本日は1日施設に行けませんでした。

昨夜は家族会の吉田会長と強か飲んだので、申し訳ないと言うか情けないと言うか仏間での祈りもお墓参りもせずに朝食も食べずに朝寝を決め込み10時まで寝ました。こんなことは何年ぶりかなと考えていて「少なくともコロナ感染症よりは前だから3年以上経っているな」と思いながら、11時からのふれあいセンターでの会合に参加するためにスーツに着替えて出掛けました。

会合は12時までの予定でしたが、13時から岐阜大学医学部記念会館で「一般社団法人    日本環境感染学会    地域セミナー委員会」主催の研修に参加させて頂きたいので11時30分に退席するお断りをしておいたのでタイミング良く退席させて頂きました。ナビの言う通りに池田トンネル経由で運転して行きました。

朝食を食べていなかったので12時が過ぎると猛烈にお腹が空いてきたので、コンビニでおにぎりとパンとお茶を買い運転をしながら食べました。ナビの指示した通りに運転していくと岐阜大学までは行けたのですが構内には入れないようにバーが降りていたので手前の駐車場に停めました。

「さてさて目的の医学部記念会館は何処だろう」と駐車場の所にあった案内板を見ていると「一番奥の所に目的の建物はあるようだ。」と言う事で歩いて行ったのですが、大学の構内はあまりに広くて「この建物かな」と思って行くと「教育学部」と書いてあり、「まだまだ奥か」と歩いて行くと「薬学部」と書いてあり「う~ん。わからへん」と言う事で学生さん3人に聞いたのですが「わかりません」と丁寧に答えて頂きましたが結局わからず奥へ奥へと歩いて行き改めて学生さんに聞いたら「真っ直ぐ歩いて突き当たりを右に行って下さい。」とかなり信憑性のある答えが返ってきたのて頑張って歩き、「記念会館、記念会館」と念じながら歩いて行くと「有りました。」と言う事で時間を確認しながら、会場の2階に行くと13時10分になっていました。受付をさせて頂きながら「すみません。遅れました。」とお詫びをして会場に入りました。

今回の研修はコロナ感染症を中心にしたもので、いつも感染症の事でいつもお世話になっている村上先生に3事例が終わり休憩になった段階でご挨拶にいきました。その後会場を見渡すと岐阜県高齢福祉課の方も何人か来てみえ、老施協関係の方も何人かみえたのでご挨拶をしました。研修は17時10分になり終了して「さてさて私の車を停めた所に行けるかな。」と思い、老施協でいつもお世話になっている方に声を掛けると「一緒に行きましょう。」と言ってくだれて、自分の車に戻る事が出来ました。結構歩いたと思いガラケーの画面で歩数を確認すると「4829」と言う事で「今朝のお墓参りの分を稼げた。」と思った次第です。

昨日は風が強かったようです。

令和5年3月3日

朝のお参りにリュックサックに6本の水を背負い出掛けました。歩きながら「何本の水をお供えすることになるのかな」等と考えながら歩いていて、先ずは橋の欄干で10回の屈伸運動。何とか息切れすることなく(情けない話をしています。)頑張れました。(当たり前か)

妙応寺の駐車場の所の幸福地蔵菩薩様の前に立つと幸福地蔵菩薩様の頭には帽子こそありましたが笠が無いので、少し動揺しましたが、幸福地蔵菩薩様の腕の所にありましたので急いで階段等を上がり、いつもは上がらない幸福地蔵菩薩様の台座にまで上がって、幸福地蔵菩薩様の背中に左手を回しながら笠を確認すると、笠の中のものが取れていてしっかり結んであった紐も取れていたので何とかならないかと夢中になっていると、妙応寺の駐車場の西にある家のいつもの同級生が声を掛けて来たので慌てて笠だけ頭に乗せて下に下りると、状況が理解出来たのか「昨日は風がきつかったから」と声かけて下さったので、一呼吸おいてからデイサービスの運転手さんを紹介して頂いたお礼を言っている間も忙しく杉葉を拾われていたので、「自分の屋敷の木から出たものだからだけど流石だな」と思っていると今日は仕事が忙しいのか、いつもとは違いそそくさと家に行かれました。(いつもだと20分は話をしています。)

妙応寺の本堂のお参りをして今須稲荷様の向かって左側のお狐様の台座に手をつき、ここでも10回の屈伸運動をして、薬師如来様のご真言を唱えた後、今須稲荷様に「所願成就・幸福到来」としっかりお願いしました。6段の階段を降りて右側のお狐様のの台座に手を着き10回の屈伸運動をして、続いて本堂と今須稲荷のつなぎ廊下の下の石垣の向かって左側でも10回の屈伸運動をして六地蔵様でお水替えをして、8段ほど上がった所に2つのお社がありそこにもお水を供えてから、関ケ原与一様のお墓では沢山のお地蔵さまもあり、しっかりお水を掛けさせて「常在不滅之塔」と言う立派な石碑に水をお供えして六地蔵様に行くと、お地蔵様の2人の帽子が無いと言う事で近くを探しても無いので、再び六地蔵様に戻り良く確認するとお地蔵の奥にありました。よく考えてみれば奥にあるのは当たり前です。風は正面から入るしか無いのだからと、自分自身の頭の悪さに思わず苦笑いです。六地蔵様は結構高い所に安置されているのですが、何とか膝をついてよじ登り帽子をかぶせる事が出来ました。

その後、7ヵ所の蝋燭立てに火を点け、湯飲み6ヵ所の水を替え、ご真言を唱えた後は我が家のお墓に行き、若山家(我が家)、吉澤家(春子お姉様の嫁ぎ先)、及川家(かつての入居者)、柴田家(同級生であり小さい頃めっちゃお世話になったおばさん)の水替えをしてから般若心経を唱えて、廊下の下と橋の欄干の反対側で10回の屈伸運動をしてから家に着き、無事にお墓参りは終了。家に帰りコップ1杯の水を飲み、お風呂にゆったりすると健康な体に感謝です。リピーターの皆さん私はこんな人間なのですがこれからも宜しくお願い致します。

大いなる勘違い

昨日は名古屋で泊まらせて頂き9時30分からの会議を途中で脱け出し名古屋からのぞみに乗り東京に行き全国老施設協の理事会に参加して会議終了後に事務局の方々に挨拶をした後、福島県の副会長さんと一緒にタクシーで東京丸の内まで行き私は何を勘違いしたのかホームに行ったらガランとしているので慌ててホームを降りて違うホームに行くと17時33分のひかりがあり、「これは素晴らしい。

これで岐阜羽島まで直行出来ると列車のドアが開くのを待っていてふと考えたのが「本日は岐阜羽島に車がない。と言うことは名古屋まで17時30分に出る列車の方がはるかに早く名古屋に着く。その列車にまだ乗れる。」と言う事で向かいのホームに急ぎました。「セーフです。」と言う事で今はのそみで名古屋に向かっています。

そして今は「在来線が上手い調子であると良いな」と思っていたのですが。名古屋での乗り換えはグットタイミングでした。と言う事は結果的にはのぞみに飛び乗って正解だったと言う事で、我が家に着くのが30分早くなりました。(明日もバタバタになるといけないので帰りの新幹線の中で書けるだけ書きました。)

飛び乗った列車は結構に混んでいたし、まさか在来線の中で弁当を広げるわけにもいかず、結局我が家に帰り、急いでお風呂だけ入ってから遅い夕食を頂いてからくたくたの体をベッドに沈めるとあっと言う間に眠りにつきました。体は疲れていましたがいつもの4時25分のアラームで気合を入れて起きていつもの様に仏間でのお経とお墓参りもさせて頂きました。

本日は午前中に一般社団法人岐阜県老人福祉施設協議会の理事会前の打ち合わせがあり、12時過ぎに終了して一目散に本部施設に戻り、書類やメールの整理をしながら昼食をとりました。その後15時からリモート会議ではありますが全国老人福祉施設協議会デイサービス部会が17時まであるので久しぶりに本部施設の事務所内の机に向かっています。3年前からのコロナ感染対策の一貫でリモート会議を実施するのが当たり前になってきましたので私もリモート会議にもたもたする事は無くなりましたし、もしも今の日程をリアルでこなせと言われたら「絶対に無理」と言わざるを得ない状態ですので、リモート会議様様なのですが、コロナ感染もかなり落ち着いて来た今、リモート会議を主体にしながらもリアルでの開催も適宜開催をしていかなければいけないと、東京本部で開催された理事会に参加させて頂いて思った次第です。

昨日昼食後からの経過を届けます。

令和5年3月1日

施設長室で一人昼食を食べ終えて歯を磨いていると、認知症研修の指導に来ていた吉澤施設長が研修が終わったと顔を出したのでしばらく話をしていると「これから帰るのでどこかまで送りますよ。」と言ってくれたので、(関ヶ原駅まで吉田部長に送って貰う約束をしていたので)吉澤施設長に送って貰う事を話しして(これまた「予定は未定で決定ではない」になってしまいました。)大垣駅まで送って貰いました。

大垣駅から列車に乗り出発してからは、和合の施設を天気が良いので写メに納めようと適当な感覚で写メを撮りました。そして、名古屋駅からウインク愛知まで歩き会場の2階に行くと愛知の役員さんが私を確認して最前列の来賓席に案内して下さいました。淑徳大学の結城先生の記念講演と表彰式典も終了して、宿泊ホテル兼懇親会場に移動してチェックインをして部屋に入り、無呼吸症候群の機械をセットして17時30分からの懇親会に挑みました。6県1市の役員さんとの懇親会は実に3年ぶりです。久し振りにお会いするかた、初めてお会いする方一人ひとりにお酒を注ぎながらお話をさせて頂きますした。記念講演をされた淑徳大学の結城先生にも改めて名刺交換をして、事例発表の審査員んで講評をされた聖隷クリストファー大学の野田由佳里教授と名刺交換をした時には驚きました。と言うのは先生は岐阜揖斐川出身との事だったからです。

20時には懇親会も終了して、今までのパターンだと二次会に行くのですが私の生活は午前4時25分から始まっているし、コロナが今だ収束していない状況の中、素直に部屋に戻りました。しばらくはテレビを見ていましたが眠気もきたのでベッドに入ると直ぐに眠る事が出来ました。しっかりと寝た事もあり4時には目を覚ましましたので、これからの予定についてスケジュールを睨みながら考えたりお風呂には二度入ったりして7時30分になり朝食会場に行きバイキングでの朝食を頂きました。当然ながら和食です。

9時前に理事会会場に行き、幹事県である愛知県会長に13時30分から東京で全国理事会があるので途中退席する事をお願いして理事会が始まりました。丁度良いタイミングがあり、愛知県会長から福井の小川会長と共に退席する配慮をして頂き小川会長と共に名古屋駅に歩いて行きました。小川会長と別れてから券売機で切符を購入して、のぞみの一番早く出発する列車に乗りました。(ホーム内の売店でおにぎりとサンドイッチとお茶を購入しました。)12時になりムシャムシャと食べていると富士山が綺麗に見えました。とにかく、理事会には時間前に入れそうなので頑張って来ますが本日も長い1日になりますが頑張ります。

リピーターの皆さん。帰りの新幹線の中ではコラムを書く体力が無いといけないので本日のコラムでの報告は以上とします。

和合

本日は名古屋で宿泊して明日は東京で会議です

令和5年2月28日

本日14時から名古屋で会議があり、懇親会もあるのでそのまま泊まらせて頂き、明日は9時30分からの会議に参加させて頂き11時30分までの会議なのですが13時30分から東京の全国老人福祉施設協議会理事会があるので、11時過ぎに退席させて頂き東京に向かう日程です。流石に強行軍だと言う話をしていたら、吉田部長がコロナ感染症で殆どズーム会議になる前に全国老人福祉施設協議会の総務・組織委員長を私がさせて頂いていた時に全国8ブロックある所で総務・組織委員会と各ブロックの役員さんとの懇談会があり日程調整の結果、関東ブロックが東京であり東京で宿泊をして、次の日は近畿ブロックが大阪であり、午前中に大阪に移動して懇談会終了後、次の日が東北ブロックが秋田であると言う事で伊丹空港から秋田空港に飛び秋田空港に着いた時には既に20時を過ぎていてホテルまでタクシーで行き遅い夕食を食べた記憶を蘇させてくれました。

それは4年前の事で、まだまだ体力に自信もあった頃ですがコロナ感染症のために移動を伴う会議等が殆ど無かった3年間の間に飛び回れる体力が落ちている事を痛感してます。自虐的は言い方をするならば「この5月16日に誕生日(決してリピーターの皆さん誕生日のお祝いなんて心配しなくて良いですよ・・・)で満70歳になるんだから仕方がないか・・・。」等とは思いたくないし「江戸時代だったら徳川家康は70歳を超えて生きていたから長生きだったけど今、70歳で長生きをした等と言う人はいない。」と強がる事も言いたくない。

正直に言います。昨日全国大会の下見で国際会議場の確認の為に一番上から下まで階段を降りて行ったのですが足がもたついている自分に少なからずショックを受けました。(手すりが欲しいと思ったものですから)そこで、朝のお墓参りの時には6ヵ所の所で10回ずつ屈伸運動をしました。たったそれだけなのですが何となく歩く足取りが改善された様に思っています。今は11時15分ですが、コラムを本部施設にいる内に打たないとコラムの連続更新が駄目になってしまうので一生懸命にパソコンの画面に向かっています。

関ケ原駅を12時22分に乗り大垣で乗り換えて名古屋駅から会場まで歩き会場に着いたら役員の皆さんとご挨拶などしていて14時からの会議に臨む事になり、ホテルの部屋に戻った時にはくたくたな状態だと思うのでとにかくコラムが完成したのでホッと安心です。11時40分に昼食を頂いて12時に関ケ原駅に送って貰います。多分明日我が家には21時頃の帰宅だと思うのでそれまではギアを上げた状態で頑張ります。

本日は午前9時30分から全国大会の下見です

実は下見は昨日17時30分から始まっています。

と言うのは全国老施協『大会フォーラム』委員長と幹事の2人が前泊で来て頂いたので、岐阜県の役員私を含めて3人で役員懇親会会場の下見を兼ねて交流を深めたわけです。大会フォーラム委員長は利き酒の認定を持たれた方だと聞いているので、地元の最高の酒4合瓶だけ持ち込んで味わって頂いて、その後はお店の方も配慮して下さり岐阜県多治見の辛口で有名な三千盛を提供していただきました。実はお店に入る前に車を降りるとすぐそばを長良川が流れていて、長良川を見て上を仰ぐとライトアップした岐阜城を見て頂いてロケーションの良さをアピールしました。

大会は11月に岐阜国際会議場と併設しているホテルで行いますので全国の事務局も3名来て頂いての打ち会わせをして会場のイメージを理解して頂いてから具体的に11月の大会までにしっかりとした準備をして、「岐阜での大会は良かった。」と満足をして頂いて帰って頂けるように頑張りたいと考えています。

下見の打ち合わせは午前中で終わり岐阜駅まで委員長と幹事の方をお送りした後は本部施設で19時からの全体会議終了までびっしりと予定が入っていますので、9時30分からの打ち合わせ前にコラムを書いている次第です。(今は17時50分でバタバタの時間を終えて全体会前の時間にコラムを書くつもりです。)9時にフロント前に行くと既に岐阜県老施協事務局長と加藤事務局員が見えていたので挨拶をしたりしていると大会フォーラム委員会の委員長と幹事が見えたので昨日のお礼を言っていると続々と岐阜県の役員が顔を揃えられたので早速岐阜都ホテルの研修が出来る所を案内して貰い引き続き国際会議場も案内して頂きました。

私は正直200人程度が机を設置しての会場が沢山あるのに正直安心をしました。全ての案内をして頂いてから国際会議場の会議室をお借りしての第1回の岐阜県大会に向けての打ち合わせをしました。まだまだこれから11月28日~30日に掛けて準備する事は多いですし、岐阜県の会員施設の職員さんの協力無しには出来ませんので気合を入れて頑張って行かなければと考えています。

12時過ぎに打ち合わせを含めて全てが終了し都ホテルで委員長さんと幹事さんと私で昼食を頂いた後、委員長と幹事さんを名鉄岐阜駅までお送りして、一路本部施設に帰り、お客様との打ち合わせと職員の研究発表を4題聞くと共に評価をしました。

リピーターの皆さん私は毎日充実した日々である事に感謝しながらこれからも頑張って行きますので宜しくお願い致します。

大変な課題を頂いています。

先月1月26日、27日と栃木県宇都宮において全国老施協による全国大会があった事は既にこのコラムでも書きましたが、その大会の中で学会方式による研究発表会が6分科会に分かれ(※第1分科会は4分散会)9会場でそれぞれの発表があり、各会場で一番良かったのが「優秀賞」にその他2事例が「奨励賞」に選ばれて、「優秀賞」の9事例の中から「最優秀賞」を決めるべき審査員の一人に私がなったのです。勿論私が当日全部の発表を見る事は物理的に無理です。

そこで、審査の方法として先般、優秀賞に選ばれた方のレジメ、審査委員長の報告書、発表の時に使用されたパワーポイントと動画がメールで送られてきたのを見て審査するのですが、1事例15分以内と言う事で最初は正直「結構な時間がかかるな」と思いながら動画を見出したのですが、それぞれの事例が興味の湧くものばかりで9事例を一気に見させて頂きましたが、1回目では評価する余裕が無い程に見入ってしまいました。と言う事で本日2回目の視聴をしながら採点を付けています。

但し、私一人で見るのが勿体なくて幹部職員2人を呼び2事例だけですが一緒に見て「学会発表のレベルは凄いだろ。このレベルに追いつき追い越せで頑張るぞ」と激を飛ばしながら当施設も結構『優秀賞』や『奨励賞』を毎年の様に頂いた時期があった事を思い出し、「これはもう一度頑張って仕組み作りからやり直さなければいけない。」と思った次第です。と言うのは、今課長や部長になっている幹部職員は全国大会で発表する事でモチベーションを上げスキルも上げて来たのにいつの間にかその事が形骸化している事実に私自身動揺している次第です。

特に私が凄いと思った事例の中に8年間の積み重ねの中で頑固に取り組む中心者(発表者の事ですが)がいて、その考え方に共感していわゆる協力する職員がいて他職種連携(多職種連携とも言います。)が上手く行っている事例には全く舌を巻くいやいや脱帽でした。素敵な事を継続していく為には「言い続ける事」と「達成感を持てるようにする事」だと思います。今回、最優秀賞を決める為の審査委員の一人に選んで頂いた事に感謝して本日教えて頂いた事を必ず形にしていこう。その為には先ずはこの9事例を全体会等を通じて職員に視聴して貰い具体的戦略は幹部会で練って進めて行きたいと考えています。

私の食事のペースが早くなり声が大きくなったわけ

私は生まれてから中学を卒業するまで食事のペースは滅茶苦茶遅かったと思います。だから学校での給食は誰よりもダントツに遅かった事を覚えています。どうして遅かったのかと言うと我が家の中で私が食べたいと思うものについては家族のみんなで私が食べるのを見守っていてくれたので極端な話ではありますが食事に疲れて眠ってしまっても怒る事もされなかったから・・・。生存競争の激しい家族が多い所だったら食が細くなってしまう所です。野生の動物の世界だったら体力がなくて食べれないものは自然淘汰されるのですが私の場合はそんな事も無かったのです。

では、いつから食のペースが早くなったかと言えば間違いなく児童養護施設の指導員時代だと思います。児童養護施設の指導員になり1年が経過した頃はある程度の事を任される様になり、夕食の場面では食事の準備が出来てみんなで合掌をして食べだすのですが私は子ども達が食べだしてからも色んな注意をしたり怒ったりして、私は自分の食事に手を付けれないのです。そして、早く食べる事が出来る子が大方食べ終わったくらいのタイミングで食べだして食べるのが遅い子が食べ終わるまでに食事をかっこみ、私は再び子どもたちに注意をしたり、連絡をするのです。その時の習慣が抜けなくてゆっくり頂ける状況があっても早いのです。だから、今では会議が終了してお弁当が出た時でも誰よりも早く食べてしまうので、時として恥ずかしくなることがあるので「ゆっくり食べよう」と努力するのですが駄目なのです。

もう一つの声が大きくなった事についてですが、小さい頃の私は文字通り『蚊の鳴くような声で』だったのです。だから、中学生になり部活は卓球部だったのですが、オリンピック選手が「シャー」等と大きな声を出されているような事は絶対に無かったです。但し、何故か高校生になり『対人恐怖症の赤面症』は全くなくなり、自然と声が出る様になりました。特に生徒会会長をしていた時は毎週月曜日に全校集会があり、全校生徒2000人の前で堂々と話が出来る様になりました。特に声は、大学5年間の内に増々大きくなっていきました。小学4年3組の担任をしている時は『担任』と言うより『ガキ大将』のノリで話していた様に思います。そして児童養護施設の指導員時代は指摘しなければいけない事があった時には間髪入れずに話す事が出来ました。私は今、特別養護老人ホーム優・悠・邑で施設長をしているのですが、生まれた地に施設があるので中学卒業以来の同級生が実家の親さんの事で相談に来た時などは私の方は同級生と分かっているので、どこかに面影を見つけることが出来るのですが、同級生の方は私の中学時代のイメージのままでいるので体形も(これが一番大きいかも知れませんが)話し方も大きく変わっているので、こちらから名乗らないと100%分からないようです。但し、名乗った瞬間に中学時代に戻れるのは嬉しいのですが「なんや、ひろっさんか。めちゃ太ったね」から大抵始まるのはいささか・・・。筋金入りの『対人恐怖症の赤面症』だったのに色んな試練があって今があるとしみじみ思っています。

児童養護施設の指導員時代

徳山村での伸び伸び(気楽な生活)ぐびぐび(お酒の話し)の暮らしに終止符を打って貰ったのは、その当時中学校の校長先生をされていた児童養護施設経営者の関係者の方でした。正直、将来展望が見えない状況の中だったので、「わざわざ徳山村まで来て頂いての紹介だし、この段階が潮時かな」と思ったのでその日の内に紹介をして頂く方の車の後ろをついて行きました。

8月の終わりの頃です。児童養護施設だと聞いていたのですが着いた所はどう見てもお寺だったので「?」と言う所から始まりました。だって私は福祉の事など全くと言って良い程に理解していなかったので「?」のままお寺の庫裏と一般的に言われる所に案内されて「?」。話を聞いている内にお寺の敷地内に社会福祉法人で児童養護施設を経営されている事を理解して、この施設は親の元を離れて生活をしている施設なのだと言う事は理解したものの、資格も無い知識も無い私に勤まるのか・・と思いました。そこで疑問に思った事を聞きました。すると「若山さんは小中高の教員免許を持っているので指導員資格は充分です。」と言われたので私自身は「そんなものなの」と思いながら色んな話をしていると、面接をして頂いている方から、夏なのでカッターシャツの下に首から掛けている数珠の事で質問されました。そこで高校2年の夏から毎年春と夏に四国遍路の歩き団参をしている事を話すと、お寺自体は禅宗妙心寺派だけれども本堂にお大師様が奉ってあるとの事で、即採用との事。面接を終えた三日後である9月1日からの採用になったのです。

本採用だったのですが勤務時間は14時から22時までの8時間で夕食は入寮している子ども達と一緒に食べて、勤めて1カ月間は22時になると「先生ご苦労様でした。」と鍵を閉めにきて下さって正直「困難で大丈夫か」と思っていたのですが、「世の中それ程甘くない。」と言う事で仕事を覚えていく事によって加速度的に仕事の量は増えて来て、私の出勤時間は14時が10時頃になり、休日も殆ど取らなくても『やりがい』の方が勝ってしまう状況で「私は大学5年間と徳山村での半年は事前に休暇を前倒しで貰っていたので休みはいらない。」等と言っていたものです。

但し、「何も出来ない宏クン」に事件が起きたのは年の暮れの大掃除の時です。冒頭書いた様に施設はお寺の敷地の中ですので敷地が広いのです。ところが小学生の高学年、中学生、高校生は例年の事だからとテキパキと作業をしているのを私は寒がりだからズボンのポケットに手を突っ込んで「良く動く子ばかりで凄いな」と見ていると、面接をして下さった方から機関銃の様にバンバン注意を受けました。その時の私は「どの様にしたら良いのかわからないから見ているのに」と思っていたのですが、但し、翌年の年末の大掃除では指示が出せるまでになりました。つまり、私が色んな意味で動けるようになったのは児童養護施設に13年お世話になったからだと思います。リピーターの皆さん人生無駄なしです。

出会いに感謝PART2

令和5年2月23日

昨日のコラムで生まれてから児童養護施設の指導員時代まで書きましたのでその続きを書きます。児童養護施設の指導員を退職してフリーになった6年間は色んな方との関りを積極的に持つ素敵な時間になりました。但し、フリーの仕事は自分で選べて自由な代わりに収入は激減しました。但し、この6年間の生活によって節約すべきことの大切さを学ぶことが出来ました。(スイカの皮を漬物にするとキュウリよりあっさりした味で美味しく食べる事が出来る事も理解しました。)一生懸命の中で「教育・福祉カウンセラー」の名刺を持って色んな展開している中で場所の提供をして下さる方にも恵まれました。

フリーになり1年が経過した時にしっかりとした拠点を持たないと我が家の家計が何年もしない内に破綻する事を自覚して(非常勤講師の1コマは8000円程度でとても我が家の財政が正常な状態にはならない事を理解しました。人の口には戸が立たないので「若山は霞を食べて生きて行くつもりか」等と揶揄されたものです。)自分がしたい事をしながら頑張る為には拠点を造らなければいけないとの事で『情緒障害児短期治療施設』の計画を考えて愛知県半田市にある『ならわ学園』に行っては色んな事を一生懸命に教えて頂きました。私が一生懸命に情緒障害児短期施設の建設に向け無鉄砲な展開をしているのを聞きつけた遠戚の方が土地の提供の提案があり、パーツまで作成して岐阜県庁の児童家庭課(当時)に持ち込むまでにも多くの方に支援して頂きましたが、当時の岐阜県の意向は「10年間は予算の関係で計画出来ない。」と言うものでした。

あの頃の私は猪突猛進だった様でかなり無鉄砲な動きです。(今も大して変わらないのかな)その後も情緒障害児短期施設の計画からの変更を余儀なくされ色んな方にアドバイスを頂き、特別養護老人ホームの建設に取り組むことにしました。とは言えどこから手をつけて良いのやらも分からない中、講演依頼を受けた時等に飛び込みの形で施設見学をさせて頂いたのですがどの施設でも温かく招き入れて頂き色んなアドバイスを頂いたのは本当にありがたかったです。そんな中で計画が俎上に上がってからは、「お金な無いけど時間はある」と言う事で特殊浴槽・瓦・家具等々を見に行きより良い建物になる様に提案をしましたしアドバイスも一杯頂きました。

本部施設本館では土地探しからだったので地主さん7軒の家には毎日の様に訪問もしました。この時には根気よく粘り強く話をしました。この時の経験は今も生かされていると思います。本部施設本館の建設から25年が経過しましたがその間にも色んな方々との出会いがあり、今考えても色んな体験は一つも無駄な事は無かったと思います。リピーターの皆さん、これからも人との出会いを大切にしながら地域の為に頑張りますので宜しくお願い致します。

1 81 82 83 84 85 86 87 88 89 292