仲が良くなれない我が家の猫の話しです

若山家の初代飼い猫は『リット』と言って20年も生きてくれた猫で、最後の1年は私が盲養護老人ホームの厳しい経営状況で眠れなくて寝ついだと思ったら寝汗をかく毎日の中で、ご主人さまの心情が理解出来た為か、私が布団に入ると布団の上に乗って来て私が足で布団を持ち上げたり下げたりするのをお互いに楽しめる関係になって癒してくれました。それまでの関係はと言うと私の車のシャッターが上がって行くと慌てて2階に退避するような関係だったのですが・・・。

残念ながら可愛くなって1年で死んでしまい新たに来た猫が『おもち』だったのですが、私が『チュール』と言う棒状の食べ物を差し出す時のみ近づいて来るのみで「本当に可愛くない」と言う関係だったのですが、ある日、お酒を飲んで帰って来た時に出合い頭に『おもち』に会ったら牙を剝いたので徹底的に大きな声を挙げて追い掛け回してからは『チュール』で誘っても牙を剥く関係になってしまいました。

その『おもち』が玄関から逃げてしまい半年以上戻ってこなかったので新しく『まる』と言う猫を飼いました。『まる』が我が家に来たときは可哀そうなくらいに痩せていたのです骨格はしっかりしていたのに5.5キロでガリガリだったのですが、我が家に来てからの生活は餌を食べている時以外は寝ている様な猫で今では堂々の8.5キロです。新たに『まる』が来てから間もなく『おもち』を保護して頂いている事がわかり今は2匹の猫が我が家にいるのですが、2匹ともオスなのですが、いつもくっついて寝ています。私が近づくと『まる』は何もなかったかの様に寝ているのですが『おもち』はあいからわず牙を剥いて威嚇をしてきます。私が追いかけたのは1回だけなのですが余程その時の事が怖かったのかも知れませんが餌の提供者は私なのに、そんなことは関係なく威嚇されています。今も私が玄関を入って行くと1階で多分のんびりしていたのに私の顔を確認すると2階に一目散と退避する毎日です。いい加減仲良くなっても良いと思うのですが・・・。

 

私も牙を剥くのを面白がっている内は駄目何でしょうね。

魅力ある生き方をされている『玉村豊男』について

令和7年3月6日

週刊現代に連載されている『なりゆきまかせの 老年計画』3月8日号を読んでみて魅力ある生き方をされていると思いましたので紹介します。【(冬の鍋の話があった後の会話があり)「やっぱり温まるね」「寒い日はやっぱり鍋ね」そう言いながら、絶えず卓上のティッシュに手が伸びる。「温かいものを食べると鼻水が出るね」「昔はそんなことなかったよね」「最近はすぐ出る」毎日老人3人で食卓を囲んでいる。年齢を合計すると、今年の秋には3人で225歳になる勘定だ。

たしかに、鍋を食べながらしじゅう鼻をかんでいる若者など見たことがない。自分たちだって、若い頃は鼻水なんか出なかった。鍋に限らず、温かいものを食べるとなぜ老人は鼻水が出るのだろう。食べ終わった食卓の上には、ティッシュの花が咲いている。(中略)老人3人が乗っているクルマに、後から若者が乗り込んでくると、フロントグラスがフワッと曇る。「さすが若いね」「グラスが曇るからね「爺さんと婆さんじゃ曇りもしない」きっと私たちも、昔はフロントグラスを曇らせるほどの熱気を放っていたに違いない。

悔しいから口を丸めてハーっと息を吐いても、フロントグラスまで届かない。(フランスに遊学された時の下宿の主のお母さんの紹介があります。)このお母さんというのが見た目にも相当インパクトのあるお年寄りだった。なかば禿げて乱れた白髪に、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡。着古した粗衣をまとって、いつも暖炉の斜め前方に陣取っていた。

暖炉の火の勢いが衰えると、手もとにある炭入れからコークスをシャベルで掬って暖炉まで運ぶのが彼女の役割だった。椅子から立ち上がって、暖炉の火床にシャベルの先が届くまで、5歩か6歩。この数歩の間、彼女はかならずおならをしながら歩くのだ。一歩進むとプッ。もう一歩進むとプッ。プッ、プッ、プッ、プッ、プッ。毎日、毎回、往きだけで帰りはしないのだが、そのリズミカルな連動に感心すると同時に、まだ若かった私は不愉快な未来を見たようにうろたえた。そうか、歳を取るとこんなふうになるのか・・・。

ケンブリッジの夜を思い出したのは、つい最近、歩きながら無意識のうちに連続しておならをしたからだ。あれ、俺もとうとうあのお母さんになっちまったか。ひとつひとつ、着実に老人の兆候を重ねていく。小便が近いのはだいぶ以前からだが、最近、トイレにたどり着いてパンツの前に、我慢できずにチビッと漏らしそうになることがときどきある。去年までは我慢できたのに、その我慢が利かなくなってきた。このままだと、尿漏れパンツ界隈に突入する日も近い。】

※本日は殆ど玉村豊男さんの文を書き写しただけなのですが、私はお陰様で71歳の今も色んな出来事があり走り回る様な毎日ですが体の変調は頷くことがあり(どれとは言いませんが)この様に自分の中で起こっている事をすんなりと、しかも理路整然と書けるのは素晴らしいと思いました。玉村さんと私の共通点は「自分がしたいことをさせて貰える環境に恵まれた事だ」と思うと『感謝』以外の言葉は出てきません。

※玉村豊男さんの紹介・・・1945年東京都生まれ。大学(東京大学)在学中にフランスに留学し、世界を旅する。帰国後、エッセイストとして活躍。その後、長野県東御市に移住し、ワイナリー「ヴィラデストガーデンファームアンドワイナリー」を設立する。著書に「料理の四面体」「男子厨房学入門」など多数

介護労働安定センターの研修及び懇談会は為になりました。

令和7年3月5日

14時からの開始だったのですが、30分前に会場に着いたので支部長さんを始めスタッフの方にご挨拶をして、グループに分かれての席も決まっていたので、グループ一番乗りでグループの方がみえる度に名刺交換をして、14時になるまでグループの参加者とお話をしながら待ちました。

定刻になり、開会の挨拶に続いて支部長の挨拶後に講演になりました。社労士さんで、労働争議を専門にされている方だったので、現実に起きている話でしたので今後に参考になる話だったと思いました。印象に残った事例としては、退職届けを代行する会社があると言う事で、そんな話を聞いた事はありましたが、現実の話として聞くと最近の方の中では帰属精神の希薄化か進んでいるのだと思うと、私の考え方は昭和の時代なのだと自覚しなければいけないのだと、思わざるを得ませんでした。

次に退職勧奨をする時に、高齢者のかたの中には「まだまだ働ける」との思いの方があり、理解を得る為の書式を頂けましたが、介護事業においては高齢者も貴重な人材と言う考え方があるのですが、事業主と働き手で思いが違う事もあるので、そんな時には当然ながら、丁寧な対応が必要だと言う事を再認識した次第です。その他にも書式で参考になるものがあったので、大切な資料とさせて貰う事にします。

講演のあと15分の休憩後にグループ討議の時間になり、参加者の方は皆さん経験豊かな方ばかりで活発な話になりましたが、話題の中心は人材確保と育成についてでした。グループ討議も終了してまとめの案内があったのですが、誰も手を挙げる方がなく、司会者から私が指名されたので素直にお引き受けしました。その中で、「講師の先生の話は貴重なものだったのですが、資料にページを付けて頂けると有り難い」との話をしたところ、参加者の皆さんも同じ考えだったのか「良く言ってくれた」と言う雰囲気が伝わってきて、講師の先生からも「次回からその様にさせて頂きます。」と言って下さいました。

まとめの話は閉会の挨拶の様にさせて頂き、私の役割は果たす事が出来ました。終了後に講師の先生のところに行き、改めて名刺交換と共に豊橋からみえたとの事だったので、豊橋にある大法人の話を振ると大いに盛り上がりました。講師の先生と話をしていると参加者の方は皆さん帰られたので、支部長さんを始めスタッフの方に挨拶をして会場を出ました。

持つべきはネットワークです。講師の先生を始め名刺交換をした方との関係作りをしっかりとしていきたいと思っています。こんな生き方なので、毎日が充実しているのだと自画自賛している私の事を、リピーターの皆さんはどう思われますか。

情報交換は大切な事ですので

令和7年3月4日

昨日、岐阜県老施協事務局長から「『岐阜県高齢者安心計画作成・推進会議』の意見書の提出が出来ていない。」との連絡を頂き「忙しさの中で失念していた。」と言う事で、朝早くに本部施設に行き資料を開こうとしたら「期限切れで開かない」と言う事で「県庁の交換を通してだと8時30分まで待たなければいけない」と言う事で、直通の番号に連絡すると対応して下さると言う事で、早速にメールで送信して下さり、資料の文字が小さいので拡大鏡を駆使して(情けない話ですが)資料を読み、私なりの意見書を取りまとめさせて貰いメールで送信して、ホッとしながらコラムを打っています。

職員には「どうせしなければいけないものなら、早めにやって提出しなさい。」と言っている私が、期限に遅れてあたふたと意見書を書いたことに、大いに反省しています。

いまコラムを書いているのは、14時から介護労働安定センターの賛助会員との情報交流会が岐阜であるので、昼食を食べて出掛けて、交流会の対応をしてからではコラムが適当なものになってはいけないと考えたからです。

さて、標題の通り『情報交換は大切です。』の話ですが、自分一人の考えで突き進むのは視野が狭くなってしまうからです。なおかつ、先般実施された上智大学グリーフケア研究所の実習を、和合の施設で行って頂いた時に『傾聴の大切さ』を改めて認識したからです。介護事業を実施されている賛助会員の集まりですから、色んな意見や提案がある事を楽しみにしています。また、新たな出会いが産まれる事も楽しみにしています。私は多くの方々との出会いを大切にしてきて今があると思っているので尚更です。今日の出会いについては、明日のコラムで書けるような出会いがあればとワクワクしています。リピーターの皆さん、私はこんな人間なのですが今後共よろしくお願いいたします。

和合に向かっている時に流れて来たラジオの情報から

令和7年3月3日

最近の寒暖の差についての話がありました。話題になるはずです。東京では昨日の最高気温が『22℃』だったのに本日は雪が降るかもとの事ですから、『15℃』以上の寒暖差は体に応えますが今の季節の現実です。

そこでラジオから流れて来た投稿者の話として「冬から春になる時に20℃の温度で『暖かい』と感じて夏から秋になる時に20℃の気温の時には『涼しい』と感じるのは不思議な感じがします。」との意見にパーソナリティの方が「体が慣れてくるとそんな感じですね。」とサラッと言われたので、「確かにそうなんだろうけど、人間の環境に合わせる事が出来る能力は凄い。」と改めて思いました。

野生動物に目を向けると季節の変わり目に毛が生え変わったり、極冠の地に生息している動物は厳しい状況に合わせた生き方をしている。そんな事を考えながら思い出したのが『南極物語』でした。その物語は南極観測船『宗谷』の為に参加した15匹の犬を南極の地に置き去りにしていて、再び南極観測船が南極にいった時に過酷な状況の中で『タロ』と『ジロ』が生息していたという感動の物語です。

『生きる』と言う事は過酷であると言う事なのでしょうが、最近の日本の気候は昨年の夏は40℃前後の日が長く続き、今年の冬は地域においては豪雪に見舞われと大変な状況ですが人間には『知恵』があり、寒暖の差に合わせた衣服の調整やカイロを身に着けたり、適宜冷暖房を調整したりして過ごします。とは言え、最近の寒暖の差は体に応えますが、体を順応させていくしか無いのでリピーターの皆さんも頑張ってこの状況を凌いで頂ければと思います。

『わざみの会』に参加して

令和7年3月2日

年に1回開催されている『わざみの会』に参加しての報告を、このコラムでさせて頂きます。昨年まで元気に参加されていた長老格であった今村元校長先生が参加されていなくて、「私がお世話になった元校長先生は誰も参加されていないのは、私がPTA会長をしていたのは30年近く前なんだから止む無しか。でも、新たな人間関係を構築するのも大切な事だから、出来る限り参加させて貰おう。」と思った次第です。

予定の16時より若干早かったのですが、参加者が全員揃ったと言う事で会員総会が始まり、事業報告、決算報告の説明があり、承認した後、役員の改選が行われ、ここでも新しい体制のうねりを感じました。総会終了後来賓の関ヶ原町の町長、副町長、議長、教育長の来賓の方も交えて、先ずは教育長からの説明があり、その話を受けて関ヶ原小学校長、関ヶ原中学校長から現状と今後の方向性等についてのお話を受けました。その話の中心には生徒数が右肩下がりで、複数学級は無くなり単学級ばかりになるとの説明のなか、小学校と中学校の関係をより密にしていきながら、人数が少ない事によるメリットを生かしていくとのお話も頂きました。

その後は懇親会になり、私も色んな方とお話をさせて頂きました。特に町長さん、副町長さん、関ヶ原小学校長、関ヶ原中学校長さんとは、建設的な話が出来ました。その中でも両校長先生と3人で話をしている中で、かつて実施していた『二泊三日のワークキャンプ』の話題では両校長先生と話が盛り上がり、私の立場では、実施出来るのであれば全面的に協力する事も話をしました。また、垂井にある盲養護老人ホームも含めての交流が出来る事によって、子どもたちの情操教育に寄与出来たらとの考えも熱く語りました。

施設は地域の中に存在して、地域貢献との連携は大切な事だと考えていることも熱く語りました。また中学校長さんは児童相談所にも出向されていたとのことで『現場力』『実践力』のキーワードでも盛り上がりました。どのような機会も大切にしなだら今後もエネルギッシュに頑張っていった事をこのコラムで赤裸々に語っていきますので、リピーターの皆さんこれからもご愛読よろしくお願いいたします。

本日16時から『わざみの会』が行われます

令和7年3月1日

『わざみの会』とは関ケ原町内の小中学校のかつての校長先生とPTA会長の年に1回の親睦会です。かつての校長先生の中には90歳を超えてお元気に参加される方もあります。私は平成8年度に関ケ原町連会長(今須小学校会長)を、平成9年度は岐阜県連副会長(西濃地区会長・今須小学校会長)をさせて頂いたのですが、この時期は社会福祉法人杉和会の法人認可(平成9年7月17日)を当時の岐阜県知事から頂き、翌年に特別養護老人ホームの竣工及び事業開始を控えている頃だったので『ワクワク感』一杯で飛び回っていたので(あれから27年が経過していますが今も飛び回っていますが・・・。)PTA活動も精力的にしていたので思い出が一杯あります。

『わざみの会』の歴史は古いのですが、PTA活動の現職時代から余程の別件が無い限りは参加させて頂いていますので、私よりも古参の方は数える程になっているのが現状です。私が基本的に欠かさず参加させて頂いている理由の一つに、私の父進さんの事をご存じのかつての校長先生が父進との思い出話を聞くのも楽しみですし、そんな時のかつての校長先生とお話をしていると父進さんとお話をしているような錯覚すら覚えてしまいます。

その他にもPTA会長をされた方々の中には町会議員さんや商工会の会長さんなど今も関ケ原町の為に貢献されている方々ばかりなので、その様な方々と意見交流が出来るのも楽しみの一つです。PTA活動を2年させて頂いている時のご縁で、前の市長さんとも交流が出来ましたし、何より和合の施設を計画した時には、その当時の西濃地区会の方々に色んな意味で支援して頂きました。

勿論、打算があったわけではなく、ご挨拶をすると30年近く前の出会いではありますが、「あの頃は・・・。」との話になり「若山さんの頼みなら出来ることはさせて貰うよ」と力強く言って貰えたのは本当に有難いです。私も特別養護老人ホームを今須の地でさせて頂いた事によって少なからず『地域貢献』が出来ている事を再認識する事ができる本日の『わざみの会』にこれから参加出来ることにワクワクしています。この様な状況にある事に『感謝』です。

少子高齢化がますます深刻な問題になっています

高齢者の生活を支えるべき就労人口がどんどん減っているのには目を覆う様な状況があります。

文字通り日本が世界の中で元気だった時代には多くの子どもが産まれ人口も右肩上がりで『作れば売れる』時代だったと思います。

人口動態を研究している方の話として『人口を1億2千万人にするプランは出来ていて目標達成は出来たけれど、達成した数字を維持する為のプランがなかった。』と言う話しには唖然とするばかりです。

昔良く言われた言葉に『貧乏の子だくさん』と言うのがありましたが、今は子だくさんの家など日本の何処を探しても無い状態です。

どうしてなのかと私なりに考えてみるに、農業を例にとると米作りに多くの手を借りていた時代には多くの子どもが戦力になっていた。つまり『貴重な働き手』だったのです。(今は機械で行われるので働き手は必要無いのです。)

また、今の子どもに対しては教育費に多くの費用がかかる現実があり、「子どもは一人で、少数精鋭で行く」との考えになっている。と言う事なのかと思います。中国で一時期『一人っ子政策』が取られた事がありました。私は「全くの愚策」だったと思っていました。

だってそうでしょ。子どもは夫婦2人が存在するから子どもが産まれるのです。と言う事は単純には言えませんが30年で1世代と考えると30年で人口は半分になってしまうのです。

日本が繁栄していたのも子どもが多く産まれた時代です。

今の人口を維持する為には夫婦で最低2人の子どもを作らなければいけないのに現実は程遠い数字です。

嘆いていても何ともなりませんので、多くの子どもが産まれても大変ではない日本にする為に何をなすべきかをリピーターの皆さんと共に考えて行ければと思っているのですが・・・。

リピーターの皆さん『3+4』の答えはご存じですよね

「何を聞いているのか」とお怒りの方もおありかも知れませんが、だったら、答えが『7』と言うのを「いつ覚えましたか。」と再び聞いたらリピーターの皆さんはどの様に答えられますか。

リピーターの皆さんの中には「失礼な事を言うな」と言う方も多いと思います。しかしながら私が児童養護施設児童指導員の時に中学2年生で繰り下がりの引き算が出来ない男子がいた現実を知っているからなのです。その時にはどのように対応したら良いのかが分からなかったので『教育者としての大先達』である、父進さんに頭を下げて教えを請い、父進さんのネットワークを駆使して貰って対応しました。マンツーマン指導を徹底的にしていく中で半年近くかかりましたが四則計算をクリアして中学1年生で学習する素因数分解の問題が解けるまでになりました。ある程度問題解決した段階で私は「どうしてこの様な事態になったのか」と考えてみました。その時に理解した事は小学1年生の時に算数の宿題で計算カードを親に聞いて貰って確認印を押して貰う様な事がある事を思いだしました。

その当時中学2年生だった男子は施設に小学3年生の時に来て、同学年には複数の男子がいたので、宿題などは同級生のやったものを写していたのではないかと言う事と施設に来るまでは親が子どもの勉強に全く興味が無かったからだと言う結論に至りました。その時の私は2つの事に怒りを覚えました。1つには子どもの教育に責任を持たない親の存在、2つ目は小学3年で施設に来た子に対して何も気が付かなかったのか、それとも気が付いていながら何も提案・実践しなかったのかと言う事です。

リピーターの皆さん、『子どもを色んな意味で育てるのは当たり前』と私も26歳で児童養護施設指導員になるまでは思って育ったのですがそうではない世界もあると言う事でその様な事の対応をする専門職の方の養成もしっかりしていかなければいけない事を今も思っています。38歳で児童養護施設指導員を辞し厳しい児童の現実と向き合おうとしたものの生計を立てることが出来なくて高齢者へと種別を変えて30年近くになるのですが今も、手を差し伸べて生計を立てられている存在について聞いた事がありません。私立高校までの無償化に予算を付けるのであれば、この様な現実に対しても光を当てて欲しいと思うのですが・・・。リピーターの皆さん、どう思われますか。

人間の進化について朝から考えていました

何の脈絡もなく本日のテーマについて朝から何となく考えていた事をコラムに書きます。「何の脈絡もなく」と書きましたがよくよく考えると先般のコラムで『京ことば』について述べていたことが原因かもわかりません。

本題に入ります。猿が胡桃の実を食べる時に石を使っているのをテレビの映像で見たことがあります。人間の進化の原点もここにあるのでは無いかと思います。猿と人間の進化の違いは私が思うに『火を怖がらず逆に活用したこと』と『言葉を上手く活用したこと』だと思っています。勿論、そんな単純な事では無いと思いますが私なりの考察をしてみます。(最も既に考えられていることかも知れませんが)狩猟民族は動物を捕獲するのに便利なものを工夫することから始まったのではないでしょうか。そして多くの狩猟が出来る中から「狩りに行くよりも柵の中で飼育した方が効率が良い」と考えて牧場の様なものが出来た。しかし、柵の中だけでは牧草に限界があるので草原に出て餌を食べさせる必要があり牧場から出て草を食べ終わった牛や馬や羊たちが間違いなく戻って来たかの確認をするのに数字の数え方が無かった時代には柵から出すときに石を1頭出るごとに1個拾い、帰って来た時に石を元の所に捨てる。或いは木に記しをつけて確認する等の方法で確認していたのだと思います。そしてその中から『共通な数』を理解していったのではないでしょうか。だから、目に見えない『0』を見つけるのはかなり後だったのではないでしょうか。石や木の活用をしないで大きな数字を計算する方法は中国の華僑の人たちは手の指を使って十万単位まで計算されたと聞いています。(ちなみに私も10までの数え方は知っています。)日本においても計算するための道具として『算盤』が活用されていました。算盤も『5つ玉』から『4つ玉』と使い勝手の良いものに改良されました。算盤から電卓になり、今ではスマホで便利に計算出来るようになりました。

私は小学生の時に算盤教室に通っていたので3級までは取得しました。だから、ある程度の計算は暗算で出来たのですが、電卓等を利用するようになり、暗算力は低下してしまっていると自覚しています。

つまり、便利になった分退化していることは一杯あります。例えば、電話番号を暗記しなくても良くなったり、車のナビの進化で道を覚えなくなったりと言う事で私自身退化していることを理解しています。また、科学の進化を遂げる最も早い方法は『戦争』だったと言う事ですがその最たるものが『ダイナマイト』だと思います。でも今は『ダイナマイト』を生活に役にたつ利用がなされていますし、ダイナマイトになるニトログリセリンを発見したノーベルはその時に得た資金を基にしてノーベル賞を創設して平和の為に活用しています。進化によって得たものを正しい形で使える様にお互いに見守っていく事も肝要だと思っています。

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