吉田宏岳先生との出会い以降のお話
児童養護施設指導員を退職してフリーになったと同時に、大垣女子短大幼児教育科の非常勤になり、週に2日は短大での講義と週3日の家庭教師の仕事の他に、不登校の中学生に対してフリースクールの様な形での展開の中で、不登校の親の会も主催していました。意気込みは凄いものがありましたが、実際には、若山家の家計は文字通り『火の車』状態でした。
そんな中で、月1回の割合で、名古屋鶴舞にある日本福祉大学中央福祉専門学校の校長先生であった吉田宏岳先生が主宰されていた『教育と福祉を考える会』と言う学会に、児童養護施設協議会でお世話になっていた先生に連れて行って貰い、最初の頃は大学の教授クラスのお歴々ばかりの中で、文字通り末席に座っていたのですが、ある時吉田宏岳先生のご自宅に行かせて貰い、吉田宏岳先生が真言宗豊山派の住職である事を知り、そんな中で四国遍路に吉田宏岳先生をお連れしてからは、何かと可愛がって貰いました。具体的に言うと、吉田宏岳先生からの声掛けにより、非常勤のコマ数は週13コマに増えて、大学等で使う教科書の執筆にも多く関わらせて頂きました。平成9年7月17日に社会福祉法人杉和会が認可された時には、筆頭理事も引き受けて下さり文字通り『後継人』の様な存在でした。
そして、最後の『師匠』は何と言っても中村博彦先生です。平成10年5月に事業開始をして8年の経過で、全国老施協総務委員会幹事に就任してからは「馬鹿じゃ、阿保じゃ、とろくさい」と言われながらも、官僚との接し方や業者との対応の仕方、将来に渡る展望の考え方まで、徹底的に教えて頂きました。この他にも言い出したら枚挙に事書きませんが、色んな場面で色んな方の協力を得てきたことは間違いありません。
この様に、色んな方にお世話になれたのは何故かと考えるに、例えば研修会に参加した時に講演をされていた方が、演台から降りていけたタイミングで名刺を持って挨拶に行き、親しくお話をさせて頂き、研修から帰ってから手紙を書きます。書いても返事が無い場合はそれまでですが、大抵は何らかのアクションを起こして下さいます。その後は何か聞きたいことがあると聞くようにしています。
最近も介護労働安定センターの理事長さんが和合の施設に来て頂いたので、私が執筆した岐阜新聞の『素描』と共に手紙を送りました。その後のアクションはこれからですが、楽しみにしています。私の生き方はこんなスタンスです。ご理解頂けたら嬉しいです。

