心の中で自分だけという毒キノコを育ててる

令和5年2月21日

いつもの大谷徹奘師の言葉なのですが、少なくとも私の中では『毒キノコ』と言うものは育ちようが無い毎日である事に感謝しています。どうしてそんな事が断言できるかと言えば『感謝の日々』であり自分自身『多くの方の支えによって今がある』と思っているからです。私は、今までの人生の中で常に「人の出会いに恵まれてきた」と思っています。「おぎゃ」と生まれた時には「宏命」の母秋江がいて、母秋江さんの言う事には逆らわない父進さんがいて、病弱な体ではありましたがぬくぬくの生活でした。中学1年で母秋江が他界してからは6歳年上の姉光子さんが私を守ってくれる存在でした。姉光子は全く豪快な性格で高校を卒業して関ケ原町役場に就職していましたが本当に頼もしい存在でした。私が高校生になり姉光子は結婚して関ケ原町役場は退職しましたが地元の企業に勤めて私が学校帰りに甘えれる存在でした。但し、姉光子は私が高校2年に進級した4月7日にくも膜下出血の為に急逝して、その時の1学期間は凧の紐が切れた様な生活でしたが、その時はその当時学校長をしていた父が学校に謝りにくる日々で私を支えてくれました。そんな荒んだ4カ月でしたが、その様な状況を心配して来てくれたのが熊のような風貌の鉄砲打ちの伯父さんでした。伯父さんは、その当時熱心な弘法様信仰をされていて地元の支部の支部長をされていて滋賀信行会主催の四国巡礼歩き子ども団参の先達をされていて私を弘法様信仰の道に導いて下さいました。その体験から「人の役にたちたい。」と言う事で生徒会の副会長になり、会長までさせて頂きました。その時の生徒会の顧問の先生にも色々な事を教えて頂きました。大学では色んなサークルに関わりながらも「郷土研究の会」(柳田民俗学です。)を頑張って行く中で、文化庁出身の顧問の先生にも一杯色んな事を教えて頂き可愛がって下さいました。大学を卒業して教員になった時にはいい加減な教師であった私を厳しく指導して下さった校長先生の存在は大きかったです。教員を辞めて徳山村で自分探しをした半年間には徳山村の語り部だった増山さんの民宿にお世話になりながら、増山さんの甥っ子である「ふるさと」の原作者である平方浩介先生にはお酒を飲んではダム移転に伴う問題について熱く語りあい色んな事を学ばせて頂きました。その後、児童養護施設の指導員をしていた13年間にも色んな先生に指導を仰ぎ自分磨きが出来ました。その間に35歳の時に児童養護施設の代表者17名の中に選ばれてアメリカ研修に行かせて頂いた同志との出会いも私にとっては大きな財産となりました。リピーターの皆さん。色んな私の出会いを一日では書けません。残りは明日に譲ります。

 

ほしいのは 自分に 負けない 心です

令和5年2月21日

今の私は余程の事がない限りは負けないと思います。だって、自分で言うのはおかしいかも知れませんがあえて言うなら、朝4時25分のアラームで行動開始(大抵はアラームが鳴る前に目を覚ましているので、あえてこの表現にしました。)をして、花等の水替えをしてから仏間で祈りを30分したあと、お墓参りに出掛ける毎日が昨年の6月から続いているのは凄い事だと思うからです。

本日5時25分に家を出ると屋根は真っ白で「寒い。でも頑張るぞ」と言う事で頑張りました。但し、道路はバリバリに凍てついていたので、慎重に歩きました。いつもお墓参りの時には金剛杖をついて歩いているのですが、歩くとき金剛杖の方が私の体より先につく事になるのですが、本日ほど金剛杖が有り難いと思った事はありません。と言うのは金剛杖をついた時に金剛杖が「ツルッ」と滑った様になった時には「より慎重に歩け」と教えて頂いたと思ったからです。但し、幸福地蔵菩薩様の四段の階段では本当に「ツルッ」と滑りそうになったので、正直、手をつきながら階段を上りました。その時に頭に浮かんだのは大学を卒業して揖斐高原のスキー場の梺にある坂内中学校に赴任して、初めてスキーをした時に滑っていて恐さを覚えるとへっぴり腰になってしまい、よりスピードが出てしまい結局転んでしまった事を・・・。と言う事で、わかっていてもへっぴり腰になるのを自覚しながらも何ともならないのをイライラしながら対応していました。

本日は金剛杖が支えになり転ぶ事無く家に帰れました。本日は午前11時から岐阜駅前のじゅうろくプラザにおいて『オール岐阜・企業フェス 就活大冒険』が開催され11時の開催萎えに初日と言う事で開会式典があり、来賓で招待されているので久しぶりに在来線に乗って岐阜に行きました。早くに着いたので県職員の方と話をしていると、式典で陣羽織を着るとの説明を受けて何となくワクワクしてきました。(直ぐにその気になれるのが、今の私のキャラなのです。)順次来賓の方々が控室に入ってみえて、舞台に移動してのリハーサルでは、岐阜信長武将隊の3人のメンバーの指揮により右手で拳を作り「オー」の掛け声を出しました。勿論本番はみんなばっちり出来ました。1日100社のブースが4日に渡りあるので、400社の企業が就職を希望している参加者にアピールをするのです。この様な企画を岐阜県でして頂ける事に感謝しています。

② ①

もう一度「自分に負けない」に戻しますが、私は小さい頃今須生え抜きの無敵の母秋江の庇護が当たり前の生活でしたから、私自身が強くなる必要が無かったので決して私自身強くなる必要が無かったのだと思います。だから何も出来ない幼少期だったのに、打たれ強くなったのか・・・。多分計り知れない程の経験をさせて頂きその都度、ぎりぎりの中で救世主が現れて救って下さったからだと思います。今の状況は決して自分一人の頑張りでは無い。色んな体験をさせて頂いて強くなってきた事に感謝して、これからも私に出来る事を120%で頑張りますので、リピーターの皆さん今後宜しくお願いします。

嬉しい限りです。

令和5年2月20日

かつての入居者さんの家族の方から「今は名古屋で生活しているのでかつて住んでいた家を売る事になり、必要で無い物を処分するが施設で使えそうな物を取りに来て欲しい。」との事で昨日頂きに行き(私はご挨拶に行っただけで搬入の戦力にはなりませんでしたが)かつての入居者の家族の方に何年か振りにお会いしたのですが、暖かく迎えて下さり、尚且つ、「私の為に部屋を空けといてくれよ。」と言われたのは本当に嬉しかったです。

ただし、その時の私は「ゴルフをされる様な方が特養の入居は絶対に申し込みすら出来ません。でも、入居したいと言って頂けるのは大変ありがたい事です。」と答えました。この様にかつての入居者の家族の方が声を掛けて下さる事は大変にありがたい。この現象は当法人の「ご縁を頂いたら亡くなられてからも継続的にご縁を頂きたい。」と言う事でコロナで規模を縮小していますが例年6月の供養祭、8月の夏祭り、9月の千巻経の案内はご案内を出させて頂き、欠かさづに参加して下さるご家族の方もあります。

また、もう一つ最近入居申し込みに対して嬉しかった事があります。それは、本部職員が私の所に深刻な顔で「ご相談があります。」と言って来たのです。「私は何事」と思い会議室で話を聞くと「自分の母親の実家の母親(つまり、職員の祖母)が元々要介護4で自宅で介護をしていたが先般脳梗塞を発症して救急車で搬送され入院したのだけれど、退院してから自宅介護は厳しいので優・悠・邑でお世話して貰えませんか。」との事だったので私は「内の施設で出来る事はさせて貰える様に配慮しますよ。」と答えると相談に来た職員は安心した顔で部屋を出て行きました。

この時私が嬉しく思ったのは職員自身が「自分の働いている施設で身内である祖母のお世話して貰いたい。」と言うのは、「自分が勤務している施設に祖母を入居させたいと言うのは勤務しているのに誇りを持っていると言う事で素晴らしい」と思った次第です。かつての入居者の家族の方と実際に勤務している職員の2つの事柄から今の施設の運営に間違いは無いと自信を深めました。勿論だからと言って今のままが完璧と言うわけではありませんので今後も是は是、非は非で切磋琢磨していきますのでリピーターの皆さん今後共、素晴らしければ褒めて頂き、駄目な時には厳しく指摘して頂ければ有難いです。

 

逃げればこわさがましますよ

令和5年2月19日

大谷徹奘師の言葉に「この言葉は私の人生を物語っているな。」と先ずは思った次第です。と言うのは、中学生までの私は何事にも消極的で後になってからうだうだと後悔している生き方でした。これは、私が小さい頃は虚弱であったが為に母秋江さんの大きな包容力の中でぬくぬくと育ち文字通り手も足も出さなくても良くて、それでいて頭の中ではうじうじと考えている生き方だったのです。しかも、中学を卒業するまでは、1学年1クラスだったのでその殻をぶち破る事が出来ず軟弱を演じ続いていたのです。

高校生になり私立のマンモス校に入学したので、お馬鹿をすることが出来るようになったのですが、今度は父進さんの庇護を受けてのものでした。では、大学時代はどうだったかと言えば、実家を離れての長屋のような学生向けの住宅で、凧の糸が切れた様な生活で自分なりに色んな事を頑張りたいとあがいた時期でした。中学生までは対人恐怖症の赤面症だった反動の様に、高校生の時は良くしゃべる性格になっていたので、生徒会長等をしていたのが役にたったのか、大学2年の時にサークル活動として郷土研究の会(柳田民俗学)に所属していて色んな展開の中で活動をしていたので、学術局(他に文化局と体育局)に加入する事が出来、半年後には学術局長として学生会活動にも関わる様になりました。

確かに大学時代は色んな事をさせて貰いましたが、今から考えるとその時は大真面目にしていた事も、本当に責任ある対応だったかと言うと甚だ疑問です。本当の意味で自己責任の中で行動をしてきたのは、やはり、社会福祉法人杉和会を設立してからだと思います。と言うのは、法人の中で何をするにも私が最終的な責任を追わなければいけません。そんな時に正直「逃げたい」と思うような場面がこの25年の間に沢山ありました。でも、私が責任を持ってやらなければ誰も出来ないのです。だから、厳しい場面に出会った時には下腹に力を入れて言葉を慎重に選びながら対応をしていきました。良い結果になるまでは正直イライラもしながら、ドキドキもしながら眠れない夜を何日も過ごして、でも、良い方向に向かっていった時に振り替えると、私自身が強くなっていることに気が付きました。

まだまだ、「上り坂」ばかりでなくて、「下り坂」もあるだろうし「まさかの坂」もあるかも知れません。正直人一倍打たれ強い人間にはなりましたが、まだまた出来ないことも沢山ありますし、やりたいこともまだまだあります。と言う事は、これからも決して逃げることなく頑張っていきますので、リピーターの皆さんこれからも叱咤激励を宜しくお願い致します。

午後1時30分からジョイントカラオケです

何となく朝から体が怠かったのですが、いつもの様に朝のお参りとお墓参りは出来たのですが、本日のどんよりとした曇り空に呼応しているわけではありませんが、何となく頭がどんよりした感じです。但し、食欲は落ちて無いので大丈夫だと思います。そんなわけで午後1時30分からのジョイントカラオケがノリノリで歌えるか自信がありません。でもね、マイクを持った瞬間にはしっかりと歌えると思っています。何故なら、私の歌でも楽しんで下さる方が一人でもあれば一生懸命に歌わなければ入居者さん利用者さんに失礼だからです。いやいや入居者さん利用者さんによって生かされていると言うか助けて頂いています。午後1時15分になり、ジョイントするボランティアの高木さんがおみえになったので、先ずは会議室でお茶を飲みながら話をしていると最初の出番であるデイサービスの職員が呼びに来てくれてジョイントカラオケが始まりました。トップバッターは当然ながら高木さんです。高木さんはもうすぐ80歳になる方なのですが音程はしっかりしているし何と言っても台詞をテレビの画面を見る事が出来声量も凄いのです。だからデイサービスの利用者さんも歌に引きつられてみえました。私は高木さんと10歳は歳が若いのだから負けているわけにはいかないとギアを上げて歌いました。デイサービス、本館1階、2階と回っている内にエンジンはフル回転になり本館2階ではアンコールにも対応していました。本館2階でのイベントが終了した段階で午後3時25分になっていたので午後4時30分にお客様の約束をしていたのですが「この調子ではとても約束の時間には間に合わないと考えて事務所に連絡をしてお客様の約束の時間を午後5時に変更して貰う様に依頼しました。連絡をして新館1階に行くと今や遅しと入居者の皆さんは待って頂いていて正直「ありがたいな」と思った次第です。時間が押していたので1階の入居者さんもアンコールをしたそうだったのですが急ぎ2階に行き、これまた高木さんからスタートして、ここが最後のフロアなのでアンコールも受けて歌わせて頂きました。ここでのアンコールでは絶好調で北島三郎の北の漁場を熱唱しました。(自分で言うのだから間違いありません。)5会場全てを終了して再び会議室に戻り高木さんとコーヒーを飲みながら話をしていると午後5時からのお客さんがおみえになったとの連絡を貰ったので次回の日程を決めて高木さんを見送り、入れ替えにお客様を会議室に招き入れて役時間お話をして玄関にお見送りをしてからコラムを書いています。リピーターの皆さん。本日の私の反省は「時間には余裕を持った計画をしなさい。」・・・。でも自分で書きながら「無理無理」と言っているもう一人の自分がいます。こんな生き方しか出来ない私ですがこれからも宜しくお願い致します。

できるとき、できること、できるだけ

本日の大谷徹奘師の言葉に自問自答をしています。

だって自分自身その時々でしっかりと頑張っているのかと。少なくとも効率的には頑張れていないと自分でも思っているものですから。

「整理整頓が出来ない人は仕事が出来ない。」と良く言われますが、先ずはこの時点で私は失格です。私は何かをするときに一生懸命に完成するまでは頑張るのですが、後片付けがさっぱり出来なくて次に何かをしようとした時には周りの整理から取り掛からなければいけないのでいつもいつも効率が悪くて大変なのであります。

何故こんなに片付けが出来ないのかと言うと・・・。そうです、私が神戸北小学校4年3組の担任をしている時に6月に校内研の授業をさせて貰った時に最悪の授業をしてしまいました。この時は完全に準備不足で板書も適当だったので徹底的に校長先生の指導が入りました。(その当時の校長先生は教育センターから赴任されたエリート校長先生だったので。)この時は正直落ち込みました。

そして9月に岐阜県教育事務所の教育課長さんの指導があると言う事で父進さんの協力も得てしっかりと資料作りもして、父進さんから「板書が上手く行かないのであれば、板書したいことを事前にマジックでビー紙に書いておくと楽だぞ。」と教えて貰い、その通りに準備しました。結構な時間を掛け完成して余裕を持って研究授業に挑む事が出来ました。

但し、授業に持って行くものの準備はしたものの、マジックやビー紙や準備に使用した教材も含めてバンバラばんの状態で次の日を迎えたのですが、朝起きてバンバラばんの状態が綺麗に片付けられていて私は何の疑問も持たずに出勤して無事に研究事業を終え満足な気持ちで家に帰って父進さんにその時の課長さんの評価について話をすると自分の事の様に喜んでくれて、一言も片付けて無かった事については触れる事も無くて今はあの時の事を思うと父進さんは何と寛大な父なのかと、思わず手を合わせずにはいられません。

かなり話題が逸れてしまいましたので戻します。表題には「できるとき できること できるだけ」と言うのは良く理解出来るのですが、「あの頃の私は正直チャランポランだった。」と思います。今は「起承転結が大切だ」と言っている私ですが、若い時の私の生き方とは違う事に気が付きます。但し、片付けについては今もかなり出来ません。父進さんがいないのだから頑張らなければとは思うのですが正直出来ません。これは、父進さんが私を甘やかせたためだと・・・。父に転嫁している私です。

リピーターの皆さん私にはこんな面もあるのです。(威張って言う事ではありませんが・・・。)

 

 

弱い自分に出会った時が強い自分になるチャンス

令和5年2月16日

いつもの大谷徹奘師の日めくりカレンダーの本日の言葉なのですが今の私ならば「その通り。私の中に弱い自分をさらけ出し、のたうち回っている中で問題解決をして結果的に強い自分になってきた。」と自分でもしみじみ思っています。私自身は「長男の末っ子で尚且つ虚弱児だったから目の中に入れる様に真綿で包む様に育てられた。だから軟弱な性格の甘えん坊な育ち方をしてしまいました。」と言っています。勿論私と同じような境遇の方全てがその様に育つわけではありませんが本当に軟弱な生き方をしていたと自分の事ながら思っています。ではいつから打たれ強くなったのかと言えば「30歳で結婚した時・・・」「いやいや、まだまだ父進さんにもたれかかっていました。」「ではいつなの」と言えば「父進さんが他界した38歳の時」「いやいや、正直亡くなった父進さんに甘えていたぞ。でも、父進さんが他界した事は私を強くしていった時期と重なるから父進さんが他界したのは大きく影響しているのか。」「学生時代の私は色んな展開の中で無茶をしてきました。但し、父進さんの蚊帳の中」「そういう意味では滅茶苦茶迷惑を掛けて来たな。」「それどころか親父が惚けないのは私が心配を掛けているから呆けないのだからこれも親孝行なんだ。」等と嘯いていたな。この歳になってようやく「本当にごめんなさい」でもね、父進のお葬式時のお礼の挨拶を原稿もなく話をしたのを後日、大垣女子短大の非常勤講師室で父進が校長をしていた時に教務主任だった先生から、「若山君の話は父親に対する感謝の気持ちが伝わってくる良い話だった。」と言われた時には「色々と迷惑を掛けてきた事が走馬灯のように蘇った事を正直に話させて貰っただけなんだけれど。」と思いました。父進が他界する4カ月前に私は児童施設を退職して自分の思いを形にする為に辞めたとは言え、80歳になっても父は関ケ原民俗資料館で仕事をしていてくれていましたので私は家の中心者でなかったから出来た様にも思うし・・・。しかしながらその年の8月12日に他界しても正直「何とかなる」くらいにしか思っていなかったのです。しかしながら、それ以降の私はは自己責任で色んな事をさせて貰い弱気の虫が働いた時にその都度がむしゃらに頑張って来て今がある。30年は自己責任の中で頑張って来たけど、38歳からだからまだ人生の半分にもなっていない。リピーターの皆さんこんな考え方をする私ですがこれからも宜しくお願いいたします。

「おもち」の事を初めていとおしいと思いました‼️

令和5年2月15日

いつもの様に4時25分のアラームでの行動を開始して着替えを済ませて我が家の住民である猫の「おもち」が毛布の上で寝ている所に近付いたのですが、いつもだとその場から逃げるか逃げる暇がなかった時は毛を逆なでて威嚇するので大きな声を出して追いかけたりするのが日課だったのですが、本日は逃げる事も無くじっとしていたので「おはよう。」と声を掛けると「にゃーー」と可愛く鳴いたので、私は思わず「いとおしいな」と思った次第です。野良を一年近くしてから我が家に来た住民なので、心を許すのには時間がかかるのだと改めて思った次第です。

朝食の時にその話を我が奥様かをり様に話をすると、奥様かをり様曰く「真っ白な猫は目立ちやすいので外敵に狙われやすいので、警戒心が強いので心を許すまでに時間がかかるの。但し、頭が良いのです。」とのたまわれたので「ふ~ん。そうなんだ」と思いつつ朝食後に2階に上がって行き廊下の戸を開けたら思いっ切り急いで自分の部屋に走って行ったので「本当に仲良くなるにはまだまだだな」と思った次第です。

かつて我が家に20年生活していた猫「リッド」は、20年の内19年間は私の事を天敵のように思っていたのか、2階の自分の部屋から降りて来て1階のリビングで奥様の傍でのんびりとしていたのが私の車が車庫に入る音がすると慌てて2階に退避する毎日だったようです。奥様から聞いた話では、リッドは結構玄関先の靴入れの上で寝ている事があり、宅配の方がおみえになっても動ずる事無く立派に座っていて、10キロの体重があった時は業者の方が驚かれる事が度々あったとの事。この話を聞いた時には「外の方にも動じないのにご主人様には逃げて行くとはどういうこっちゃ」と思いました。その時ふと思い出したのは、ゴリラの飼育員はゴリラが小さい時に蒸気機関車をリモートで操作して、ゴリラの赤ちゃんが怖がっている目の前でその蒸気機関車を投げて「蒸気機関車を投げて僕を(私を)助けてくれたヒーローだ。」と言う事でその後自分の方が体も大きく腕力も強いのにその飼育員の方には従順でいる。との話を聞いていました。但し私の場合は『怖いおじさん』でずっと来てしまっていたのです。

ところが昨年の1月からは急に私に寄り添う様になり、私の布団の上で寝てくれる様になったのです。この激変の理由を考えてみるに、私が事業の事で落ち込んでばかりいたのと重なるのです。と言う事はリッドは、と言うより猫には素晴らしい感性があり、相手の気持ちを素早く理解する能力があるのだと思います。だとすると、リッドの様に19年もかかってはいけないので、おもちにはせめて1年位で心許してくれるように努力をしたいです。いやいや待てよ。先般、『トムとジェリー』の映画がテレビでされていたのを録画してみたのですが、ひょっとして私はトムの役割りをしているのか。だとすると「おもちよ許せんぞ。」いやいや家族ですから仲良くしますので、私のベットに乗ってくれるように努力することをリピーターの皆さんに誓います。

こけたら起きればいいんです

いつもの様に大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉です。当たり前と言えば当たり前の言葉ですが、人生においてはなかなかこれが難しい。私は凡人だから今回の転びを起き上がるのに半年以上かかりました。起き上がるきっかけになったのは今朝も実施した4時25分のアラームでの行動開始での仏間でのお参りとその後の妙応寺経由のお墓参りです。朝の2時間のウォーミングアップが一日の活力と気力の源になり、「弱虫の虫」を押さえ込んでくれたので今も頑張れています。朝のお墓参りの時には色々な事を教えて貰えます。昨日の朝のお参りでは妙応寺の本堂でのお参りをしようとすると、吉澤施設長からプレゼントされた携帯用のライトで本堂を照らしていたのが失礼だったのか、本堂を照らそうと思った瞬間あんなに明るかった明かりが突然消えたのです。私はその時「この時間に本堂を照らすには明るすぎたのか」と思い、本日はそれ程明るくないライトを首にかけていきました。私はこう言う現象をこの様に考えてしまう性格なのであります。

本日は歩き出すと風が吹くと冷たく感じましたが妙応寺の本堂のお経を唱えていると背中の方から温かくなります。だから元気に一日を過ごせます。そして、私は12月の初めから放射線治療をして先週の木曜日(2月9日)で38回の治療が終了したのですが毎朝4時25分のアラームで行動開始の規則正しい生活をしていたので、1回も放射線治療をする前の尿量検査で放射線治療に直ぐにいけない事は無かったのも神仏のお陰だと思っています。だって、尿量検査の結果で1時間以上待合で待ってみえる方があるのですから・・・。前立腺がんがステージ2と言われた時に大学時代に腸閉塞で手術をしているので手術治療は出来ないと言われ放射線治療になりますと言われた時は少なからずショックでしたが、今は無事に放射線治療も終わり3月に泌尿器科で血液検査等をして頂き治療の効果があったと言って頂ければ「転んだけど起き上がれた」と清々しい気持ちで言える事を願っています。リピーターの皆さんも一緒に願って頂けると嬉しいです。

物価高騰に思う

令和5年2月13日

ロシアのウクライナ侵攻が始まって1年が経過して、原油の高騰から色んなものが値上がりをしている。岸田総理は「物価の値上がり以上の賃金アップを」と言われていますが、岸田総理の意向を受けて賃金を上げられる企業はそれ程多くはないと思います。景気よく賃金アップをするニュースはテレビやラジオや新聞等々で伝わってきますが、「賃金アップなんてとんでもない」と思われている企業もたくさんあるのではないかと思います。物価高騰の一番にクローズアップされたのはガソリンの値上げだったのですが、今は電気代と食材料費のアップが最も話題になっています。

電気代の高騰についてですが、電力会社は政府の認可も無しに知らない内に金額が上がっているのが「燃料調整費」と言うわけのわからないものだと思います。例えば本部施設の例えば令和3年3月の燃料調整費が「―66.184円」だったのに対して令和4年12月には「+309.630円」と言う事でこの±の差は約37万円です。その上4月には大幅の値上げの報道があります。そんな状況の中で岐阜県老施協では岐阜県老健協と岐阜県グループ協にも働きかけて3団体で岐阜県と協議して岐阜県議会で10月の補正で食費の補助を1食当たり30円(入所施設では一人当たり90円、デイサービスは30円)の補助を12月の議会において決めて頂き、光熱水費について特養においては1人当たり12.000の補助を決めて頂きました。

勿論この補助金だけで全て解決と言うわけにはいきません。特に職員の給料の原資について国は何も示していないので、今後も国及び県に対して粘り強く折衝をしていかなければいけないと思っています。当法人の厨房委託業者も4月からの値上げについて提案に来ました。当法人のみならず、契約提案がなされている事と思いますので、アンケートを会員事業所に送り、事業所の厳しい状況をまとめてしっかりとした根拠を作成して粘り強く折衝していきたいと考えています。このままでは介護事業所のケアの質を落としてしまう事にもなりかねないので勿論節約できる事は徹底して行った上でものを言って行きたいと考えています。リピーターの皆さん、介護事業所の実情にご理解願えれば有難いです。

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