彦根東福寺の護摩供養での出来事
令和7年4月29日
昨日は28日と言う事で、彦根東福寺の護摩供養に参加させて頂く為、18時スタートなのですが住職の静慈彰師とお話が出来たらと思い、17時30分にお寺に着いたらお参りの方は誰もまだ来てなくて、静慈彰師とお話をさせて頂くことが出来たのですが、いつも元気に話をされる方なのですが、それ以上にテンション高くお話をされました。テンションが高かった理由は、話の内容から東福寺にご縁を頂いている女性の方が高野山での修行を1年されて、その中で『護摩供養の作法』も習得されたとの事で、本来住職である慈彰師が執り行う導師の役割を、一年の修行をされた方に慈彰師の言葉を借りると「護摩供養の作法を習得しても、実際に体験する機会はなかなかない。後進を育てる意味でも本日、私は補助に回って導師を勤めて貰う。」と自分の考え方に酔ったような話し方でした。
18時を少し回った時に、護摩壇の所に座られ慈彰師のやり方とはかなり違うやり方で進められ正直なところ、なかなか護摩木が燃えない状態もありましたが、何とか無事に執り行われたのですが、お参りに参加された私も含めた方が「なれない中で行われているので、お経はいつも以上に声を張り上げ応援しよう。」との気持ちでの参加でした。終了した段階で何らかの言葉を頂けるかと思っていたのですが、早々に退席されたのを受けて慈彰師がテンション高く話をされていたのですが、奥に行かれた3人の女性の方の声が聞こえて来たので、慈彰師が「少しコメントを貰おう」と見に行かれたら、何となく元気なく戻ってみえて「法衣から着替えられているので、本日のお参りはこれで終了します。」と先程までのテンションとは違うトーンで話されました。
その状況から、慈彰師の想いと違った事を察しました。私なりに理解した事を端的に書くと「女性3人の方が護摩供養の中心でされたのは良かったけれど、住職に代わって執り行う重さが分かっていない。しかも、終了してからのお礼の言葉も無く、奥の部屋で興奮気味に話をしているのは理解出来る部分もあるが、言葉を選ばずに言うのなら、大学のサークル活動で初めて経験した事を興奮しながら話ししているのと大差ないな。少なくとも、導師の代わりを勤めた重みを理解して、迷惑を掛けた事をお詫びする事をしっかりしなければ何の為の修行だったのか。」と思うと共に、慈彰師のトーンが下がった事を重く考えて貰いたいと思った次第です。