ良いと思えるのか、茂原市は先の見込みがかなり甘かったのかはわかりませんが、特集記事の中で「幽霊はいないがイノシシは出る」の様な自虐的は言葉が書かれているのには、コメントのしようがありませんが、日本のいたるところにこの様な状況の所が多くあると思うと、バブルに踊されたつけはこれからも払いつずける事になるのでしょうか。