いつからなのでしょうか。私が何事にも一生懸命に頑張ることが出来る様になったのは・・・。
少なくとも、私は中学校を卒業するまでは痩せて色白で話すのも声が小さくて何につけても依頼心が強くて先生が投げかけられた質問に対して殆どのクラスメイトが手を挙げていると答えが理解されていなくても手を挙げていて「先生に当てられたら困るなあ」と思ってドキドキしながら手を挙げていることが度々であったことを今も覚えています。中学を卒業するまで改善されたかった理由は、保育園から1学級1クラスで小学3年生から分校(小学1年2年のみの分校)から本校通学になったクラスメイトを入れても34名なのでクラス替えが一切なかったので「若山は色白で華奢で声が小さくて直ぐに頬を真っ赤にする。」と言うのを演じていたのだと思います。
高校は日大大垣高校と言うマンモス校(当時は1学年で600人位だったと思います。)で、同じクラスの中には私の存在を知っている子がいない状態で中学までの呪縛が解けて小さく固まっていた私が大きく羽を伸ばせる環境で、しかも当時の日大大垣高校は『自由でのびのび』の校風だった様に思います。『自由』と引き換えに『責任』が生じるのは当然の事。そんな中で『火中の栗を拾う』事を高校時代から大学時代に一杯してきた事が『一生懸命に頑張る』の礎を築いてきたのではないかと思っています。だから小学校の教員時代にはその当時のテレビ番組で水谷豊さん主演の『熱中時代』の先生そのものの様な先生で文字通り『ガキ大将』の様な振舞の中で私なりに一生懸命だったので子ども達にはお友達感覚で楽しくやっていたのですが、教育界では認められずに旧徳山村での父進さんの勘当の生活も『転んでもただは起きぬ』精神で民宿に泊まりに来たお客さんと目一杯のおもてなし(沢山お酒も頂きました)で色んな議論をしました。特に新聞社やテレビ局の方が多くてとても勉強になりました。児童養護施設の指導員時代にはその当時の子ども達は親が子どもの学習には興味が無くて必然的に低学力だったのですが、「親の支援も期待できない状況の子たちが高校も行かないで社会に出るのは厳しすぎる」と言う事で、子ども達に『湯気』を出す勢いで学習指導に全力でした。そこで私が救われたのは子ども達が私の強引なやり方にもついてきてくれたお陰で『全員の高校進学』が達成出来ました。その当時『学習指導のカリスマ指導員』と言われていたのは素敵な子ども達がいてくれたからだと今でも思っています。
紆余曲折があり今は大きな拠点施設を3つも持っていますが、その期間においても、厳しい状況は数えきれないほどありましたがその都度、厳しい状況で「何ともならない」と言う状況になった時に救世主の様に相談に乗って下さる方や援助をして下さる方があり今に至っています。厳しい状況を経験したからこそ『打たれ強い人間』になれたのではないかと言うより『打たれても打ち切れない』様な人間になったのではないかと思っています。但し、自分の事で何かのお願いをすると言う事はからっきし駄目で、困っている人がいたらとことん無敵で頑張れる様な生き方です。「う~ん。随分厄介は生き方になっている」と自分でも思います。
