有難いメールがきました。

私の8月21日付けコラムに対する評価を頂きましたので、先ずはその全文を本人の了解もなしに、あまりに嬉しかったので掲載します。【貴先生のコラムを拝見させて頂き朝のスタートを切るのが毎日の習慣になっております。さて、大僧正のお言葉は正に若山先生のために選ばれた尊い仏性の真理であろうかと恐れ多くもついつい有難く正座合掌をさせて頂きました、有難うございました。】とあり、私の方が思わず『合掌しなくては』と思った次第です。

本日は10時から本部施設において理事会が行われました。

昨日は17時に和合の施設を出て本部施設に行き理事会の資料の確認をしたのですが、私自身が12日間コロナ感染の為入院していた関係で事務的な事を任せてしまっていた反動なのか不十分な資料であった事にイラつきながらも理事長特権の様に業者さんにも協力して頂いて何とか20時過ぎには形になりました。

ほっとした瞬間に自嘲気味に思ったのは『手をぬいた事はブーメランの様にはねかえってくる』と言う事です。10時から理事会と言う事もあり、8時過ぎには本部施設に行き最終確認をして、余裕を持って理事会に挑む事が出来ました。

もし、昨日本部施設に行かなかったら、朝から大パニックになっていたと思うと「何事も余裕を持って対応することの大切さ」を改めて思った次第です。

なお、本日の理事会も無事に終え、午後からはホームページリニューアルでの理事長担当の原稿3つも書き終えて最後にコラムも書き終えました。

まだまだ頑張らなければいけない事を自覚した次第です。

米が消えた?

令和6年8月22日

昨日の会食を伴う懇談会の席で、同じテーブルの(私を含めて4人)方との話の中で「最近米がない。」と言う話題になりました。一人の方は大きな会社のオーナーの方で「新聞で騒がれているが、この辺りでは関係ないと思っていた。」と言われると、同じく女性で会社を経営されている方が「スーパーに行っても米のコーナーには米がないのです。」との話に「東京の話だと思っていた。」との話に続いてもう一人の上場企業の重役の男性が「東北の米を必要に応じて送って貰っていたんだが、最近送ることが出来ないと連絡があった。」との事だったので、「本部施設と和合の施設は、本部施設がある関ケ原町今須の米を地元の農家から購入していますが、分水嶺から流れてきた冷たくて綺麗な水で育った米で皆さん喜んで貰っています。」と話をすると共に東日本大震災の時、全国老施協でお世話になっていた公認会計士の先生から、東京には米が無いので送って貰えないかと連絡があり、我が家にストックしてあった米を送ると、今まで買っていた米は高いのに不味いことがわかった。と言われてから、ずっと送っていて、喜んで貰っています。」と話すと、3人が3人共に「一度食べてみたい。」と言う事で、昨夜の内に米を供給してもらっている、本部施設の家族会の吉田会長に連絡したのですが上手くつながらなかったので、7時に改めて連絡すると、「サンプル5キロをそれぞれに準備する。」との事だったのです。

その後しばらくすると「家に帰って嫁さんに話をすると直ぐに欲しいので午前中に嫁さんと一緒に本部施設に行きます。」との事だったので急ぎ吉田さんに連絡すると「サンプルは施設に届けたが60キロの米は明日持って行く。」との事でした。10時からの3施設合同幹部会が終了してしばらくすると、お約束通りおみえになり、奥さんの方から「娘と息子も困っているので頼みたい。」との事で、改めて日本の食卓から米が消えることは大変な事だと思うと同時に「私がは米の営業をして嬉しく感じる私がいることを誇りに思っています。

12日も入院していた反動ですか・・・。

令和6年8月21日

8月10日を退院して、翌11日の日から少しずつ仕事をこなしてはいたものの、メールの確認がしっかり出来ていなくて岐阜県老施協事務局等々に多くの迷惑をかけていることを痛感して、本部施設でじっくりとメールで送信されたものをしっかり確認しました。コロナ感染した7月29日から確認すると、岐阜県高齢福祉課、岐阜県地域福祉課、岐阜県老施協事務局、全国介護福祉政治連盟、岐阜県社協事務局、全国老施協事務局から全部で30のメールが来ていました。

会議の案内であったり、資料の確認など様々な内容でしたが必要に応じてプリントアウトをしたりしてお昼になり、月1回のバイキングを頂き、13時からはホームページリニューアルの打ち合わせと、それに伴う撮影の打ち合わせをしていて、「気が付けば15時」と言う事で16時からは関ケ原町地域ケア会議があり、17時30分からは大垣に移動して2か月に1回の長城の会の会食を伴う意見交流会があるので、気を引き締めると共に慌てて本日のコラムを打っています。

病院に入院していた時は「何もせず安静にしているのが仕事」だったのですが、今は「頑張って充実した毎日になっているのに感謝です。」

【追記】昨日静大僧正が本部施設に来て頂いた折に、私の為に書いて頂いた色紙の文字『萬歳壽而康』(ばんざいじゅにしてこう)の説明を静大僧正がして頂きこれまた感謝です。「若山さんがこれからも皆さんの為に頑張って歳を重ねても健康でいて欲しい。との思いで書きました。」と言われた時には感謝と感動でした。

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静慈圓大僧正が施設に来て頂きます

令和6年8月20日

静大僧正とは、高野山真言宗大本山の重鎮です。静大僧正の凄い経歴についてはインターネットで「静慈圓」と検索すればたくさん出てきますので見て頂くとして、静大僧正とのご縁について述べさせて頂きます。

静大僧正とのご縁は、平成15年度の本部施設新館ユニットの建設計画での祈りの計画を滋賀信行会の内藤会長に相談して、4つのユニットそれぞれに『起承転結』を文字って『喜』『笑』『天』『結』の凡事を書いて頂いて各ユニットに設置して頂いたのが最初で、翌年平成16年4月からの事業開始した8月に施設に来て頂いてからのご縁です。その年から毎年8月20日の日に施設に来て頂き、本部施設本館のデイサービスセンター『えりかの里』の静養室に設置してあるステンドグラス入りの仏壇でお経をあげて頂く事を常としています。文字通り『継続は力なり。』で、令和3年3月に行われた盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の竣工式典では、書のパフォーマンスをして頂くと言う考えられないような事もして頂くことが出来ました。

よくよく考えてみると20年以上のご縁を頂いています。静大僧正に正直に「これ程までにして頂けるのはどうしてですか。」と、かなり不躾な質問をしたことがあるのですが、その時の答えが「若山さんがされている事業には全く欲得でされていないことが分かるからです。若山さんの純粋な展開にはかなり無鉄砲なものもあるのでしょうが、お不動さんが背中にしっかりついてらっしゃるので、これからも頑張って下さい。」と言われたのには正直背中に汗が流れる思いでした。

先月7月29日にコロナ感染により8月10日まで入院していたのですが、本日に照準を合した様に本来の健康体に戻りました。これも、お不動さんが付いて貰っているからだとマジで思っています。これからも私がすべき役割がある限りは頑張りたいと思っていますが、取り敢えず本日は静大僧正と会食をしながら色んなお話が聞けることを楽しみにしています。

前向きな生き方は素晴らしい。

令和6年8月19日

昨日のコラムで書かせて頂いた視覚障害がありながらパリコレクションにモデルとして参加される事になった富田さんの紹介を岐阜新聞の記事を基にさせて頂きました。本日は富田さんの生き様について私なりのコメントをさせて頂きます。一つ目に「小学生の時の学校での勉強は教科書を拡大コピーしてルーペ等を使って勉強していた。」とさりげなく書いてありましたが、苦労されていた事は間違いないし、私を含めて殆どの方にとっては当たり前に見える事が出来ない苛立ちを「勉強も遅れがちで」との表現で、自分の努力が足りなかった様な表現には驚くばかりです。しかも、自殺を試みた時にも母親に心配を掛けたくない思いから自殺した行為を隠し通すと言うのは凄いの一言しか浮かびません。また「いじめのおかげで人に優しくなれたし、誰かと話せることがうれしいと感じられる。今では感謝しているくらい。」との言葉には壮絶な生き様の中でも自分を見失う事無く、しかも『厳しい状況にあった事に感謝』とは誰もが言える言葉では無いと思います。

人生に『たら』『ねば』と言う事は絶対にありませんが、中学に進学してからお友達に恵まれたのも、和太鼓との巡りあわせも、一生懸命な生き方の中で巡り合われたのだと思います。私も色々事業を展開していく中で厳しい状況に遭遇しましたがその都度救われたのは、色んな形で応援して下さる方があったからと、今回の富田さんの記事から改めて思った次第です。また、「苦労を苦労と思って展開していくと大変が増長する」とも思いました。そういう意味で富田さんと私の共通点は『常にプラス思考』と言う事かな。勿論私も単なる太平楽とは違います。真剣に自殺を考えた事もありますが、良き先達、良き友、良きブレーンに恵まれた事に感謝です。

岐阜新聞の記事から

令和6年8月18日

本日8月18日23面(社会面)に『パリコレ挑戦の鼓動』『視覚障害のある富田さん(大垣市出身)来月演奏』とあり、パリコレへの意欲を語る写真と、ミスコンで和太鼓を演奏された時の写真も掲載されていましたので、興味を持って紙面を読ませて頂きました。【左目が見えず、かつては障害をきっかけにしたいじめや自殺未遂も経験したが、「障害があるからと暗く生きるのではなく、挑戦を続ける自分の姿を発信して、悩みを抱える人にエールを届けたい」と真っすぐなまなざしで憧れの舞台に挑む。】とあり、【病気を発症したのは小学1年生のころ。当初は正しい診断がなされず病院を転々とし、大阪の病院で「ぶどう膜炎」と判明したのは2年以上たってから。失明寸前まで症状は進んでいた。眼球に注射針を刺して糸で縫うなど、過酷な手術を何度も重ねたが、本当につらかったのは、小学校での生活だった。

左目はほぼ見えず、わずかに見える右目を使い、拡大コピーした教科書を虫眼鏡やルーペで読む生活。同級生は富田さんの姿をまねして笑い、足を引っかけたり無視したりもした。(中略)中学進学を機に友達もでき、少しずつ自分を取り戻した。「いじめのおかげで人に優しくなれたし、誰かと話せることがうれしいと感じられる。今では感謝しているくらい」。】「今では感謝しているくらい」などと言う言葉が言えると言うのは、どの様に評価して良いのか分からないくらい重い言葉だと思います。日々の生活の中でも多くの苦労がある事は簡単に想像できるのに、その事を全て飲み込んでの言葉に意を尽くせません。最後に【「右目に残された時間も限られ、後悔はしたくない。和太鼓とともにランウエーを歩く夢をかなえ、支えてくれる人に感謝を、壁にぶつかっている人にエールを届けたい」】との言葉は、苦難を乗り越えた人のみが言える言葉だと思うと、私もこれからも頑張らなければと思った次第です。

しっかり声が出るかな・・・。

令和6年8月17日

7月29日の夕方から咳が激しくでて、翌日の30日から緊急入院をして重症病棟で酸素をしての毎日で、連続頑張って来たコラムの更新が途絶えて、入院患者としては、しっかり寝て、出された食事は常に完食で(私は熱があっても食事は食べられる体質の様です。)酸素も5日目には取れて8月10日にめでたく退院して、翌日の11日からは少しずつ施設にも顔を出していて、12日にはボランティア歌謡集団『てるてる座』の方々に元気を頂き、1曲だけ(堀内孝雄の『愛しき日々』)歌わせて貰い何とか歌えたのですが、本日は午後から地元関ケ原町藤下の高木さんとのカラオケジョイントが有り、高木さんは11曲のリストが届いているので、私は少なくても5曲は歌う事になるのですが、果たしてしっかり歌う事が出来るのかと心配していますが、入居者さん利用者さんの声援を受けて、何とか頑張りたいと思っています。

12日の日は声を張り上げる様な曲では無くて、ゆったり歌える曲を選曲しましたが、80歳をもうすぐむかえる高木さんが11曲もエントリーされているのに、頑張らないわけにはいかないので、ここは声を張り上げなければいけない曲を選びたいと考えています。無謀かも知れませんが、敢えて鳥羽一郎さんの『兄弟船』、北島三郎さんの『北の漁場』、石川さゆりさんの『天城越え』を入れてみんなに元気を頂く為に山崎ていじさんの『お前しか愛せない』・・・。「う~ん、頑張らなければいけない歌ばかりだな。でも病気からの完全復活の為に頑張ります。」と言う事で、13時30分からなのでリピーターの皆さん応援お願い致します。

備えあれば憂いなしなのですが・・・。

8月8日16時43分に日向灘を中心にしたマグニチュード『7.1』の地震が起きました。その日の内に「臨時情報呼びかけ」が政府から発出され、一週間が経過した事により、昨日「臨時情報呼びかけの終了」が宣言されました。結果的に「一週間以内の大きな地震」は起きることが無かったので「お盆の稼ぎ時に宣言が出て観光客が激減した。」と言う報道がされています。

これは結果論として1週間以内の地震が来なかったと言う事であり、地震の確率は高かったわけで、仮に1週間以内に地震が来て何の情報もなかったら、それこそ、国の機関は何をしていたのかと言う事になる。現実には今年の元旦に能登沖を中心に起きた地震では7か月が経過しているというのにまだまだ復興の見込みも立っていない。復興が進んでいない地域に対して観光客に対して補助金を出すよりも、もっと違うところに有効に補助金を使って貰いたいなと思っています。

本部施設では大きな寸胴と大鍋と大釜で、春はタケノコや山菜で、秋から冬にかけては芋煮を作り、皆さんに振舞うのですが、これも立派は炊き出しの予行練習。薪と米と味噌と塩と水を確保しておけば、何とかなる。これも立派な備えであり、きっと地域の方々にもお役にたつと思います。リピーターの皆さんも周りにある資源を確認して活用出来るものを検討してみては如何ですか。

なかなかバランス良くはいきません

令和6年8月15日

13時30分から外部の方との打ち合わせが本部施設で入っていたのですが、10時からの和合の幹部会が12時過ぎまであり、その後事務所で決裁印を押したりして12時30分になってしまったので急いで本部施設に移動して、昼食にメロンパン2個(メロンパンが大好きなのであります。)と牛乳を流し込んでいると約束してあった方がみえたので、会議室に移りちょうど1時間で打ち合わせが終わり駐車場まで見送りをしていると、青空なのですが「ゴロゴロ」っと雷さんの不気味な音が・・・。結構長く雷は鳴っていたのですが、一向に雨が降る気配なし。「う~ん。一雨来ると土の渇きも潤うし草花も喜んでくれるのに」と思うと共に、先般の東北地方を横断した台風では「こんなにいらん」と言うくらいに降った様でタイトルの通り「バランスよく」とはいかない現実に、自然を自由に操れないからこそ、自然を敬い恐れてきたのだと思います。

当法人は本部施設、和合の施設、垂井の施設と3拠点あり、本部施設と垂井の施設は土砂災害を、和合の施設は洪水の心配があるのですが、だからこそ「ほどほどの雨を祈るばかりです。」もちろん「備えあれば患いなし」の格言もありますので、BCP(事業継続計画)の見直しも頑張ってしていきたいと思います。

 

相手の身になって

8月10日に12日間の入院生活を終えて退院して4日後である本日入院をした病院に退院後の経過を確認して貰う為に10時の予約でしたが診て頂く前に血液検査があると言う事で家を8時30分に出て病院に向かいました。

9時15分には病院に着き、先ずは総合受付前の機械に受診券を入れて第一段階をクリア。受付をした整理券を持って、受診をする為の受付に何とかたどり着き「これからどうしたら良いのでしょう。」とお尋ねすると、「順番が来たら番号が掲示されますので掲示されたらこの受付まで来てください。その時に書類を渡しますので。」との事で、順番が出る掲示板とにらめっこ。20分程待っていると私の番号である『166』が掲示されたので喜々として受付に行くと「血液検査がありますので、検査室に行って下さい。」と言われて私は「この病院に慣れていないので検査室はどこにありますか。」と聞くと受付の所から出て「突き当りを左に行くとあります。」と言われて、その通りに行くと「検査するところが一杯でどうしようか」と思案して看護師さんが通られたので「血液検査はどこですか」と聞いて何とか検査室にたどり着きました。

検査室で改めて受付をすると「改めて南郷を及びします。」と言われて椅子に腰かけていて番号を呼ばれて血液を採って頂き再び受付に戻り書類を渡してほぼ1時間待っていて、ようやく番号が来たので診察室の所へ行くことにしたのですが、慣れていない私はうろうろとさまよい何とか私が目指す『8』の診察室前で待っていて、順番があと3人との掲示があってからなかなか順番が来なくてようやく呼ばれて診察室に入り入院中のお礼を言うと間髪入れずに「退院後も順調なようですのであとのフォローはかかりつけ医でして貰って下さい。」と言われるのみで、血液検査の結果の説明もなく結果の紙を渡されるのみ。「これだったらAI診断の方がましだな」と思ってしまいました。

お医者さんにもお考えがあるのでしょうが「医は仁術」と言う格言があります。『医』は文字通り『医療』、『仁』は『思いやり』で『術』は『能力』と言う事は今の医療は医療のみなのか。これは、結果として治せば良いと言う事なのか。

私は福祉に関わって25年。相手の身になることこそ大切と考えて実践してきたのですが、もっとドライな考え方をしなければ現代社会は生きていけないのか。もしそうだとしたら・・・。やりきれない気持ちで一杯になります。でもこれからも泥臭く福祉を語り実践していきますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願い致します。

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