朝、和合の駐車場で車を降りたら・・・。

耳を澄まさなくても鶯の鳴き声が聞こえてきました。それも鳴き続けていたので、しばらくその場に立ち留まって聞いていました。その時に事務所の職員が銀行に行く為に外に出て来たので鶯の鳴き声について声掛けたのですが急いでいる為か反応が今一だったのです。事務所に入って改めて鶯の話をすると「私も鶯の鳴き声を聞きましたが施設で鳴いているのは初めてです。」と言うので私は「だとすると吉兆だな。」と思った次第です。

本部施設では毎年春先になるとぎこちない鳴き方から段々上手になるのを楽しみにしていたのですがまだ鳴いていません。それは当然ですね。だって大垣市内では桜の花が満開に咲いているのに本部施設がある今須では蕾が固いような状態ですから「本部施設での鶯の鳴き声はまだまだだろうな」と思っています。

銀行から帰って来た職員にもう一度、鶯の鳴き声について聞いてみると「そう言えば鳴いていましたね」との反応でしたので改めて「人それぞれだ」と思うと同時に「人の事は言えないぞ。私だってそういう事に興味を持つようになったのは最近だから話題を強制すべきではないな」と思った次第です。『風流』と言う文化が日本から無くならないようにしていきたいと思っています。

最近の方の中には「花火の音がうるさい。」とか「運動会の練習は静かに出来ないか」等と言う方もあるように聞いていますが『風流』とか『風情』が無くなってしまって『無味無臭の世界』が良いと思っている人はいないと思うし、『お互い様の世界』でないといけない事も多くあるのが世の中だと思います。

『少しでも良かったなと思えることに幸せを感じる人でいたい。』と思う様になっている私がいるのですがリピーターの皆さんはこんな私をどの様に評価して頂けますか。

シャーミャーの違いはデカイです。

令和7年4月5日

何度かこのコラムに登場している我が家の猫の話しです。三毛猫のマルは食事の時はのそのそと歩いて来て食べ終わると寝ている姿しか見たことが無いのですが、もう一匹の真っ白な猫のおもちは機敏に動く活動的な猫で私の奥様かをりさんにはめっちゃめっちゃ甘えるのですが私がお酒を飲んで帰ってきた時に歯を剥いて威嚇した時に大きな声で徹底的に追いかけてからは私の顔を見ると歯を剥いて威嚇するので日課となっていました。

しかしながら、いつまでもこの状態では飼い猫としては居心地が悪いだろうけど、猫の方から歩み寄る事は無いと良識のある私は一代決心をして威嚇されても優しい声掛けに努めた結果撫でる事に成功した時には可愛いなと思った次第です。

そして今朝の出来事なのですが、私がお参りの為に5時30分過ぎに部屋を出ようとすると私を待っているようにしていたので部屋を出て行くと少しずつ後退りしながら猫部屋に入って行ったので部屋を覗くと座った状態でいたのでおはようと声を掛けるとミャーと鳴いて甘える様に喉をならすので可愛いいなと思い朝から嬉しい気分になりました。

その時思ったのはこれが飼い猫がくれる癒やしなのだと。ところが朝食を済まして2階に上がって行った時にはマルと一緒に寝ていたのに声を掛けるとシャーと歯を剥いて威嚇したのですが、ここは認認と声を掛けて頭を撫でようとしても大人しかったので、うん成長したなと思いつつ頭を撫でる事が出来ました。

うん、待てよ。成長したのはおもちでは私なのかもと思いましたが癒やされるなら良いのかと変に納得している私がいます。こんな私ですがリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

気が付いたら杖を着かずに歩いていました。

令和7年4月4日

朝のお墓参りを再開して4日目で、歩くのが当然の様に足が動いているので、歩きながら考え事をしていて「ふと」気が付くと、橋の上を歩いて「はっ」として私の状態を確認すると、「橋に杖がつかないように、杖の真ん中辺りを右手で持っている。」と言う事を理解しました。リピーターの皆さんの中には「何のこっちゃ」と思われる方が殆どだと思いますので、その理由を次に書きます。

私が初めて金剛杖を手にしたのは、高校2年生の夏休み期間中に四国八十八か所の土用団参に参加した時です。その時に教えて貰った事の一つが、「橋の上では杖をつかない。」と言う事でした。その訳は「弘法大師は今も修行の旅をされていて、夜露を避ける為に橋の下で寝てみえる可能性があり、橋の上で杖をつくと言う事は、杖で弘法大師を叩く様な事になるから。」と教えて頂きました。初めての参加の時は「つい、うっかり」と言う事で、何度も教えて貰う事がありました。初めての参加の時は1週間の工程で阿波一国の1番さんから23番までだったので、流石の私も最終日には橋の上ではつかなくなりました。それ以降は26歳までは、毎年春と夏の団参には参加していましたし、大学3年生の時には、滋賀信行会の内藤現会長と共に先達もさせて頂いたりしたので「橋の上ではつかない」は自然に出来る様になっていたと言う事が言いたかっただけの事だったのです。

そんな事を書いていて「ふと」思ったのは『私の当たり前が、全ての方の当たり前ではない』と言う事にも気が付きました。但し、「正しい事は教えていかなければ」と言う気持ちは変わりません。と言う事で『お節介』と言われてでも言い続ける私は『バリバリの昭和おじさん』であることも改めて自覚した次第です。リピーターの皆さん。「若山は面倒臭い奴」と思わずになが~~~いお付き合いを改めて宜しくお願い致します。

介護報酬改定は3年に1度なのですが・・・。

昨年(令和6年)4月に3年に1度の介護報酬改定が実施されたのですが、この1年の間に色んな状況が変わっていて対応に苦慮しています。

具体的にはこの4月からも色んなものが値上げされています。特に「令和の米騒動」と言われて政府が備蓄米の拠出を実行したものの米の値下がりにはあまり貢献出来ていません。

当法人は米については地元の農家さんとの契約をしているので2倍近い値上がり等と言う事は無く、美味しい米を安価に提供して頂いているのでそれ程の影響は受けていませんが、電気、ガスは勿論の事ですが食料品も軒並み値上がりしていますし、人件費については大手企業が軒並み大きく基本給の見直しをしています。しかしながら、当法人では、基本給の見直しを精一杯したいと考えていても公定価格の中で思い切った対応が出来なくて他の産業との格差は開くばかりの状況です。

しかも、昨年の介護報酬改定に合わせて実施された標準価格の見直しで、『居住費』については1日あたり60円のアップがなされたにも関わらず『食費』については変わりなしと言う事で「実態に合っていない」と思い全国老施協の会議の中でも厳しく問題視しましたが、その答えの「事業所では実質上がっていない。」との事だったので「どのようにしたら上がらない結果が出るのかの実態調査をすべきだ」と言う中で前にもこのコラムで書きましたが「行事食の廃止」とか「魚の切り身が小さくなっている」と言う事がわかり、「実際には標準額をどの程度上げるべきか」の調査の結果『標準額を300円は上げなければいけない』と言う結論が出たとの報告を受けました。

確かに厨房の委託業者は値上げの申し出が相次いでいると言う事を考えたら300円と言う数字が実態に合っていると思います。

それぞれの事業所が今の介護報酬で、利用者さんにしっかりとした対応をしていくには次回2年後の介護報酬改定まで待っている事は出来ないので、気が付いた人たちでスクラムを組んで国に対して理解して貰える運動を展開して、介護の質が劣化しない様にしていかなければと考えています。

リピーターの皆さんにもご理解が得られたら幸いです。

岐阜新聞の記事から

令和7年4月2日

本日の朝刊1面に『昭和は「活気と人情」 県民、60歳以上には「古き良き時代」』との見出しを見つけ、自他ともに『昭和おじさん』の私としては興味を持って記事を読ませて頂きました。その中で【特に、昭和期を長く過ごした戦前から昭和30年代生まれ(60歳以上)の世代では、「貧乏なのに心豊かだった」「隣近所と『みそ貸してお米貸して』の付き合いがあった」など、人情にまつわるエピソードがたくさん寄せられた。人間関係が薄れつつある令和の今、濃密な関係を懐かしく思うのかもしれない。さらには「給料は現金でもらえたので給料日はみんなウキウキしていた」「新しい時代への希望があった」など、今にはない社会の活力を感じさせるコメントも並んだ。

ただ、「セクハラ当然の時代」「男尊女卑」といった当時の価値観に対する憤りも多かった。一方で、子供の頃に昭和が終わり、主に平成を生きてきた昭和50~60年代生まれの世代になると、パワハラや根性論、社畜といったネガティブな言葉も表れた。「疲れ切った大人たち」「今と違って、何も気にせず自由に発言できた時代」「昭和は熱いのがかっこいいといたが、平成以降はダサいに変わった」。

現在30~40代と働き盛りの世代でもあり、比較してしまうのかもしれない。その反面、「働けば働くほど給料が増えた良い時代」「頑張った人が認められた」「パソコンなどもない中で創り出してきたのがすごい」など右肩上がりだった社会をうらやむような声も聞かれた】この記事を読んでいく中で「うんうん」と頷いて納得する事が多くありましたが、私が職員採用時や施設の全体会等で「頑張れば頑張った様な処遇をしていく」と言っているのは『昭和おじさん』故のことなのか。

でも「当然と考えているのは古い考え方で時代にそぐわないのか」と思うと「仮に私の考え方を軌道修正していくとしたらどの様に組織を活性化していくのはむずかしいな~。」と思いつつ「昭和的な考え方で何が悪い」と思っている私がいます。「だ、か、ら、是は是、非は非でやっていく中で背中で見せていくしかないな」と思っている私です。

だからこそ私は『昭和おじさん』なんでしょうね・・・。リピーターの皆さん、こんな私をどう思われますか。

朝のお参りを再開しました

私の性格が元々『軟弱』なので、何らかの理由で歩けなかった時があり、そのまま冬のシーズンに入ってしまいズルズルとお参りが出来なくなっていたのですが、本日から令和7年度は始まると言う事で昨夜に『固い決意』をして今朝は午前5時40分のアラームで速やかに行動開始。

ところが久しぶりと言う事で一先ずリュックサックに入っているペットボトル7本に水を入れようとしたところペットボトルに水が入ったままのものが4本もあり「古い水では申し訳ない」と言う事でペットボトルの水を捨てる事から始めて7本全部に水を入れリュックサックに収めてから玄関先でウォーキングシューズを履いてから金剛杖を持って玄関を出ようと思って「いけない、お賽銭を持っていない。」と言う事で小銭をストックしている入れ物の所まで行き、1円玉1個、5円玉1個、10円玉5個、50円玉1個のお賽銭と100円玉2個(護摩木代)をズボンのポケットに入れて家を出たのが6時5分と言う事で「久しぶりだと手際が悪いな」と思いながら出発しました。

6時を過ぎているので既に明るくて歩くのには丁度良かったのですが、金剛杖を持っている右手が冷たくて「まだまだ寒いな」と思いながらも「これまた修行」と歩いて行き、妙応寺の駐車場の奥にある『幸福地蔵様』の前で「久しぶりでごめんなさい。私がお参りしないと前掛けが曲がったままですね。しっかり直させて貰ってから久しぶりに抱きつかせて下さい。」と言ってお賽銭を入れてから「南無幸福地蔵様」と言いながら抱きしめさせて貰いました。幸福地蔵様でのお参りを終えて妙応寺の本堂でお賽銭を入れて護摩木代200円もお賽銭箱に入れてから護摩木の表に『心願成就 今須門前 若山宏』と書き、裏には『令和7年度杉和会の益々の繁栄を』と書かせて頂いてから書いてある護摩木の所に収めてから、般若心経を中心にしたお経を唱え、今須稲荷、常在不滅之塔、吉川家のお墓、六地蔵様と順次お参りしていったのですが湯飲みが汚れたままであったり、六地蔵様の線香の残りを入れる器の中に入っているのが散らかっていたりと言う事でしっかり時間がかかってしまいました。

最後に若山家のお墓に行き、春分の日には花を持って行きましたが朝のお参りは久しぶりだったことを詫びると共に毎日行きますと誓ってから家に帰ってきました。再出発になった日が新年度の初日であった事で今年度には色んな意味で良い展開が待っていると確信しましたのでリピーターの皆さん、これからの杉和会の動きにも注目して頂けると嬉しいです。

肩が重かったのですが

令和7年3月31日

信じて貰えるかは分かりませんが・・・。3月28日の事です。『28日』は不動明王様の縁日で、毎月28日には彦根にある『東福寺』の護摩供養に参加させて頂いているのですが、2月の護摩供養には参加出来なくて、3月になってから異常に肩が重くて気になっていたのです。その事を気にしていた時に、本部施設の事務所で西川課長が話している会話を聞いていて「そういう事か」と思う事につながりました。と言うのも、西川課長は長浜市にある滋賀信行会が主催する歩き団参四国遍路に小学生の時から参加していて、今も青年会の中心者として熱心に信仰しているのです。会話の中身は「先月の東福寺の護摩供養に行けなかったからか、肩が痛いけど、今日護摩供養に参加すれば楽になると思います。」と言っていたのです。私は先月の護摩供養に行けなかったのと肩が重いのが結びつかなかったのですが、「流石に西川課長は筋金入りの信者だ。」と思った次第です。

そして本日、28日の護摩供養から3日が経過した本日は「確かに肩の重いのが無くなっている。」と思ったので本日のコラムで書かして頂いた次第です。仏さんが罰を与える事は絶対にありませんが、『戒め』を与えて頂くことはあると思います。私は高校2年生の17歳の時から四国遍路のご縁を頂き、不思議な体験や理屈抜きで助けて頂けた事や、素晴らしいご縁を頂いたものとして、西川課長の話は真摯に受け止めた次第です。リピーターの皆さんに信じて頂かなくても大丈夫ですが、昔から『事実は小説よりも奇なり』とも言いますので。

社会福祉法人杉和会理事長として

1997年7月17日に社会福祉法人杉和会の認可を当時の岐阜県知事から頂き、28年の月日が流れる中、初代伊藤憲治理事長の逝去に伴い理事長に就任して20年以上の年月が経過しています。

その間に優・悠・邑 新館、優・悠・邑 和合、盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の建設と事業運営の責任者として『地域の高齢者福祉に貢献する』と言う大命題の中でブレ無く頑張ってきたつもりです。

勿論、山あり谷ありで今も『物価高』と『人材確保と育成』に苦慮しながらも『入居者さんファースト』『地域ファースト』の中であっても職員がやりがいを持って働ける様な組織である様にと言う理念の基での展開に努めています。

昨年4月の介護報酬改正に伴い『居住費』については標準単価が1日当たり60円上がったにも関わらず、『食費』については『ゼロ解答』だった事に私は「世間一般において諸物価が値上がりしている中でどうしてゼロ解答だったのか」と大いなる疑問を持ったので、全国老施協に対して投げかけたところ「全国事業所の食費の収支に差異が無い。」との回答が返ってきたので「これだけ色んなものが値上がりしている中でどんな努力がなされたのか」と調べて行く中で『行事食を廃止したり』『魚の切り身を小さくしたり』と言う事例が多く出てきた中での収支差無しと言う事が分かりました。

私はその回答を得た時に「事業所として節約は大切だけれども入居者さんに不合理を求めてはいけない。行事食を無しにする事業所ならば楽しい企画も削減しているのではないか」と思うと『本末転倒』の考え方だと思った次第です。

私は社会福祉法人杉和会理事長として『優・悠・邑(すべてにやさしく、いつまでもゆとりある、やすらぎのばしょでありたい)』と『今日一日楽しかったよ』の基本理念を構築できるような舵取りに頑張りたいと考えています。

唐突にこの様な事を思ったのは本日13時30分から当法人の評議員会があり、令和7年度の方向性を決める大切な会議があるからです。

米の値上がりで国がどんな手を打つのかと考えていたら

『米を巡る現状』の分析がされているものに5つの課題が明記されていました。

  • 消費の減少・・・一年に一人当たりの消費量が51.1キロ
  • 自転車操業・・・コスト高で稼げない
  • 生産者が減少・・・20年で半減
  • 平均年齢69.2歳・・・後継者がいない米農家が7割
  • 農地も減少・・・年々東京ドーム5.300個分の農地減少

『どうする?日本の農業・・・稼げる仕組みを後押し』

  • 農地を集約・大区画化して効率的に
  • 海外の売り先を開拓
  • いかに生産コストを減らせるか

以上が専門家による分析だとは思うのですが、『米を巡る現状』に示されている5つについてはかなり前から言われている事に対して何らメスが入っていない現状だと思っています。

『米作り・農業』が魅力ある職業であれば若者が担ってくれると思うのですが、そのような対策が行われてきたとしても大した成果が出されていないのだと思います。

一旦は地元今須を離れて『専業農家』で生活されている若者が戻ってきました。

その若者に話を聞くと「都会での生活は給料は良かったけれども生活は楽ではなかった。」と言う事と「せっかく作ったお米が間違いなく売れる根拠があればやりがいを持って頑張れる」との話があったので当法人の米は3施設共に地元で生産した米を現在の市場価格よりも安価で美味しいものを提供して頂いています。

提供して頂いている農家の方は「確実に供給量を見込めるので有難い。」と言って貰っています。

今までは売れない米を買いたたかれてきた歴史があり、だからこそ『青田刈』『減反政策』等と言う愚策がまかり通ってきたのだと思います。

日本の米は『安心・安全で美味しい』と言う事を世界にアピール出来る事を国の政策にしていけば『魅力ある業界』として心ある若者が担ってくれると思います。

農機具は高い割に生産性が無い『自転車操業』では無いものの確立が望まれていると思います。

「米が高くて困る」との意見がある今だからこそ真剣に考え、米や野菜の自給率を上げて行かないと『住みよい日本』の姿は無くなってしまうのではないでしょうか。

だって私が住んでいる『今須米』は本当に美味しいですから。

父進さんの事を書きます

令和7年3月28日

いつものようにベットから跳ね起きる前に(トドの様なお腹なので『跳ね起きる』と言う表現は違うかも知れませんが、私的にはそのように思っているのですが・・・。)、ベット上での体操をするのですが、今朝はふと父進さんが布団の上で体操をしていた時の事を思い出している時に「私は小学生の時まで、仏間8畳の部屋で、私が真ん中で両脇に父進さんと母秋江さんが川流れで寝ていたな。」と言う事と、私に部屋が与えられたのは、中学生になった時だったと今更ながら思っています。『川流れ』『自分の部屋が無い』と言う状態を考えていると『甘アマ』の状態が見えてきます。

『自分の部屋が無い』と言うのも、母秋江さんが自分の手元に置いておきたいとの現れだと、今は思っています。何故なら、私自身母秋江さんにべったりの生活だったので、自宅学習は母が傍にいないと出来なかったからです。国語の本読みをする時も、母秋江さんがいないとやらなかった為なのか、その頃の私は本読みが下手で、母秋江さんが苛々しているのが分かると涙が出て来て・・・。そんな事を思い出していて、もう一つ思い出したのは、小学6年生の時に行われた学芸会の時の事です。

私はお爺さん役を頂いたと言う事を母秋江さんに言ったら凄く喜んでくれて、衣装や付け髭も手作りしてくれていたので、「実はセリフは無い」と言えなくなってしまったのです。当日に見に来てくれた母秋江さんは、家に帰ってから「お爺さんらしい姿になっていて上手だった。」と褒めてくれたのは今でも鮮明に覚えています。そんな私が今は3つの施設を経営している法人の理事長でいるのは、母秋江さんも父進さんも想像すら出来なかったと思います。

天国にいる二人は今の私の生き様に安心しながら「宏は頑張っているな」と思っていてくれていると思うのですが、二人には一杯迷惑はかけたし、世話になったのに親孝行らしい事はは何もできなかったので、入居者さん、利用者さんに精一杯の事をすることが『親孝行の代わり』と言う気持ちで、これからも頑張って行きたいと考えています。

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