雨は鬱陶しいですが・・・

令和7年8月7日

昨夜我が家の2階に上がって行く時に突然強い雨が降って来て西からの風も強く雨が吹き付けていたので慌ててガラス窓を閉めました。実は昨夜から目が充血してシカシカしている事もあり、かつて診て頂いていた病院に連絡すると予約が無いと大分お待ちして頂く事になりますが受診は出来ますよとの事だったので9時過ぎに家を出ようとしたのですが外は凄い雨の降り方だったのですが「エイヤ」で車庫まで走りました。

車に乗り込み運転している時も強くなったり弱くなったりで病院の駐車場に車を枠の中に入れるまでは弱い雨だったのに車を降りようとしたら土砂降りの強い雨になったのでしばらく様子をみていたのですが弱くなりそうに無かったのでここでも「エイヤ」で玄関口まで走りました。今は眼科の待合でコラムを打ちながら待っていてガラス越しに外を見ると陽が指してきました。そんな状況だったので改めて思ったのは、「雨が降らなくて暑いと雨が欲しいな」と思うのですが、いざ土砂降りの雨が降ると「こんな降り方をしなくても良いのに」と思ってしまう自分がいるのです。

私自身は米を作っていないので『雨不足』でも一向に困らないのですが米農家や野菜を作っている農家においては切実な問題だと思います。(いやいや、米不足になって米が手に入らない状況になれば困りますが・・・。)天気予報を聞いていると石川県には線状降水帯が発達して『水不足から一転土砂災害の問題』で心痛められているとの事。その現象を理解した時に改めて『過ぎたるは猶及ばざるが如し』の言葉が自然に浮かびました。

何事も『ほどほど』が一番なのですが世の中はそんなに甘くは無いし増してや『自然災害』については科学が進歩した今でも解決出来ません。だから昔の人は自然を恐れ敬ったのですが私も含めて自然の恵みを当たり前と考えているのではないかと思っています。線状降水帯のニュースを見て改めて考えて行くべき事が見つかった様に思います。つまり『備えあれば患いなし』と言う事です。

 

テレビを見ていて蘇った記憶

日本列島のどこかで連日の様に『40℃超え』のニュースが報道されています。

本日のニュースの中でも「水分補給をしっかり行う様に」とのコメントに「毎日の様に報道されている事なのに何故か本日は高校時代に高校野球岐阜県大会の時の急遽組織した応援団の事を思い出した。」と言う事です。

と言うのは応援団の指導を元日本大学で応援団をしていたとの触れ込みであった先生が本番の試合の時に「応援団は選手が必死に頑張っているのだから裸足で応援すべきです。」と言う事でその頃の高校生は『素直で純粋』でしたから応援席のコンクリートの所で裸足で応援するのを「熱い、熱い」と言いながら足元に水を掛けて貰って頑張ったものでした。

また、試合が始まってからも「選手たちも頑張っているのだから、応援団が水分補給をのんびりするのは申し訳無いので氷を口に含んで我慢する様に」と言われて、この事も『素直』に受け入れて頑張ったなと言う事を懐かしく思い出していました。

今の時代にそんな指示を出す先生がいたら大問題になるのではないでしょうか。

最もそんな指示を出しても今どきの高校生が指示に従うとは思えないし、ましてや父兄が黙っていないと思います。

でも、当時の暑さは熱くても32℃程度だから凌げたのだと思います。

しかしながら40度超えを記録している中、高校野球を主催者や選手を預かる関係者の方は色んな対応をしなければいけないので大変なご苦労をされていると思います。

だって試合中に選手が一人でも熱中症で救急車で搬送されたと言う事実が出たら大変な事になると思うからです。

改めて思う事は批判はどこからでも出来るけれどもと言う事です。

昨日の東京青梅への出張で思った事

令和7年8月5日

東京から青梅までの列車に乗った時に思ったのは「東京の人は寝ているかスマホを操作しているかだ。」と思った次第です。「でも考えてみたら私自身もスマホでコラムを打っているのだから同じことか。」とも思いました。東京駅での乗り換えで予定より一本早い列車に乗れたのでお昼を青梅駅前でする事になり、「お昼時の中途半端な時間に施設に行くのはご迷惑だ。」と言う事で食べ物屋さんを探したのですが結局食事が出来そうなところはレトロな雰囲気(大村崑さんの看板がありました)が漂うお店が1軒しかなくて結局そのお店でスパゲッティと餡トーストと言うとりあえずお腹を膨らす物を頂きました。

昼食後にタクシーに乗り施設まで行き、予定より少し早かったのですが、理事長さんから事務所の職員さんには連絡が行っていたのでスムーズに案内して貰い理事長さんの他にも事務局長さんも同席して頂いてこちらからの質問に誠意を持って応えて頂きました。相談を終えると若い職員さんが駅まで送って下さり大いに助かりました。話し合いの中で色んなアドバイスを頂いたので早速今日からアクションを起こすべく、                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     午前中は和合での事務所会議に参加したあと本部施設に行き午後は関ケ原町連合会長を長年に渡り勤められ、当法人の評議員をして頂いている方に、昨日の内容を基に意見を求めてアドバイスを頂きました。今後の展開についても色んな方々に相談してアドバイスを頂きながらより良い方向性を社会福祉法人杉和会理事長として頑張って行きたいと思っていますので今後ともよろしくお願いいたします。

東京青梅に日帰りで行ってきます

朝食を6時40分から頂きスーツに着替え本部施設に行き、本日出掛ける東京青梅の施設への資料を準備しに行き家に戻ると同行する盲養護老人ホームの吉澤施設長が迎えに来てくれたので吉澤施設長の車に乗り込み、岐阜羽島に行き今は新幹線の中でコラムをスマホで打っています。東京とは言え青梅駅に着くのは岐阜羽島を8時15分発に乗っても12時12分に着くと言う事で東京とは言え遠いなと思っています。

吉澤施設長が隣の席にいてしみじみ思う事は法人設立前の事です。と言うのは今回青梅にある施設に行くのは盲養護老人ホームか開設されて4年の経過の中入居者がなかなか措置されてこない現実の中で盲養護老人ホームを先進的に展開されている施設の理事長さんに色んな事を教えて頂く為の出張です。そこでしみじみ思っているのは組織内に行動している今は出張費から手土産まで法人持ちだと言う事です。法人設立前には全て自前でその当時私の収入が少なかった中で厳しいものがあったなと言う事です。

しかしながらその頃の節約の経験は今に生きています。それは必要なものは購入するが無駄な事はしないと言う事です。その最たる例が施設のエレベーターには荷物を持っていたりお客様を案内する以外は使用しないのです。勿論私も例外では有りません。目に見えた結果としては分かりませんがその考え方を浸透させると他の事にも波及すると思っています。

結構贅沢に演歌歌手を呼んだりパフォマーを呼んだり真打の落語家を呼んだりして贅沢しているとのご意見もあるかと思いますが、私は決して贅沢でも無駄でも無いと考えています。だって入居者さんの目力が分かりますし、その事を理解したら私自身も元気を頂けます。雨が降らないから節水するのでは無くて常に無駄を無くしてお金を有効に活用する事が肝要だと考えています。本日の出張も将来的に役に立つようなものにしたいと考えています。

人生の分岐点が多くありましたが、その都度助け人が現れたのは幸せです。

令和7年8月3日

大学を卒業して教員になった時には私の父進さんの大いなる助言がありました。但し、私が生涯を遂げる世界ではないと思った私は早々に教員を辞して自分探しをする為とあんなに優しい存在だった父進さんから勘当されたのですが、その時には徳山村戸入で民宿を営んでいた増山たづ子さん(徳山村の語り部で写真家)の家に居候を決め込んだ時にも増山さんは二つ返事で引き受けて下さり、反って快適な日々を送ることが出来ました。

但し、あまりにも居心地が良くてどっぷりその生活に浸かってしまい、自分探しと言う目的が薄れてきた8月末に、その当時大垣市内の中学校の校長先生をされていた馬淵先生がわざわざ徳山村まできて頂いて児童養護施設の指導員の道を切り開いて下さいました。児童養護施設の指導員時代は文字通り『フレックス』で自分が決めた通りに思いっきり子ども達との生活に没頭して、その活動を評価して頂いた結果、その当時の厚生省が後援して頂いていて主催は資生堂財団による海外研修(ボストン会は37年の経過の中でも活動しています。)に35歳の時に参加させて頂きました。この研修は私にとって最も大きな分岐点になりました。

何故なら団員は私を含めて17名だったのですが私が3年後の38歳の時に児童養護施設を退職した時に色んな意味で支えになってくれたのはボストン会のメンバーだったからです。(特に大阪の大久保先生はいつも諭す様に励まして下さいました。)紆余曲折が有り、社会福祉法人を立ち上げて特別養護老人ホームの建設に対して力を貸して下さったのがその当時、日本福祉大学中央福祉専門学校の校長先生であった吉田宏岳先生(法人設立時の筆頭理事)であり、平成8年度の設立で順調に進んでいたはずの計画が大垣市に2つの大規模施設が計画されていると言う事で暗礁に乗り上げた時は、その当時家庭教師をしている教え子の祖父に当たる大垣商工会会頭だった河合達雄氏に窮状を訴えて、猫田県議を紹介して下さり岐阜県庁での話し合いを持つ事が出来て、1年遅れではありますが平成9年7月17日に法人認可を頂き、翌年5月15日に竣工式典を行う事が出来ました。

その後本部新館が平成16年に、和合が平成26年に、そして令和3年に盲養護老人ホームの新築と盤石な歩みを辿ってきたのですが、盲養護老人ホームはいわゆる『措置施設』と言う事で4年が経過した今も入居される方がなかなか入らない中で経営的にも厳しい状況で私自身法人の理事長として非常に厳しい状況の日々が続いています。そんな中でも理事会、評議員会の皆さんのご理解を頂きまた、色んな方のお骨折りを頂いた事により、少し明るい兆しも見えてきました。

明日は、盲養護老人ホームを先進的に行ってみえる東京都青梅の本間先生にお知恵を借りに行って来ます。明日の展開も私にとっても大きな分岐点になると思っていますが、電話をしただけで快く面談を受けて頂いた事にも感謝です。この様な展開が出来るのは私自身ネットワークを大切にしてきたからだと思うので、その生き方のスタンスはこれからも変えずに頑張っていきますのでリピーターの皆さん、これからの社会福祉法人杉和会を今まで以上によろしくお願いいたします。

8月には夏祭りがあり、9月には秋祭り及び敬老月間と企画満載です

早速8月9日は地元和合新町の地域のお祭りにイベント参加をします。

地域からお誘いを頂けるのは本当に有難い事なので子どもさんが喜んで頂ける様に『ポップコーン』の販売と『千本くじ』でお菓子を引いて貰う企画と大人向けに遠赤外線の本格的な石焼き芋の販売をします。「夏の暑い時期に石焼き芋は売れませんよ」との意見もあったのですが「優・悠・邑 和合ではこんな事も出来ますとのアピールと共に香しい匂いを楽しんで貰うだけでも良いのでは」と言う事で実施します。施設においてもそれぞれの施設で入居者さんとの夏祭りがあり、職員がワクワクしながら準備に取り組んでいます。

9月には敬老月間と言う事で毎年お馴染みになっているゲストを中心にした企画が盛り沢山3施設で計画されています。具体的に言うと和合と本部では香川県からクラウン・アキオさんによるパフォーマンスを地域を対象にしたお祭りの中で披露して頂きます。(13日に和合で、14日に本部施設において)また、大阪落語の笑福亭伯枝師匠(笑福亭松鶴師匠のお弟子さん)には3施設でそれぞれに独演会をして頂きます。(21日午前和(なごみ)、午後本部施設、22日午前に和合で)また、本部施設においては滋賀信行会さんの協力を得て23日午後に『千巻経』を行います。理事長としてその対応をしっかりしながら9月2日3日は金沢で東海北陸ブロック正副会長会議があり、尚且つ9月17日~20日は経営協の全国大会が福岡で開催されるのに引き続き福岡は花田先生のお膝元と言う事でボストン会が開催されるので特に9月は文字通り『過密な毎日』なのですが私がすべき役割があれば頑張りたいと考えています。全国大会は必ず行かなければいけないものでは無いのですが花田先生のお膝元であり、来年に経営協の全国大会が岐阜の地で開催されると言う事もあり、参加しなければと言う事です。

こんなスケジュールであっても健康であれば対応できると考えています。と言うのも私は高野山真言宗前官大僧正静慈圓師から「若山さんにはお不動さんが付いている」と言われているので「行けないときはお不動さんが止めて下さる。」と思っているので。

私はこんな生き方だと言う事をリピーターの皆さん、是非ご理解ください。

3年目に突入しました

令和7年8月1日

何が『3年目か』と言うと私が本部施設から和合の施設の施設長に就任して丸2年が経過して本日『3年目に突入』したと言う事です。2年前に就任した当初は「私が理事長として平成26年に事業開始した施設なのに全く理念も職員の考え方も違う」と思いつつも「しばらくは様子を見ながら少しずつ社会福祉法人杉和会の思いを伝えていく中から本来の姿にしていこう」と言う事で本部施設では常識的な範疇で言葉を選ばずに言うならば『傍若無人』な手法を封印して改めて職員に教えて貰いながら先ずは『郷に入っては郷に従え』での手法に徹しました。1カ月程度経過した頃に「現場の様子を見ながら入居者さんと親しくする方法は無いだろうか」と考えた時に「私が出来るのはお経とカラオケだ。」と本部施設においても実践していた事を和合でもやってみる事にしました。

当初は職員の協力も限られていて、入居者さんとの会話もぎこちなかったのですが『継続は力なり』で今ではスムーズな会話とお参り後の私の話にも一生懸命に耳を傾けて頂いていますし、カラオケについてもなかなか入居者さんの方から「歌います」と言う形にならなくて1時間の殆どの時間を私が歌っている様な状況でしたが今では半分は入居者さんが歌ってくれる様になりました。ボランティアからの意見としても「入居者さんが積極的に参加して下さる様になって来て楽しく出来ています。」との声を頂いています。劇的に変わったのは職員の動きが良くなったと言う事です。「やるべきことをしっかりして時間で帰れるようになった。」と言う事や「行事での入居者さんの笑顔が嬉しい」等の意見が多く出る様になってきました。

また、設備や備品の不備が出た時には直ぐの対応をしているので(当然の事なのですが)起案としてもしっかり出る様になっています。2年前にいた職員の中には私の進め方や考え方に反発して退職していった職員もかなり出たので、職員集団としてはかなりスマートになりました。しかしながら人数が減ったにも関わらずサービスの低下は起きてなくてボランティアさんの評価のみならず手前味噌的な言い方になりますが『入居者さんに目力が出て来た』と思っています。3年目を迎えた今、よりギアを上げて楽しい毎日になる様に努めていきたいと考えていますのでリピーターの皆さん、これからより一層の声援をよろしくお願いいたします。

30cm程度の津波でも怖いと言う事を理解しました。

昨日はテレビを点けると、テレビの画面には日本地図に『津波の危険地域』が色分けして表示されています。情報によると『30cm程度』との報道だったので、昨日18時からの本部施設の全体会の折り、リスクマネジメントの専門家である法人顧問であり『びわこ学院大学』教授の烏野猛先生の話の中での質問を、私がさせて貰いました。その質問とは「津波情報の中で30cm程度との報道がされているのですが、30cmでも問題にしなければいけないのですか」と大いなる疑問について聞いてみたところ、烏野先生からの解答は「第一波が例え30cmでも第二波、第三波と来た時には大きな波となるから、注意看過されるのだと思います。」と言う事に、私は半分理解出来て半分理解出来ないところがありました。

そんな中で、全体会が終わり我が家で遅い夕食を頂いている時にテレビを見ていると、正に私の疑問を解き明かす様な実験がなされていました。それは「30cmの津波に大人が耐えられるか」と言うものでした。屈強な男性が両手で上から吊るされているロープを持って立っていて、30cmの津波を想定した水を勢いよく流していて、僅か30cmの流れなのにロープにしがみついていないと流されてしまう様な状況だったのです。その画面を見た時に疑問は解けましたし、タイミングの良い企画だったとも思いました。

実験を見て思ったのは、確かにカムチャッカで起きた地震による津波が一日もかからず沖縄まで到達しているのだから、凄い勢いで押し寄せてきているのだから、例え30cmの深さであっても大変な事なんだと改めて理解しました。そう言う意味では、東日本大震災の時の津波は40.5mを記録したと言う事なので、正に『未曾有の津波』と言っても過言では無いと思いました。

岐阜県は『海なし県』なので、万が一にも東南海を襲う地震の時には、受け入れ側としての備えを盤石にしていく必要があると考えていますし、準備をしておけば違う形で災害が起きた時にも役に立つと思っています。どちらにしても災害に見舞われたところに対して、お悔やみ申し上げます。

伊東市長の動向に色んな報道がされていますが。

令和7年7月30日

私は一方的な報道での情報だけですので正直コメント出来るような立場では無いのですが、敢えて意見をさせて頂きます。先ずは一番疑問に思うのは田久保市長が何をしたいのか、何が言いたいのかが全く理解出来ないと言う事です。端的に言えば「意味不明」と言う事です。だってそうでしょう。自ら東洋大学に出向き『除籍』だと確認したにも関わらず「卒業証書が金庫にしまってある。」と言うのは摩訶不思議な話です。

最も私が懸念しているのは「市長と言う立場は市の方向性を導く立場なので一日と言えども空白を作ってはいけない」と言う事でましてや伊東市民からのクレームが多く来ていてその対応で職員の本来の仕事が出来ないと言う職員からの切実な訴えに対して「クレームは市長自ら対応する」と言う発言に対して「そこかよ」と正直に思った次第です。現職の市長としては先ずは自分で蒔いた種を自ら刈り取る事が肝要だと思うのですが。

識者と言われる方の中には「大学を卒業したか除籍になっていたと言うのは大した問題で無い。」と言う方や「日本の大学は入学するのは大変だけれども卒業するのは大した事では無い」等とマスメディアを通して発言されている方が多々見えたのには正直腹が立ちました。その理由を具体的に言うならば、「論評している方は大学時代にそれ程努力しなかったけれども卒業できたから除籍でも退学でも関係ないと言うのは家庭の事情で或いは心身の病気等で大学を辞めざるを得なかった方に対して失礼だし、『私は卒業したけど何か』と言う上から目線だ。」と思います。

市長の弁の中に「司直に判断を任せているから議会での追及は受けません。」的な発言にも違和感を覚えています。と言うのは「犯罪で無ければ何をしても何を言っても許される」と言う世相を反映しているように思うからです。私が好きだった番組で『半沢直樹』と言うのがあり、その中でも「証拠があるのか証拠が」と言うフレーズがありましたが、田久保市長がそのレベルだとしたら伊東市民は気の毒だとも思います。私の勝手な捉え方ですのでご異議があれは教えて下さい。

私にとって『大変な事』とは何だろうかと考えてみました

児童養護施設の指導員をしていた時に、夜遅くまで子ども達と向き合って学習指導をしていた時代に、「毎日遅くまで勤めるのは大変だろう」と、同じように指導員をしている他の施設の方から言われましたが、私は決して格好を付けるわけでもなく「楽しくやっていますよ」と答えたものです。それは、自分で決めた事だから『大変』とは思わなかったのだと思います。児童養護施設の指導員を退職してフリーでいた6年間も、若山家の経済状態は火の車でしたが、自分の中に目指すものがあったので決して『大変』とは思わなかったです。6年の内の後半2年間は、特別養護老人ホーム事業開始と言う明確な形が見えていたので『ワクワク』の毎日だった様に思います。

初めての施設が本部本館で完成しての平成10年5月15日の竣工式典の時には、ワクワク感がピークで舞い上がっていたと思います。但し入居者さんの事が理解されて無い中での職員の対応の中、救急車の対応も正直頻繁にあり、夜間の対応も多く、対応を終えてから引き続き仕事する事も多々ありましたが、44歳と言う若さで乗り切れましたし、『自分の役割』と言う事で決して『大変』とは思わなかったです。但し近所の方から「救急車が度々来るのは煩くて困る」との苦情には、申し訳ない気持ちで一杯でした。しかしながら、今では地域の家での救急対応はたまにありますが、本部施設での救急対応はほぼ無くなりました。

月間スケジュールを月末にパソコンで作成して、職員が誰でも見られる様にしているのですが、先ずは対外的な予定を入れて、次に3施設での予定を入れてから空白になっている所に和合の施設での、午前はお参りを午後にはカラオケを入れています。私自身の予定は月1回の内科受診の診察と、3カ月に1回の泌尿器科の受診くらいでしょうか。でも、8月12日は父の命日とお盆供養のお参りで休みを頂き、その日に合わせて次男ファミリーと昼食を我が家でとって、孫2人の顔が見られるのを楽しみにしています。

私の生き方は他の人から見ると『大変だろう』と言う事になるのでしょうが「自分で決めた生き方が全うできる喜び」の方が強いので、私の辞書には『大変の文字が無い』と言う事なのだと思っています。この考え方は、他の人に強要する事ではありませんが、私に課せられたものを形にして行ける喜びを満喫しています。そう言えば児童養護施設協議会の調査広報委員会に所属している時に、石川県にある自立援助ホームの取材に行った時の施設長さんに「大変な事は何ですか」と聞いた時に、長い沈黙の後「う~ん。大変な事って何かな~。」と言われた時の驚きを思い出しました。と言う事は私も今はその域なのかな。

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