『わざみの会』に参加して

令和7年3月2日

年に1回開催されている『わざみの会』に参加しての報告を、このコラムでさせて頂きます。昨年まで元気に参加されていた長老格であった今村元校長先生が参加されていなくて、「私がお世話になった元校長先生は誰も参加されていないのは、私がPTA会長をしていたのは30年近く前なんだから止む無しか。でも、新たな人間関係を構築するのも大切な事だから、出来る限り参加させて貰おう。」と思った次第です。

予定の16時より若干早かったのですが、参加者が全員揃ったと言う事で会員総会が始まり、事業報告、決算報告の説明があり、承認した後、役員の改選が行われ、ここでも新しい体制のうねりを感じました。総会終了後来賓の関ヶ原町の町長、副町長、議長、教育長の来賓の方も交えて、先ずは教育長からの説明があり、その話を受けて関ヶ原小学校長、関ヶ原中学校長から現状と今後の方向性等についてのお話を受けました。その話の中心には生徒数が右肩下がりで、複数学級は無くなり単学級ばかりになるとの説明のなか、小学校と中学校の関係をより密にしていきながら、人数が少ない事によるメリットを生かしていくとのお話も頂きました。

その後は懇親会になり、私も色んな方とお話をさせて頂きました。特に町長さん、副町長さん、関ヶ原小学校長、関ヶ原中学校長さんとは、建設的な話が出来ました。その中でも両校長先生と3人で話をしている中で、かつて実施していた『二泊三日のワークキャンプ』の話題では両校長先生と話が盛り上がり、私の立場では、実施出来るのであれば全面的に協力する事も話をしました。また、垂井にある盲養護老人ホームも含めての交流が出来る事によって、子どもたちの情操教育に寄与出来たらとの考えも熱く語りました。

施設は地域の中に存在して、地域貢献との連携は大切な事だと考えていることも熱く語りました。また中学校長さんは児童相談所にも出向されていたとのことで『現場力』『実践力』のキーワードでも盛り上がりました。どのような機会も大切にしなだら今後もエネルギッシュに頑張っていった事をこのコラムで赤裸々に語っていきますので、リピーターの皆さんこれからもご愛読よろしくお願いいたします。

本日16時から『わざみの会』が行われます

令和7年3月1日

『わざみの会』とは関ケ原町内の小中学校のかつての校長先生とPTA会長の年に1回の親睦会です。かつての校長先生の中には90歳を超えてお元気に参加される方もあります。私は平成8年度に関ケ原町連会長(今須小学校会長)を、平成9年度は岐阜県連副会長(西濃地区会長・今須小学校会長)をさせて頂いたのですが、この時期は社会福祉法人杉和会の法人認可(平成9年7月17日)を当時の岐阜県知事から頂き、翌年に特別養護老人ホームの竣工及び事業開始を控えている頃だったので『ワクワク感』一杯で飛び回っていたので(あれから27年が経過していますが今も飛び回っていますが・・・。)PTA活動も精力的にしていたので思い出が一杯あります。

『わざみの会』の歴史は古いのですが、PTA活動の現職時代から余程の別件が無い限りは参加させて頂いていますので、私よりも古参の方は数える程になっているのが現状です。私が基本的に欠かさず参加させて頂いている理由の一つに、私の父進さんの事をご存じのかつての校長先生が父進との思い出話を聞くのも楽しみですし、そんな時のかつての校長先生とお話をしていると父進さんとお話をしているような錯覚すら覚えてしまいます。

その他にもPTA会長をされた方々の中には町会議員さんや商工会の会長さんなど今も関ケ原町の為に貢献されている方々ばかりなので、その様な方々と意見交流が出来るのも楽しみの一つです。PTA活動を2年させて頂いている時のご縁で、前の市長さんとも交流が出来ましたし、何より和合の施設を計画した時には、その当時の西濃地区会の方々に色んな意味で支援して頂きました。

勿論、打算があったわけではなく、ご挨拶をすると30年近く前の出会いではありますが、「あの頃は・・・。」との話になり「若山さんの頼みなら出来ることはさせて貰うよ」と力強く言って貰えたのは本当に有難いです。私も特別養護老人ホームを今須の地でさせて頂いた事によって少なからず『地域貢献』が出来ている事を再認識する事ができる本日の『わざみの会』にこれから参加出来ることにワクワクしています。この様な状況にある事に『感謝』です。

少子高齢化がますます深刻な問題になっています

高齢者の生活を支えるべき就労人口がどんどん減っているのには目を覆う様な状況があります。

文字通り日本が世界の中で元気だった時代には多くの子どもが産まれ人口も右肩上がりで『作れば売れる』時代だったと思います。

人口動態を研究している方の話として『人口を1億2千万人にするプランは出来ていて目標達成は出来たけれど、達成した数字を維持する為のプランがなかった。』と言う話しには唖然とするばかりです。

昔良く言われた言葉に『貧乏の子だくさん』と言うのがありましたが、今は子だくさんの家など日本の何処を探しても無い状態です。

どうしてなのかと私なりに考えてみるに、農業を例にとると米作りに多くの手を借りていた時代には多くの子どもが戦力になっていた。つまり『貴重な働き手』だったのです。(今は機械で行われるので働き手は必要無いのです。)

また、今の子どもに対しては教育費に多くの費用がかかる現実があり、「子どもは一人で、少数精鋭で行く」との考えになっている。と言う事なのかと思います。中国で一時期『一人っ子政策』が取られた事がありました。私は「全くの愚策」だったと思っていました。

だってそうでしょ。子どもは夫婦2人が存在するから子どもが産まれるのです。と言う事は単純には言えませんが30年で1世代と考えると30年で人口は半分になってしまうのです。

日本が繁栄していたのも子どもが多く産まれた時代です。

今の人口を維持する為には夫婦で最低2人の子どもを作らなければいけないのに現実は程遠い数字です。

嘆いていても何ともなりませんので、多くの子どもが産まれても大変ではない日本にする為に何をなすべきかをリピーターの皆さんと共に考えて行ければと思っているのですが・・・。

リピーターの皆さん『3+4』の答えはご存じですよね

「何を聞いているのか」とお怒りの方もおありかも知れませんが、だったら、答えが『7』と言うのを「いつ覚えましたか。」と再び聞いたらリピーターの皆さんはどの様に答えられますか。

リピーターの皆さんの中には「失礼な事を言うな」と言う方も多いと思います。しかしながら私が児童養護施設児童指導員の時に中学2年生で繰り下がりの引き算が出来ない男子がいた現実を知っているからなのです。その時にはどのように対応したら良いのかが分からなかったので『教育者としての大先達』である、父進さんに頭を下げて教えを請い、父進さんのネットワークを駆使して貰って対応しました。マンツーマン指導を徹底的にしていく中で半年近くかかりましたが四則計算をクリアして中学1年生で学習する素因数分解の問題が解けるまでになりました。ある程度問題解決した段階で私は「どうしてこの様な事態になったのか」と考えてみました。その時に理解した事は小学1年生の時に算数の宿題で計算カードを親に聞いて貰って確認印を押して貰う様な事がある事を思いだしました。

その当時中学2年生だった男子は施設に小学3年生の時に来て、同学年には複数の男子がいたので、宿題などは同級生のやったものを写していたのではないかと言う事と施設に来るまでは親が子どもの勉強に全く興味が無かったからだと言う結論に至りました。その時の私は2つの事に怒りを覚えました。1つには子どもの教育に責任を持たない親の存在、2つ目は小学3年で施設に来た子に対して何も気が付かなかったのか、それとも気が付いていながら何も提案・実践しなかったのかと言う事です。

リピーターの皆さん、『子どもを色んな意味で育てるのは当たり前』と私も26歳で児童養護施設指導員になるまでは思って育ったのですがそうではない世界もあると言う事でその様な事の対応をする専門職の方の養成もしっかりしていかなければいけない事を今も思っています。38歳で児童養護施設指導員を辞し厳しい児童の現実と向き合おうとしたものの生計を立てることが出来なくて高齢者へと種別を変えて30年近くになるのですが今も、手を差し伸べて生計を立てられている存在について聞いた事がありません。私立高校までの無償化に予算を付けるのであれば、この様な現実に対しても光を当てて欲しいと思うのですが・・・。リピーターの皆さん、どう思われますか。

人間の進化について朝から考えていました

何の脈絡もなく本日のテーマについて朝から何となく考えていた事をコラムに書きます。「何の脈絡もなく」と書きましたがよくよく考えると先般のコラムで『京ことば』について述べていたことが原因かもわかりません。

本題に入ります。猿が胡桃の実を食べる時に石を使っているのをテレビの映像で見たことがあります。人間の進化の原点もここにあるのでは無いかと思います。猿と人間の進化の違いは私が思うに『火を怖がらず逆に活用したこと』と『言葉を上手く活用したこと』だと思っています。勿論、そんな単純な事では無いと思いますが私なりの考察をしてみます。(最も既に考えられていることかも知れませんが)狩猟民族は動物を捕獲するのに便利なものを工夫することから始まったのではないでしょうか。そして多くの狩猟が出来る中から「狩りに行くよりも柵の中で飼育した方が効率が良い」と考えて牧場の様なものが出来た。しかし、柵の中だけでは牧草に限界があるので草原に出て餌を食べさせる必要があり牧場から出て草を食べ終わった牛や馬や羊たちが間違いなく戻って来たかの確認をするのに数字の数え方が無かった時代には柵から出すときに石を1頭出るごとに1個拾い、帰って来た時に石を元の所に捨てる。或いは木に記しをつけて確認する等の方法で確認していたのだと思います。そしてその中から『共通な数』を理解していったのではないでしょうか。だから、目に見えない『0』を見つけるのはかなり後だったのではないでしょうか。石や木の活用をしないで大きな数字を計算する方法は中国の華僑の人たちは手の指を使って十万単位まで計算されたと聞いています。(ちなみに私も10までの数え方は知っています。)日本においても計算するための道具として『算盤』が活用されていました。算盤も『5つ玉』から『4つ玉』と使い勝手の良いものに改良されました。算盤から電卓になり、今ではスマホで便利に計算出来るようになりました。

私は小学生の時に算盤教室に通っていたので3級までは取得しました。だから、ある程度の計算は暗算で出来たのですが、電卓等を利用するようになり、暗算力は低下してしまっていると自覚しています。

つまり、便利になった分退化していることは一杯あります。例えば、電話番号を暗記しなくても良くなったり、車のナビの進化で道を覚えなくなったりと言う事で私自身退化していることを理解しています。また、科学の進化を遂げる最も早い方法は『戦争』だったと言う事ですがその最たるものが『ダイナマイト』だと思います。でも今は『ダイナマイト』を生活に役にたつ利用がなされていますし、ダイナマイトになるニトログリセリンを発見したノーベルはその時に得た資金を基にしてノーベル賞を創設して平和の為に活用しています。進化によって得たものを正しい形で使える様にお互いに見守っていく事も肝要だと思っています。

『三寒四温』の意味を改めて確認しました

令和7年2月25日

リピーターの皆さんの中には「何を今更」と思われる方もあるかと思いますが、本日8時に本部施設での対応を終えて車に乗り、車の温度計を確認すると『―1℃』なのです。大垣和合に向けてドンドン東に走って行き垂井に入ると『3℃』になり、和合の施設に着くと『5℃』になっていました。本日の最高気温は『18℃』と言う事なので「正に春だな。でも、昨日は雪が降って寒い日だったのに」と思ったものですから。「『-1℃』から『18℃』への温度変化への対応は体にきついですが頑張らなければ」と思っています。

本題の『三寒四温』についてですが、俳句の季語としては『冬』と言う事で、基本的には『立春』までだそうですが、今年の『冬』はいつまでも寒冷前線が居座っていて、ようやく寒冷前線が遠のいて『春の兆し』が見えてきました。とは言え『三寒四温』とよく似た言葉で『寒の戻り』と言う言葉があるので油断は出来ませんが。寒冷前線が居座っていて雪の日が長く続きましたので『梅の便り』もなかなか聞けなくて、ビニールハウスの中の苺の成長が遅くて、深刻な状況だとのニュースも流れています。

18℃と言えば「桜が散る頃」とも言われているので「いきなり春真っ盛り」と言う感じです。と言う事は『三寒四温』と言うよりも「春と秋が無くなって、冬と夏だけになってしまうのでは」と言う話も、満更嘘では無い状況になってきているのかとも思ってしまいます。と言う事は近い将来『三寒四温』と言う言葉すらなくなってしまうかも知れません。「う~ん。日本から『情緒』なる言葉も無くなってしまうのかな。

いったい『警報級の大雪』とは

令和7年2月24日

私は雪が降ると「私の感覚(関ケ原での生活71年)では30cmを超えないと雪が積もったとは言わない。」と口癖の様に言っています。そんな私が「今年は長く寒波が続きます」とのテレビ等の報道を聞く度に「明日の朝はどれほど積もるのか。」と言う事で大抵は午前4時前後に我が家の2階の窓越しに確認するのですが「今日も大したことないな」と言う日が続いている事に安堵しながら正直「肩透かしばかりだ」と思っている私は「いったい何を期待しているのか」と苦笑するばかりです。

2月5日に「東京23区など積雪が警報級の大雪」との報道がなされたので「今年の雪道は例年とは違うのか」と思って「東京の大雪とはいったいどの程度を言うのか」と言う事でインターネットでの情報を調べてみました。(観測記録がある時の情報ですが)第1位は1883年の46cm、第2位は1944年の38cm、第3位は36cmと言う事で私に言わせると「その程度で『困った、困った、こまどり姉妹』(古すぎかな)等と言うな。」と思って見ていたら、下の方に『雪に不慣れな東京では少しの雪でも危険』とのコメントがありました。「う~ん、なるほど。」と理解しました。

以前のコラムで積雪世界1位は滋賀県と岐阜県の境に位置する関ケ原からそびえて見える『伊吹山』で1929年2月14日に記録した11m82cmと言う事で日本記録の断トツで第2位は青森県八甲田山中(890m)にある酸ケ湯の5m66cmと言う事で言えば、伊吹山の麓と言っても過言では無い関ケ原町では「30cm程度の雪はたいしたことが無い」と言う事なのですが、雪の少ない所では『30cmの積雪でも大ごとなんだ』と言う事だと理解しました。

但し、例年多くの雪が降る事で有名な所でも「こんなに降り続いているのは経験が無い」との地元の方の話を聞くと「いつまで続くの」と言う現状には「大した雪も無くて有難い」と言う事になるのだと考えを変える事にしました『大雪』の考え方も『地域によって違う』と思うようにします。

 

言葉は進化或いは変化するものなのですね

令和7年2月23日

本日の岐阜新聞総合2面に『「ほっこり」でよろしおす?』大きな見出しが目に入ったので興味を持って読ませて頂きました。次の見出しでは『京言葉で本来「ほどよい疲れ」の意味』次に『地域性薄れ、「癒やし」浸透』とありました。小見出しを見ただけで「京言葉とは違う形で私も使っている」と思うと同時に「京都に住まれている現代人が正確な意味を理解しているのかな」とも思った次第です。この記事の発端は京都新聞社への読者からの投稿からだと言う事でした。

「京ことば辞典」(井之口有一、堀井令以知、東京堂出版、1992年)を開く。「ほっとする」という意味が記されている。次の言葉に目を奪われる。「疲れが出る」。初めて知った。「京ことば」(編者中田余瓶、58年も「疲れる」と記す。著書「京のくらしと京ことば全13選」(KLK新書)がある。「京ことば研究家」の西村弘滋さん(70)にほっこりについて聞くと「満足感のあるほどよい疲れ」と言ったニュアンスをまとうと教えてもらった。

仕事が「首尾よく」終わった場合などに使うのがふさわしいようだ。疲れを指す言葉には他にも「くたびれ」「しんどい」があるが疲れの度合いに濃淡があるという。微妙な違いを多彩な表現で伝える辺りに、「京都の文化の高さがある」と指摘する。(後略)

京言葉の深さには正直舌を巻く思いもありますが京文化の言葉に対する思いが長い歴史に裏打ちされているのだと思いますが果たして京都在住の若者にも脈々と伝わっていたら良いのですが、果たして・・・。

『傾聴』の大切さを改めて理解しました

令和7年2月22日

昨日のコラムで上智大学グリーフケア研究所の実習生の事は書きましたので、昨日の15時30分からの最後の報告会に参加させて頂いた事についてお話します。

結論から言えば表題の通り「傾聴の大切さを改めて理解しました。」と言う事です。遡る事26年前に本部施設を開設して半年が経過した頃の本部施設は、職員の殆どはお客様を施設案内している時にも挨拶すら出来ない状況に唖然として、職員に「どうして挨拶もしないの」と聞いた時に「忙しくて挨拶どころではありません。」との答えが返ってきたのには、もう一度唖然としたのを昨日の事の様に覚えています。どうしてそのような状況になったかといえば、平成10年5月の事業開始だったので所謂『介護保険制度』ではなくて『措置制度』だったので、市町村長さんからの措置依頼により入居する時代であり、新規施設への入居は緩やかで5月末で5人、6月で15人、8月で25人であり定員50人の満床になったのは10月3日だったのです。

満床になったので「これからショートでの対応に力を入れよう」と思っていたのですが、その当時の職員の中には「今でも忙しいのに施設長は何を考えているのだ」と言う反発が強く、「施設見学なんてとんでもない」との考え方の職員が多かったのです。「十分な配置をしている」との説明に耳を傾けない職員から、退職届が多く出されて胃が痛くなったことがありました。その後職員としっかり向き合い今は『寄り添いケア』を意識した対応が出来る様になってきました。とは言え、職員が入居者さんとじっくり向き合っての会話はなかなか出来ないのが現実です。

そんな中でお受けしたグリーフケア研究所からの実習だったのですが、キャリアのある方ばかりだったこともあり、入居者さんへの問いかけと間を置いた対応により、難しいと思っていた方に対する働きかけもクリアして頂けたので、入居者さんにとっても有意義な5日間だったと思っています。受講された方にとっても今の仕事の中で生かして頂ける事も多かったと思いますし、勿論当施設の職員にとっても有意義なものになったと思いますし。施設としては丁寧にレポートして頂いたものを今後に生かしていきたいと思っています。

本日までの5日間の実習が終了されます

令和7年2月21日

今週の17日(月曜日)から上智大学グリーフケア研究所(大阪)からの実習生が来られていて、本日が最終日なのですが、毎日9時から17時30分までみっちりの実習だったのですが、私自身は良く5日間頑張られたと感心しています。

確かに受講生は素晴らしいキャリアの方ばかりで、尚且つどん欲な向上心には尊敬の域です。初日の17日には1時間程度のお話をさせて頂いたのですが今となっては私がお話をさせて頂いたのは「何と恐れ多い事だったか」と思っています。私は事前の打ち合わせの時に「せっかく遠くからお見えになったのだから夜の交流会も出来たら。」と言った事に対して「ホテルに帰られてからも半端ではないレポートがあるので」ときっぱりお断りをされたのには「凄い実習だな」と思ってはいたのですが「正に凄い」との一言です。

本日は15時30分から5日間の振り返りとしての総括の話し合いに私も参加させて頂くのですが、受講生の方も指導者の方も当施設に対してどの様な感想を持って頂けたかをしっかりお聞きして今後の施設運営に生かしていきたいと考えています。

勿論、このご縁をしっかりと受け止め「これで終わり」と言う事が無いようにしていきたいことを伝えていきたいと思います。全てが終了して「優・悠・邑 和合での研修で良かった。」と思って頂ける様に最後まで頑張ります。

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