今の私があるのは温かく支援して下さった方が多くあったから
何と言っても生まれてから中学1年までは(何度も書きますが)母秋江さんの『溺愛』があります。
その後高校1年までは長姉光子の『母親替わり』プラス次姉春子さんの後方支援があった事。
高校2年4月からの1学期間は凧の糸が切れた状態の中『木の上に立っていた』父進さんが『木の上から降りて』のフォローをしてくれ、その年の夏休みが始まった時に『熊のような風体の鉄砲打ちの伯父さん』が四国団参に導いてくれ、その経験から「人の役にたつ」を志した私は10月に改選される生徒会会長選挙に出て一生懸命に汗をかいたつもりでした。が、現実には自分の思うような展開にならず、職員会議でも物議をかもすような事もあったのですが生徒会顧問の先生が上手く収めて下さることも度々でした。(この展開は文字通り『出る釘は打たれる』と言う事でしょうか。)
大学時代にも自分では正しいと思う活動をしていく中で私がした行為が大学の教授会で問題になった時も私が所属しているサークル顧問の先生が毅然と私の行為を擁護して下さり収めて頂きました。
その先生とのご縁は私が大学を無事に卒業してからの事ですが先生の奥様から「主人が癌に侵され爪が茶色になっていて癌には『猿の腰掛』が効くとの事。若山さんの所は山鹿なのでもし手に入るのなら送って欲しい。」との手紙を頂き、私が取った行動は我が家の玄関先の紅梅の古木に出来ていた猿の腰掛けをしっかり乾燥させたのがあったので、即座に藤沢市のご自宅まで届けました。
大学を卒業して教員になっての校長先生は校長として赴任される前は教育センターに所属されていた方だったのでフラフラの新米教師の私が心配で毎日の様に廊下から私を見守って下さっていました。(9月の西濃教育事務所の課長指導以降はピタッとなくなりました。)
児童養護施設の指導員になった時には教員時代に学んだ事の実践をする場となり、38歳で『自分なりの思いで福祉を全うしたい』と言う事で退職をして大学等の非常勤講師や家庭教師等を行いながら自分で出来る事を頑張ろうとした時も現実はそんな甘いものでなかった時に児童養護施設協議会活動でお世話になっていた理事長さんが支援をして下さり、その当時中部地区の福祉の重鎮だった吉田宏岳先生との出会いを頂き今の事業でと繋がっていきました。
それ以降もお話をしたいことがありますので明日に続けます。

