ビックリしましたが・・・。

令和7年9月29日

昨日、和合の施設から本部施設に車を運転している時の事です。大垣市内の御首神社の交差点の信号が黄色になったのでブレーキのペダルに足が行った時に私の前を走っているクルマが全くブレーキも踏まない状態だったので「大丈夫なのか」と思っていたら、明らかに赤信号になっている状態なのに突っ込んでいったのです。当然の事ながら左側から青信号になったと言う事で車が動き出しました。その車は右折する為に徐行していたので右側から来る暴走車を確認したのでしょう、ブレーキを踏んで停まってくれたので暴走車は大きく右にハンドルを切ったので事故にならなかったのですがビックリしてしまいました。居眠りをしていたのか、うっかりされていたのかはわかりませんが、『つい、うっかり』と言う事であったり、眠い中で運転をしていた経験は殆どの方が身に覚えがあるのでは無いでしょうか。

私も学生時代に高速道路を運転中に確かに前を走っていた車を意識の無い状況で追い抜いていた事やこれも学生時代ですが工事渋滞で停まっているのに気が付くのが遅くて思いっきりブレーキを踏んでぎりぎりで停まる事が出来た事や10年ほど前に関ケ原インターチェンジで本線に入ろうとして走行車線に大型バスが大きな音で走っているのに気が付き慌てて元の車線に戻った経験があります。どれも事なきを得たのですが「もしも少しでも違っていたら」と思うと今でもぞっとします。

また、私が児童養護施設の指導員をしていた時に高校生男子3人を乗せて長良川の右岸堤防の道路を走っている時に夜釣からの帰りの若者の車が完全な居眠り運転で左側のガードレールにぶつかりそうになってから急ハンドルを切ってきて文字通り『正面衝突』をされ両方の前輪がパンクしてしまうような事故に遭遇しました。その当時はシートベルトの規制は希薄だったので助手席に乗っていた高校生はフロントガラスにぶつかり眉毛と目の間を切り顔中血まみれと言う状況で救急車で運ばれましたが綺麗に縫って貰い目への負担がなかったと言う事である意味事なきを得たのですが、その当時対応して下さった警察の方は堤防での衝突事故で同乗者が複数いたと聞いた時は死亡事故を想定したが怪我も大したことなかったと言う事で「奇跡的だった」とも言われた時には『神仏の存在』を知った思いでした。昨日は『ビックリした』と言うだけで済みましたが、改めて生きていると言う事自体が『奇跡』だと思ったしだいです。

岐阜新聞の記事から

本日岐阜新聞19面社会面『氷河期世代、転職は34回』の記事を見て尚且つ『47歳、生活保護は通院と母の介護費に』のサブタイトルを見て興味を持って記事を読ませて頂きました。

最初に【「全てが誰かのせいだとは思っていない。でも、これは自分のせいなのか」。

生活保護を利用し、県内のアパートで高齢の母と暮らす47歳の男性は1978(昭和53)年生まれの就職氷河期世代だ。転職を繰り返すこと34回。ほとんどが派遣労働だった。

履歴書には、さまざまな会社名と「一身上の都合により退社」が交互に連なる。

今なお、どこから歯車がかみ合わなくなっていったかを思う。

18歳の頃、縫製業をしていた両親の会社が傾いて、進学予定だった短大に入れなくなった。

「高校の卒業式を終えて家にかたら、電気とガスが止められていて。入学金が払える状況ではなくなってしまった」。

時給1200円のアルバイトを見つけて殆ど休みなく働き、月18万円ほどの稼ぎの多くを両親らが暮らす実家に入れた。(中略)25歳の頃、パニック障害とうつ病を併発し、職場を離れた。

「親からは怠けている、甘えていると見られて、家に居づらかった」と周囲の無理解を振り返る。

「無理やりでも働かざるを得なくなった。」と、心療内科への通院を半年ほどで中断し、製造業や物流工場、食品加工会社などでの派遣労働を転々とした。

(中略)昨年から、生活保護の利用を始めた。

医療扶助や介護扶助も利用し、自身は心療内科への通院を再開したほか、無年金の母は介護サービスを利用する様になった。

就労への思いはあるが、収入が基準額を上回って生活保護が廃止になると、医療や介護を受ける余裕がなくなる。

「正直、働いていた時より今の方が、まともに生きられていると思う」ただ、生活保護へのためらいはあった。

利用に当たっては原則、自動車を持っていると手放さなければいけなくなるというルールが引っ掛かったからだ。

乗り始めて10年たっていた車は、愛着があったが処分した。

「大切にしていた車さえ持てないなんて」。

坂の上にある自宅への帰り道を自転車で走りながら、今も、もやもやとしている。】

(※ 随分長い抜粋記事でしたが以下に私のコメントを書きます。)

47歳男性に焦点を当てた記事でした。

日本国憲法第25条には『全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国民はすべての生活面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない』との明確なルールがある。

第二次世界大戦で大敗北をした日本がいの一番に取り組んだ『貧困』が80年の月日の中でも存在している。

勿論色んな事情で「止む無し」と言う状況はあると思います。

そんな中で今回の事例の中で切に思うのは「何らかの期間に、或いは誰かに相談することが出来なかったのか」と言う事です。

人生に「もしも」と言う事は無いのですが、私の場合は困った時に相談に乗って下さる方があり、今があると思っています。

例えばの話ですが私が定期健診で『前立腺がん』が見つかった時、盲養護老人ホーム 優・悠・邑 和(なごみ)の施設の経営が最も厳しい時で、正直治療する気力もなくて半年ほど放置していた時に信頼している嘱託医の先生が「放置していてはだめだ。紹介状を書くので大垣市民病院に行きなさい」と背中をおして貰い放射線治療をした結果、ステージ2であったのが殆ど気にする必要が無いまでになりました。

「運が良かった」と言えばそれまでですが事実です。

本題に戻します。

人間同士の関係が希薄化しているのも立ち直れない大きな問題だと思います。

社会保障制度は文字通り『申告主義』である事にも課題があると思っています。

また、車の所有が基本的に許されていないのも就労意欲を阻害している様に思っています。

少し意味合いは違いますが、高齢者になり運転免許の返納が進んでいますが、免許返納によって行動範囲の縮小が進んでしまい心身の低下が進んでしまう事にもなっていると思っています。

就職氷河期の方が介護職に就いてくれて『ウインウイン』の関係になる仕組み作りをしていきたいと考えています。

満腹感の私なのであります

トホホの様な話なのですが、事実なのであります。これは胃袋がバカでかくなった為なのか?それとも胃袋が3つも4つもあるからなのか?とにかく満腹感がないのです。口を動かしていると際限なく食べ物を、あるいは飲み物を口に掘り込んでしまい、決して満腹感が無いのです。

まるでヤマンバと一緒です。食べても食べても満足感がないと当然のことながら 、体重は 際限なく増えていきます。 体重が増えすぎると足腰が大変です。 だから 食べないようにしたいのですが、 意思が弱い私は 際限なく 食べていたのです。 しかしながら 、このまま行くと歩くこともままならない状況になると大変なので、意思の弱い私ですけれども 2つのことを実行することにしました。

1つには、出されたもの以外は食べないようにすること。 もう一つは 、朝のお墓参りを再開することです。昨日 気がついたことなのですが 、余分なものを食べないで朝を迎えるとお腹が空く、という現象が起きました。 そして美味しくいただくことができました。 もう1つは 、本日 5時30分に目が覚めると 天気もいいので、 朝の散歩ができる条件が揃っていたので、エイヤーで起きて歩くことにしました。 久しぶりに出かけようとする時、 9本のペットボトルは空っぽであったので、我が家の水を 9本 とも 入れて 出かけました。 本当に久しぶりの 朝のお参りでしたので、 時間はたっぷり 1時間かかりました。

まずは 幸福地蔵様の花入れに水を入れると、2本の花筒でペット 1本分の水は必要でした。 本当に久しぶりに幸福地蔵様に抱きついて 、お祈りをしました。次に 、妙応寺の本堂に行き護摩木の御札によって 8月8日以来 お参りに行っていなかったことをお詫びして、本当に久しぶりに本堂での般若心経を唱えました。稲荷神社では、1円、 5円、 10円、 50円と、いつもと同じように お賽銭を入れ、 ここでも 久しぶりで あったことをお詫びしてから、祈りを込めて お参りさせていただきました。 次に 3仏のところでも 、お水換え と 花筒への水入れをさせていただきました。 観音様 、毘沙門天 王様、 不動明王様に手を合わせ 、ここでも 久しぶりであることをお詫びしてから、真剣に祈らせていただきました。

関ヶ原 与一様の五輪塔では、より強い願いを込めて祈らせていただきました。 次に無縁仏 様のところでは、一番 中央に設置されているお地蔵様にも 抱きつきました。六地蔵様では 、湯のみの中が汚れていたので一生懸命に 綺麗にさせてもらってから、水を手向けて 花筒にも水を入れ、 ここでも 久しぶりであることをお詫びすると同時に、できるだけ 朝のお参りが続くようにとお願いしました。 最後に若山家のお墓に行き 、湯のみに水を入れ 、花筒にも水を手向け、姉が嫁いだ家のお墓である 吉沢家、 かつての入居者さんのお墓 及川家、 大親友でお世話になっていたおじさんとおばさんのお墓である 柴田家にも水を手向けると 、ぴったり 9本のペットボトルの水はなくなりました。

本日は久しぶり ということもあり、 1時間以上かかってのお墓参りでしたが 、いつもは動きの悪い 足がスムーズに動いたのは不思議な現象でした。 やはり 運動量が絶対量足らないということを理解しましたので、 足が動く限り、 朝の目覚めが素敵な限り 、これからも頑張って 朝のお参りを続けて行きたいと考えています。

本日は、次男の嫁さんの誕生会をお昼に行います。 次男夫婦、 そして次男の長女 と長男の2人を入れて楽しみたいと思っています。これからも 爽やかな毎日が送れますように頑張って仕事にも励みたいと思っています。 こんな私ですが これからも コラム も頑張って書きますので、 リピーターの皆さんよろしくお願いいたします。

ああ言う終わり方があるのだと感心しました

何の話かと言えばNHK朝のテレビ小説『あんぱん』の最終回のお話です。

正直私は戦前の所は見ていないので本当の意味での評価は出来ないのでしょうが、敢えてコメントをさせて頂きます。

先ずは主役の『のぶ』の妹『蘭子』に前日の放送で明らかに婚約指輪を贈られた事に対しての答えがないままに終わった事に違和感を持ちましたが「こんな終わり方の方が色んな展開を考えられて良いのか」と思った次第です。

また、私にとって存在感が低いためか名前が出てこない三女のご主人がNHKを退職し「若い頃からの夢だったカレー屋さん」を始めたとの事でしたが「忙しくて」とのさらっとした説明だけでその後の展開は一切なくて私的には「おいおい」と言う感じなのであります。

また、「高知の旅行に行く」との設定はありましたが主人公『のぶ』に関わる3人の女性が写真でしか出てこなかったのも正直私自身は面喰いました。

しかしながら、1年かけて半年分の撮影をされているとの事ですが、よくよく考えてみるに最終的には『アンパンマンが世に出るまで』のストーリーなのですから枝葉的に出たものについていちいち説明するよりも視聴者の方々が想像を逞しくした方が楽しいのだと思った次第です。

しかしながら昨日の放送で主人公の『のぶ』が手術をするとの急展開を最終回の1回で「大どんでん返し」と「幸せな夫婦のハッピーエンド」には私的には『夫婦の素晴らしい絆』が醸し出されて「正直ほっとしました。」と言う総括です。

全体的な流れの中でつくづく思ったのは『のぶ』の旦那さんであるアンパンマンの作者は世の中で秀でていると言われている方々とのつながりには驚くばかりですが、今回の作品は実話に基づいたものだと言う事なので、改めて思う事は「色んな活動をしている中で多くのネットワークが出来ていると思うと私自身、これからも一生懸命な展開をすることによってますますそのネットワークを構築していきたいと思っています。

疲れがなかなか取れません

どれだけ寝ても疲れが取れないのです。寝ても寝てもなのであります。よ~く考えてみたところ、9月17日から20日まで、福岡県博多に3泊4日で出張に行かせて貰い、20日の日も本部施設でゆっくりする事も無く仕事をして、翌21日からは笑福亭伯枝師匠の落語会が和(なごみ)の施設で午前、午後は本部施設であり、その日の夜は笑福亭伯枝師匠を囲んでの懇親会があり、翌22日は和合の落語会が午前にあり、午後は岐阜県老施協理事会があり、終了後が和合の施設でトーカイ(株)の社長との面談があり、17時から本部施設においてのデイサービスの会議があり、翌23日は本部施設においての『千巻経』で、終了後は看護師さんの面接があり、昨日24日は、和合の施設において9時から消防署においての年1回の立ち入り(指摘事項は無しでした)があり、その後リモート会議ではありましたが、岐阜県主催の外国人材の会議があり、午後は元気に3階でのカラオケを実施して(やや声は枯れ気味でしたが、しっかり歌えました)、その後本部施設においての業務を粉しました。

と言う事で、出張に行った事を別にしても、確かに充実したと言うか過激なスケジュールをこなしていると、自分自身でも感心しています。小さい頃に虚弱で全く行動的でなかった反動が、今になってきているとしたら「人の一生は、確かに上手く出来ているな」と思っています。

最近のテレビの情報で『菌』と言うのは、『悪玉菌』と『善玉菌』がバランスよく存在しないと人間は生きていけないとの事です。つまり『悪玉菌』が全く存在しない状況になったら、人減は絶滅してしまうとか。と言う事は、私の小さい頃は母秋江が『悪』の存在を私に近づけ無い事をしてくれていたのです。勿論それはそれで有難い事だったのですが、その状況が今も続いていたら、今の私は存在していなかったと思っています。疲れが残っているとは言え、頑張れている事は有難い事です。

蚊に一杯刺されました

急に秋らしくなってきて、朝晩はひんやりする陽気で、夜の冷房は必要なくなりました。当然ですよね。本日が9月24日なのですから。

今年は6月に梅雨らしい梅雨も無く、「暑い」の毎日がつい1週間くらい前まで続きました。但し、まだまだ暑い日が続くと天気予報では言っています。長期予報では、11月までは例年よりは高温になり、12月には急激に寒くなり雪が降るとの事。「いったい日本の四季は、どこにいってしまったのか」と嘆くばかりです。

本題に移ります。『蚊に一杯刺されました。』の話です。「今年は蚊がいなくて助かった」と思っていたのですが、本日は和合の事務所で書類の整理をしていて、「蚊がいた」と気が付いた時には、少なくても3か所は刺されていました。「一杯刺された」と事務所にいる職員に話し掛けると「理事長の血液型はAB型ですか」と言われたので「AB型ですが」と言うと、「一番刺されやすい血液型ですよね」と言われたので「血液型が蚊はわかるのか」と変に納得をしたものの、「いやいや高齢者は刺されにくいと聞いていたのに」と思いつつ「私が一番年齢が高いのに」と思うと「嬉しいような、いやいや、蚊になんか刺されたくない」と思うと共に「涼しくなってきたから蚊も元気になったのか。でも、私を集中的に刺さなくても良いのに」と思うと共に「蚊は私の血が元気だと思ってくれたのは嬉しい限りだ」と思うと、一杯刺されたにも関わらず痒さが無くなったのは気のせいでしょうか。

このままだと『持続可能』ではなくなる

令和7年9月23日

『持続可能』についての意味をインターネット情報で調べた事を書きます。【直訳すると「持ち続けることが可能」であり、単なる長期継続ではなく、関わるシステム全体が継続し負荷を回復可能な範囲に収める点が特徴です。暮らしやビジネスなど、あらゆる分析で「今の行動が将来にどんな影響を与えるか」と考える軸として用いられる。】以上の説明に近い事を夜中に「ふと」思い付きいつもの様にスマホにメモしたので本日のコラムにしました。と言うのも、これまたいつもの口癖なのですが『一つの現象の中に次の展開のヒントが多くある』と思っているからです。

昨日あった『一つの現象』について述べます。本日は敬老月間最後のイベントとして『千巻経』が実施されるので、昨日夕方に家族会の吉田会長に確認の意味でご挨拶の依頼の連絡をしたところ「1週間前の連絡の葉書だったので既に別の予定を入れてしまったので行く事は出来ない。せめて3週間前には届くようにして欲しい。」と言われたので「そんなに遅い手配だったのか」と心の中で叫び忸怩たる思いになったのです。

私としては例年の事なので当然の様に手配していると思っていたし、招待者については指示を出していたので安心していたらこの現象です。そんな時に思い出したのは10年以上前に実施された岐阜県の監査においてあるべき書類が出来ていなかった時に思わず「私の頭の中にはあるのだけど」と言った時に監査官が苦笑いされていたのを思い出しました。勿論、それ以降はその記録はしっかり残していますが。

今回の現象は「私は指示を出してから出したかどうかの確認が出来ていなかった事」であり、「指示を出された職員が何度か確認はしたものの出さずにいて、ぎりぎりになって出したと言う事」なのですが、理事長の指示・確認が無ければ出来ない体制を色んな状況の中で脱却しなければいけないと思った次第です。つまり27年の月日が経過している今でも『若山宏商店』のままだと言う事なのであります。

色んなものをチェックシートを作成して出来る様になってきたのは事実ですが、行事についてはチェックシートになっていない事が原因だと思います。しかしながらベースは変わらないので、チェックシートを作成して抜けの無い様にしないと、私自身も元気であっても劣化していくだろうし、法人も3拠点になり、私の指示・確認能力のキャパを越しているとも思うので体制の充実を今回の事から図っていきたいと考えています。

和合の施設で3施設目の笑福亭伯枝師匠の落語会が開催されました

和合の施設で3施設目の笑福亭伯枝師匠の落語会が開催されました

 

本日は大垣市役所の始業に合わせて打ち合わせに行く事になっていたので、昨夜の笑福亭伯枝師匠との交流会は18時から20時までの2時間で終了して、お酒を飲まないで我慢してくれた五次副施設長の運転で自宅まで送って貰い、昨夜は21時にはお風呂にも入らずに爆睡して、6時前にすっきりと目覚め、お風呂にゆっくり入り7時には朝食を頂き、7時30分からBSで朝の連続テレビ小説『アンパン』を見ながら背広に着替えて大垣市役所に向け車を走らせ担当課の担当者と打ち合わせをしようとすると、わざわざ課長さんまで同席して下さり打ち合わせも順調に済み、済み次第和合の施設に着くと既に笑福亭伯枝師匠はみえていて、理事長室で待機されていたのでご挨拶をしてから事務所に行き、4日間の書類の確認と決裁をしていると10時20分になり、家族会の会長さんと家族の方も2人おみえになっていたので3階の会場にご案内した後、再び1階に戻り笑福亭伯枝師匠を会場にお連れして、先ずは会場の皆さんに理事長としてご挨拶をして、引き続き家族会の会長さんにご挨拶をして頂き、笑福亭伯枝師匠が高く積まれた畳の上に座られて落語会が始まりました。

落語自体は本部施設で聞いた内容と同じだったのですが、入居者さんの反応を見ながらの進め方に「勉強になるな」と感心しながら見ていました。最後に職員による演技指導が面白可笑しくされて『うどんを食べる』は順調にいき、早口言葉「赤パジャマ、黄パジャマ、茶パジャマ』がされたのですが、高座に上がった職員があまりにさらっと上手に言ってしまったので、その職員に対して何も突っ込む事が出来ずに正直、師匠は困られたと思っていたら「流石にベテランの落語家さんだ。」との思いを持ちました。それは、進行をしていた北島部長に早口言葉を振られたのです。すると、北島部長は見事なくらいに滑ってくれて、それが面白くて大真面目の北島部長はますます混乱してしまい、今度は想定以上に盛り上がり「流石は北島部長」と言う事で笑いの渦の中で無事に落語会は終了しました。

落語会を終えて理事長室で準備した昼食を食べて貰い師匠をお見送りした後、私は岐阜県福祉会館に急ぎ、事務所には既にお客様がみえており、挨拶もそこそこにお話をして13時30分からの理事会の打ち合わせを事務局長としてから理事会が行われる会議室に行き、理事会前にコロナの現状について医師会会長から紹介を受けた業者の方に話をして頂き、引き続き理事会の進行を会長としてさせて貰い、15時30分に急いで和合に戻り、お客様対応をしてからこれまた急いで本部施設に行き17時からのデイサービスの会議に出て、いまは18時30分でようやくコラムが書けました。全く無駄のない一日でしたが、ホッとして明日の事を考えたら「明日は本部施設において千巻経だ」と頭を切り替えるのが大変ですが頑張って対応したいとおもいます。

本日、落語会が開催されます

年に1回笑福亭松鶴師匠の弟子で関西落語の真打笑福亭伯枝さんが施設に来てくれます。

笑福亭伯枝師匠とのご縁は23日に千巻経でもお世話になる滋賀信行会の内藤会長からの紹介で来て頂く様になってから10年にはなります。

毎年同じ様な内容なのですが入居者さんの笑いを取るのも職員への芸の指導にもますます磨きがかかっているので安心して来て頂けるし、電話一本で日にちを指定してではありますが気持ち良く引き受けて下さるのでこの点についても有難く思っています。

そして『大道芸人クラウンアキオさん』『演歌歌手山崎ていじさん』と共々に「私は浮気をしないので」と言う事なのです。

昨夜も笑福亭伯枝師匠から「明日は9時30分には優・悠・邑 和(なごみ)の施設に行きますので2日間宜しくお願い致します。」とのショートメールが来て、本日も和(なごみ)の施設からは9時35分に和(なごみ)の施設の事務長から「笑福亭伯枝師匠が来て頂きました。」との連絡を受け「恐らく早くに近くまで来て時間調整をされていたのだろうな」と思うと「私もしっかり見なわなければ」と思った次第です。

本来であれば和(なごみ)の施設にも理事長として行くべきなのですが、昨日まで3泊4日で福岡に出張だったので本部においてやるべき事があり、笑福亭伯枝師匠への対応は和(なごみ)の施設での対応が済んでからになります。

本部施設において師匠を迎えて今夜の宿泊をして頂く本部施設敷地内のコミュニティハウスに案内して14時からの本部施設においての独演会と夜の接待を大垣のお寿司屋さんでして、明日は和合の施設での独演会の対応もさせて貰う予定でいます。

私自身はバタバタの中ではありますが入居者さんには関係の無い話なので私なりに頑張りますが、本部施設の玄関を入ると地域交流スペース内のホールには既に高く畳が重ねられ高座の雰囲気はしっかり出来ていたので、改めて職員に感謝すると共に事業開始して27年の歴史の重さを感じています。

さてさて笑福亭伯枝師匠が一杯いっぱい笑いを引き出してくれる事を楽しみにしながら、笑福亭伯枝師匠がおいでになるまでの時間は業務に専念します。

 

 

 

 

 

3人でのボストン会は盛り上がりました

昨日17時30分に花田先生が、私が泊っている部屋のドアをノックしてくださり、太田先生に携帯で連絡をして、ホテル1階で3人が揃い、博多駅前のタクシー乗り場から1次会の中州の和食のお店に連れて行って貰い、和食を楽しみながら会話とお酒(私はもちろん冷酒です。)を楽しみました。お腹が膨れて二次会にはスナックに行き、ウイスキーを片手にもう一方の手にマイクを持ち、カラオケを楽しみました。お店のマイクが素晴らしかったのか、いつも以上に声が伸びて次から次と歌を花田先生と競う様に歌いました。(太田先生は児童養護施設の子どもに歌を酷評されてから歌えなくなったと言う事で、何度進めても歌って頂けませんでした。)歌えば歌う程にウイスキーも進み、楽しい時間を過ごす事が出来ました。

午前様にはならずに、本日は10時にホテルのチェックアウトをする予定でしたが、「切符の手配が出来ていない」と言う事で遅い朝食をとったあと博多駅に向かうと、とんでもない行列が出来ているのに驚き。尚且つその行列が、切符を手に入れる為のものと言う事で、驚き以上に焦りを覚えました。券売機の方の行列は駅の玄関を通り超し、歩道にまで伸びていて、券売機の奥に販売所があり、「以外にすいている。」と思いお客さん対応が済んだところに行ったところ「整理券を取ってお待ちください」と言われて整理券を取って番号表示の案内板と手元の整理券を確認すると、「30番待ちなの」と言う事で、どっかり椅子に腰かけて販売所の方を見ると、6か所ある係員の数は4人での対応だったので「こんな時くらいは、適宜対応してもいいのに」と勝手な思いに至っていました。

4か所の所の対応も時間がかかっている所があると、苛々している自分がいました。「なんと勝手な私なのでしょうか」何とか9時50分には太田先生の分も手配出来、ホテルの待ち合わせ場所には花田先生がみえたので急いで部屋に荷物を取りに行き、再び集合場所に行くと太田先生もみえていたので、「大変でしたよ」と恩きせがましく言ってから切符を渡して、3人で駅に向かい花田先生にお礼を言ってお別れをして、太田先生と共にホームに行きました。太田先生は本来豊橋まで乗って行かれるのですが、京都より西への出張の時は、奥さんの納骨がされている東本願寺に立ち寄られると言う事で、私も京都乗り換えで米原に行くので、博多から京都までの3時間はしっかり太田先生とお話が出来て、特に社会福祉法人の将来的展望に対する意見交換が出来たのは、最大の成果で無かったかと思っています。

37年前に結成された時は17名の参加から始まりましたが、37年の歳月により僅か3人の『ボストン会』でしたが、出来うる限りこの絆は大切にしていきたいと思いますし、来年の全国大会は岐阜県で開催されるので、今から用意周到に進めて行きたいと思っています。

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