物価高騰に対しての国の援助をいただく為に

令和5年4月12日

今朝の新聞の1面に6月から電気代の値上げの記事が掲載されていました。電気代の高騰については今既に起きていてその対応に苦慮している中での値上げの記事なので正直耐えられない思い出その記事を見ていたのです。政府の方でも有力電力会社に対して厳しく接している中で『4月からの値上げは阻止した。』と書いてありましたが、今迄は意識をしていなかった電気料金の内訳に『燃料調整費』と言う項目があり、「マイナス」数字だったのが「プラス」になっていて電気代がどんどんと上がっているのです。そんな中で政府が物価高騰に対しての援助として地方交付金の形で7000億円の予算を準備して下さいました。

リピーターの皆さんの中にも地方交付金の仕組みをご存じの方もおみえになるかと思いますが敢えてお話をさせて頂くなら、地方交付金は都道府県及び市町村の裁量で決定する事が出来るのです。と言う事は「介護施設の経営が厳しいから出来るだけ多く補助金として配分したい」と言う配慮が頂けるように色んな手立てを講じる事が肝要だと考えた私は「岐阜県老施協会長としてしっかり根回しをしなければいけない。」と考えて、昨日は岐阜県庁内の人事異動で高齢福祉課長さんと地域福祉課長さんとが代わられたのでそのご挨拶を兼ねてお話をさせて頂きました。

そしてその中で「6月の補正の議会ではなくて5月のゴールデンウイーク明けの県議会選挙後の体制作りの議会に上程していけば」との助言を頂いたので早速「アクションの成果が頂けた。」と言う事で昨日のコラムでは13日の16時から老施協、老健協、グループホーム協会の3団体で協議して嘆願書の打ち合わせをする段取りをしていたのですが同じ時間に急遽別件の緊急会議が入ったので2団体の方にご無理を言って本日16時から老施協事務局で打ち合わせをします。

勿論最終的には県議会での承認が必要ですので議会に対する根回しも今後必要になってくると思いますが色んなネットワークを駆使して頑張りたいと思っています。よく会員施設の方から「会員メリットは何か」と言われるので文字通り具体的な成果を上げてその成果を岐阜県老施協のホームページでしっかりと情報発信していきたいと思っています。当施設の様な介護施設は「経営が厳しいからと言って、勝手に利用料を値上げ出来る事は絶対に無いので、補助金をしっかり引き出して健全経営をしなければいけません。食材料費の値上げが続くからと言って単価の安いものに変更する等と言う事は決して許されないから岐阜県老施協会長としてこれからもしっかりも頑張っていきますのでリピーターの皆さん宜しくご理解下さい。

今は「みなもホール」前の木の椅子に腰かけています

令和5年4月11日

新しい岐阜県庁舎に来るのも何度目かになり、少しは余裕を持って入って行くことが出来る様になりました。本日は4月の異動で高齢福祉課長さんと地域福祉課長さんが赴任されたので岐阜県老施協の事務局長と一緒にご挨拶に10時のお約束で行くのですが、健康福祉政策部の福祉担当次長さんのお計らいにより次長室でお会いすることになっています。今は早くに着いたので(待ち合わせ時間は1階受付前で9時45分なのですが)木で作られた立派な長椅子に腰掛けてコラムを打っている次第です。

9時45分に事務局長と無事に合流が出来、受付で手続きをしてエレベーターに乗り12階に行きドアが開くと高齢福祉課長さんが待っていて下さり次長室に案内して頂きました。次長室に案内して頂く時に高齢福祉課長さんに「久しぶりに高齢福祉課に戻られましたね。」と声を掛けると「覚えて頂いたのですか。7年振りです。」と返して頂いたので「7年も前の事ですか」と話しながら次長室に入って行き、改めて高齢福祉課長さんと地域福祉課長さんと名刺交換をしてから、私の方から岐阜県老施協が抱える問題についてお話をさせて頂きました。

40分くらいの面談でしたが非常に有意義な時間となり、面談で得た事を具現化する為に岐阜県庁から岐阜県老施協事務局に場所を移して今後すべき事を協議して、本部施設に帰ってからは、物価高騰に対する岐阜県への陳情書に対して3団体(老施協、老健協、グループホーム協会)でお願いに行く為の根回しをしています。6月の定例議会に上程して頂くつもりでいたのですが、5月の議会で上程出来たらとの話しでしたので、即のアクションを起こしている次第です。

この行動は正に『行動の老施協』の一貫だと自画自賛です。「会員メリット」が目に見える形にしていくのはこの様な展開だと思っています。老健協とグループホーム協会の代表の方に連絡が着き13日午後4時から老施協事務局で陳情書の中身について検討する事になりました。中身が決まれば岐阜県への陳情書を手渡しする日程を決めて3団体の代表者で直接お渡しをする段取りを決めていきたいと考えています。リピーターの皆さん私は決して岐阜県老施協の事ばかりしているわけではありませんよ。

当法人内のデイサービスの厳しい経営状況の改善の為に4月22日~23日に大阪からコンサルの方に来て頂いて話し合いを持つのですが、その前段階として本日16時30分から関ケ原町デイサービスセンターの管理者の方との意見交換会を持つことになっています。来月16日に70歳になる身ですが後悔の無い生き方をこれからも全力でやっていきますのでリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

 

本日はタケノコ味噌汁を寸胴で作る日です

令和5年4月10日

昨日湯がいたタケノコで味噌汁を炊いて入居者さん、利用者さんと職員に食べて貰おうと昨日はゲンキーに行って八丁味噌を一杯、生ネギ2束、豆腐を6丁、油揚げ10枚とだしの素も一杯買ってきました。男の料理ですから量的には適当に買ったのですが、タケノコ祭りは一回では終わらないので残れば次回に回すのみです。

昨日と同じ時間の10時30分に点火式を行います。(そんな大袈裟な事ではありませんが。)本日も快晴だし、入居者さん、利用者さんの笑顔が頂けると思うとワクワクです。事務所でバタバタしていて10時30分になったので寸胴の所に行くと既に薪もしっかりセットしてあり、添加剤が付いた薪にチャッカマンで火をつけると良く乾いた薪なのであっと言う間に燃え移りました。本日は昨日と違い風があまり無かったので温かった為かギャラリーに多く来て頂けたので楽しい会話をしながら味噌汁作りをしました。200人分くらいの味噌汁作りするので作り方は大胆です。

お湯が沸いた段階でだしの素を大胆に入れて、昨日湯搔いたタケノコを全部鍋の中にいれ、豆腐やエノキ、油揚げを入れてから、それが沸騰した段階で八丁味噌を900gの樽を2個と750gの袋の味噌を大胆に入れました。再び沸騰した段階で紙コップに味見のスープを飲んで「だしはしっかり効いているけどもう少し味噌を入れた方が良いかな」と思ったのですが職員から「今のままで美味しいですよ」と言われて味噌を入れるのを止めて正解でした。と言うのは結果的に「今までの中で一番の出来」と言われたからです。

11時30分になり家庭用の大鍋よりも大きな鍋6つに分けてから冷凍のうどんを入れました。と言うのは13時30分から月一の『てるてる座』の方が見えるのでいつもお世話になっているし振る舞いたいと考えたからです。てるてる座のメンバーがおみえになったのでうどんもタケノコもしっから入っているのをどんぶりによそい寸胴を囲んで椅子を並べて食べて頂きました。

てるてる座のメンバーは「こんな美味しいのを食べたと聞いたら座長が残念がるな」と言われて私は「豚もおだてりゃ木に登る」状態になってしまいました。今はてるてる座のメンバーがお腹が一杯になると上手く歌えない。と言われていましたがしっかり歌われています。自分としては「最高のおもてなしが出来た。」と思っているのですがりぴはどう思われますか。さて私も一杯食べたので消化を良くするために2曲位乱入して歌って来ます。

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タケノコ祭りがいよいよ始まります!!

令和5年4月9日

昨日水野相談員が本部施設の北の川べりの山でタケノコを掘って来てくれたので本日はタケノコを湯がく為の着火式を10時30分から実施すると北島部長と打ち合わせをして、明日は昼食でタケノコ味噌汁を振る舞う予定にしました。この時期からのタケノコ祭りは2週間以上早いと思います。花見が終わったと思ったら、またまたタケノコ祭りで入居者さん、利用者さんの笑顔が頂けると思うとワクワクしてきて少々お腹が張っていても頑張れそうです。しかも本日は快晴なのでタケノコ祭りに誘われて皆さんが来てくれると思うとまたまた嬉しくなってくるのは私だけでしょうか?いやいやそう言う職員が多くいるからこそいろんなイベントが成り立つと思うと本当に有り難いです。

9時過ぎに施設に着くと既に寸胴鍋がセット設置され今は水野相談員が薪のセットとタケノコの準備をしていてくれ、テーブルには清めの酒と塩と着火剤とチャッカマンも準備してありましたので私は10時30分の点火をして薪の番をするのみです。(その間に10時と11時にお客様対応があります。)10時30分に予定通り清めの塩と酒を寸胴の周りに振る舞い大鍋の中にもお酒を入れ、農協で手に入れた糠を(今の時期は多くの方が必要な為か底の方にあったのをさらえて貰って来たとの事でした。)大鍋に入れたタケノコが見えなくなるくらいに入れて、水野相談員が組んでくれた薪に点火しました。

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よく乾いた薪であった為に直ぐに勢いよく燃えてきましたが、久しぶりに寸胴を使ったので(年末の餅つき以来)埃が付いていた為か煙が出ましたがしばらくすると治まりました。新館から入居者さんが歩いて来て下さったので準備した温かいお茶とお菓子を楽しんで貰いながら、入居者さんが「寒い」と言われるとなるべく寸胴の近くに来て頂き、それでも「寒い」と言われる方には「火の中に入って貰うか釜茹でになって貰うかな。」等と軽口を言うと「そんなのできんは」と言われたりしながらワイワイと寸胴周りで会話を楽しみました。

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11時に私に会いに来たお客様があり、火の番を水野相談員に代わりました。11時40分にお客対応も終わり茹で具合を確認に行くとしっかりと茹であがっていたので、「明日はタケノコも味噌汁を作るので八丁味噌と豆腐と油揚げをゲンキーに行って買ってこなければ」と考えています。明日は皆さんがタケノコの味噌汁を喜んで貰えれるのを楽しみにしてますが、私も大好きなのですがお腹の調子がまだ駄目なので残念ながら私は食べれません。

その分を明日は『てるてる一座』のボランティアがあるのでてるてるのメンバーにも食べて頂こうと考えています。てるてるのメンバーが喜んで頂ける姿が今でも目に浮かびます。リピーターの皆さん何事に対してもワクワク感が持てるのは幸せな事だと思いませんか。「ああそうだ」このコラムを読んで頂いてる方で「寸胴で炊いたタケノコの味噌汁を食べたい。」と言う方は、明日の12時過ぎに本部施設に来て頂いたら振る舞いますよ。「そんな遠慮のない事」と思われた方、私は元全国老人福祉施設協議会中村会長から「遠慮は3流」と教えられているので決して遠慮されないで下さい。寸胴鍋ですから軽く200杯は出来ますので。

 

お腹が張っています。

令和5年4月8日

3日前からお腹が張ったような状態で苛々するし気分は良くないのですが、私がやらなければいけない事はしっかりあるし、自分が納得をして引き受けた事を適当にはしたくないので、ここ3日間は粗食に耐えています。粗食とは言え例えば消化の良さそうなパンと牛乳であったり、にゅう麺(素麺の温かいもの)であったり、おじやです。つまり、お腹に負担が少ないものです。しかも少量を。

私はお腹が張った状態になると神経質になるのです。何故ならば、私が大学生だった21歳と22歳の時に腸閉塞で手術をしているからです。特に初めて手術をした時は、地元の医者にかかって正直誤診をされたと思うのですが、薬を処方されて様子をみるように言われたのですが、痛さが異常で(痛くてうめき声を出しっぱなしでした。)次の日に大垣市民病院に行ったら「緊急手術だ。」と言われて、多分直ぐに全身麻酔をして頂いた為だと思うのですが、次に気が付いたのは手術も終わり鼻に管があり「鬱陶しい管だな 」と思ったし、腕にはしっかりとした点滴が入っていました。

当時の点滴は動かしてはいけなかったので、シーネをぐるぐるに包帯で巻いてあり、3日間そのままだったので点滴が外された時には腕を動かそうとしたら、激痛か走ったのを今でも覚えています。余談ですが 1週間近く点滴のみだったので、最初に頂いた食事の重湯が「この世にこんなに旨いものがあるとは」と思ったのですが、3日目には「味付けのしたものが食べたい。」とわがままが出たのを覚えています。翌年の2回目の時は、大学時代4畳半一間で急にお腹が痛くなり部屋で寝ていたら、友達がたまたま来てくれて「寝ていても治らないから病院に行こうと。」彼の車で大垣市民病院に送ってくれました。正に命の恩人です。話がかなり反れてしまいましたが(いつもの事ですが)お腹が張っている話に戻します。

昨日は17時30分集合での会合があり、19時に終了して車を運転して帰ったのですが、会合が終了してホッとした為かお腹を締め付ける様な痛みが1分程続くのが10分おき位の間隔で起きて、その都度冷や汗をかくような厳しい状況で「車を停めて救急車を呼ぼうか、それとも病院に飛び込むか」等々と考えながらも何とか家に着いたので、お風呂でお腹を温めていると少しずつ治まってきました。本日はたまたま定期受診の日であったので、お腹の事も話するとお腹に聴診器を当てて貰うと「少しお腹の動きが弱いようですので、整腸剤を処方しますので、消化の良いものを食べて2~3日安静にしていて下さい。」と言われたので、診療所の帰りにゲンキーに行き牛乳とパンを購入して「本日は家で安静にしていよう。」と家に帰り購入したパンと牛乳で早い昼食を(11時30分)摂っていると、施設からのメールで「看取りの方が亡くなった」との連絡を頂いたので「家族対応だけでもさせて貰わねば」と施設に来ました。

リピーターの皆さん。全く厳しい状況は脱したので頑張れるのですが、この様な生活をいつまで出来るのかとしみじみ思っています。

 

全国老施協の全国大会が岐阜県で開催されます

令和5年度の全国大会が11月29日30日に岐阜県の地で開催されます。メイン会場は国際会議場と2階でつながっている岐阜都ホテルです。全国から1500人の参加が得られるように、また参加された方が「有意義であった」と帰られてから言って頂けるようなプログラム内容にして、且つ快適な空間になる様に心掛けた体制を作り上げていきたいと、当番県の責任者としては考えています。

具体的には全国老人福祉施設協議会が今目指しているものに沿いながらも、岐阜県らしさを出す為に出来る事をしっかりと考えて具現化していかなければいけません。その為には、全国老人福祉施設協議会大会フォーラム委員会と事務局との連携を密にしていくなかから、実行部隊として岐阜県老人福祉施設協議会の会員施設の協力が得られる様にしっかりとコミュニケーションを取りながら進めて行きたいと思います。

今の段階では岐阜県老人福祉施設協議会の役員の間で「岐阜県らしさ」を持った企画にしていく為に、記念講演の講師の方を誰にしたら良いのかと意見のすり合わせをしていかなければと考えています。私的にはスポーツ界からだったらマラソンの高橋尚子さん、野球界では楽天に所属していた嶋基宏さん、或いは中日に所属していた和田一浩さんではどうかと考えていたのですがネームバリューが抜群の作家さんの案が出てきました。それは池井戸潤さんです。私も例外なく『半沢直樹』は欠かさず見ましたし、DVDも購入しましたので今でも時々見ています。『半沢直樹』だけではなくて『陸王』のDVDも購入しているので気分転換の為に今も見ています。勿論池井戸潤さんのスケジュールも確認していませんし、そもそも池井戸潤さんが講演の様なものをお受け頂けるのかも承知していない話ですので全く雲をつかむ様な話なのです。でも、企画をする時はその段階から最終的に絞っていって形にしていくものだと思っています。つまり、今はワクワク感を持って検討に入ったところだと言う事です。

岐阜県の会員施設の職員さんには前日には資料詰めの作業をお願いしなければいけないし、大会当日も参加者の方々が気分よく参加して頂ける下支えをして頂かなければなりません。文字通り縁の下の力持ち的な役割です。岐阜県老施協の会員施設の職員さんが気持ちよく協力して頂ける様な流れをこれから構築していかなければいけないので、先ずは岐阜県内の実行委員会を組織して皆さんの理解を得ることから始めていきたいと思っています。

昨日、期日前投票に行ってきました

令和5年4月6日

統一地方選で岐阜県議会選挙が3月31日に火ぶたを開け、翌4月1日から期日前投票が始まりました。当法人の職員にも国民の権利を行使して政治的参加をして欲しいと言っていたので、なるべく早く期日前投票に行きたかったのですがなかなかタイミングが合わず、昨日関ケ原町役場まで行ってきました。期日前投票の手続きは私が学生時代に行った時(50年近く前)は、受付の方が「投票日では駄目な理由をくどくどと聞かれて1票を放棄した嫌な記憶があるのですが、かなり制度的に変わったのか、貴重な1票を駄目にする事の無いように手続きは非常に簡単でした。ちなみに、送付してきた投票用紙に事前記入しておいたので、台帳での確認をして頂いただけで投票券を頂き記入所で記入をして投票入れに入れて、期日前投票証明書を頂いて終わりです。つまり、送られてきた投票用紙に記入する以外は何も変わらないのです。

今は「投票用紙の無い方も投票出来ますよ。」との広報をされています。そのシステムが期日前投票に行って理解出来ました。そのやり方は投票所の受付で書類を渡され、必要事項を記入して台帳の確認をしたら後は普通に出来るのです。と言う事は投票所がある所で気軽に出来ると言う事です。そこまでの事をしてでも投票率を上げる配慮をされているのです。『棄権』するのも『主張の一つだ』と言う考え方の方もおみえになるようですが、私はその様な考え方では政治を動かす原動力にはならないと考えています。

さて、期日前投票を終えて玄関先まで来ると、岐阜新聞の腕章を付けた女性の方が私に声を掛けられたので「何かな」と思っていると「今、期日前投票を済まされましたか」と言われたので「済ませて来ました。」と答えると、不破郡選挙区からは3人の方が立候補されているのですがその3人の候補者の方のお名前が書いたものを示され「指で示して頂けますか」と言われたので素直に先程期日前投票で書いた候補者を指さしました。指さしをした後岐阜新聞でお世話になっている方のお名前を言うと「そうなんですか」と言われたので「これが噂の出口調査と言うもの何ですね。大変でしょうが頑張って下さい。」と言って車に向かいました。車を運転しながら「この様な地道な調査をされているからこそ、しっかりとした情報を報道関係の方は持っているのか」と思いました。

リピーターの皆さん、何をするにも情報を得るには時間もお金もかかりますが大切な事だと思った次第です。

「今」を大事に「須」べからく前向きに生きていく事が大切

江戸時代に今須にも大飢饉が襲い「居益」から「今須」に村の名前を変えたとの事が家康が座ったと言われる腰かけ石のいわれの掲示の中に書いてありました。改めて地名には決められた当時の人々の思いが託されていると思うと考え深いものがあります。

『今を大事に須べからく前向きに行く事が大切』と言う言葉がその当時の人々の思いだとすると大飢饉に遭遇していて大変な状況の中でも前向きに生きようとの考え方を持った私にとってのご先祖様の考え方に共鳴して「今須に生まれて良かった」と改めて思った次第です。

杉和会の事業を興し順風満帆に本部施設の本館・新館、大垣の和合と思いの中で「アメーバー方式」で順調に展開してきたのが盲養護老人ホーム 優・悠・邑 和(なごみ)のスタートでは厳しい経営状況が続いていて私自身正直後ろ向きの考え方に陥った時期もありましたが盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の入居者さんの笑顔に「頑張って前を見て頑張ろう」との思いと色んな方々のご支援やご協力と職員の頑張りによって『すべからく前向きに』が形になってきていることに感謝です。

さて先程書いた『アメーバー方式』とは稲盛和夫氏の考え方を私も導入してきました。アメーバー方式に対局する考え方を『落下傘方式』と言うのですが落下傘方式では人材が育つよりも拡大路線を展開して行く事になり、いずれは破綻してしまう確率が高くなると思います。確かに本部施設の本館を計画した時には3拠点もの展開が出来るとは想像もしていませんでした。ただ事業開始から25年、「地域のニーズに合わせて出来る事を頑張らせて頂こう」と突き進んできた結果が今なのです。

リピーターの皆さん、これからも『今を大事にすべからく前向きに生きる』を常に念頭において頑張っていきますので宜しくお願いします。なお確実のコラムで6時24分に東に向いて走る普通列車の両数を確認する為少し時間が早かったので腰掛石にどっかり座って数えました「8両」ありました」関ケ原を通る列車としては多いですが私が高校時代に乗っていた時は「16両」だった様に思いますが・・・。

 

6時24分に東を向いて列車が通りました

令和5年4月4日

我が家のお墓参りも終えて本堂前の境内を抜けようとした時に大抵東に向かってトンネルの上を普通列車が通るのです。「今何時かな」と携帯で時間を確認すると6時24分でした。その列車の通過をいつも見詰めながら「結構に連結が長いな」と思っていました。(明日には何両なのか確認しておきます。)今の私は(この様に強調するのは小さい頃の私とは真逆なので・・・)疑問に思う事は調べて確認しないと気が済まない性格になっているからです。パソコンで調べました。

私が確認した列車は柏原駅を6時21分発だとわかりました。と言う事は僅か3分で柏原駅から今須妙応寺の所まで来てしまうのです。そんなことより、柏原駅を6時21分に出た列車は豊橋行きだと言う事も分かりました。ついでの様な情報ですが朝の段階で豊橋まで行く列車は6時41分、7時00分、7時21分、7時41分の5便であり、その後の列車は大垣止になります。と言う事は米原~大垣間の需要が少ないから本数も少なく連結も少ないと言う事か。

ちなみに米原から西に行く便は沢山ある様です。この様に需要が減っているのは働くのに或いは生活するのに不便な所と言う事なのだと思います。関ケ原町の広報誌の4月号での記事の中で(原文のまま紹介します。)

【「不破関の誕生」672(天武元)年、壬申の乱に勝利した大海人皇子は、翌年2月、飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となりました。ある春の日、天皇は妻のうの(漢字が見つかりません)野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と、壬申の乱のことを振り返っていました。「皇女よ。私たちが勝利する事が出来た一番の理由は、不破道を塞いだことじゃ」と天皇がおっしゃると、皇女は「そうですね。畿内と東国を分けるとても重要な場所でしたから」と答えました。皇女の言葉を聞いた天皇は、しばらくして「そうじゃ。都での争いが広がらないように、要所要所に関所を作ることにしよう。唐の国には立派な関がいくつもあるそうじゃ」と、すぐに家来を集めました。「天皇。東国へ向かう3つございます。鈴鹿道(後の東海道)。不破道(後の東山道)、っして愛発(あらち)道(後の北陸道)です」「確かに。この3か所に関所を作れば、都から東国へ逃れることは出来ませんな」「よし。この3か所に関所を作ろう」天皇はそう決断すると、すぐに関所の大きさや建物の配置、役人の数などを検討するように命じました。こうして新しく作られる事になった関所は「鈴鹿関」「不破関」「愛発関」名付けられました。】

ながながと関ケ原町の広報誌の記事を書きましたが私が言いたいのは関ケ原町が経済的にも豊かになる為のヒントがここにあると思うのです。

つまり交通の要所であると言う事は流通の要である利点を活用しない手は無いと言う事です。基幹産業がしっかりすればインフラ整備もしっかりしてくると思いますし。少なくとも『米原~大垣間が本数が少ない』と言う事は少なくても無かったのではないかと思うのですがリピーターの皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

家康が座った石に対する色々と尾ひれはひれ

私が小さい頃は歴史上の重要な石等とは知らずに平気でその石に乗って遊んでいました。と言うのはその頃(50年~60年位前の記憶です。)の遊び場は青坂神社とその敷地内にあった門前公民館だったからです。

青坂神社の一角には子ども相撲が出来る土俵があり、その土俵を見守る様に家康が座ったと言われる石があったのです。色んな意味で重宝した石であります。

(少し横道に入ります。)10月2日は今須地区の秋祭りがあり、子ども相撲が奉納されていました。その頃私も参加していましたが当時ガキ大将だった同級生には絶対に勝てませんでした。それはそうですよね。彼は大垣日大高校相撲部で全国大会にも出場して優勝こそしていませんが結構な結果を残していましたから。それ程ガタイが大きくはありませんでしたが筋肉質な体形で関取に例えるなら千代の富士関のスケールを少し小さくしたような男で運動神経も抜群だったのでスノーボードで名を挙げスポーツ店を名古屋で経営していたのですが何が原因かは分かりませんが早死にしたので残念でなりません。

ガキ大将だった彼は文字通り「弱気を助け強きを挫く」タイプだったので同級生でありながらも尊敬の念を抱いていました。だって私はその当時は弱虫の部類でしたから。

青坂神社の境内では野球もしました。境内の参道は当然の事ながら細長くて石の鳥居は高いのでその鳥居の上を超すとホームラン。但しそれ程広くない参道を右に逸れると雑木林でそれを超えると鉄道が走っていて、左に逸れると山の中と言う真っすぐに打ち上げるしかない様な所で野球をしていたので下手をするとボールを探している時間の方が長かったかも知れません。

50年、60年前には遊び道具も遊び場所も限定的だったので逆に創意工夫をしてそこでしか通用しない様なルールに元ついて遊んでいた様に思います。相手のメンコをひっくり返すと自分のものになると言うのでメンコに蝋燭の蝋を塗り込み取られにくくしたりして遊んだものです。遊んでいてエキサイトしてきて喧嘩になる事も多々ありましたがいつの間にか仲良くなっていて。今考えても不思議な世界です。

リピーターの皆さん。石一つから50年前60年前に遡り私自身はとても楽しい思いで原稿を書きました。私にもこんな面があるんです。

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