小さい頃の私は『感謝の心』が無かった様です
令和8年4月8日
昨日のコラムで姉光子さんの事を書いていて、ふと「私が姉である父進さん、母秋江さん光子さん、春子さんを始め多くの方々にお世話になった事を『当たり前』と思っていたのではないか」と思ったので、小さい頃の出来事を改めてこのコラムで書いて『懺悔』としたいと思っています。とは言え今の私は職員に対して「当たり前を当たり前だと思うな」と激を飛ばすことが多くなっているので『昭和おじさん』と言われる所以なのかもしれませんが。
具体的に以下に書きます。かつてのコラムでも書きましたが【小さい頃、姉二人で1個の卵を分け合っている時に「体を丈夫にする為」と言う事で一番年下の私が1個の卵を当たり前の様に食べていた事。冬になると両手両足がボンボンに霜焼けで腫れて靴も履けない状態だと言う事で小学校に行く時に姉光子さんが私を背負い、姉春子さんが私のカバンを持って学校へ行く事。】この逸話については姉春子さんから聞いた話しなのです。
と言う事は私にとっては当たり前の事で記憶の隅にも無かったと言う事は当たり前の事として記憶にも無かったと言う事で、今となっては『感謝』もしていなかったと言う事で大変申し訳ない事だと思っています。
(コラムでではありますが春子さん「本当に有難うございました。)これも田舎のボンボンの私としては当然の様に思っていたのですが、母秋江さんが小学1年の冬になり、その当時暖を取るのは燃料がコークスの達磨ストーブで、ストーブの周りに柵が無い状態であったので、柵を6個購入して校長先生に「寄付をする条件として息子をストーブの前の席にするように」と直談判してその様に配慮して貰ったり、私が小学に入学して初めての遠足の時に同級生のお母さんと2人でその当時の事ですから本体の後ろからリヤカーで付いてきたと言うのは、建前的には「誰でも乗せますよ」と言う事なのでしょうが本心は「宏が歩けなくなった時にはいつでものせる」と言う事であったと思います。
今から考えても『超過保護』と言われても仕方が無かった事を何の違和感も無く実行に移せた母秋江さんの存在を当たり前と思っていた私が存在しているのは今に思えば「何と幸せな幼少期」と言う事なので一杯いっぱい甘えられた事への恩返しはをすることは出来ませんので今の私の立場で出来うる事を地域の中で精一杯させて頂き恩返しに返させて頂きます。













