心の中で自分だけという毒キノコを育ててる
令和5年2月21日
いつもの大谷徹奘師の言葉なのですが、少なくとも私の中では『毒キノコ』と言うものは育ちようが無い毎日である事に感謝しています。どうしてそんな事が断言できるかと言えば『感謝の日々』であり自分自身『多くの方の支えによって今がある』と思っているからです。私は、今までの人生の中で常に「人の出会いに恵まれてきた」と思っています。「おぎゃ」と生まれた時には「宏命」の母秋江がいて、母秋江さんの言う事には逆らわない父進さんがいて、病弱な体ではありましたがぬくぬくの生活でした。中学1年で母秋江が他界してからは6歳年上の姉光子さんが私を守ってくれる存在でした。姉光子は全く豪快な性格で高校を卒業して関ケ原町役場に就職していましたが本当に頼もしい存在でした。私が高校生になり姉光子は結婚して関ケ原町役場は退職しましたが地元の企業に勤めて私が学校帰りに甘えれる存在でした。但し、姉光子は私が高校2年に進級した4月7日にくも膜下出血の為に急逝して、その時の1学期間は凧の紐が切れた様な生活でしたが、その時はその当時学校長をしていた父が学校に謝りにくる日々で私を支えてくれました。そんな荒んだ4カ月でしたが、その様な状況を心配して来てくれたのが熊のような風貌の鉄砲打ちの伯父さんでした。伯父さんは、その当時熱心な弘法様信仰をされていて地元の支部の支部長をされていて滋賀信行会主催の四国巡礼歩き子ども団参の先達をされていて私を弘法様信仰の道に導いて下さいました。その体験から「人の役にたちたい。」と言う事で生徒会の副会長になり、会長までさせて頂きました。その時の生徒会の顧問の先生にも色々な事を教えて頂きました。大学では色んなサークルに関わりながらも「郷土研究の会」(柳田民俗学です。)を頑張って行く中で、文化庁出身の顧問の先生にも一杯色んな事を教えて頂き可愛がって下さいました。大学を卒業して教員になった時にはいい加減な教師であった私を厳しく指導して下さった校長先生の存在は大きかったです。教員を辞めて徳山村で自分探しをした半年間には徳山村の語り部だった増山さんの民宿にお世話になりながら、増山さんの甥っ子である「ふるさと」の原作者である平方浩介先生にはお酒を飲んではダム移転に伴う問題について熱く語りあい色んな事を学ばせて頂きました。その後、児童養護施設の指導員をしていた13年間にも色んな先生に指導を仰ぎ自分磨きが出来ました。その間に35歳の時に児童養護施設の代表者17名の中に選ばれてアメリカ研修に行かせて頂いた同志との出会いも私にとっては大きな財産となりました。リピーターの皆さん。色んな私の出会いを一日では書けません。残りは明日に譲ります。