『小春日和』の正しい使い方をご存じですか

令和6年12月15日

私は最近まで「小春日和とは、冬なのに暖かい日の事」だと思っていたのですが、これは全く間違った使い方だと言う事を知ったので、偉そうに正しい使い方をコラムで書きます。但し、大した知識を持ち合わせている訳では無いので、間違っていることがあればリピーターの皆さん遠慮なく指摘して下さい。

『小春』とは陰暦の10月の別称で、現在の暦では11月から12月上旬との事ですから、本日が12月15日でとても太陽の光を温かく感じるので、正に本日は『小春日和』と言う事でしょうか。テレビの天気予報では、新潟県は大雪との事なのですが。改めて「日本は広い」と思った次第です。

珍しく柄にもなく、文学作品を紹介します。①(島崎藤村:千曲川のスケッチ)『秋から冬に成る頃の小春日和は、その地方での最も忘れがたい、最も心地の好い、時の一つです。』②(国木田独歩:酒中日記)『小春日和の日曜とて、青山、通りは人出多く大空は澄み渡り』と文学的にも多く引用されているが、確かに寒くなる時期に温かさを感じるのは、心地が良く心弾むものだとは私も感じます。今は和合の施設にいてパソコンに向かっているのですが、ガラス窓越の日の光は優しくて暖かく感じます。こんな感情が持てるのも年齢を重ねてきた証でしょうか。でも色んな感性を持てると言う事は悪くないと思っています。

「う~ん。何が言いたかったのか書いている私自身が分からなくなってきました。」ので、この話題は終えて、明日から東京出張で午前に全国介護福祉政治連盟の役員会、午後は全国老施協代議員総会と懇親会があり、泊まらせて頂いて翌日は議員会館で地元議員10人に面談させて貰って、物価高と賃金アップへの取り組みを熱く語って来たいと思っています。何もしなければ何も変わらないので・・・。

年末年始の大型スーパーの営業について

朝のお参りを終えて家に入り「家の中は温かい」と思いながらリビングに行くとテレビがついていて大型スーパーの年末年始の営業について話していました。

内容的には『お客様本意でしっかり営業しているところ』と『お客様本意でありながらも従業員に対する配慮をしているところ』の2通りの考え方がある事が理解出来ました。

この事からの介護事業をしている立場も含めて私の思いを書いていく事にします。

私の従兄で線路工事の仕事に従事していた方がみえます。

その方の家に行く事があると、奥さんが「夜の仕事から帰って来て今は休んでいるので急ぎで無かったら用件だけ聞いておくわ」とのやり取りがありました。

今は引退されたので奥様と2人で畑仕事をしている姿をよく見ますが、「夜の仕事で雨が降ったり雪が降ったりして寒い時もあるので大変だな。」と思う事がありました。

勿論、昼間は基本的に列車が多く走っているので夜の時間帯に作業をしなければいけないのですが、列車の安全走行の為には無くてはならない仕事だと思います。

介護事業でもデイサービスの営業は昼の時間帯だけですが、入居者は夜も含めて対応しなければいけないので例えば本部施設にしても和合の施設にしても夜勤職員は5人ずつ勤務しています。

職員はその事も理解して勤務しているわけですが、その様な勤務をしている事に対する評価が低いのではないかと思うと公定価格である介護報酬についての国の対応についてしっかりと理解して頂ける様に私なりに頑張った活動をしていかなければと考えています。

ちなみに16日は全国老施協の代議員総会があるのでその場でもしっかりと意見を言いますし、翌日には岐阜県選出の9人の国会議員の議員会館に行き岐阜県老施協で作成した要望書を持ってしっかりと現状を理解して貰える様にしたいと考えています。

なお、冒頭書いた大型スーパーの考え方の中にサービス業としての苦渋の選択がある事は理解できるのですが、『選択の余地なし』の業種に対してより光を当てて貰いたいと思うのですがリピーターの皆さんのご意見を聞かせて頂ければと思っています。

10時から本部施設の芋煮点火式です

令和6年12月13日

昨夜22時57分にメールが来て「何事」と飛び起きたら、『明日には打ち合わせをしたい。』との内容だったので「朝一の対応にしよう。」と再び寝て、いつもの様に朝の日課をこなし9時前に本部施設に行き、昨夜のメールが来ていた案件について対応をしてから芋煮をする会場にいくと、水野係長の方で準備万端整えていたので「予定の時間より20分早いけど点火式をやってしまおう。」と言う事で、盛り塩は既にしてあったのでお酒を釜戸の周りに振り撒いてから、釜戸の口には既に井桁の様に薪が組んであったので着火剤を木に付けて貰ったのにチャッカマンで火を点けました。しばらくすると勢いよく火が回りだしたタイミングで、入居者さんやデイサービスの利用者さんが見学にみえたので、わいわいがやがやを楽しみました。

 

ぐつぐつと煮えたぎった大きな鍋の中にダイコン、ニンジン、ゴボウ、里芋、ネギ等々を放り込みました。色んな具材を入れてぐつぐつ煮てから鍋の中のスープを紙コップに入れて、ギャラリーの入居者さんに味見をして貰うと、異口同音に「美味しい」と言って貰ったので、私は気分が良くなり「ここに八丁味噌をたっぷり入れるとますます美味しくなりますので、お昼ごはんでの芋煮を楽しみにしていて下さい。」と言ってから、味噌を混ぜる鍋に八丁味噌を入れてから、大鍋から熱いスープを注ぎ混ぜる道具でシャカシャカと混ぜて、大鍋の中に溶けた八丁味噌を入れる作業に没頭して、何回かその作業を繰り返して昼食休憩に来ている職員に味見をして貰い「もう少し味噌を足した方が良いですか」と確認して八丁味噌を結構に追加して、満足な味になったところで一気に煮立てて11時15分に完成させました。

      

次に、それぞれのフロア(デイサービスを含めて5か所分)に対して鍋に入れ替えて、それぞれのフロアに運んで貰い、勿論職員用の鍋にも移してから、12時30分集合になっている3施設合同幹部会の職員用の食事の為に冷凍うどんを入れて煮詰めさせて、昼食の準備をしました。

会議室で和気あいあいにうどん入りの芋煮を食べてから、3施設合同幹部会を実施しました。幹部会終了後に芋煮会の食べ具合を確認すると、どのフロアも喜んでみえたとの事で、デイサービス利用者さんの中で「こんな企画をしてくれるところ何て、どこにも無いよ。」と言われたのは本当に嬉しい事でした。施設間の差別化を図り、より良い施設にしていく事にこれからも勤めていきたいと考えています。

岐阜新聞で『ホームレスは、どこへ行った』第4章が始まりました

令和6年12月12日

本日から第4段が始まったのですが『「毎日1食」名古屋なら』『地方を離れ、炊き出しに長い列』のタイトルが目に付いたので、一気に記事を読みました。

書き出しは【名古屋市中区、名古屋高速道路の高架下の広場には、都市の暗部をくっきりと浮かび上がらせるような時間帯がある。生活困窮者を対象にした炊き出しが始まる午後7時ごろ、100人を超える行列ができ、温かい食べ物を受け取ってはさっと食べて去っていく。配食が始まって1時間もすると、元から何もなかったかのように静寂が広がる。彼らはどこから来て、どこへ帰っていくのか。】の書き出しに名古屋に集まって来る理由は何なのかと思いながら読み進めていくと、①『岐阜市では週1回がやっとの炊き出しが、名古屋では行われている。』との事が書いてあったので、私が38歳の時に児童養護施設の指導員を辞めて、今風の言い方で言うなら『フリーランス』として大学の非常勤講師や家庭教師をしている時に、大垣市婦人部を中心にした配食サービスの運転を買って出て参加させて貰っている時に、週1回の届から始まった時に私は「1回の配食サービスでは意味がないのでは」と正直に思ったので、毎日届けられるシステムになる様に関わっていたことを思いだしました。岐阜において週1回しか出来ないのは、食料の確保や人的確保に問題があるのだと思いました。

【50代の男性は、近くの公園に止めた窓が開かない車で暮らしているという。フォークリフトの免許を持っているが、何度面接を受けても採用を見送られてきた。「じきに60歳だから。資格だけ持っとっても何の意味もない。なるべく長く雇いたいからなんやろね」。】と就労意欲はあっても年齢がネックになっている。と言うミスマッチも現実にはあるようだ。介護職は働き手がいないのが大きな課題の中で、この様な現実があるのであれば、採用へのアプローチは出来ないものなのかとも思いました。一昨日の懇親会の席で、かつて私が所属していた児童養護施設の理事長さんに、高校を中退して仕事についていない子の中に、介護への道を進めて行く手立てを構築していきたいと熱く語りましたが、高齢者雇用や就職氷河期で門戸が開けていない方にも、介護の道を進めて行く事の大切さを今日の記事からも痛切に思った次第です。リピーターの皆さんからの提案もお願いします。

和合で芋煮会が実施されました。

令和6年12月11日

昨夜は岐阜市内のホテルに泊まる事になっていたので、2次会3次会と調子よく若手の法人経営者と飲み歩いたのでホテルを出るのが9時になってしまい9時30分に和合の施設に着くと玄関先のところに簡易テントを立てたりして職員が忙しそうに準備をしていたので「場所を変えたの」と聞くと「凄い雨が降ったので急遽場所を変えあました。」との事。青空が見えてきたので「雨が降らない様に雲切りの祈りをしたので大丈夫」と私が言うと「理事長が車から下りたら晴れてきましたね。」と私の乗りに追随してくれる職員がいて和気あいあいの雰囲気で一気に芋煮会モードになりました。薪は井桁の様に組んであり塩とお酒を釜戸の周りに振舞い点火式をしました。

薪は良く乾いていたので直ぐに燃え上がりそのタイミングでギャラリーが沢山になり、「木が燃えると暖かい」「お昼ご飯が楽しみだ」等と賑やかです。釜戸は2つあり、刻みと常食に分けての配慮がされていて刻みの方は量が少ないので早くに沸騰してきたので、大根、里芋、ゴボウ、サツマイモ、カボチャを次々に鍋に入れて煮込まれた段階でお汁を飲んでみると本当にまろやかな味になっていたので大きなボールに八丁味噌を入れてスープになったお汁を入れてかき混ぜて味噌を溶かしていきました。味噌を入れてギャラリーの方に味見をして貰うと「もう少し味噌を足した方がいいよ」との意見を尊重して味噌を追加しました。管理栄養士さんの計算では追加しなくても大丈夫だったのですが「今日は特別だよ。」と言いながら味噌を溶かしました。11時30分には出来上がったので各フロアに鍋に入れて持って行って貰いました。

それぞれの入居者さんは喜んでくだれたのは勿論ですが職員も喜んでくれてお代わりをする職員が続出だったとの報告に私も大満足でした。笑顔が見られた事は職員にとってもモチベーションが上がります。これからも笑顔いっぱいの施設になる様に職員一同頑張っていきますので宜しくお願い致します。

コロナ感染症対策が緩和されて

昨年まではなかなか出来なかった忘年会が今年はぼちぼちにですが実施される様になり、本日も15時から岐阜県社会福祉法人経営者協議会の理事会があり、引き続き忘年会が実施されます。

先月は21日、23日、25日と一日おきに飲み会があり、結構ハードだったのですが、何事も手抜きが出来ない性格ゆえ反省はしますが結構飲んでしまいました。

本日は15時までに岐阜市西柳瀬にあるホテルに行かなければいけないのですが13時30分まではしっかりやるべきことが入っているので車を運転して行かなければ間に合わないし、岐阜からの帰りが電車を降りてタクシーで帰るにしても関ケ原駅にはタクシーが1台しか待機していないので寒い中で待つのも大変なので(かつて雪の中で待っていた記憶があるので)理事会及び忘年会会場のホテルで泊まる予定です。

忘年会参加の方には特別割引があるので格安ですし気分的にも楽できますので泊まらせて頂きます。明日は和合の施設で芋煮会が行われ『火の番』をして入居者さんとワイワイ楽しみたいので自嘲しながら飲み会に参加しようと「今は思っていますが・・・。お酒を注がれに来たら『まめに』飲んでしまうだろうなー。」と思うといつもの口癖である『予定は未定であり決定ではない。』にならない様にしていきたいです。と言うのも最近お会いする多くの方に「理事長さんはお元気ですがお体を大切にして下さい。」と言われていて、この言葉は他人の口を使って母秋江さんが言わせているのかとも思っているので。

そうなんです。健康であるから元気に飛び回れるので。

凄い事です

本日『歌謡劇団 てるてる座 800回記念』のステージショーが本部施設において13時30分から行われます。ちなみに午前には垂井にある盲養護老人ホーム 優・悠・邑 和(なごみ)において799回目のショーを実施してから本部施設に来てくださいました。

昔から『継続は力なり』とは言いますが2010年4月に本部施設で旗揚げしてから800回のステージをこなされたと言うのは凄い事です。だって14年8か月での数字ですから。週1回のペースでステージショーをこなしている計算になります。2010年に設立された当時は色んな施設を紹介しながら言葉を選ばなくて言うなら『ぼちぼち』と言う感じでしたが、次第に噂が噂を呼びドンドンと依頼が来るようになり、その経過の中で『スコップ三味線』の世界大会で優勝してより依頼が増えて結果としては14年8か月で800回を重ねたと言う事の様です。

依頼が多くて調整が出来ないくらいの時は1年で100回をこなす勢いがあったのですがコロナ感染症の影響で依頼が受けれない時もあったので「もしも」と言う話をするのは如何なものかとは思いますが、敢えてさせて貰うのならコロナ感染症が無かったら今自分は1000回を超していたのではないかと思います。

   

本日は地元の『大垣ケーブルテレビ』が撮影に来てくれたこともあり、座長曰く「衣装に力を入れました。」と言われる様にいつも以上に衣装への拘りがありました。そんな中でいつもと違って際立ったのは座長のお孫さん(1歳8か月)が歌に合わせて体をリズミカルに動かしているのは感動でした。また、座員の皆さんが衣装を替えて出てみえるのに刺激されて私もドレスに着替えて『天城越え』を歌わせて頂きました。

 

すべての出し物が終わった時にお礼の意味を込めて「1000回を目指してますます頑張って下さい。」と話をしました。

衣装等の片付けを終えられたタイミングで『てるてる座800回記念公演』とチョコレートで書いて貰った大きなケーキでささやかなお祝いをしました。一言で14年8か月のお付き合いとは言えない様な充実したお付き合いをこれからも続けていきたいと思っています。

12月の優・悠・邑 和合の色々

令和6年12月8日

私が和合の施設長に就任したのが昨年の8月。つまり就任して1年4か月の間に、私の思いを理解してくれる職員が増えてきた事によって、入居者さんが目を輝かせて下さる様な企画が多く出来る様になってきた事の報告をします。

12月だけの話で紹介します。2日の『七輪の炭火で焼いた椎茸祭り』です。本部施設には当たり前の様に七輪があり、『秋刀魚』や『鮎』や当然の様に『椎茸』(山形県産の『松茸』を10キロ手に入れた事もありました。)等を焼いていましたが、和合には七輪も無い状態でした。11日には『芋煮会』を実施しますが、餅つきの時にしか使用していなかった竈(かまど)を使って、大鍋で色んな材料を入れての大胆料理をします。(竈での実績は筍の味噌汁作りで行っています。)19日には『クリスマス会』を、演歌歌手の山崎ていじさんを迎えて実施します。(この企画は毎年本部施設及び和(なごみ)でも実施しています。)今年のクリスマス会は、会場準備や入居者さんの応援参加にも力が入っています。そして30日には『餅つき大会』を実施します。この企画についても単に遠くから見ている企画からの脱却をしていき、ワクワク感を醸したいと職員共々考えています。

殆どが本部施設で26年間の積み重ねで出来たものですが、和合の施設でも実践出来るようになって、入居者さんに『目力』が出てきた様に思います。この様な企画は実施しなくても、何ら問題無いのでしょうが、「自分が入所したい施設」の為には必要なものと考えています。

昨年8月に就任して「私が入居者さんに出来る事」として、『お参り』と『カラオケ』を就任直後から実施してきたのですが、多くの職員が私の思いを理解できず残念ながら退職していく中でも、残った職員と新たに採用した職員が私の思いを理解してくれた結果だと考えています。これからも楽しい企画を実施して、より良い施設にしていきますのでリピーターの皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。

『人生にもしもと言う事はありませんが』PART 2

令和6年12月7日

(昨日の続きです。)四国遍路の歩き団参から帰ってからは人生が大きく変わりました。それは体質から変わったと思っています。と言うのは夏の団参を終えたその年の冬から、毎年冬には苦労していた『しもやけ』に一切ならなくなりましたし、よく鼻血を出していたのですがその様な事もなくなりました。但し、今でも時に高熱を出すことがありますが、これはオーバーワークによる結果だと思います。(この現象は母秋江さんが「ゆっくり体を休めなさい。」との警告だと考えています。)私の生き方としても大きく変わりました。

それまでの私は誰かの後ろからついていくスタンスだったのが、正しいと思った事に対して何事も積極的に行動する生き方に変わりました。その中から『相手を思いやり、その人に寄り添う事』を実践してきました。(時には正義感が強すぎて暴走して迷惑をかける事もありましたが、その都度、私を助けて下さる方がありました。)大学時代は大学の講義以外で色んな方に巡り合いました。その中でも色んなサークルに関わりましたが特に文化庁出身の祝(はふり)宮静先生には色んな体験の中で色んな事を学ばせて頂きました。

大学を卒業して2年間は父進さんの進めもあり教員生活を送ったのですが、私の正確には会わなくて教員を辞めて見事父進さんに勘当されましたが、今から考えると父進さんの思いやりと配慮だったと思います。勘当生活の5か月間は大学のサークルでご縁を頂いていた徳山村の語り部でアマチュアカメラマンで写真集を5冊も出された増山たづ子さんが経営されていた民宿で居候生活をさせて貰いました。そんな中その当時学校長をされていた馬淵先生が徳山村まで来て下さり児童養護施設を紹介して下さり初めて福祉に関わらせて頂く事になりました。

思いっきり児童養護施設の指導員を13年させて頂いたのですが35歳の時にアメリカ研修の機会を得て、在宅でのサポートに興味を持ち、38歳の3月で児童養護施設を退職して私の志を理解して頂いていた別の施設の当時施設長をされていた土屋先生の指導を受ける中で、その当時日本福祉大学中央福祉専門学校長だった吉田宏岳先生に巡り合い、私の志を理解して頂き私が社会福祉法人杉和会設立に対しても多大な支援をして頂き設立当初は杉和会の筆頭理事も勤めて頂きました。平成18年には全国老施協の当時の会長であった中村博彦先生にも色んなご教授を頂きました。

まだまだ色んな方のご支援を頂き今があるのですが、私の生き方は色んな素敵な出会いの中で今があると思います。一人が欠けても今はないと言えます。人生にもしもと言う事はありませんが母秋江さんが長生きだったら、今でも私は真綿に包まれていて何も出来ない人間だったかも知れませんし、姉光子さんが23歳で急逝しなかったら四国遍路の出会いもなかったかも知れません。と言う事で今を大切にこれからも頑張りますのでリピーターの皆さんこれからもよろしくお願いいたします。

『人生にもしもと言う事はありませんが。』

今の私が存在しているのは節目、節目に素晴らしい出会いがあったからだとつくづく思うので本日は自戒を込めてそのことについて書きたいと思います。

何と言っても最初の出会いは私を生んでくれた母秋江さんの存在です。

母秋江さんは『今須生まれの今須生まれ』で今須の顔役だった春吉じいさんの末娘で跡取り息子がいるにも関わらず分家を作り父進さんを養子に迎えると言う超ウルトラをしているのです。

そんな中で生まれた私は長男の末っ子でしかも虚弱体質だったので文字通り『溺愛』される存在でした。

そして私が生まれた(71年前)時代には我が家から200メートルも離れていない場所に関ケ原病院の付属施設として今須診療所があり、そこには本多先生と言う女医さんが住み込みの様な形でおみえになり、しかも我が家の川向うには伊藤つるをさんと言う看護職員がおみえになり、虚弱体質の私のフォローを全面的にして頂いたからこその今です。

母秋江さんは虚弱な私を真綿に包むように、しかも外的の存在はことごとく撃沈していく母秋江さんでした。

そんな母秋江さんが私が小学年の時に癌に侵され闘病生活をするようになってからは6歳年上の姉光子さんが文字通り母親替わりで姉光子さんも姉御肌で私をガードしてくれる存在でした。

そんな姉光子さんですが、私が高校1年生の10月に結婚をしたのですが、同じ関ケ原町内と言う事もあり、寂しいと思った時には会いに行ける状況がありました。

しかしながら、その姉光子さんは新婚半年後に突如くも膜下出血で「痛い、痛い」と言いながら急逝しました。と言う事で高校2年の1学期間は荒れた毎日でした。

そんな時に当時学校長をしていた父進さんは、私を起こる事もなく高校へ何度か謝りに来てくれました。そんな荒れた生活中、クマの様にがっしりとした体格の鉄砲うちの伯父さんが四国遍路に導いて下れて「人の役に立つことの大切さを教えて下さいました。(※明日に続きます)

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