しみじみカラオケが上手くなったと感じています

10月1日に東京での会食の後に二次会のスナックで熱唱しました。

『しみじみカラオケが上手くなった。』と感じたのは決して自惚れではなくて事実だと思っています。

(久々の登場になるのですが)私の姉春子さんに言わせると「宏は小さい頃音痴だった」と今でも言われるのですが、勿論小さい頃は音痴だったとしても、社会人になってからは否応なしにお付き合いで歌う様になって少しは『まともに』歌えるようになって、長男が小学6年の時にPTA会長をさせて頂いた時の役員によるバスでの研修の時にバスの中で歌えた時に小さい頃の『対人恐怖症の赤面症は解消されたな』と感じてからは人前でしっかり歌える様になったのです。

それでも今のレベルでは無かったと思います。

東京で『しみじみカラオケが上手くなった』事について本日10時30分から和合においての実施された1階での『お参り』で正信偈と般若心経を腹の底から声を出して決して気温が高くない日(と言うより涼しい日でした。)でしたが、背中に汗が流れる程に気合が入っていて、その時に思ったのは「人前でけれんみ無く声を出せる様になったので発声の仕方が上手くなって声を自由に操れる様になったのかな」と自分なりに納得しています。

これは、いわゆる『相乗効果』と言う事なのかと思いつつ、1階の入居者さんに対して「お腹の底から声を出せるのは健康の源です。」と話していました。

余談になりますが10月1日に赤坂のお店で2回目の出会いであった赤坂芸者の生き字引の育子さんと親しくさせて頂けたのは歌が歌えて会話もスムーズだったから私のスマホで写真も撮らせて頂けたのだと思っています。

これからもお経とカラオケに磨きを掛けていきたいと思っています。

秋はやっぱり椎茸祭りですよね

秋の味覚の王様は『松茸』と言われていますが、なかなか我々の口に入るものでは無いですが『椎茸』であれは本部施設の近くに椎茸栽培工場があるので、手軽に手にはいります。昔から『匂い松茸味しめじ』と言う言葉がありますが、味においては『しめじ』に負けていないのが『椎茸』だと思っています。特に七輪の炭火でいい香りがしてきたところで醤油を垂らした『焼き椎茸』は、全く美味しいと思います。

今月10日に和合の施設で『椎茸祭り』を行うので予約の電話を入れると、「9日に5キロの注文を聞いていますが、この予約とは違うのですか」と言われたので「5キロで大丈夫と言う事は、盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)だな」と思ったので「和合の施設は5キロでは足らないので、10キロを改めてお願いします。」と言うと「何か所も大変ですね」と言われたので「3施設ともに実施しますから、本部施設からも近近連絡がいくと思いますので、宜しくお願い致します。」と言って電話を切り、本部施設の水野施設長に連絡すると「19日のバイキング料理の1品として予定しています。」との事だったので「和合と同じく10キロ頼んだら良いと思います。10キロあれば、職員にも楽しんで貰えると思いますよ」と話をしました。

和合の施設でも、本部施設で実施してきた七輪の炭火で焼くパフォーマンスを実施したいとの思いで、私が令和5年8月に就任してからは実施しているのですが、醤油の焦げた匂いと実際に食べて頂いた時の入居者さんの喜ばれているお顔は、私自身のテンションを上げてくれます。当法人も3施設になり、お互いの良さを見習いながら、切磋琢磨していけたらと考えています。

今年は秋刀魚が豊漁だとの事なので、秋刀魚も入居者さんに食べて貰えたらとも考えています。食べる事は元気の源ですから。勿論『食の充実』だけではなく、ワクワクする企画をドンドン提案して貰って、実施していきたいと考えています。当面28日には本部施設で、31日には『ハロウィン』の計画があります。さてさて私は何に変身させて貰えるか今からワクワクです。

イメージ通りの展開になりました。

令和7年10月2日

17時30分に全国老施協の本部のある平河町塩崎ビルで石川会長と合流することになっていたので早めに行って待つことにするため 17時には 会長室に着いたのですが すでに石川会長は お見えになっていたので 少し 想定外でしたが 逆に 石川会長としっかりと話ができたのでよかったです。話の内容は介護事業の置かれでいる現状に対して組織として何をすべきなのかと言う事です。

具体的には諸物価の値上げの中食費の対応が厳しい事に対してしっかりとしたエビデンスを示し厚労省や財務省と折衝すると共に政治的アプローチをしていくべきで会員施設に対してその流れを逐一情報として示していく必要について熱く語りました。そしてもう一つの大きな課題である職員の処遇についてです。と言うのも正に10月1日から最低賃金が6%を上がる事に対する手立てが何ら示されていない現実についても熱く語りました。

一般賃金との格差が8万3千円あり、今のままでは格差は開くばかりでますます開いてしまうと介護人材を確保する事がますます厳しくなる事についても熱く語りました。17時40分になり元老健局長と合流する事になっている赤坂見附のお店に移動して、食事会場は2階なので石川会長と随行の下元さんには2階に上がって貰い私は1階で元局長を待ち、おみえになったので2階にお連れして石川会長と局長との挨拶の後は食事をしながら話が盛り上がりました。

会長も局長も多方面の話題で最後には今度の展開についても決める事が出来ました。そして今は新幹線の中ですが充実した話について思い出しながらも本日13時30分から関ヶ原町役場での話し合いについての進め方について考えて行く事にします。予断ですが東京駅は外国人で溢れていて、新幹線の中も大きな荷物を持った外国人で一杯です。

びっくりです。

令和7年10月1日

本日は元全国老施協石川会長と元老健局長だった宮島さんと東京でお会いする事になっているので12時15分発のひかりに乗り込みホッとしたところです。

午前10時から特別支援学校の先生との打ち合わせがあり、その後パソコンに向かって自分自身の10月11月のスケジュールを打ち込んでから岐阜羽島駅に向いいつも利用している駐車場に入れようとしたら満車の赤い表示がしてあり、慌ててあちらこちらの駐車場にチャレンジしたのですが何処も満車の表示になっていて、かなり離れた所の立体駐車場に空きがあったのでバーを開けて結局屋上に空きを見つけて駐車して、エレベーターもないので急な階段を何とか降りて下までたどり着き、岐阜羽島駅まで結構歩き、乗車券を手に入れようとみどりの窓口前に行くと10人以上並んでいたので券売機に挑戦しようとしたら駅員さんがみえたので聞かぬは一生の恥とお願いしたら親切に操作をして下さり10分の時間が出来たのでコンビニに行ってお茶とおにぎりとサンドイッチを手に入れる事が出来今はゆったりと買ったものを食べながらコラムをスマホで打っています。

しかしながら、平日のど真ん中であるにも関わらず駐車場がこんなに賑わっているのはどうしてなのかと考えています。現岐阜県知事の江崎さんが以前、岐阜羽島駅周辺のホテルは東京や大阪と比べたらめっちゃ安いので岐阜羽島周辺のホテルに連泊していろんな所に移動して楽しむ外国人が増えているとの話を聞きましたがその情報は正に当たっていると言う事か。

確かに列車の中も半分以上が、外国人だ。外国人イコール悪ではなくとて、良識ある観光をして貰ったら日本にとって外貨を得るチャンスと捉えればメリットは大きいのではないでしょうか。日本の繁栄の為にお互いに何をすべきなのかを駐車場に空きが無かった事で考えてみました。

さて、本日の素敵なメンバーで素敵な展開になる様にこれからイメージトレーニングをする事にします。成果は明日のコラムで書く事にします。

昨日コラムで書いた『正面衝突』の詳細を書きます。

児童養護施設の指導員をしている頃の事ですので、かれこれ40年程前の事ですが、今でもかつて勤務していた施設では『ふれあい広場』が11月23日と決めて実施されていて、その当時『カニのプレゼントコーナー』と言う企画があり、高校生3人を乗せて長良川の河口付近の砂地の所に、いくらでもカニが獲れると言う事で向かっている時の事です。事故を起こした対向車が、事故直前に左側のガードレールにぶつかりそうになっていたのを、助手席の高校生と共に「危ないなー」とのんびり構えていたら、突然右に急ハンドルを切って、私が運転している車に正面衝突したのです。その当時の事なので、私も助手席の高校生もシートベルトなど装着していなくて、私はぶつかった瞬間はハンドルをきつく握っていて、ハンドルが曲がる程でした。しかしながら、助手席の高校生は捕まるものがなくて、精一杯の結果フロントガラスにかすかに当たったのだと思うのですが、目と瞼の間を切ってしまったのです。

事故の瞬間はコマ送りの様に私の目に焼き付き「大変な事になってしまった」と言う事で、身動きできなかったのを今でも覚えています。私がいつまでも動かないでいたので、助手席の高校生が「先生大丈夫」と気丈に声を掛けてくれたので「助手席の子が声を掛けてくれたので」と少し安心して助手席の子を見ると、顔中ちまみれの状態だったので驚きながらも、取り合えず私の持っていたハンカチを渡して傷の状態を見て「目は大丈夫か」と聞くと「大丈夫」とこれまた気丈に答えてくれました。40年前と言う事で携帯などと言う便利なものは無かったので、必死に堤防を下りて民家に飛び込み、電話をお借りして、救急車を呼んでから警察にも連絡をして、施設の上司にも連絡をして、上司には救急で運んで下さる事になって大垣市民病院に駆けつけて貰う事にして、私は警察が来てからの事故対応をすることにしました。

お互いの車の前輪は全部がパンク状態で、ゴムの焼けた匂いがすさまじかったのを覚えています。警察の事情聴取を終えて、大垣市民病院での処置を終えて、上司が現場に迎えにきてくれ(その間にレッカー車で車を運んで貰いました。)ケガをした高校生の顔を見て「目には異常がない」と確認した時には「大難を小難にして貰えた」と思うと「感謝」しかない気持ちになりました。私自身は、翌朝新聞を見ようとするとまともに見る事が出来なかったので、しばらくの間針治療に通って通常になりました。

40年前の事ですがあまりにインパクトが強い出来事だったので、今もしっかり記憶している事を書かせて頂きました。

ビックリしましたが・・・。

令和7年9月29日

昨日、和合の施設から本部施設に車を運転している時の事です。大垣市内の御首神社の交差点の信号が黄色になったのでブレーキのペダルに足が行った時に私の前を走っているクルマが全くブレーキも踏まない状態だったので「大丈夫なのか」と思っていたら、明らかに赤信号になっている状態なのに突っ込んでいったのです。当然の事ながら左側から青信号になったと言う事で車が動き出しました。その車は右折する為に徐行していたので右側から来る暴走車を確認したのでしょう、ブレーキを踏んで停まってくれたので暴走車は大きく右にハンドルを切ったので事故にならなかったのですがビックリしてしまいました。居眠りをしていたのか、うっかりされていたのかはわかりませんが、『つい、うっかり』と言う事であったり、眠い中で運転をしていた経験は殆どの方が身に覚えがあるのでは無いでしょうか。

私も学生時代に高速道路を運転中に確かに前を走っていた車を意識の無い状況で追い抜いていた事やこれも学生時代ですが工事渋滞で停まっているのに気が付くのが遅くて思いっきりブレーキを踏んでぎりぎりで停まる事が出来た事や10年ほど前に関ケ原インターチェンジで本線に入ろうとして走行車線に大型バスが大きな音で走っているのに気が付き慌てて元の車線に戻った経験があります。どれも事なきを得たのですが「もしも少しでも違っていたら」と思うと今でもぞっとします。

また、私が児童養護施設の指導員をしていた時に高校生男子3人を乗せて長良川の右岸堤防の道路を走っている時に夜釣からの帰りの若者の車が完全な居眠り運転で左側のガードレールにぶつかりそうになってから急ハンドルを切ってきて文字通り『正面衝突』をされ両方の前輪がパンクしてしまうような事故に遭遇しました。その当時はシートベルトの規制は希薄だったので助手席に乗っていた高校生はフロントガラスにぶつかり眉毛と目の間を切り顔中血まみれと言う状況で救急車で運ばれましたが綺麗に縫って貰い目への負担がなかったと言う事である意味事なきを得たのですが、その当時対応して下さった警察の方は堤防での衝突事故で同乗者が複数いたと聞いた時は死亡事故を想定したが怪我も大したことなかったと言う事で「奇跡的だった」とも言われた時には『神仏の存在』を知った思いでした。昨日は『ビックリした』と言うだけで済みましたが、改めて生きていると言う事自体が『奇跡』だと思ったしだいです。

岐阜新聞の記事から

本日岐阜新聞19面社会面『氷河期世代、転職は34回』の記事を見て尚且つ『47歳、生活保護は通院と母の介護費に』のサブタイトルを見て興味を持って記事を読ませて頂きました。

最初に【「全てが誰かのせいだとは思っていない。でも、これは自分のせいなのか」。

生活保護を利用し、県内のアパートで高齢の母と暮らす47歳の男性は1978(昭和53)年生まれの就職氷河期世代だ。転職を繰り返すこと34回。ほとんどが派遣労働だった。

履歴書には、さまざまな会社名と「一身上の都合により退社」が交互に連なる。

今なお、どこから歯車がかみ合わなくなっていったかを思う。

18歳の頃、縫製業をしていた両親の会社が傾いて、進学予定だった短大に入れなくなった。

「高校の卒業式を終えて家にかたら、電気とガスが止められていて。入学金が払える状況ではなくなってしまった」。

時給1200円のアルバイトを見つけて殆ど休みなく働き、月18万円ほどの稼ぎの多くを両親らが暮らす実家に入れた。(中略)25歳の頃、パニック障害とうつ病を併発し、職場を離れた。

「親からは怠けている、甘えていると見られて、家に居づらかった」と周囲の無理解を振り返る。

「無理やりでも働かざるを得なくなった。」と、心療内科への通院を半年ほどで中断し、製造業や物流工場、食品加工会社などでの派遣労働を転々とした。

(中略)昨年から、生活保護の利用を始めた。

医療扶助や介護扶助も利用し、自身は心療内科への通院を再開したほか、無年金の母は介護サービスを利用する様になった。

就労への思いはあるが、収入が基準額を上回って生活保護が廃止になると、医療や介護を受ける余裕がなくなる。

「正直、働いていた時より今の方が、まともに生きられていると思う」ただ、生活保護へのためらいはあった。

利用に当たっては原則、自動車を持っていると手放さなければいけなくなるというルールが引っ掛かったからだ。

乗り始めて10年たっていた車は、愛着があったが処分した。

「大切にしていた車さえ持てないなんて」。

坂の上にある自宅への帰り道を自転車で走りながら、今も、もやもやとしている。】

(※ 随分長い抜粋記事でしたが以下に私のコメントを書きます。)

47歳男性に焦点を当てた記事でした。

日本国憲法第25条には『全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国民はすべての生活面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない』との明確なルールがある。

第二次世界大戦で大敗北をした日本がいの一番に取り組んだ『貧困』が80年の月日の中でも存在している。

勿論色んな事情で「止む無し」と言う状況はあると思います。

そんな中で今回の事例の中で切に思うのは「何らかの期間に、或いは誰かに相談することが出来なかったのか」と言う事です。

人生に「もしも」と言う事は無いのですが、私の場合は困った時に相談に乗って下さる方があり、今があると思っています。

例えばの話ですが私が定期健診で『前立腺がん』が見つかった時、盲養護老人ホーム 優・悠・邑 和(なごみ)の施設の経営が最も厳しい時で、正直治療する気力もなくて半年ほど放置していた時に信頼している嘱託医の先生が「放置していてはだめだ。紹介状を書くので大垣市民病院に行きなさい」と背中をおして貰い放射線治療をした結果、ステージ2であったのが殆ど気にする必要が無いまでになりました。

「運が良かった」と言えばそれまでですが事実です。

本題に戻します。

人間同士の関係が希薄化しているのも立ち直れない大きな問題だと思います。

社会保障制度は文字通り『申告主義』である事にも課題があると思っています。

また、車の所有が基本的に許されていないのも就労意欲を阻害している様に思っています。

少し意味合いは違いますが、高齢者になり運転免許の返納が進んでいますが、免許返納によって行動範囲の縮小が進んでしまい心身の低下が進んでしまう事にもなっていると思っています。

就職氷河期の方が介護職に就いてくれて『ウインウイン』の関係になる仕組み作りをしていきたいと考えています。

満腹感の私なのであります

トホホの様な話なのですが、事実なのであります。これは胃袋がバカでかくなった為なのか?それとも胃袋が3つも4つもあるからなのか?とにかく満腹感がないのです。口を動かしていると際限なく食べ物を、あるいは飲み物を口に掘り込んでしまい、決して満腹感が無いのです。

まるでヤマンバと一緒です。食べても食べても満足感がないと当然のことながら 、体重は 際限なく増えていきます。 体重が増えすぎると足腰が大変です。 だから 食べないようにしたいのですが、 意思が弱い私は 際限なく 食べていたのです。 しかしながら 、このまま行くと歩くこともままならない状況になると大変なので、意思の弱い私ですけれども 2つのことを実行することにしました。

1つには、出されたもの以外は食べないようにすること。 もう一つは 、朝のお墓参りを再開することです。昨日 気がついたことなのですが 、余分なものを食べないで朝を迎えるとお腹が空く、という現象が起きました。 そして美味しくいただくことができました。 もう1つは 、本日 5時30分に目が覚めると 天気もいいので、 朝の散歩ができる条件が揃っていたので、エイヤーで起きて歩くことにしました。 久しぶりに出かけようとする時、 9本のペットボトルは空っぽであったので、我が家の水を 9本 とも 入れて 出かけました。 本当に久しぶりの 朝のお参りでしたので、 時間はたっぷり 1時間かかりました。

まずは 幸福地蔵様の花入れに水を入れると、2本の花筒でペット 1本分の水は必要でした。 本当に久しぶりに幸福地蔵様に抱きついて 、お祈りをしました。次に 、妙応寺の本堂に行き護摩木の御札によって 8月8日以来 お参りに行っていなかったことをお詫びして、本当に久しぶりに本堂での般若心経を唱えました。稲荷神社では、1円、 5円、 10円、 50円と、いつもと同じように お賽銭を入れ、 ここでも 久しぶりで あったことをお詫びしてから、祈りを込めて お参りさせていただきました。 次に 3仏のところでも 、お水換え と 花筒への水入れをさせていただきました。 観音様 、毘沙門天 王様、 不動明王様に手を合わせ 、ここでも 久しぶりであることをお詫びしてから、真剣に祈らせていただきました。

関ヶ原 与一様の五輪塔では、より強い願いを込めて祈らせていただきました。 次に無縁仏 様のところでは、一番 中央に設置されているお地蔵様にも 抱きつきました。六地蔵様では 、湯のみの中が汚れていたので一生懸命に 綺麗にさせてもらってから、水を手向けて 花筒にも水を入れ、 ここでも 久しぶりであることをお詫びすると同時に、できるだけ 朝のお参りが続くようにとお願いしました。 最後に若山家のお墓に行き 、湯のみに水を入れ 、花筒にも水を手向け、姉が嫁いだ家のお墓である 吉沢家、 かつての入居者さんのお墓 及川家、 大親友でお世話になっていたおじさんとおばさんのお墓である 柴田家にも水を手向けると 、ぴったり 9本のペットボトルの水はなくなりました。

本日は久しぶり ということもあり、 1時間以上かかってのお墓参りでしたが 、いつもは動きの悪い 足がスムーズに動いたのは不思議な現象でした。 やはり 運動量が絶対量足らないということを理解しましたので、 足が動く限り、 朝の目覚めが素敵な限り 、これからも頑張って 朝のお参りを続けて行きたいと考えています。

本日は、次男の嫁さんの誕生会をお昼に行います。 次男夫婦、 そして次男の長女 と長男の2人を入れて楽しみたいと思っています。これからも 爽やかな毎日が送れますように頑張って仕事にも励みたいと思っています。 こんな私ですが これからも コラム も頑張って書きますので、 リピーターの皆さんよろしくお願いいたします。

ああ言う終わり方があるのだと感心しました

何の話かと言えばNHK朝のテレビ小説『あんぱん』の最終回のお話です。

正直私は戦前の所は見ていないので本当の意味での評価は出来ないのでしょうが、敢えてコメントをさせて頂きます。

先ずは主役の『のぶ』の妹『蘭子』に前日の放送で明らかに婚約指輪を贈られた事に対しての答えがないままに終わった事に違和感を持ちましたが「こんな終わり方の方が色んな展開を考えられて良いのか」と思った次第です。

また、私にとって存在感が低いためか名前が出てこない三女のご主人がNHKを退職し「若い頃からの夢だったカレー屋さん」を始めたとの事でしたが「忙しくて」とのさらっとした説明だけでその後の展開は一切なくて私的には「おいおい」と言う感じなのであります。

また、「高知の旅行に行く」との設定はありましたが主人公『のぶ』に関わる3人の女性が写真でしか出てこなかったのも正直私自身は面喰いました。

しかしながら、1年かけて半年分の撮影をされているとの事ですが、よくよく考えてみるに最終的には『アンパンマンが世に出るまで』のストーリーなのですから枝葉的に出たものについていちいち説明するよりも視聴者の方々が想像を逞しくした方が楽しいのだと思った次第です。

しかしながら昨日の放送で主人公の『のぶ』が手術をするとの急展開を最終回の1回で「大どんでん返し」と「幸せな夫婦のハッピーエンド」には私的には『夫婦の素晴らしい絆』が醸し出されて「正直ほっとしました。」と言う総括です。

全体的な流れの中でつくづく思ったのは『のぶ』の旦那さんであるアンパンマンの作者は世の中で秀でていると言われている方々とのつながりには驚くばかりですが、今回の作品は実話に基づいたものだと言う事なので、改めて思う事は「色んな活動をしている中で多くのネットワークが出来ていると思うと私自身、これからも一生懸命な展開をすることによってますますそのネットワークを構築していきたいと思っています。

疲れがなかなか取れません

どれだけ寝ても疲れが取れないのです。寝ても寝てもなのであります。よ~く考えてみたところ、9月17日から20日まで、福岡県博多に3泊4日で出張に行かせて貰い、20日の日も本部施設でゆっくりする事も無く仕事をして、翌21日からは笑福亭伯枝師匠の落語会が和(なごみ)の施設で午前、午後は本部施設であり、その日の夜は笑福亭伯枝師匠を囲んでの懇親会があり、翌22日は和合の落語会が午前にあり、午後は岐阜県老施協理事会があり、終了後が和合の施設でトーカイ(株)の社長との面談があり、17時から本部施設においてのデイサービスの会議があり、翌23日は本部施設においての『千巻経』で、終了後は看護師さんの面接があり、昨日24日は、和合の施設において9時から消防署においての年1回の立ち入り(指摘事項は無しでした)があり、その後リモート会議ではありましたが、岐阜県主催の外国人材の会議があり、午後は元気に3階でのカラオケを実施して(やや声は枯れ気味でしたが、しっかり歌えました)、その後本部施設においての業務を粉しました。

と言う事で、出張に行った事を別にしても、確かに充実したと言うか過激なスケジュールをこなしていると、自分自身でも感心しています。小さい頃に虚弱で全く行動的でなかった反動が、今になってきているとしたら「人の一生は、確かに上手く出来ているな」と思っています。

最近のテレビの情報で『菌』と言うのは、『悪玉菌』と『善玉菌』がバランスよく存在しないと人間は生きていけないとの事です。つまり『悪玉菌』が全く存在しない状況になったら、人減は絶滅してしまうとか。と言う事は、私の小さい頃は母秋江が『悪』の存在を私に近づけ無い事をしてくれていたのです。勿論それはそれで有難い事だったのですが、その状況が今も続いていたら、今の私は存在していなかったと思っています。疲れが残っているとは言え、頑張れている事は有難い事です。

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