午前中は鎧兜の打ち合わせで、午後は供養祭です

昨日、伊藤係長を中心に早出を終えた職員が供養祭の準備を仏間でしてくれていて「本当に本部施設の職員は良くやってくれる。外国から来た職員も言われた事を頑張っていてくれて有難い。」と思った次第です。

10時にはお供え用のお饅頭も来たので、仏間にお供えして14時からの供養祭の準備はしっかり出来、11時過ぎからの鎧兜の打ち合わせに行きます。鎧兜が必要なのは11月29日、30日の全国老人福祉施設協議会岐阜大会で「岐阜県らしさを出す」為の1提案の為です。この発想は関ケ原町長さんの所に陳情に行った時に「鎧兜の事なら関ケ原町観光協会に相談したら良いのでは」とのアドバイスを頂き、関ケ原町観光協会にお願いに行ったら「全面的に協力します。」との事で本日も打ち合わせに行くのです。今回はどんなプランを提案して頂けるのかワクワクしています。

11時30分には観光協会に行きたかったのですが、11時にかつての入居者の家族の方が「本日供養祭に参加予定だったのですが急な用事が出来たので先にお参りさせて下さい。」と言っておみえになったので、仏間にご案内して仏壇の説明などをしていたら「予定は未定で決定ではない」の通りになり、急いで観光協会に行くと、既に待っていて頂いたので早速打ち合わせに入ると、色んなアイディアが出て来てワクワクして来ています。

11月までこのワクワクが続くと思うとよりワクワクしてきました。打ち合わせの中で家紋のラテアートを作って頂いたので「珈琲にはパンも合う。」と言う事でたまたま日曜日で販売に来ている方にも話をしていると、岐阜県のマスコットキャラクターの「ミナモ」に武者の格好をさせる事が出来るとの事で改めて「ワイワイ話をしていると色んなアイディアが浮かんでくるものだ」と思った次第です。

鎧兜の借り入れや搬入の仕方の打ち合わせをしていると13時近くになったので、慌てて施設に帰り供養祭バージョンに頭を切り替えました。さてさて、久しぶりにお会いするかつての入居者さんの家族の方々とはどんな会話が出来るか楽しみにしながら供養祭の最終確認をしていきます。

早い方は13時30分には供養祭に来て頂いたので、会場にご案内をしてお話をしていると、順次かつての入居者さんの家族の方がおみえになり、それぞれの家族の方との話に盛り上がっている内に定刻の14時になり、先ずは施設長である私から「開設から25年の月日の中で489名の方が亡くなられましたが、ご縁を大切にしたいとの施設の考えにより、毎年6月に供養祭をさせて頂いていましたが、コロナ感染症への対応の為に3年間は家族会の吉田会長のみの参加で執り行っていましたが、ようやく家族の方を招待しての供養祭が出来、沢山の参加を得ました事に感謝しております。」とのご挨拶をさせて頂きました。

引き続き家族会の吉田会長からもご挨拶を頂き、法要及び講話をして頂きました。「たったそれだけ」と言ってしまえばそれまでですが、参加して頂いた方々はそれぞれに喜んで頂けたと思います。リピーターの皆さん。当施設はご縁を大切にする施設です。これからもご支援よろしくお願いいたします。

盲養護老人ホーム瀬古マザー園との意見交換会

令和5年6月17日

延び延びになっていた一昨日(15日)の話ですが、盲養護老人ホーム瀬古マザー園との意見交換会の話をします。その日私は、10時から岐阜県庁20階の大会議室で災害支援の会議を終えて(しっかりと意見は言わせて頂きました。)、11時40分に岐阜県庁を出て、盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)に急いで行くと、予定が遅れていたのか丁度施設見学が終わって、喫茶「しずか」(何処かで聞いた事がある名前でしょ。と言うより恐れ入る名前でしょ。)で雑談をしてみえたので、昼食の準備が出来ている会議研修室に移動して、先ずは名刺交換。措置入居の相談に乗って頂いた近藤施設長さんに先ずはその折りのお礼を言って、その後3人の方にもそれぞれ名刺をお渡しして食事が準備してある所に座って頂き、「食事代は結構ですが、帰られてから感想をレポート用紙に10枚はお願いします。」と冗談の様に言うと「10枚でよろしいですか」との答えが返ってきたので「これはなかなかなメンバーが来ているな」と思った次第です。

昼食には厨房で準備したものの他に、嘱託医の先生から頂いた卵で職員が料理してくれた卵焼きと、施設で収穫したジャガイモと玉ねぎの煮物を、これまた職員が料理してくれたものが余分についていたので「凄いボリュームですね。」と言われたので、「入居者さんも同じ様に食べられています。」と吉澤施設長が言うと、皆さんが一堂に驚かれていました。「職員さんも同じものが食べられるのですか。」との質問にも吉澤施設長が「入居者さんと同じものを食べて貰った方が、話題提供になりますから。」と答えると「ちなみに職員さんは、おいくらですか。」と聞かれたので吉澤施設長が「300円です。」と答えると異口同音に「そんなにお安いのですか。」と言われたので、私が「材料費のみですから、そんなものですよ。」と答えました。

昼食後に珈琲とショートケーキを提供したらまたまた驚きの声が上がったのですが、吉澤施設長が「理事長の従兄弟のお店のケーキ屋さんです。」と答えたので私から「美味しかったら垂井駅前にお店がありますので、良かったらお買い上げ下さい。」と話をして盛り上がりました。

意見交換会は、瀬古マザー園の職員さんが沢山の質問を用意されていたので、それに応える形で進んで行く中で、瀬古マザー園は名古屋市内の便利な位置にあり、尚且つ年数が経った施設でもあるので、ハード面の違いと地域性の違いにより対応の仕方が随分違いがある事が分りました。15時過ぎまで活発な意見交換があり、総括の形で私から話をさせて頂き、話を終わろうとすると吉澤施設長が「5分で仏間の話をして下さい。」と振られたので私は「祈りの話をするのならば1時間はかかるぞ。」と言って皆さんに仏間に上がって頂き、高野山真言宗本山の静慈圓大僧正様が如何に素晴らしい方であり、そんな方が杉和会の支援をして頂いている事のお話をさせて頂き、ご縁の大切さについて7分位で話をしてお見送りまでして、瀬古マザー園との絆が深まったと確信しました。

リピーターの皆さん、この様にご縁を一杯頂いている法人に増々の支援を宜しくお願い致します。

弱い自分に出会った時が 強い自分になる チャンス

本日は16日。つまり母秋江の大切な日です。

母秋江が他界したのは1月16日ですが私にとっては「16日」が大切な日なのです。そんな思いを持って、今朝の我が家へのお墓参りでの妙応寺本堂の大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉『弱い自分に出会った時が 強い自分になる チャンス』を見た時に、毎月16日に見ているはずなので、10回以上見ているのに何故かいつも以上のインパクトがあったので、昨日の名古屋市にある盲養護老人ホーム瀬古マザー園の施設長を初めとした職員4名と盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の職員との意見交換会については後日述べる事にします。

私は弱い自分には一杯出会ってきました。数えきれないと言っても過言ではありません。と言うより小さい頃は毎日が「弱い自分」だったと思います。しかしながら「強い自分になるチャンス」なのにそのチャンスを一切生かしてこなかったと言っても過言ではありません。強くなる必要が無かったからです。と言うのは母秋江の後ろに隠れていたら何とかなったのです。だって今須において母秋江は無敵の様な存在でしたから。(母秋江の父親は地元のうるさ型で母秋江の事をめっちゃ可愛がっていたので)

母秋江が他界してからは、少しは成長したのですが、姉光子がかなりカバーしてくれたので、若干の成長しかない「青白い顔のガリガリ少年」であった事は間違いありません。姉光子が急逝したのは私が高校2年4月7日である事は何度も書いていますが、姉光子の葬儀が終わってからほぼ4カ月間は、糸の切れた凧状態で違う意味で最も弱い自分を晒していた期間です。

その時には父進が防波堤の様に私を守ってくれました。と言う事は逃げまくりの人生は父進が他界した私が38歳の時まで続いていたのかと思っています。大学を卒業して、教員になった時も父進におんぶにだっこ(それではいけないと教員を辞めたのですが・・・)26歳からの児童施設での指導員時代には、弱い自分をさらけ出しては叩かれて見かけは強くなった様に思いましたが、本質は変わらない自分であったと思います。

父進が他界した38歳の時に児童養護施設を辞したのは危険を顧みず大海原に無謀にも飛び込んだ様なものでした。理想に燃えていたことは事実です。但し、若山家の家計は火の車になりました。そう言う意味では頼りない家長だったと思います。

紆余曲折があり、特別養護老人ホーム建設に向かって行く時には「弱い自分」を一杯晒しました。但し、自分で決めた事なので弱音を吐いていても問題解決しないので「強い自分」にならざるを得なかった。それからの25年の日々の中でも弱い自分が一杯出ましたが、その都度問題解決をして「強い自分」になって来ました。

38歳からは自分だけが頑張った訳ではありません。色んな方々に励まされ、時には咤激励をされて今があります。38歳からの私は「逃げても解決しない。だったら前進あるのみ」のつもりでいますが、リピーターの皆さんそんな私であっても弱い私がいたら強い自分」になれる様に支援して頂けると有難いです。

美しい空 きれいな水 朝の挨拶 当たり前のことこそ有り難い

令和5年6月15日

朝の妙応寺の駐車場の掲示板の掲示物の言葉なのですが「有り難い」の言葉を「有り難い」と思える状況にあることに「感謝」と言う事で、正に「有り難い」と言う事です。何か禅問答の様な事を朝から考えてしまいました。でも当たり前を「幸せ」と思えない人は不幸だと思います。

今朝の岐阜新聞の一面に、自衛官候補生(入隊して3ヶ月まではその様な身分だと言う事です。)が射撃訓練中に自動小銃を乱射撃して、指導に当たっていた方ともう一人の方を死亡させて、もう一人の方も重症だとの報道に心痛めています。と言うか、最近警察官が貸与されている拳銃で自殺したり、猟銃許可を持っている人が自宅に籠城して警官を射殺したりと、今までには考えられない様な事件が立て続けに起きています。今回の自衛官候補生の事件についての詳細は分かりませんが、指導官に注意された事に恨みを持っての犯行だとの事に、私は絶句しています。この様な事が度重なり起きるならば「どの様に指導していけば良いのか」と考えだすと、組織の意味が分からなくなってしまいます。

自動小銃の様に「普通ではない扱い」をする時には、留意しなければいけない事が多くあると思います。だから時には厳しく指摘しなければいけない事がある。介護業務に於いても、入居者さんにとって不利益になることや危険を伴う事については、しっかりとした指導をしなければならない。そんな時に素直に聞けない態度が職員側に見られた時に、指導する側が余裕を持った対応がいつもいつも出来るかと言えば「なかなか難しい」と言わざるを得ません。と言う事は、指導するのが難しい時代だと言う事なのだと思っています。

本日午前中に岐阜県庁に於いて災害時の支援体制についての会議がありました。各団体からの意見を聞いていて、危機管理と援助体制についての温度差が大きくあると感じました。しかしながら、災害が現実のものとなった時には「手がたりない」とか「時間がない」等とは言っておれないので、切実な問題としてとらえて「絵に描いた餅」にならない様に連携を密にした取り組みをしていかなければと思っています。そんな中で、常日頃の活動として「地域」を意識した展開が大切だと思ったので、会議終了後「市町村及び消防署にも参加して頂く会議と実践」の大切さを、岐阜県の担当責任者と話をしました。

今、17時20分ですが米原市さんがおみえになったので名古屋市内の盲養護老人ホームとの話については明日に持ち越します。

マリーゴールドの苗を頂く事になりました

令和5年6月14日

朝のお墓参りを終えて幸福地蔵菩薩様の駐車場を出た所で、いつもバイクで元気に挨拶をして頂く近所のおばさんが一旦通りすぎてからUターンをして私の所に来て「マリーゴールドの苗が余っているので勿体無いので施設で使って貰えないか」との事だったので「喜んで頂きに行きます。」と言うと「午前中は出掛けるので午後に来て下さい。」との事なので私は午前中大垣市民病院の受診なので家に帰ってから施設連絡をして貰いに行く手配をしました。

手配をしてからつくづく思ったのはご近所さんとは言え、施設で植えてくれと言って頂けるのは施設の事を好意的に認知して頂いている証しだと朝から嬉しくなってきました。7時30分になり大垣市民病院に向けて家を出たのですが、受診が終わってから垂井町役場に打ち合わせの為の書類が出来ているとの事なので本部施設に書類を取りに行き書類について打ち合わせをしてから改めて大垣市民病院に向けて車を走らせ途中で若干渋滞しましたが大垣市民病院の駐車場は以外に近い所に停める事が出来ました。

機械でパスポートと言う書類を手に入れ(診察券を機械にいれるだけで受付ができるのです。)パスポートに診察前に採尿と採血の指示があったので検査室のある2階に行くとめっちゃ混んでいて特に採血は整理券を渡されて椅子に腰掛けて待っていると掲示板に私の番号が掲示されたので採血の列に並んでようやく採血の順番が来ました。

どんどんと流れ作業のように採血されているので簡単に採血して貰えるかと思ったら先ずは左手に針を刺して貰っても全く血が出て来ない。「反対の手に変えさせて下さい。」に、「大丈夫ですよ。」と余裕で答えて右手に刺して貰ったのですがこれまた全く血が出て来ない。採血をしていただいている方が少し焦りぎみだったので「私の体には血が流れていないのかな」と冗談気味に言うと採血する方が代わって右手も左手も念入りに確認して貰い三度目で何とか採血を終えて今は泌尿器科の待合室で順番を待っています。

診察の順番を掲示するので「今度は私か」と何度も凝視するのですが、私の番号を飛び越して何度もスルーされて今も私の番号は217なのに218が掲示され、次は私だと思いきや219が掲示されて、その次が212になったので余計に苛々しています。間も無く何だから苛々しても仕方がないのに自分でも嫌な性分たと苦笑いです。

ようやく中待合まで呼ばれて診察室から「若山さん」とお医者さんの声で呼んで貰い今迄の苛々はどこかに行ってしまい、尚且つ先生から「数字的には全く良い数字ですよ。」と言われてとっても良い気分になりました。食生活をしっかり守ってますます元気に飛び回りますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願い致します。

 

令和5年度第1回岐阜県高齢者安心計画作成・推進会議に出席しました

本日10時からシンクタンク庁舎大会議室において開催されました。

会議前に岐阜県の方や委員の皆さんにご挨拶をしなければと考えて8時30分に家を出たのですが、携帯を家に忘れた事に気付いてUターンをして家に戻ったりしたのですが、9時40分には会場に着いたので岐阜県職員の方や委員の方にご挨拶をしていて定刻の10時になりました。

開会が宣言され堀健康福祉部長の挨拶の後は、飯尾会長が欠席の為に小林副会長の進行で進められました。最初に高齢福祉課からの説明を受けてから委員の意見交換になったのですが、小林副会長からいつもの様に口火を切って話をしてとの事で深刻な人材不足の中での物価高騰の事、地域包括支援に対する不十分性、生産性向上の定義についてお話をさせて頂きました。私が口火を切って次に繋がらないと会議の活性化に繋がらないと考えてグループホーム協会の加藤代表理事に意見を促し、その後は順次それぞれの組織の立場で活発に意見が出ました。

委員の方が一巡した段階でもう一度私から国の財政審議会が最近発表した中で介護をしている者にとっては厳しい方向性が示されている事に対して私なりの意見を述べさせて頂きました。最後に岐阜県の担当者から今後のタイムスケジュールが示され散会となりましたが、会議終了後色んな委員の方や県の担当者の方とお話をさせて頂きました。自分で言うのも変ですが、しっかりとした意見が言えたからこそ会議終了後に色んな話が出来て駐車場にいくまでも色んな話が出来ました。

本日は13時30分から和合の施設で全体会があるので本部施設に帰ってから再度出掛けるのは時間的にタイトなので昼食をとってから和合の施設に行く事にしました。今までならはコンビニでおにぎりやパンを買って和合に入るのが通常だったのですが、医者から食事についての指摘があったので野菜中心に食べれるお店に行ってゆっくりと食べました。まだまだ無理をしなければいけない体なので飲食についつは留意していきます。

先般も東京で会食があったのですが、大好きな日本酒はNGにして麦焼酎をロックで頂きました。(本当は飲まない方が良いのでしょうが・・・。)午後からの全体会議を終えたら垂井町地域包括の対応での話し合いがあります。お陰さまで目一杯の生活ですが明日は泌尿器科の検査が午前中にあります。健康にも留意して頑張りますのでリピーターの皆さんこれからもよろしくお願いいたします。

来週の日曜日(6月18日)に供養祭があります

令和5年6月12日

コロナ感染症対策の一貫で、過去3年間は地元法忍寺のご住職(当法人の監事)に法要としてお経と講話をして頂くのですが、仏間に上がっての参加者は理事長である私と家族会の吉田会長のみで、その他にはデイサービス利用者さんがデイサービスのエリアからの参加のみで、特養の入居者さんは全てリモートでの参加だったのですが、5月8日に国の通知としてコロナ対応が感染症の2類から5類になったこともあり、昨年とは違う対応にしていきます。しかしながら、コロナ感染症が完全に終息したわけでは無いので、参加の枠を広める事からしていこうとの考え方で、入居者さんに対しては本館1階の入居者さんまで広げ、尚且つ過去3年間に亡くなられた方の家族と、3年前に遡って毎回の様に参加して頂いていた家族に対してのご案内とさせて頂きました。

久しぶりの開催と言う事もあった為か多くの方が参加して頂けるので、供養祭担当の職員から「仏間に家族の方が全員上がって頂く訳にはいかないと思うのですが」との相談を受けました。「これは嬉しい悲鳴」と言う事か。と思うと共に「家族の方で仏間に入りきらない方については、仏間から一段下がった所に椅子を用意すれば良いと思います。その後ろに本館1階の入居者さんに座って頂いても充分スペースはあると思います。」と言う対応に決めました。事業開始から25年の間も変わる事無く『ご縁』を大切にしていく思いは、職員に脈々と伝わっている事に安堵感を覚えています。

6月18日当日には、かつての入居者さんの家族の方々に久しぶりにお会いして、かつての入居者さんのお話に盛り上がれると思うと本当にワクワクしてきます。供養祭当日には、残念ながら亡くなられた方の順に書いた掲示物を一人ひとり見ては会話をしています。供養祭の日にしかその様な事は出来ないのですが、その様な日が例え一日とは言えあることは素敵な時間だと思っています。供養祭に掲示する名簿が完成して、その総数が488人だと知りました。この数が90床の特別養護老人ホームに於いて多いのか少ないのかの比較は出来ませんが、多くの方をお見送りした事には違いありません。

出会いがあれば別れがあるとは言え、一旦ご縁を頂いた以上は頑張ってお世話させて頂くのが社会福祉法人杉和会の真骨頂と言う事で、これからも役職員一同で頑張って行きますのでリピーターの皆さん、今後共、是は是非は非でご指摘を宜しくお願い致します。

紫陽花と向日葵

朝のお墓参りの時に姉春子さんが供えてくれた自宅の庭で咲いた紫陽花が雨の中で生き生きとしていました。改めて紫陽花は雨が似合う花だと思いました。そう言えば向日葵が似合う花なんだと対照的な花だと思った次第です。私はどちらの花が似合うのかと考えた時「う~ん。私はどんな花も似合わない。だって、黙ってじっとしている事なんか出来ない多動的な人間なんだから賑やかさで言えば蝉の様だし活動的な面ではちょこちょこ動き回る鼠かな。でも、この様なキャラになったのには色んな体験があったから。一人では何も出来ない私が今の様になったのは・・・。」としみじみ思っています。持つべきはネットワークでありマメさだと思います

本日は全国老人福祉施設協議会の『全国老人福祉施設大会・研修会議 JSフェスティバル in 岐阜』の打ち合わせに東京から来て頂く担当者の方に昨夜連絡を取ると岐阜市コンベンションから紹介された武将隊との優・悠・邑 和合での打ち合わせ(14時から)の前に関ケ原古戦場記念館を見に行ってきます。との事だったので、私は「だったら私が案内しますよ。」と言う事で本日関ケ原駅に10時30分と言う事で迎えに行き、折角関ケ原まで来て貰ったのだから甲冑の打ち合わせもした方が良いと言う事で笹尾山交流館にも行こうと言う事で関ケ原観光協会の専務理事に連絡すると「甲冑の打ち合わせをした後で関ケ原古戦場記念館も案内します。」との事で、尚且つ専務理事は関ケ原古戦場記念館にも事前に連絡をして下さっていたので「持つべきものはネットワーク」で本当にありがたい展開になりました。笹尾山交流館では専務理事から色んな提案をして頂き、岐阜県らしさ、関ケ原らしさが増幅できた様に思います。そして専務理事さんの案内で関ケ原古戦場記念館に行きました。日曜日と言う事もあったのでしょうが多くの来館者があり、私自身は2度目の来館だったのですだ関ケ原合戦の大きなスクリーンの迫力に「こんな素晴らしいものがあるのを地元の方はご存じなのだろうか」と私自身の理解がなかった事をさておいて思った次第です。関ケ原での打ち合わせを終えて大垣に移動して(昼食を挟んで)優・悠・邑 和合で武将隊の代表者2人がおみえになり、こちらの思いを先ずは話をすると大枠で了解を得られて私自身は話が進みだしてから「ひょっとしたら就職フェアで私も来賓として陣羽織を羽織り舞台の上でえいえいオーをした時の織田信長さんが本日の代表の方と違うのか」と思ったのでその通りに話をすると「ピンポ~ん」と言う事でここからは話が盛り上がり織田信長さんから(本名はもちろん違いますよ)沢山のアイディアを頂き、「参加型の良さを出すためには会長自ら甲冑を着るべきだ。」との話になり、正直ワクワクしています。織田信長さんとは(もう一人の方は明智光秀)今後も楽しくお付き合いが出来そうです。リピーターの皆さんネットワークはこんな風に出来て来るのだと思うし11月29日に本番を迎えますが楽しみです。勿論全国大会に向けてしっかりと頑張って行く事は当然の事だと考えています。

汗だくです。

令和5年6月10日

朝はいつもの様に4時過ぎには目を覚ましましたが、「流石にこの時間に起きるのは変だ。」と考えて、いつもの4時25分のアラームをオフにして二度寝をすることにしました。だって目覚めたのは東京見附のホテルですから。疲れもあったのだと思います。5時30分まで寝る事が出来ました。しかしながら、二度寝の後は流石に眠れないので、昨夜はお酒を頂いたのでお風呂に入っていないので、お風呂にゆったりと入る事にしました。但し、アパホテルですからベッドの横はカニさん歩きしなければいけないホテルなので、当然ながらお風呂も狭いのです。具体的に狭いのを説明するならば、お湯が一杯になって立ち上がるとお湯は半分もありません。(お湯が早くに入って便利な事もあるのですが・・・。)湯船の上に足を乗せて入るか、足を折り曲げて入る事になります。

お風呂を出てからしばらくはテレビを見ていたのですが、 7時を過ぎたので荷物を片付け東京駅に向かう事にしました。フロントは誰もいなくて、前金で支払ってあるので部屋キーを投入口の中に入れてホテルを出ました。昨日は時間がなかったのでタクシーを利用させて貰いましたが、本日は時間がたっぷりあるので見附駅から地下鉄で東京駅に向かう事にしました。「多分この方向で大丈夫だ。」との思いで歩いて行きましたが若干不安があったので、お店の前で片付けをしているおばさんに挨拶をすると挨拶が返って来ましたので「見附駅はどちらに行けば良いですか。」と聞くと「本通りまで行って左に曲がればいいですよ。」と言われたので、丁寧にお礼を言って歩き出すと、3分程で地下鉄の入り口があったのでエレベーターで降りていき、案内板の通り丸ノ内線の方に歩きました。

券売機で切符を購入すると一番安い180円だったので、「やはり地下鉄は安い。と言う事は出来るだけ地下鉄を利用しよう。」と思った次第です。地下鉄ではどれ程もかからず東京駅に着いたのですが、改めて思ったのは「東京駅は広い。」と言う事です。だって地下鉄を降りた所から東海道新幹線の改札までは、しっかり歩く事になりました。取り敢えず「のぞみ」の自由席に座ると汗だくだった事に気が付きました。昨夜の飲み会では大好きな冷酒では無くて、麦焼酎をロックで3杯を飲んだだけで上手にお付き合いが出来たので、朝の目覚めも良かったし、11時過ぎには施設に着く(何のトラブルもなければ)事が出来るので、午後からはしっかり仕事を頑張りたいと思います。

と、ガラケーの携帯でコラムを打っていると「和(なごみ)」の施設長から「打ち合わせがしたいので時間を下さい。」とのメールが来ました。早速返信メールを打つと「11時30分には本部施設で待っています。」とのメールが来たので完全な仕事モードになりました。私の元気は仕事が出来る喜びだと思います。こんな私をリピーターの皆さんはどう思われますか。

本日は東京出張です。

令和5年6月9日

いつもの様に朝の4時25分のアラームでの行動をしようと先ずはベッド上での体操をしようとして、異常な違和感を右肩に覚えたのですが、「ここは頑張らねば」と仏間の祈りもお墓参りもして朝食を食べていても痛みは収まるどころか腕を上げようとしても真っ直ぐのところまで上げると激痛が襲う様な状態なので、「これは整体に行くべし。本日の会議は最悪15時までに行けば大丈夫なので」と言う事で連絡をすると「9時40分からなら出来ますよ。」と言う事で一旦本部施設に行き(本部施設の向かいなので)時間に間に合う様に整体に行きました。「右肩が痛い」事を言って施術をして頂きました。

一時間しっかりほぐして貰ったら不思議な位楽になり腕を真上に上げる事が出来て「これで東京に行っても大丈夫」と言う事で急いで家に帰りスーツに着替えて岐阜羽島に向かいました。工事区間もなく、往復切符を購入して11時51分発の【こだま」に乗り込みました。こだまですから名古屋で【のぞみ」に乗り換えようとすると何と無く異様さを感じて自由席の方へ歩いていくのですが、停車しているのぞみが一向に動かないで、ホームでは次の列車を待っている方が一杯なのです。

私は自由席の気軽さで停車している列車に乗り込み車内放送で急病人の救急対応の為に停車している事を知りました。いつもの口癖ですが「予定は未定であり決定ではない。」そのものです。自由席に行くと全く席が無く「流石に東京まで立って行くのはきつい。」と判断して4号車に移ると2席の席が不思議にも空いていたので今はその席に座っています。もちろん車掌さんがみえたら指定料金を払うのですが今のところはみえてますん。 ようやく車掌さんが通られたのですが素通りしようとされたので敢えてこちらから声を掛けました。車掌さんとのやり取りで素通りされそうになった理由がわかりました。

その理由とは本来既に販売されている席で「乗られていないので大丈夫です。」と言われて740円を支払い「これで安心して座っていられる。」と思うと共に正直に指定料金を支払えて良かった。」と思った次第です。さて、東京に着いてからの事は明日のコラムで書く事にして、朝のお墓参りでの出来事を書く事にします。それは今朝のお墓参りで写した写真 の話題です。それは最近のニュースで杉花粉のアレルギーの緩和の為に今植わっている杉を伐採して花粉の少ない苗を植える為に伐採した杉の木に補助金を付けて伐採の背中を押すと言うものでした。

確かに私も山に杉や桧を所有していますが伐採して木を運んで商品として売ったとしても赤字になる可能性が高いので山に行く事もありません。お墓の前の空き地に山と積まれた木を見て少しは流通するようになったのだと思った次第です。雨が降ると土砂災害が報道されますが杉花粉以上に土砂災害を防ぐ為にも国はもっと山の対策にも力を入れて欲しいと思うのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。

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