「人間は一生難しい年頃」
令和5年5月9日
朝の妙応寺本堂の大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉です。「確かにその通りだ。」と思うと共に「私は一生懸命の中で火中之栗を拾うから、特に自分の生き方を難しいと言うか苦しい状況にした生き方をしているな。」と改めて思っています。先般福岡県岡垣町での社福百周年で出掛けさせて頂いた時に、ずっとご一緒だった愛知県新城市の太田先生と色んな話をさせて貰うなかで「お互いに仕事以外に何かしたいことあるのか」と言う話になった時に、お互いに「何も思い当たらないな。」と口を閉じるしかなかったのです。その時私は強がり半分で「私の趣味は仕事と言っているから大丈夫です。と言ってるよ」と思わず言ってしまったのですが、太田先生は「若山さんの様な生き方にはならないなあ。」と言われてしまいました。でも、私の生き方は火中の栗を拾う生き方の中で、色んな方々のご支援やご協力を得て厳しい状況を抜け出しては少しずつ私自身が強くなってきたのだと思います。
私の原動力は「地域のニーズに合わせて」が基本です。私は38歳の時に児童の中で反社会・非社会の子ども達のサポートがしたい。と言う事で児童養護施設を辞しフリーになり大学・短大・専門学校の非常勤を週に13コマを受け持ちながら残りの時間を子ども達のサポートに徹しました。しかしながら若山家の家計が破綻寸前になり、拠点となる情緒障害児短期治療施設の建設に没頭した時期がありましたが、「岐阜県の計画にここ10年間は計画に無い。」と言われて挫折した時期(何日も布団の中から出る事が出来なかった。)を経て、特養建設を進める為に地元のニーズ調査から始めて、児童養護時代のネットワークを活用して施設見学に行かせて頂きました。全くの知識も無い中での施設見学だったので、ぶしつけな質問も多かった事だと思いますがそれぞれの施設の責任者の方は誰もが親切だったのは、今でも有難かったと思っています。
高齢者施設計画を始めたのが平成7年(1995年)から28年が経過しているのですが、本部施設本館建設に際しての土地の決定には紆余曲折があり、その時に土地の交渉を人任せにする事によっての苦い思い出は、今も生きた体験となっています。本部施設本館が開設しての1年は文字通り「生みの苦しみ」でした。と言うのは児童養護施設の理念をそのまま特養に導入した事と、法人の経営が脆弱だったので非常勤講師を週3日して、尚且つ措置施設と言う事でなかなか入居が充足しなかったので、先代の理事長を乗せて市町村回りを行っていたので、職員との乖離が出来て、退職者も多く出て(白い封筒乱れ飛ぶ様な状況でした。)
私自身が自ら施設長を降りて現場に入る毎日を送った1年半は、苦しくもあり充実した日々でもありました。そして、今は盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の稼働率も悪く経営が厳しい状況が続いていますが、本部施設と和合施設からの資金援助で何とか経営が出来る目途が立ってきているのですが、目途が立つ前は少し寝たと思ったら寝汗をかいて目が覚める毎日に恐怖を覚えていました。その時は銀行からの変換計画に対するご理解を得て、節約の徹底も職員一丸になって対応して今があります。盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)については文字通り火中の栗を拾う事だったのですが何年かしたら、単独でも健全経営が出来る様になると確信しています。「こんなにしんどい思いをしなくても」との考え方もあると思う事もありますが、私自身目一杯の頑張りの中で地域貢献をしていきたいと70歳の誕生日をこの16日に向かえるのですが、今もその気持ちで満ち満ちています。