幸せな人生。いつも私はいつも見守られながら人生です

令和8年5月4日

何たって私を産んでくれた秋江さんとの出会いです。秋江さんは私を真綿で包んだ様な見守りは私を常に幸せな気分でいられる最大のものでした。と言う過去形で語るべきではなくて今も遠くからだけれども(いや、直ぐ傍にいてくれているかも知れないですが)『ハラハラドキドキ』しながら見守ってくれていると思っています。勿論、父進さんも小さい頃は私が虚弱で一生懸命に支え見守ってくれていました。

高校2年の4月に母親代わりだった姉光子さんが急逝してからの父進さんは私が問題を起こした時には陰に陽に支え見守ってくれる存在でした。父進さんが80歳前になり認知症の様な症状が出た時には自分で言うのも変ですが『機敏な対応』をして薬の量が多くて認知症の様な症状になった時にその当時の大垣市民病院の先生の見立てで13錠から3錠に減らした事で症状が無くなった時に私は「私が心配ばかり掛けているから認知症になんかなっていられないと思っていた。」等とうそぶいていたくらいでしたから。(このように書きましたが本当は父進さんに手を合わせる気持ちが一杯なのであります。)小学1年から3年まで担任をして下さった近江長岡の塚原外尾先生も私があまりに頼りない小学生であったためか特に見守ってくれた存在だったと思います。

その頃は日曜日であっても『日直』のシステムがあり塚原先生が日直の時には母秋江さんが私と先生の分のお弁当を作って持たせてくれたので一日中塚原先生の傍にいた様に思います。私が高校2年生の時に姉光子が急逝した時に荒れた生活になっていた時にも担任の西田先生、生徒会顧問だった林先生にもしっかり見守って貰っていました。

大学時代は文化庁からの天下りの祝宮静先生から日本の将来についての貴重な教えを頂いたし、本来退学になってもおかしくない状況の時にも優しく見守って下さいました。大学を卒業してハチャメチャな教員だったと思うのですがそんな私を見守って下さったのが若原校長先生でした。児童指導員時代は思いっきり学習指導に打ち込みましたがそんな時にその当時の児童養護施設協議会の重鎮であった横川先生、浅倉先生、土屋先生には外部から見守って頂きました。

土屋先生の推薦があり吉田宏岳先生との接点が出来て児童養護施設を退職してから社会福祉法人杉和会を設立して事業開始するまで文字通り陰に陽に見守って頂き法人設立時には筆頭理事として重石を担って頂きました。まだまだ沢山の方に見守って貰っての今なのですが、決してその時に受けた恩は忘れずにこれからも頑張って行きます。

このコラムを書きながら私の生き方は所謂『ナンバーワン』では無く『ナンバーツー』として色んな形で支えさせて貰った結果が今に繋がっているように思いました。その意味ではナンバーワンの様な存在なのですが「相手の事を考えた展開」に努めていきたいと考えています。

出る杭は打たれると言いますが・・・

私の小さい頃は、出る杭は打たれる様な事は一切出来ない軟な子どもだったので、杭として出るどころか土中深く入っていた様な状況だったと思います。つまり、やりたいことがあっても全く出来ないで、グズグズしている様な子どもだったのです。守られている事に居心地の良さを感じている様な子どもだったと思うので、今の私にしてみたら、絶好に許せない子どもと言う事になるのですが。

そんな私が少しづつ出る杭の様になっていったのは、かつてのコラムで書いた様に四国遍路が契機になった事は間違いありません。つまり、困っている方がいると飛んて行く、まるで月光仮面かハリマオの様になってきたのです。但しこの頃は、文字通り出る杭は打たれる様な状態だったと思います。生徒会長としての挨拶で、先輩である3年生が騒いでいたので、喧しいと一喝した事が後で職員会議で問題になり、本来生徒会長が卒業式典の送辞を述べるのですが、それから外された事もありました。

大学生の時にも学生会の学術局長をしている時にも、納得がいかない事に教授会の席にまで押し寄せた事が問題になり、退学の憂き目にあった事もありました。いつから光子さんの様な猪の様な生き方になったのか!?、あの頃は出る杭は打たれる存在だったと思います。あれから40年以上の月日が経過した今は、出過ぎた杭は打ち切れない様な生き方になってきた様に思っています。

この様になったのは色んな事を実施して行く中で失敗する事も多くあり、その都度反省をして色んな事を学んできたからだと思っています。但し失敗した時には色んな方に助けられ、励まされての今だと言う事は重々分かっています。自分一人の力だと思ってきた時には、必ず大きく跳ね返ってきた事も理解しています。自分の為に汗をかくのでは無く、地域の為に困っている方の為にと言う揺るぎ無い信念に基づいた行動だからこそ、出る杭の様に見える行動も理解して貰えるのだと確信しています。少し格好つけ過ぎたかな?

余談ですが、私は小さい頃骨と皮だけで余分な肉が無い少年だったので、臍(へそ)が出ていたわけでもないのに出臍の様に見える状態でしたが、今は奥深くに臍があり臍は全く見る事が出来ません。

語呂合わせ、お豆腐も値上げ

語呂合わせ

朝のお参りをしている時に「今日はコラムに何を書こうかな」と考えながら歩いていることが多いのですが、文字通り朝は頭が鮮明になっているので『早起きは三文の徳』の様に、色んな事が浮かんできます。そして本日は4月29日のテレビで「本日の語呂合わせで4(し)2(ふ)9(く)の日です。」と言っていたのを思い出し「上手い事言うな。でも、「4(死んでも)2(に)9(くいひと)と言うのもあるな」等と、ニマニマしながら考えていました。そして、「日本語の数字は色んな読み方があるので、めっちゃあるので想像力が逞しくなるな」とも思った次第です。

 

お豆腐も値上げ

朝のお参りを終えて家の玄関を開けた時に、いつも新聞受けから岐阜新聞を取り出して、これもいつもの様に1面の見出しを見ると「豆腐も値上げ」と言う大きな見出しがあったので、ざっと朝風呂に入り(結構に背中に汗が流れているのです。)朝食を頂きながら新聞を見る少し行儀の悪い事をしているのですが、改めて岐阜新聞の1面の豆腐の値上げの記事を読んでいて思った事がありました。

その記事には「イラクでの戦争によって豆腐の入れ物が高くなり、間違いなく値上げをしないとしけない」と言う事が書いてありました。その記事を見た時に、昔の良き時代の事を思い出しました。それは、私が小さい時には、我が家から3分も歩けば行ける所で豆腐を手作りされている家があり、小さい頃は私が我が家の鍋を持って買いに行くのが私の役割でした。玄関を入り、奥の方に行くと大きな水槽があり、井戸4取って私が持参した鍋の中に入れてくれるのです。そのお店ではそこで作られた豆腐で、木の芽味噌田楽を焼いて頂くのも嬉しかったです。多分そこで作られた豆腐は水分の少ないコチコチの豆腐だったと思うので、確かに美味しかったです。ゴミを減らす為に入れるものを無くす努力も必要ですが、まさかスーパーに鍋を持っていく事は出来ないでしょうね・・・。

私の小さい頃とは随分違っています。

「何の事か」と言えば『田植えの風景』の事です。

私が60年程前の小学生の頃に『田植え』をすると言うと『家族の一大行事』であり『地域の共同作業』であったと思います。と言うのはその頃の『田植え』は『地域行事』の様なものだったと理解しているからです。何故ならば「自分の田圃は自分の家で田植えをする。」と言う概念では無くて『お互い様』の共同作業だった様に思います。大勢の人がロープで仕切った所にそれぞれ入り一斉に元気に話をしながらも効率よく苗を植えていくのです。

私はと言うと畦道に座ってお菓子を食べながら見ていたのだと思います。(その頃の私は畦道を走り回る様な子どもではなくて「ここで座っていなさい」と言われたら大人しくしていて母秋江さんから「大人しく待っていて偉い子」と言われるのが嬉しかった様な子どもだったのです。)大きな田圃に一人で田植え作業をするのはとてもしんどいことだと思うのですが、大勢で賑やかに話をしながら田植えをするのは「楽しみながら作業をするレクリエーション」のような要素があったのではないでしょうか。

そして60年後の今はと言うと「朝には水が張っていた。」と思っていたのが大きな田植え機を一人操作して夕方には田植えが終わっている。と言う感じなのです。水もに浮かぶ苗は60年前よりは細く頼りないものを感じると共に農作業もコミュニケーションの無いものになってきたと思うと少し寂しい気がします。機械化が進み効率化が出来たのは素晴らしい事に違い無いのですが・・・。

私が中学生の時の英語の先生が『今須と大垣の違い』を何度となく聞かされました。その先生が言われたのは「大垣は都会で隣の家の方とも挨拶すらした事が無い」と言う事でした。その頃の私は「そんな生活があるのか」と思ってただけでしたが、今は私も隣の家の方とも挨拶が出来ない状態ではありますが、少なくとも色んな方とのコミュニケーションは大切にしていきたいと思っています。

田圃に入る所の用水はゴーゴーと水が流れています

令和8年4月30日

「正に田植えが始まります」と言う状況で、どの田圃も田圃がおこされていて綺麗に水が張られているので朝のお参りの時に思わず水藻に浮かぶ山の景色を「美しい」と思い思わずスマホで写真を撮りました。

 

写真を撮り終えてしばらく歩いて行くと道路の側溝に水が流れていて「ゴーゴー」と勢いよく水が流れていたので、しばらく立ち止まり「ゴーゴー」の音を楽しんでいました。この時二つの思いが湧き出てきました。

一つには「今須は水不足も無く田植えを予定通り行えるので良かった」と言う事と二つ目は「朝早くにお参りで歩いているからこそ心豊かに感傷に浸れる」と言う事です。多分勢いだけで色んな事をしていた時にはこんな感情を持つ事は無かったと思うので。

38歳で児童養護施設の指導員を退職して若山家の生活を支える為に非常勤講師(多い時には週に13コマ)と6人の子の家庭教師をしてがむしゃらに仕事をしながら次の事業の計画を模索していた時期、その後児童の施設として『情緒障碍児短期治療施設』の計画を立てて、挫折してから高齢者施設の建設を決意した時期はそれこそ『3時間睡眠』が当たり前の生活だったので全く観賞の浸るような生活は考えられなかったと思うのですが、今も確かに毎日3施設の経営や高齢者施設がより良くなる為の展開の為にうごめいてはいますが施設の事も高齢者福祉の事も多くのブレーンが支えてくれているのでしっかりとした睡眠が確保出来ているので、感傷に浸れるし、ゆったりとした気分にもなれると言う事に感謝しています。

勿論今でも『瞬間湯沸かし器』の様な状況になる事もありますが決してその事を引きづらないでいられるのは、私一人で抱えなくても良くなっているからだと思っています。色んな事を考えるのに幅が持てる様になってきた事にも感謝です。本日で4月が終わります。5月は私の誕生月でもありますので今まで以上に『攻め』の気持ちを強く持ってより頑張って行きたいと考えていますのでこれからの展開にも宜しくお願いします。

そう言えば明日5月1日は岐阜県グループホーム協会代表の加藤さんが岐阜県議会議員を連れて盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の見学に来て頂けるので盲養護老人ホームの存在をアピールしていきたいと思っています。

大いなる疑問・・・でも、そういう事かな!?

関ヶ原町の広報が来たので『人口と世帯数』の欄を見ていて不思議な現象に気が付きました。

それは人口総数5963人で前月比24人の減。男性は2905人で前月比8人減。

女性は3058人で16人減と文字通り右肩下がりであり、まだまだ人口減の傾向に歯止めはかからないと思われます。

そんな中での『大いなる疑問』は人口減にも関わらず世帯数は2624世帯で13世帯増えているのです。

「この現象はどういうことだ。」と思った時に一つ思い浮かんだ事があります。

それは、当施設のある本部施設内の敷地内に1Kのアパートが20室あり、外国から特定技能の介護の資格を取得して来てくれた職員がいて「一人で来たが1世帯だ」と言う事で世帯数が増えたことがあったので「このために世帯数が増えたのだろう」とは思いましたが、13世帯も増えたにも関わらず人口が24人も減っていると言う事は『高齢者のみ世帯の夫婦の内の片方が亡くなって単独世帯になったので人口は減ったが世帯数は減らずに外国人が多く関ヶ原に住むようになって世帯数のみ増えた』と言う現象がおきていると思われます。

スマホで関ヶ原町の人口を検索したところ1975年(昭和50年)が10.718人で1985年(昭和60年)が10.147人と10.000人を維持していたのが30年後の2015年(平成27年)には7.419人と言う事で文字通り右肩下がりで、その傾向の歯止めが利かず5年後には2020年(令和2年)には6.610人になり現在はついに6.000人を切ってしまったと言う事です。

私は思っています。

「1970年代に関ヶ原町の将来を担う施策を立てていた方々は何をしていたのかと。将来設計も立てずに補助金が貰える施策のみに走ってしまったのではないか」と穿った思いを持っています。

と言うのは一つの現象でしか無いのですが、今須の宿場町には本陣が現存していたのを惜しげもなく壊してしまい生活改善センターなるものを建設しています。

今となっては再興のしようがないのですが、現存していたら岐阜県内で最も古く建立された曹洞宗別格本山の妙応寺と刀傷のある柱も残っている庄屋の家がジョイントしたら『歴史の街』として観光客も多く押し寄せてきて、ひょっとすると私は我が家は門前にあるので『団子や焼きそば』を売っている人生もあったのでは・・・。

岩手県大槌町の山林火災に思う

4月22日13時53分頃に発生した岩手県大槌町で発生した山林火災は乾燥と強風の為、昨日7時の段階で焼損面積は1618ヘクタールで未だ鎮火に至っていない。と言う情報を耳にして、消火に当たっている方々の大変さと山林火災の近くの住民の方の不安な状況を考えると心が痛みます。

東北地方では針葉樹が多いと思うので例えば杉や檜には油を多く含んでいるので一旦燃え出すとなかなか消えないし『乾燥』と『強風』の影響を受けているので消火に当たられている方々が一生懸命に鎮火の為に頑張られているにも関わらず目の前で燃え広がって行く現象に忸怩たる思いがあり、疲れも取れない日々だと想像できます。

朝のお参りの時に田植えの為に水が綺麗に張られていて山が水もに浮かんでいるのを綺麗だと思え、川の水もしっかり流れているのを見る事が出来るのは「当たり前の景色なのに何と幸せな事か」と思えるのは「雨が降らなくて鎮火に至っていない」地区の方には申し訳ない気持ちになります。火災発生から今日で1週間で、雨も大して期待出来ないとなるとまだまだ厳しい状況が続くのでしょうか。

ロボット・ICTの技術が進みマラソンでも人間の能力より圧倒したり、学力においっても東大入試の問題を解いても断トツに人間の能力を越したとの報道が最近富に聞こえてきますが自然災害においても解決する術が見いだせるのでしょうか。私は災害が起きた時の備えとしては、先ずは『食べる』事に対するものが大切だと思っているので昨日実施した本部施設での大鍋、大釜を活用してのタケノコ祭りは実は災害対策としての意義もあると考えています。だって味噌汁もご飯も200食以上の方に喜んで貰えたのだから。つまり、『備えあれば患いなし』喜ばれながらの防災対策は実際に役立つ事が無いに越したことはありませんが大切だと考えています。

本部『タケノコ祭り』の報告です

朝のお参りではポツポツの雨だったので、山崎ていじさんの赤いタオルで頬被りをして出掛けました。幸福地蔵様では、いつもの様に抱きつきのお願いをしている時に「9時には雨が止み、楽しくタケノコ祭りで入居者さんと楽しく出来ますように」とお願いしました。今は7時30分なので、果たして・・・。

9時30分着火式と言う事で9時に本部施設に行き、準備の様子を確認に行くと既に大鍋も大釜も具材も入れて、薪の井桁積みも出来ていたので「9時30分の予定通りに着火します。」と言ってスマホのアラームを9時30分にセットしてから準備についての対応について聞くと「宿直者の吉田副施設長がタケノコの刻みをしてくれて、夜勤者の伊藤係長(元コック)が上席者の確認を得て手伝いに来てくれて、水野係長中心になって準備をしてくれた」との事だったので「本部施設にはお祭り男が沢山いて有難い」と思った次第です。9時30分のアラームで盛り塩はしてあったのでお酒を大鍋と大釜の周りに振舞い、残ったお酒は大鍋と大釜に入れてから着火をしました。井桁に積んだ薪は良く乾いていたので直ぐに燃え上がり「順調に出来上がりそうだ。後は私の濃い味付けで完成だ」と言って後の事は水野係長と伊藤係長に任せて、事務所で仕事をすることにしました。

正直私が介入しなかったからか?お焦げは最低限で、タケノコご飯もタケノコの味噌汁も上手な出来上がりで、タケノコご飯は山盛りでタケノコの味噌汁はどんぶりでお腹いっぱいに頂きました。入居者さんはいつもと違っておかわりをして、いつも以上に満足そうにして見えたのは本当に嬉しい限りでした。厨房に聞いたら、お昼に提供するご飯は5㎏だということなので、いつもの倍のご飯だったのと水野係長の火の対応が良かったので、厨房の方にも自信を持って食べて頂きました。食べる事だけではありませんが『今日一日楽しかったよ』の展開を頑張って実践していく事によって、入居者さんに元気な笑顔が多く見られることに喜びを持って益々頑張りますので、リピーターの皆さん宜しくご支援下さい。

楽しい事は多いに越したことは無い

令和8年4月26日

昨日午前中に元社会福祉法人杉和会理事長宅で3施設それぞれの施設で活用出来るものの整理にそれぞれの施設の職員が来て作業をしてくれて、本部施設に帰って来て、貰って来たものを車から降ろしている時に「タケノコの味噌汁とタケノコご飯を作って『タケノコ祭りだ』と盛り上がり、「タケノコの量は大丈夫か」と言うと水野係長が「タケノコを獲ってきます。」と言って竹藪に行き9本の大きなタケノコを獲って来て「タケノコの湯がきの準備をしますので点火については理事長お願いします。」と活き活きと言うので「流石に祭り男だな」と感心すると共に「手回しの良さも流石だ」と舌を巻くような手際良さでした。

職員が家で獲れたタケノコと以前に獲れたタケノコ合計で25本は既に湯がいてタッパーに入れ毎日水替えをして貰っていていつでも煮る事が出来る状態になっているのでつくづく思ったのは「今年はタケノコの生り年何だ」と。「だからこそのタケノコ祭りだ」と言う事で明日を前にしてワクワクしています。

これから大垣にある業務スーパー『アミカ』に買い物に行くのですが「ご飯の中にちくわを入れよう」「彩の為にニンジンも入れよう」「米の上に大きな昆布を乗せよう」等と目を輝かせながら話をしています。ご飯を炊く鉄釜は一斗(10升・15㎏)炊けるのですが、流石にそこまでは食べきれ無いのでただ米8㎏と餅米2㎏の計10㎏に一杯のタケノコ等々を入れて作る予定です。

明日炊けてからの『お焦げ』の争奪戦の事を考えると益々ワクワクしてきます。さてさて明日は火の番をしながら入居者さん、利用者さんの笑顔をどれだけ見られるかを考えながら買い物に出掛けます。

今は怖い時代です

当法人の方針として「施設での出来事をその日の内にホームページにアップして皆さんに見て貰いたい。職員に毎日頑張って入力して貰う為には理事長である私自身が率先垂範しなければいけない。」と言う事で私も毎日『理事長コラム』を書いているのですが4月23日の原稿をアップして貰ったのですが何度アップしようとしても出来ないとのです。そこでホームページの管理をお願いしている業者に確認して貰ったところ「管理しているサーバー(基地のようなものだとの事です。)に対して攻撃されているのでしばらくはホームページが使用出来ない状態なので、攻撃が防げるように対応しているので今しばらくお待ち下さい。」との連絡。

但し私が不満だったのは本部施設の五次副施設長が23日の13時30分頃にホームページを管理している担当者に連絡したにも関わらず私が五次副施設長に17時頃にコラムのアップが出来ているかの確認をした時に「連絡はしたのですが未だ何も言ってきません。」とこれもおっとりとした答えが返ってきたので私は「いらっ」としながら即担当者に連絡すると「管理している云々」の話しだったので「理由は分かったけど分かった段階で教えてよ」と素直にクレームを付けました。その後何度も自分のスマホで『杉和会』を検索しても開くことが出来なかったのです。

だからリピーターの皆さん「決してコラムの原稿を書かずに連続記録を継続しなかったのではありませんので。」比較すべき連続記録では無いですが「大谷選手の連続出塁記録は途絶えても私のコラム連続記録は途絶えませんので」私が苦情としてのメッセージを送っても24日にはサーバー攻撃の対応が完全には出来なかったようなのですが(時間帯によっては出来た様ですが)午前1時50分にホームページ管理をして頂いている担当者から「復旧が出来ました」との連絡が入った事を出勤時の9時前に聞いて「ほっ」とすると共に「今は怖い時代だ」と思った次第です。

アサヒビールのサーバー攻撃でマスコミを賑わしていましたが当法人までその影響を受けるとは「トホホ」と言う感じです。

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