何もかも大きく映るのは感動です。
朝のお墓参りの時に吉澤施設長からプレゼントされた懐中電灯は既にこのコラムにおいて写真入りで紹介しましたが、今朝もいつものように歩いていて懐中電灯からの光を受けて見る影を楽しんでいます。最初に気が付いたのは家を出る時の事です。懐中電灯を首に掛けていて同じく首に掛けている四国遍路の一番札所である霊山寺で購入したお数珠が滅茶苦茶大きく映っているのに感動しました。(数珠玉1個1個が大きいのです。)
その時に思ったのは日本昔ばなしに登場するものの中で大きな物が描かれるものはこの様にして出来たのだろうかなと思った次第です。
次に気が付いたのは今須稲荷でお参りをしている時に金剛杖を両手で握りながら正面を見るとまるで柱の様に見えました。そして、関ケ原与一様の墓では私が少し体を動かすととんでもなく大きな動きになったので感動と言うよりは楽しくなってきました。
【放射線治療を終えての車の中で】
移動中のラジオを聞くとは無しに聞いていると、岐阜県池田町出身の演歌歌手石原詢子さんがゲスト出演をされていたので聞いていると演歌歌手の世界の厳しさがひしひしと伝わってきました。
石原詢子さんは父親が詩吟の教室をされていて、4歳の時から厳しく教えを叩きこまれ、高校を卒業と同時に石川さゆりに憧れて演歌歌手を目指して状況したとのこと。演歌歌手になる事は父親の思いとは違ったので、厳しく躾けられた父親の前で決意を伝える時には「手も足も震えた状態だった。」との事で、状況をする条件として「新聞配達をして生活を成り立たせる。」「毎日電話をする。」との事だったとの事。
その当時は今と違って携帯があるわけでもアパートに固定電話があるわけでもない時代なので駅の公衆電話でかけるしかなく、ある時1週間くらい電話をしなかった時には父親がアパートの階段に座って待っていたのには「申し訳ない気持ちで一杯だった。」との話しや、歌がヒットするまではいわゆる『営業』をしてもなかなか人が集まってこなくて苦労した事や、テレビに出る毎にファンが増えて来て7曲目を出してようやくヒットしたのにその7曲目を出して1週間目に母親が他界して、それから2週間後に父親も他界したとの話しにはヒットの陰にはご両親の思いが託されていたのではないかと思った次第です。
私は石原詢子と言えば『せんねん灸』がスポンサーになっていたくらいしか知らなかったのですが、改めて社会に認められる存在になるには厳しい試練があるのだと思いました。私も『勘当されて』とか「お金も土地も無い中で何とか法人を設立して25年になります。」等と言っていますが、どんな世界も厳しいものがあると思った次第です。リピーターの皆さんはどの様に思われましたか。