6月の予定を立ててみました。

令和6年6月3日

5月、6月は総会等が計画されている事が多くあり、和合の施設で午前にいた時はお参りを、午後にいる時はカラオケを計画して組んでいるのですが、休みなく組んでいてもお参りが11回でカラオケも11回しか組めなくて、3フロアに割り振るとお参りもカラオケも3回もしくは4回しか組めないのです。と言う事は、各フロアでの私の企画は月に各フロアでは7回程度と言う事になります。7月になれば総会や会議は少なくなると思うので、もう少しは回数を増やす事が出来るのではないかと考えています。ちなみに明日の予定は、午前中は岐阜県庁20階の会議室で『防災ネットワーク会議』があり、午後は和合の施設で避難訓練があります。明後日は午前中が岐阜県福祉会館で岐阜県社会福祉協議会理事会があり、午後は岐阜労働局に移動して『就職氷河期プラットホーム』の会議があります。どの会議も岐阜県老施協会長としての役割としてしっかりと頑張りたいと考えています。

6月8日は社会福祉法人杉和会の評議員会があり、評議員会終了後には理事、評議員、監事、第三者委員の方々との懇親会もあります。懇親会についてはコロナ感染症への対策の一貫で4年ぶりの開催ですが、幹部職員も参加して法人役員との情報共有をしっかりして、より良い方向に法人の運営が出来るように配慮していきたいと考えています。色んな対応がありますが頭の切り替えをしてしっかりと対応していきたいと考えています。今は16時20分。体調を整えるために肩がかんかんなので、16時30分からマッサージを受けてきます。リピーターの皆さん、健康管理も理事長として大切な事だと考えているので・・・。

『自分の事は自分でしなさい。』は日本の現在社会においては死語となってしまったのか

令和6年6月2日

今朝の岐阜新聞朝刊に、就職紹介業者に就職側の学生が依頼してマッチングさせるケースが増えてきた事によりトラブルが増えている。との記事でした。トラブルのケースの中には「契約するまで説明を止めない。」とか「自分が就職したくない所に無理やりマッチングさせられた。」と言うものが紹介されていました。私に言わせたら「自分の事なのに他人事の様な言い方」「自分の大切な将来を他人に任せて上手くいくのか。」と言う事です。そう言えば、ちょっと前には『退職届斡旋業』なるものが存在すると言う記事もありました。

この様な現象はどうして起きるのか。もちろん、その様な需要があるから存在するのでしょうが、『自分の事は自分でしなさい。』が死語の様になってしまっていることに、今更ながら愕然とします。とは言え私は『田舎のおぼっちゃま』だったので、母秋江さん、父進さん、姉光子さん、そしてもう一人の姉春子さんにおんぶに抱っこの生活をしていたのは事実ですが、『自己責任』の意識が強烈に芽生えたのは、40歳の時に高齢者施設の計画を立てた時に、土地提供者の交渉を身内の方にお願いして失敗した時からです。その時の経験から何をするのも自分自身で折衝する様になりました。確かにすべての事をするには限界がありますから、今はブレーンに委ねる事はありますが、その分『報告・連絡・相談』を密に行う様に心掛けています。

関ケ原町は7000人弱の人口しかない小さな町ですが『50-80問題』は間違いなくあります。もちろん、その問題を全て本人だけの問題だとは思いませんが、問題を我が事と考えなかった結果だと思います。そう言えば私が大学の非常勤講師をしている時にもありました。それは、学生達との飲み会をしている時に、聞くとは無しに聞いた電話での母子との会話です。「ママ、先生や友達から、もっと飲めと言われているんだけれど、もっと飲んで良いかな」というもので、その学生は電話を切った後は飲まなかったので、母親から飲まないようにと言われたのだと思いました。その時私は「自分が飲みたいと思ったら飲んだら良いのに」と思った次第です。他人に委ねる人生は如何なものかと思うのですが、リピーターの皆さんはどの様に思われますか。出来たらコメントを下さい。

10時30分から和合1階でお参りをしました。

令和6年6月1日

時間になってお参りグッズをゴロゴロ押しながら1階のフロアに行くと、既に皆さんが集まってみえて、尚且つ私の顔を確認すると拍手まで頂いたので、恐縮しながらも「今日はお参りです。カラオケではありませ~ん。」と元気よく言ってお参りをする位置まで行くと、職員が経本と数珠を配ってくれている間にお話ししながらお参りの準備をしていて、準備が出来た段階で「大きな声で唱える競争をしましょう。」と言うと間髪入れずに入居者の方から「お経は競争してするものではありません。」とぴしっと言われたので、多少動揺しながらも「確かにそうですね、かけっこで競争するのとは違いますから」と切り返してから、私が着ているめっちゃ派手なシャツを見て貰いながら「今日は渋めのシャツを着てきました。」と言うと入居者から「派手な服やがね」と正直な感想で言われてしまい、この時の切り返しは出来なくて・・・。「はい、それでは正信偈から始めます。」と言って声を限りにお経を唱えました。

正信偈と般若心経を終えてからお話をさせて貰った時の話をします。先ずは昨日の腸の検査はめちゃくちゃ痛くて脂汗をかいてしまったのですが、ポリープは1つあったのですが綺麗に取って頂き、終了後に検査をして頂いた先生から「5年間は特別な事が無い限り、腸については大丈夫です。」と言われて痛い思いをしましたがほっとしています。

次に最近聞いた話なのですが、時代が変わると常識が変わるとの話をします。それは、孫とおじいさんの会話で猫の餌の話で孫が「猫の餌では『チュール』が喜んで食べる。」と話したらおじいさんは「猫に餌などやった事が無い。」と話が合わないのだとの話でした。つまり、おじいさんの時代は家にはネズミが一杯いて、猫を飼うと言う事は猫がネズミを食べるので餌をあげる必要がなかったと言う事なのです。私は猫がネズミを食べていた時代を知っていますし、入居者の方の殆どの方も「確かにそうだった」と頷いて「今はネズミを見かけんな」との話で盛り上がりました。

お参りやカラオケでフロアに行くと、この様な会話があり楽しいです。ちなみに午後からは2階でカラオケなので入居者の皆さんと楽しみます。リピーターの皆さん、優・悠・邑 和合も楽しくやっています。コロナで全面開放は出来ませんが、またいずれは来て頂ければと思っています。

先週に引き続きの人間ドックです。

本日は大腸の検査をして貰う為にモビプレップと言う経口腸管洗浄剤を1リットル或いは2リットルをドーンと飲むように指示を受けたので10分毎にスマホでタイマーをセットしてスマホでコラムを打ちながら律儀に飲むことにしています。

なかなかお腹に反応が無くて看護師さんにその事を言うと「少し体を動かして下さい。」と言われたので、目的なくさまよっていたら元の所に戻れなくなり、職員さんに「すみません決して認知症では無いのですが戻りたい所に戻れない」と話していると最初に対応して下さった看護師さんが「どうされましたか」と聞かれたので正直に話すとその看護師さんから「建物が新しくなったばかりで私もよくわからなくなります。」と言って案内して貰いました。

(ドアを1つ間違えただけなのですが、わからなくなるとパニックになるものなのであります。)

飲みにくい経口腸管洗浄剤の5回目を飲みましたが殆ど腸の方の反応がみられず少し苛立っています。散歩の様に徘徊するのも限界があるし・・・。1リットルの洗浄剤と水500CCを飲んだ段階で看護師さんが様子を見にみえたのですが「まだまだです。」と言うと、「あと0.5リットルの洗浄剤と水205CCを飲んで下さい。」と言われたので「それだけ飲んだら大丈夫なんですね。」と看護師さんに確認すると「それで大丈夫です」と言われたので頑張って飲みました。

看護師さんの言われた事は理に叶っていたようで、1.5リットルを飲んだ段階で腸の方は綺麗になった様で、「それでは検査の準備をします。」と言われて、しばらくすると検査室に案内されました。前回の胃カメラでお世話になった私と同じ苗字の『若山先生』で、前回の対応が良かったので安心して検査に挑む事が出来ました。

順調にいくかと思っていたのですが前回の検査の時よりは難航して、何度か唸ってしまいました。先生から「ポリープが1つ見つかりましたので切除します。」と言われて少し緊張しましたが、ポリープも簡単に切除してくださり何とか無事に検査が終わり検査着から私服に着替えて待合に行くと直ぐに先ほど検査して頂いた若山先生から写真を見せながら説明をして頂きました。

「ポリープは綺麗に取れたし、その他の所は綺麗なものです。今後、特別な事がない限り5年先まではこの検査をする必要は無いですよ。」と言われたので安心した次第です。

血液検査等の結果は今後に説明して貰う事になりますが、取り敢えず安心して車に戻ると急にお腹が空いてきたので、「ご褒美として好きなものを食べることにしよう」と言うことで本部施設に行く前にバローの魚屋さんが握ったお寿司を買って帰り、遅い昼食を食べたらますますほっとしたので、明日からは1段ギアを上げて行きますのでリピーターの皆さん益々の応援宜しくお願い致します。

 

昨日無事に岐阜県老施協社員総会が行われました

総会受付が13時からだったので、12時20分に6階にある老施協事務局事務所に行くと鍵が閉まっていたので「既に事務局の方は会場準備に行かれているのか」と言う事で会場である2階に行くと準備万端整っていたので事務局長との打ち合わせをしたり、賛助会員の企業の方が何社か来て見えたので挨拶をしたりしていると理事の方が順次会場に入ってみえたので挨拶や打ち合わせをしていると会員の方も続々入ってみえ、ここでも挨拶をして13時25分になった段階で自分の席に着き会場を見渡すと70人近くの参加(委任状の方もありましたが)がありコロナ禍では出来なかった時とは違いリアル開催が出来ていることを嬉しく思いました。

13時30分定刻に大村副会長から開会宣言がされ、最初に会長である私が挨拶をして、次に全国老施協大山会長、園田常任理事にリモートで挨拶をして頂き、健康福祉場関谷次長には会場で挨拶をして頂きました。その後渡辺参議院議員の祝電披露の後、林副会長が議長に任命され、令和5年度の事業及び収支決算の説明後議案の承認がされて、円滑に総会は終了して、講演会の為に配置転換の為10分の休憩後に全国老施協の瀬戸副会長による講演でしっかり90分、介護報酬改正に伴う説明をして貰いました。瀬戸副会長が施設長をされているところの資料提供もして頂けたので非常に参考になると共に当法人事業所においてこれからやらなければいけないことの整理が出来て有意義な内容でした。

講演会終了後は折角の機会なので瀬戸副会長を盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』にお連れして施設見学をして頂き、その後瀬戸副会長を囲んでの役員との懇親会に挑みました。懇親会場では講演では聞くことが出来なかった副会長としての苦労話や30年前に福祉新聞の記者をされていた時の話も聞けたのでこれまた有意義でした。私は色んな機会を通してネットワーク作りが出来ることは有難いことだと思っています。明日は人間ドック2日目で大腸の検査があり、お腹をいじめる事になるのは嫌ですが、健康維持の為には大切な事なので頑張ります。だって前立腺がんは人間ドックによって早期発見出来たのでがんを克服出来たのだから。リピーターの皆さん、健康にはお互いに留意しましょう。

私の生き方を検証してみました

本日は岐阜県老施協の総会及び記念講演会があり、会が終了後は講師を勤めて下さる全国老施協瀬戸副会長と岐阜県老施協役員との懇親会があるので、コラムを書く時間は午前中しかないと考えて、いつものお墓参りを終え、シャワーを浴び、朝食を食べた後(昨夜の夕食の残りではありますが朝カレーです。)スマホと睨めっこしながらコラムを書いています。

さて、本題に入ります。昨日一昨日と若いころのハチャメチャは生き方について語りましたが、その時に思った事を素直に書くことにします。私は生母秋絵に溺愛をされ、守られ続けの幼少期でした。そして中1の時に溺愛してくれた母秋絵が他界する前にいった「蒔かぬ種は生えぬ」を常に念頭においた事を展開してきたつもりです。そんな生き方の中、振り返ってみると「我が事の様に色んな展開をする」事によって「相手の身になって」と言う事が出来たのだと思います。つまり、相手の身になって一生懸命な展開している中で実は自分自身が成長してきたと言う事です。

例えば高校受験も大学受験もなんら努力をしないでいて、気が付いたら児童養護施設の指導員になったものの中学生の学習指導をする学力がなくて、「中学生に教える為に」と言う事で必死に元同僚の先生に数学と理科を、その奥さんに英語を教えて頂いて結果的には自分の自信になったり、「関ヶ原町の高齢者施策の一助になりたい。」と言う事で特別養護老人ホーム優・悠・邑を設立して地域の為になったり、和合に施設を建設した時は西濃地区に低所得者の方でも入居出来る施設をとの思いで、また、盲養護老人ホームを建設したときは、「富山県、岐阜県、鳥取県、沖縄県に盲養護老人ホームがない現実はダメだ」との思いでした。結果的に自分の欲得ではなくて展開してきたから今があると。もちろん自分だけの力では無く多くの方の色んな支援を頂いたからこそ今があるのは言うまでもありませんが。

福祉の『福』にも『祉』にも『示(しめす)辺』があります。この『示』は「全ての人が幸せになる」と言う思いがあります。私は一生懸命の生き方の中で『慈悲の心』を得ることが出來たのだとすると私は本当に幸せな生き方をさせて頂いているのだとつくづく思ったしだいです。

どっぷり浸かる事になった児童養護施設での出会い

 

 

教員を辞めて父進さんに勘当の形で今須を追われ、それを良いことにして旧徳山村で好き勝手な生活をしている時に、わざわざ旧徳山村まで来て下さって児童養護施設を紹介して下さった方があり、(その当時中学校の校長先生で児童養護施設を経営されている理事長の娘婿)「遠い所を来て頂いて紹介して頂いて採用して頂けたけど、私が好んで選んだ仕事では無いので年明けの3月で辞めて進むべき道に行こう。」等と生意気な事を考えていたのです。そして実際に仕事をしていく中で、就業条件は14時~22時までで、夕食までの時間は小学3年生から6年生が小学校から帰って来てから順次宿題等の勉強をみる。夕食については中学生が準備したものを小学生から高校生までと一緒に食べる。夕食終了後は中学生の勉強をみる。勤務については、基本的には月曜から金曜日までの勤務で土日が休み。しかも、22時になったら直属の上司である理事長の息子さんが「先生ご苦労様でした。」と挨拶にみえるので私はまるで専従の家庭教師と錯覚するような状態でした。しかも、小学生はかわいく慕ってくれるのですが、中学生は何も教えてくれとも言わないので中学生が座って勉強しているのを熊の様にぐるぐる歩き回っていたのです。そんな状況の中3日目に初めて教えてくれと手を挙げてくれたのが当時1年生だった女子です。張り切って教えようとしたのですが、数学の問題が解けなくて教えられる状況でなくて、かつての同僚の数学の先生に泣きついて指導を仰ぎ、それからの半年間はその先生の所に日参しては中学生に教える綱渡りの様な毎日になりました。ここで、自分自身が学ぶことの大切さを学んだ様におもいます。そして、中学生と一緒に学習指導に取り組む中でその当時中学2年生の男子が小学年生の子が置いて行った算数の計算プリントに取り組んでいるのを注意しようとして、回答が全く違っているのに衝撃を受け、その中学生に少なくても中学を卒業するまでに読み書き算盤は出来るようにしたいとの思いから、その時は父進さんに生まれて初めて頭を下げてアドバイスを受けその当時の支援学校の誠意性を紹介して貰い指導を仰ぎ、自分なりの計画と独自のプリント作成をしてその中学生と格闘しました。成果を上げていくと自分自身にモチベーションがあがり、派生効果的に指導にのめり込み13年もの年月を過ごしました。自分で決めた事を実践できる喜びで、オーバーワークを全く苦になりませんでした。リピーターの皆さん人生はわからないものですね。

何故か教員時代の事をコラムで書きたくなりました。

令和6年5月27日

父進さんが、厳格な教育者であった影響もあり、私も大学を卒業後に教員になったのですが、正直「わけのわからない教員だった。」と自分でも思っています。教員最後に(とわいえそんなに長く勤めていたわけではありませんが)神戸町立北小学校4年3組の担任だった時の事を何の脈絡もなく頭に浮かんだので本日のコラムで書きます。4年3組の児童は35名で子どもたちとの格闘をするのに顔と名前が一致しなければ話にならないと考えた私は「初日に全員の名前と顔を一致させる。その為には35名一人ひとりの子どもとの接点をしっかりと持つ。」との目標を持ち、色んなタイミングで時間を作り全員の名前を覚えたつもりで家に帰って確認して残念な事にパーフェクトとはいかず3人の子の名前と顔が一致しなくて、次の日にはその3人の子に多くの時間を割いたお陰で35名の子の名前と顔の一致が2日でクリア出来ました。(今の私ではとても出来ない事ですが『若さ』と『気力』と『記憶力』の賜物なのかと思います。)それからの毎日は休憩時間と言う時間は子どもたちと遊んでいて、まるで担任の先生と言うよりは『ガキ大将』の様な存在だった様に思います。

正し、6月に行われた『校内研』での授業は舞い上がってしまったのと、準備不足で自分で言うのも変ですが、全く評価の対象にもならない出来でした。その時の校長先生の評価は「板書も含めてまとまりのないものでした。ただし、若山先生が焦っているのに対して子どもたちから『若山先生頑張って』と言う雰囲気があったのは共感を持ちました。」との事だったので、その日を契機に徹底的な事前学習をするようになり、板書については事前にビー紙にマジックで整理したものを準備するようにしました。

そして10月の西濃教育事務所の課長さんがおみえになっての授業の時には高評価を得て「私自身が生きた勉強が出来た。」と今になっても思います。但し、「4年生くらいの時は遊ばないかん」との考えはブレることなく12月には「一日かけてお正月に自分で作った凧を飛ばそう」と計画を立てて顰蹙を買いましたが教頭先生が理解をしめして下さり無事にそれぞれが作れたのは私の教員時代の素敵な出来事の一つです。

そう言えば必ず給食が遅い子がいたので「どうして毎日遅いのか」と観察していて、牛乳が飲めない為に遅かった事に気付いて、給食を隣の席で食べて「先生も牛乳が嫌いだったけど飲めるようになったから、先生と同じだけ頑張って飲もう」と言って少しずつのんで、彼女も何とか1本飲めた時に嬉しそうが顔になったのですが、学校から帰って家で「牛乳が飲めた」と興奮しながら報告してくれた。と母親から連絡を頂いたのは今でも良く覚えています。どうしてこんな昔の事を書こうと思ったのかは私自身良くわからないのですが、リピーターの皆さん、「若山宏はこんな人間だ」くらいの理解はして頂ければ嬉しいです。

5月は大切な日が一杯です

令和5月26日

既にこのコラムで報告しましたが、5月15日は孫娘の誕生日であり、16日は私の誕生日でもありました。そして本日は私と私の奥様の41回目の結婚記念日なのであります。そこで結婚記念日の日に合わせてかをりさんとの出会いについて既にこのコラムでも話したかも知れませんが改めて語りたいと思います。私は正直言って大学時代も教員時代も明確な希望や目的があったわけではなく、26歳の時に児童養護施設指導員と言うある意味『天職』に巡り合い「フレックスで仕事しています。」と豪語して尚且つ「公休については大学5年行かせて貰った時、そして教員を辞めて5か月間旧徳山村での生活をエンジョイしていたので前倒しで頂いているのでいらないのです。」と言って思いっきり児童養護の子供たちと格闘していて、気づいたら30歳を目前にした施設内の大掃除の時にその当時中学生男子に「先生、年が明けたら30歳になるけど結婚相手はおらんね。」と囃し立てられたのです。

囃し立てられたのには理由があります。端的に言うと『口は災いの基』で日頃の子どもたちとの話題の中で「先生彼女いないようだけどいつ結婚するの」と言われる度に「30歳までには結婚するから。」と言っていたのです。ところが30歳を前にしても子ども達との格闘が楽しくて恋愛等と言うものとは全く無縁の日々だったので多分子どもなりに心配していたのだと思います。

その年は年末年始のお休みを3日(12月31日から1月2日)頂いていたので伯父さんから結婚を紹介してくれる方の所に身上書なるものを持って行けと言われていたので、紹介者の所に行ったのが12月31日で翌日元旦の日に紹介して頂いた方の家で顔合わせをして、翌日に私の車であてもなく車を走らせ、一週間後の1月9日に京都までドライブをして1月15日(当時は成人の日でした。)に明治村に行き、明治村の中の教会でパイプオルガンの演奏がされている所の長椅子に二人で座っている時に「結婚しましょう。」と言って、3月1日に結納、5月26日に結婚式と言う慌ただしさの日程でした。

つまり私は良く言われる「釣った魚には餌をやらない。」と言いますが「釣った時にも餌は与えていないのです。」と言う事なのですが結婚式を挙げてから『41年』考え深いものがあります。リピーターの皆さん。若山宏はこんな男ですがこれからもよろしくお願いいたします。

苦渋の決断

令和6年5月25日

当法人が事業の一つである『デイサービスセンター えりかの里』は、1997年7月17日に『社会福祉法人 杉和会』の法人認可を岐阜県知事から頂いた翌年1998年5月21日から事業開始をしています。(『特別養護老人ホーム 優・悠・邑』は同年5月18日です。)そして、事業開始をした翌年である1999年4月からは、年中無休で尚且つ事業時間を9時15分~15時30分と9時15分~17時の2つの事業で展開してきました。

この様な事業にしたのは、「地域のニーズに出来るだけ応えていくことこそ、社会福祉法人の使命」との考えからでした。しかしながら、昨今の社会情勢の大きな流れの中で『働き方改革』と『職員確保の難しさ』が大きく圧し掛かってきています。『えりかの里』の事業を今のまま続けて行くと『オーバーワーク』が強いられる現状になる事が必然なのです。と言うのは、デイサービスの事業の中に『送迎時間は入らない。』と言うのが関ケ原を中心にした事業展開の中では大きな足かせになるからです。送迎エリアは広く点在しており、最低でも迎えで1時間、送りで1時間はかかるのです。年中無休を実施するには、職員の週休二日を確保するには、多くの職員を確保していくことが難しくなっている現実もあるからです。正直『苦渋の選択』です。

しかしながら、利用者さんとその家族に現状を理解して頂き、7月1日から『木曜日を定休日』とさせて頂きました。木曜日にした理由は、関ケ原町には町立のデイサービスがあり、どうしても木曜日に利用したいという方はそちらの利用をして貰いたい、との意図があります。『木曜日を定休日』にしましたが、年末年始だからとか、ゴールデンウイークだからと言って長期休暇のシステムにはしません。何故かと言えば「長期にお風呂に入れない・楽しみがないシステムは駄目だ。」と言う考え方からです。社会情勢にも適応しながら地域の要望にも応えていく事こそ社会福祉法人の役割だとの理念は貫いていきたいからです。リピーターの皆さん社会福祉法人 杉和会はそんな組織です。ご理解頂ければ幸いです。

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