牛に引かれて善光寺参りと言いますが

私の今朝の心情は「猫を探しに若宮神社参り」と言う事でしょうか。と言うのは我が家の飼い猫「おもち」が玄関先から出てしまってから既に5日目。私が施設から帰ってきた時の奥様の表情が暗いのです。奥様自身がほんの少しの時間ですが玄関の戸を開けておいた事による後悔が、増幅しているのだと思います。一昨日も、私の運転で名古屋に行く道に動物が跳ねられたのがあったのを見て、「おもちも何処かで車にひかれていたら可哀想だ。」と口に出されると返す言葉が無いのです。

そんな中で、昨日夕食時に奥様から「探しに行きたいけれど足が思うように動かないし、痛いので行く事が出来ない。」と言われたので私は寝る前に「明日の仏間での祈りとお墓参りの代わりに地元の若宮八幡神社(片道約2キロ)まで歩いて行き、おもちがいないか探す事にしよう。」と言う事を考えて寝ました。いつもの4時25分のアラームで目覚めて、いつも以上にテキパキと着替えて1階に降りて、神棚と仏壇のお水を替えてから外に出ました。(多分4時50分頃だと思います。)

いつものお墓参りの時は色んな所で祈りをしているので、歩数は伸びなくても結構時間がかかるのですが、25分で若宮八幡神社に着きました。しかしながら神社の本殿は高い所にあるので、石段が5段、7段、8段とあり、最後の38段は階段が急で正直這いずる様にしながら一機に上がったのですが、正直息が切れました。しっかりと祈願をしてから下に降りる時は慎重に歩いて、無事に下りる事が出来ました。若宮八幡神社に向かう時は住居がある旧道を歩き、帰りは広い新道の歩道を歩いたのですが、残念ながらおもちを見つける事は出来ませんでした。おもちの為に大好物の「チュール」と言う食べ物を2本持って行ったのですが、意味のない行為になりました。

家に帰って「若宮八幡神社まで歩いて探しに行ってきたけれど、残念ながら見つからなかった。」と報告をして、7000歩歩いて結構に汗かいていたので、お風呂に入ってから出て来てもまだ6時30分だったので仏間に行き、祈りと共に正信偈と般若心経を唱えさせて頂きました。自分で言うのも何ですが、私はこんなにも時間を有効に使う事が出来る様になったと自画自賛です。

ところで、奥様のおもちへの愛情は計り知れないものがあると思います。と言うのは軒下にいつも寝ていた布団を敷いて、これもいつも使っていた入れ物にキャッツフードを入れているのです。食べ物については夜中の内にしっかり食べてあるのですが、おもちが食べたのかどうかは定かでありません。私は多分おもちが食べたのではなくて、家の周りを縄張りにしている黒猫の仕業だと思います。だって黒猫に追いかけられてから、おもちは家の周りから居なくなったのだから。でもこの事は決して奥様には言えないです。早く奥様が元気を取り戻す為にも早く帰ってくれることを、リピーターの皆さんも祈って頂けると嬉しいです。

ぎふ就職氷河期世代活躍プラットフォーム第7回会議

本日13時30分から岐阜合同庁舎5階会議室において開催されました『ぎふ就職氷河期世代活躍プラットフォーム第7回会議』についてこのコラムで語る事にします。先ずは『就職氷河期世代』についてインターネット情報ではありますが書く事にします。【就職氷河期は、日本において1991年(平成3年)のバブル崩壊の経済的な不景気(不況)以降に就職難となった時期を指す。就職氷河期に該当する世代は大卒では1970年(昭和45年)4月2日から1982年(昭和57年4月1日までに、高卒なら1974年(昭和49年)4月2日から1987年(昭和62年)4月1日に生まれた1993年から2005年に社会に出たり、2000年前後に大学を卒業した、2023年現在において40歳前後や30代後半から40代後半を迎える世代のこととされていて2023年時点で50歳以上の人も該当するケースがある。リクルート社の就職雑誌『就職ジャーナル』1992年11月号で提唱された造語であり、バブル景気から一転して急落した就職難の厳しさを氷河期に例えたものである。この時期に新卒での就職が困難となった世代は就職氷河期世代と呼ばれ、のちに略して「氷河期世代」と呼ばれるようになった。)との説明を書きながら私は自分の法人の職員採用の状況について考えています。本部施設本館が事業開始したのが1998年で新館の事業開始が2004年で文字通り「氷河期時代」だった為か新規採用には何ら困る事がなかった。ところが今の新卒者は福祉とか介護を学んできても、全く福祉や介護とは関係の無いところに就職する方も多くいると聞いています。尚且つ介護の専門学校の学生の多くは外国人留学生だと聞いています。「氷河期時代」に就職出来なかった方がそのままいわゆる「引き籠り」になっているとすると、「20年の間にどの様な対応がなされてきたのかを紐解かないといけないので問題は奥深いものがある」と言えるのではないか。氷河期時代の方が『介護』を就職先として選んで貰い確実な戦力になれば多くの事が解決するのですが。解決する道のりはかなり厳しいものがあると思います。具体的には如何にして氷河期時代の方と介護をマッチングさせていくのか。そして、介護に興味を持ってくれた方々にどの様に指導してスキルを高めて貰うのか・・・。課題は山積していますが解決出来たら凄い事だと思いますので岐阜労働局や岐阜県商工労働部と岐阜県老施協が連携を取り頑張れたらと考えています。ここは一番一挙両独の為に頑張ってみようと思います。土地も無いお金も無い私に特養など造れるわけがない不可能と言われていたのが25年前です。業界の為に頑張って行こうと思いますのでリピーターの皆さんも良い知恵があれば教えて下さい。

気が付いてくれると嬉しいのですが・・・。

当法人は職員との情報提供のツールとして、パソコンで「福祉見聞録」と言うものを導入しています。と言う事で、それぞれの職員の出勤時及び退勤時に検索して確認をするシステムにしています。昨日私が退勤する前に理事長としての指摘として新規登録の入力をしました。

その内容は電気の更なる節約の為の指摘をさせて頂きました。と言うのは、私が退勤する前に(18時頃)入居者さんの部屋を確認に行くと、既に各部屋の常夜灯が点いているのです。6月と言えば日の入りが遅い時期でまだまだ暗い状態では無いのです。事務所に戻ると事務長がいたので「今の状況で何時に常夜灯を点けるのが良いと思うか」と聞くと「19時で十分だと思います。」と言うので、福祉見聞録にその旨を書きました。多分本部施設の幹部職員なら「19時で徹底します。」的な起案が出てくると思うのですが、私が期待しているのは常夜灯を点けるタイミングだけではなくて、朝の常夜灯を消すタイミングまでの提案が出てくるかどうかを考えています。何故なら、私は毎朝4時25分のアラームで行動を開始するのですが、最近4時25分に目覚めた時には外が明るいのです。つまり今の時期は4時過ぎに常夜灯を消しても何ら困らないと言う事です。本部施設の幹部が朝の提案までしてくれたら「流石に本部施設の幹部職員は素晴らしい。」と言う事になるのです。

しかしながら、夜の提案だけだとすると「指示された事は出来るけれども気付きは今一」と言う事になるのです。私は本日、奥様の足の診察の為に名古屋の病院へのお抱え運転手で、本日は名神高速道路のリニューアル工事で大渋滞と言う事で、家を6時20分に出たにも関わらず予約時間の9時ギリギリにしか着かない状況があったので、検査後の診察を終えると11時頃だから本部施設に帰れるのは途中で昼食を食べて一般道路を走るとなると15時くらいかな。とにかく本部施設に着いたら起案書の確認をして「しめしめ、本部施設の職員はいけてるぞ。」となるのか、「う~ん。そこそこなのか」それとも「全くがっかりだ。」になるのか自分の施設の評価を自分でするわけですが今から「ドキドキ、ワクワク」しています。

本部施設に帰って確認すると、結果としては今の時期は19時点灯で5時に消灯と言う結論を持ってきて、但し「季節や天候に応じての対応をします。」とのことで完璧な答えに安心すると共に誇らしく思いました。そして、幹部職員との打ち合わせの中で今後は6月、9月、12月、3月には時間の変更をして徹底していく事を確認しました。今までにも街灯の時間を調整したりしていましたが、業務的な対応になると考え方が硬直化してしまうので「起承転結」のサイクルが円滑に行く様にテコ入れをしていきたいと考えています。リピーターの皆さんこれからも役職員一同切磋琢磨していきますので今後共宜しくお願い致します。

奥様にとっての一大事

令和5年6月5日

昨日報告した職員の昇進祝の宴に提供しようと考えていた石川県の銘酒『菊姫』を、我が家に取りに行った15時30分過ぎの事です。玄関先から奥様かをりさんに取って貰おうとすると全く元気が無いので、「どうしたのか」と聞くと「奥様がめっちゃ可愛がっている(食事等の提供者である私には、今でも毛を逆撫でて歯を剝いてくる事が度々なのですが・・・)猫の『おもち』は、奥様が庭木作業に来られる予定の時間前に植木鉢を移動させている時に、玄関の戸が開いていて外に出てしまって未だ戻って来ない。」との話をしている時の様子が全く持って『意気消沈』と言う表現がピッタリ当てはまる状態なので、どの様に声を掛けて良いのかわからない状態でした。

その後私は昇進祝の宴があるコミュニティーハウスに行き、準備と宴を終えて家に帰ったのが20時過ぎで、家に送って貰い家に入ると暗い表情の奥様が椅子に腰かけているので「まだ帰って来ないの」と声を掛けると、暗いままの顔のまま「屋敷の外でこの辺りを縄張りにしている猫に追いかけられていたのは見たのだけれど・・・。その後は見ていない。」と言う事なので私は「屋敷周りを見て来るは」と懐中電灯を持って外に出て、東側の道路を懐中電灯で照らしながら歩いていると、我が家の敷地内の狭い通りを走って行く姿を発見して大きな声で奥様に聞こえる様に「そちらの方に走って行ったぞ。」と声を掛けましたので、確かに奥様の方に向かって行ったのですが、残念ながら捕まえる事は出来なかった様です。あんなに可愛がっていた『おもち』に逃げられたので、奥様のショックは大きかった様ですが、家の周りにいた事を確認出来たのは少しの安心だったと思います。

私にとっては、いつもの朝が来て4時25分のアラームでの行動開始をして、仏間での祈りとお墓参りの為に外に出るまではいつもの通りだったのですが、いつもと違ったのは、直ぐにお墓に向けて歩くのでは無くて、我が家の外回りを隈なく探してからお墓に向かいました。但し残念ながら『おもち』は見つかりませんでした。お墓のお参り後の朝食の時に奥様にその報告をしたのですが、奥様は意気消沈していて「おもちが見つかった夢ばかり見ていた。」との事だったので、奥様の落胆ぶりは想像以上だったのだと思います。

余談ですが、おもちを探す為に玄関先の庭にある古木の紅梅を何度となく見ていて改めて「凄い生命力だ。」と思うと同時に「栄養は皮の部分から浸透するんだ。」とも思った間いです。奥様が悩んでいる時に申し訳ない話かと思いましたが、私にとっては私が生まれる前から存在している古木の紅梅も大事なので。

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本部施設がある地域の「ごみゼロ運動」に参加しました

令和5年6月4日

8時30分に地元の白山神社集合と言う事で、8時前に施設に着くと既に本日公休の職員が3人も来ているのには感謝しかありません。その後続々と休みの職員が集まって来てくれて、総勢11名が集まった段階で白山神社に向けてみんなで歩いて行きました。既に10名くらいの地元の方が集まってみえたのでそれぞれにご挨拶をさせて頂き、地元の方々と雑談をしていると8時30分になり、区長さんの挨拶後に何方向かに分かれてごみ拾いを開始しました。既に田植えが済んだあぜ道は綺麗に草刈りがしてあるので殆どごみらしきものがなく、ましてや空き缶などは全く無くて、ごみの収集場所で地元の方と分別をしてほぼ30分で終了したので、それぞれに地元の方にご挨拶をしてから施設に戻りました。

そしてしみじみ思った事は、平成8年(1996年)に施設の開設をする為の地元説明会では合併浄化槽に対する理解が得られず、また、実際の工事車両に対する理解を得るのが難しかった事や、平成10年(1998年)に事業開始をして、開設当初は救急対応が多くて「夜のサイレンがうるさい。」とのクレームを多く頂いていたのです。今は救急対応など殆どなく、地元のボランティアの受け入れも多くあり、特に夏祭りには多くの地元住民も来て頂けるので「敷居が高くない関係」になった事によって地元からの信頼度は高まり、今朝のごみゼロ運動においても「たくさんの職員が来てくれてありがとう。」と多くの方に声を掛けて頂きました。

「十年ひと昔」とは言いますが、事業開始をして25年の月日によって『信頼関係』は確実に構築されてきたと思います。それどころか『地元の安心』に寄与出来ている事は確かな事だと思います。但し、その事実はありますが決して驕る事無く職員一同より切磋琢磨すると共に、スキルアップして参りますのでリピーターの皆さん地元の皆さん今後共尚一層のご理解ご協力をお願いします。余談ですが本日17時30分から本部施設敷地内のコミュニティーハウスにおいて、2人の職員の昇進祝を幹部職員総勢9名で行います。この様な事も大切にしながら一歩一歩確実な歩みをしていきたいとも考えています。

新たな気持ちで

昨年の今日から始まった朝の仏間でのお参りと妙応寺、今須稲荷経由の我が家へのお墓参りが2年目に突入しました。昨日の様に強い雨が降っている時も風が強い時も、雪が激しく降っているときも極め付きはお酒を飲んで遅く帰ってきた時も頑張りました。正直お酒を飲んで遅くなった時の朝の4時25分のアラームは無視したかったのが一番の危機でした。 その時はとにかく大きな声をあげて「エイヤー」で起きて、何とか仏間でのお参りを終えて外に出てもフラフラでしたので、いわゆる「飲酒歩行」の様な状態だったと思います。それでも頑張りました。

この1年を振り返って思うことは「私がこんなに意志が強い人間だったかな。」と言う事です。だって小さい頃の私は夏休みの日記にしても1日目は気合いを入れて2日目にはそこそこに3日目にはいやいや書いて4日目には脱落していて夏休み終了間際に私にとってこの世で一番怖かった(今は過去形ですから)春子お姉さまに睨まれながら尚且つ半べそ状態で書いていたのを今でも覚えている位の情けない子どもだったのですから。

いつからこんなに意志が強い人間になったのかといろいろ考えてみるに、中学を卒業するまでは対人恐怖症の赤面症を半ば演じていて、高校はマンモス高校で私の過去を知っている同級生はいなかったので対人恐怖症の赤面症状を演じる事から解放され尚且つ高校2年の時に母親かわりの頼れる姉光子さんが急逝して糸の切れた凧状態で無茶な事をしても自己責任で(とは言えその頃学校長をしていた父進さんが全面的に守ってくれたお陰なのですが)かなり自分の意思で 色んな事を決めて出来るようになってきた事は事実です。

しかしながら自分で何がしたいかわからない状況の中で運良く児童福祉に巡り会えたのは幸運だったと思います。児童養護施設での13年間の中でおもいっきり自分がやるべき事を自ら決めて実践して、自分が目指す方向が決まり自信を持った実践が出来て来て、後は地域のニーズに合わせた展開をしてきて今があると思います。但し、盲養護老人ホームの事業展開は私が思っていたようには運営が出来ず厳しい経営状況があり、歯を食い縛る毎日だけでは解決しない厳しい日々が今も続いています。しかしながら何とか踏み留まっていられるのは多くの方の支援やアドバイスがあった事であり、尚且つ私に強い信仰心があったからだと考えています。だからこそどんな事があっても我が家へのお墓参りが出来たと思っています。

今、コラムを書きながら私の強い意思を育ててくれたのはやはり四国八十八か所の団参からだと思いました。だってそこからの人間関係が私を育ててくれたと言っても過言ではないから。でも、17歳の時の四国八十八か所との出会いが今に繋がっているとしたら頑固な53年と言う事になるのかな。リピーターの皆さん、私はこんな人間ですがこれからも宜しくお願い致します。

朝から結構な雨です

令和5年6月2日

一昨日の東京出張から昨日はコラムに書いた様にバタバタで正直4時25分のアラームでの行動がきつかったのですが、寝ながら肩をグルグル回してゴキゴキ音を立てている内に段々目が覚めてきたので次にいつものベット上での寝ながら体操をしてから「エイヤー」でベットから跳ね起き(とはいえ重い体ですから「跳ね起きのつもり」にしか見えないかも知れませんが・・・。)1階に行きいつもの様にお賽銭の準備をするのですが、いつもだと幸福地蔵菩薩様に10円、妙応寺の本堂で1円、5円、10円(いいですか、ご縁を充分に頂けますように)、今須稲荷で1円、5円、10円、50円(いいですか、ご縁を充分に頂き、五重の幸せを頂けますように)、六地蔵様に10円を準備するのですが10円玉が1個も無かったので「どうしたら良いのか」とぼーっとしながら考えているとなかなか持って行くお賽銭が決まらず時間ばかりが経ってしまいましたが仏壇で正信偈と般若心経を唱えだしてからはシャキッとしてお墓参りに行く頃には元気そのものになりました。

但し、家を出ると結構な雨が降っていましたので背中にリュックサック、右手の金剛杖、左手に傘をさして出発しました。雨脚はますます強くなってきましたが頑張りました。但し、家に着いた時にはウォーキングシューズの中はしっかり水が入っていました。午前中に岐阜市内の弁護士事務所での打ち合わせがあり、岐阜に向かっている運転中、所によっては強く降ってくる事があったのですが、帰りの運転では前が見にくいような降り方の所もありましたが無事に本部施設なで帰ってくることが出来ました。

ホッとして昼食を頂きました。(本日は厨房の食事がなかったのでお餅とパンを食べました。)昼食を頂いてからふと思ったのは本日が6月2日だと言う事です。「何を急に言い出すのか」とリピーターの皆さんの中には思われた方もあろうかと思います。種明かしをします。実は昨年の6月3日から若山家のお墓参りが始まったのです。と言う事は本日で丁度1年間毎日それこそ「雨の日も、雪の日も、まだ夜が明けていない暗い時も歩いた記念すべき日」と言う事です。

正確に言うとコロナワクチン接種で熱を出し行けなかった日が3日と、東京出張で宿泊を伴った日の3日は歩けてないので完全にはまるまる365日ではありませんが「意志が弱く歩けなかった日は一日も無し。」私としても自画自賛です。そう言えば、風邪一つひかずに1年続けれたのは「ひ弱だったひろし君」では考えられなかった事。13歳で他界した母秋江さんが生きていたらお赤飯でお祝いものだなと思っています。健康でいられるのは神仏と先祖のお陰と真に思っている私なのであります、

 

 

流石にバテています。

昨日は4時25分のアラームでの行動から仏間での祈りとお墓参りを済ませてからお風呂に入り外出着に着替えて岐阜羽島まで運転しながらの朝食(おにぎりですが。)をとり、駐車場で少し時間があったのでリンゴをゆっくり車の中で食べて岐阜羽島駅に行き往復切符を購入すると7時5分の列車の時間まで10分と言う事で改札を通りホームに行くと待ち時間があるのか列車が入って来て席が確保出来ました。東京まで約2時間の間にメールでの対応をしたりガラケーの携帯でコラムを打ちこんだりしているとあっと言う間に時間が過ぎてそこからは全国老人福祉施設協議会本部事務所での対応に追われ16時33分発の新幹線に乗るまでは緊張の連続で家に着いてからはお風呂と夕食を済ませてからは爆睡しました。但し、良く寝たはずなのにいつもの4時25分のアラームですっきりとは起きれなくて10分以上ベット上で葛藤していましたが何とか行動を開始してからは仏間でのお参りもお墓参りも何とか実施出来たのですが、体が重くて(お腹が出ているからではありませんよ)もたもたと行動していて「昨日とは雲泥の差だ。」と思いながらも何ともならない状態でした。但し、施設に行ってからは「体が怠い」事を職員から見抜かれない様にしていました。と言うよりも打ち合わせする事が多くて「体が怠い」等と言っておれる状態で無かったのがありがたかったです。打ち合わせが予定以上に時間がかかり12時20分には県社協の理事会が有るので出掛けなければいけなかったので昼食は丸のみの様な状態で喉に流して食べて、それでも5分遅れの12時25分に施設を出ました。この時期は何ヵ所かで道路工事をしていてイライラもしましたが会議会場に13時25分に席に着く事が出来ました。私が席に着いたら事務局から「少し予定の時間より早いですが出席予定の理事さんは全員揃われましたので理事会を初めていきたいと思います。」と言う事で息つく暇もなく会議が始まりました。会議自体は15時の予定より少し早く終わったのですがご挨拶をさせて頂いていて15時になり、岐阜県老施協事務局に打ち合わせの約束をしていたので事務局に行き打ち合わせをして、17時に本部施設に帰って全く打ててないコラムを打っています。体が疲れていると頭も働かないのかなかなか原稿が進みませんでしたが何とか打ち終えました。今は18時27分です。明日は本格的に雨が降るとの予報ですが家に帰ってゆっくりお風呂に入り夕食後はリラックスをして明日も4時25分のアラームでの行動開始とします。

時間は産み出せるものだと思いました。

令和5年5月31日

本日は全国老施協の常任理事会が午前10時からあり、午後は引き続き理事会があるので岐阜羽島の始発で(7時5分発)東京に出掛けるので、昨夜寝るときには「仏間でのお参りだけにしよう。」と思っていました。いつもの様に4時25分のアラームで目覚めた時に「マックスでテキパキすればお墓参りまでいけるぞ」と瞬時に考えて、文字通りマックスでテキパキで行いました。手を抜いたとしたらリュックサックの水の補充をしなかったくらいで、仏間でのお参りを終えると5時15分です。「やれば出来る。」と思いつつ外に出たら、頭にポツポツと雨粒が当たりましたが「これは益々急ぎなさい。との仏様のご自愛」と考えて、傘も持たずに急ぎ足で歩きました。

「手抜きはしない。」と決めていたので、幸福地蔵さまのお参りも、妙応寺のお参りも、今須稲荷様のお参りも、六地蔵様のお参りも、もちろん我が家のお参りもお経も手抜きは無し。但しペットボトルの水の補充をしていなかったので、お水は節約していれました。我が家のお墓でピッタリ水が無くなったので「明日から6月だから丁度良い。」と言う事で六地蔵様の蝋燭の火も敢えて消さずに家に急ぎました。

家に着いて玄関先の置時計で時間を確認すると5時45分だったので、自分自身でもびっくりです。ゆっくりお参りした時より45分も時間を節約したのですから。もう一つより早く出来た理由に、妙応寺の本堂でお参りしている時に雨足が強くなってきたのがわかったので、首に巻いていたタオルで頬被りをして歩いたので、益々早足になったのだと思います。私は不思議な事だと思うので敢えて書きますが、我が家に着いた時には雨は止んでいたのです。雨に当たって冷たくなった体をお風呂で癒して凄い幸福感を感じました。

6時15分には奥様が作ってくれたおにぎりを持って車に乗り込み、岐阜羽島に向けて出発しました。途中で工事の為に一車線になったりしましたが、車の中でおにぎりをパクつきながらもいつもの駐車場に着き、少しは時間に余裕があるとリンゴをゆっくり味わい、駅の切符売り場で東京までの往復切符を購入してホームで5分ほど待っていると列車が来て乗り込みました。

東京駅丸の内からタクシーに乗り本部施設に着くと9時40分だったので、事務局の職員に挨拶をしてから会議が行われる会議室に行くと一番乗りだったので、順次入ってみえる役員に余裕を持って挨拶が出来ました。10時に常任理事会が始まり、12時まで新役員の方にバトンタッチ出来るように話し合いをしました。その後は昼食のお弁当を頂きながら、2年間の総括の様な話をして13時30分からの理事会に備えました。

理事会はハイブリッドでの会議だったのですが、順調に議題が承認されていく中で私は常任理事として総務・組織委員会とデイサービス部会の報告をさせて頂きました。こう言う発表はいくら場数を踏んでも緊張するものですが、何とか役割は果たせたと言う事でホッとしました。

理事会終了予定は16時30分だったのですが16時に終了したので同じく私と同じ副会長の秦さんと共に東京駅に行きました。ラッキーな事に16時33分発のひかりがあり、あまり時間がないのでお土産など買わずにホームに行き、5分ほど待っていると列車が入って来たので乗り込み、今は岐阜羽島に向けて走っています。「天気が良くなって来たので富士山が綺麗に見えるかな」等と余裕をかましています。

リピーターの皆さん、こんなに順調な一日になったのは勇気を持ってお墓参りまで行ったお陰かなと思う私がいるのですが、私のこの様な考え方をどう思われますか⁉️

コロナ感染症対策を徐々に緩めています

コロナ感染症対策は入居者さんとその家族及び職員にとっても長くて厳しいものでした。いやいや、まだまだ過去形で言い表す事は出来ません。でも、長い長い3年間であった事は間違いありません。

コロナ感染症が出始めた頃は正直「そんなに大袈裟に言って不安を煽るなよ。」的な気持ちもありました。そんな時に岐阜市内でのお医者さんの飲み会でクラスターが発生したとの報道があり、実は私は同じ日に大垣で飲み会をしていたので、正直2週間くらいはドキドキの日々だったのです。もちろん、その後は一切の飲み会はしてませんでしたが、最近はぼちぼち飲み会をしていますが本当に最近の話です。しかも少人数で個室での企画です。正直施設での感染症対策を徹底したのはドキドキがあってからです。

本部施設本館と新館の玄関口近くに手洗い場を設置したり、セコムが提案してきた検温器を設置しました。と言う事で外部からの業者さんやその他の来訪者の方は先ずは検温器で熱の確認をして、手洗い場で手洗い、手指の消毒、うがいは今も継続しています。この徹底はコロナだけでなくインフルエンザやノロウイルスにも効果がありますので、施設においては今後も当然の事としてお願いしていきたいと考えています。

コロナの完全終息と言う事は絶対にないので今後はウイズコロナでの対応に切り替えなくてはとも考えています。そんな中で少しずつ緩和しているのは一つ目には面会です。厳しい時はリモート面会のみ或いはガラス越し面会でしたが今はマスクをしてアクリル板越しでの面接までは出来る様にしています。

二つ目にはボランティア活動やお経での集合の仕方を少しずつ数を増やして最終的には全員で出来るまで緩和していく予定です。

三つ目は来月6月18日に行う供養祭も仏間での参加を本館1階とデイサービスの利用者さん(他のフロアは残念ながらリモートでの参加)とここ3年以内に亡くなられた入居者さんの家族及びいつも参加して頂いているかつての家族の方及び家族会の吉田会長の参加で実施させて頂きます。

四つ目には6月から主任・係長に昇進した職員のお祝い会を課長・部長の参加を得てコミュニティーハウスで実施します。少しずつ緩和出来る様になって一番嬉しいのは面会等がリモートでは無く直接出来る様になった事です。と言うのは家族の協力を得られることは入居者さんにとっても元気になる起爆剤の様に思います。勿論職員も精一杯の事はしている者の家族の協力は大きいです。これからも感染症対策をしっかり行い、家族の協力も得てより良い施設にしていきますのでリピーターの皆さんご協力お願い致します。

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