介護報酬改訂に私なりに一生懸命です。

令和5年10月25日

3年毎の介護報酬改訂が来年4月に迫っています。4月に改訂されるとは言え12月には大枠が決まりますので今が正に正念場だと思います。全国老施協が行った令和4年度の収支状況等調査によると令和3年度の赤字事業所が40%だったのに対して60%を越えたとの結果が出ました。コロナの影響と円安や世界情勢の不安定感による緒物価の高騰が顕著だった結果だと思います。

そんな中、岸田総理は賃金アップを謳われています。しかしながら、賃金アップをするためには、先ずは物価高による赤字の解消をしてその上での職員の賃金アップをしなければいけないのですが、介護報酬はいわゆる公定価格ですから大幅な介護報酬アップをしなければどの事業所も立ち行かなくなってしまい介護崩壊になってしまいます。優秀な職員を確保するには他産業に引けを取らない賃金にしない事には職員確保もままならない状況になってしまいます。

岸田総理は子育て支援に異次元な取り組みをすると言われています。私も子育て支援を手厚くすることを否定するものでは有りませんが、その原資を介護の予算を減らすような事は決して許されません。だって子育てを行う親にもやがては介護の関わりがやって来るのです。介護保険の仕組みは被保険者の介護保険料と税金から成り立つています。介護保険料を抑えた形で介護報酬の単価を上げていく為には税金の投入しかないのです。介護を担う職員のモチベーションとスキルを上げる為と介護を担う在宅介護を担う方の負担軽減を実現するにはしっかりとした介護報酬の根拠を確立しなければいけないと考えています。

冒頭に述べた様に介護報酬は最終的には国会で決められます。と言う事は国会議員一人一人に介護事業所の現状を理解してもらわなければいけないと言う事で岐阜県選出の衆参議員7名の方へのアプローチをしなければいけないと言う事で岐阜県内の事務所でお会い出来る方を除いて昨日と本日で参議院議員会館と衆議院議員会館を回っています。今は衆議院第二議員会館 で時間調整の為に受付前の椅子に腰掛けて本日のコラムを打ちながら待っています。この様な行為を地道に行う事によって介護報酬の基本単価を少しでも上げて貰いたいとの願いを込めています。政府は基本ベース6000円と言う話をまことしやかに流していますが、6000円と言う数値に根拠があるとは思えません。国は介護事業所がなくなってしまう事によって起きる大変さを理解されているのかと思わざるを得ない。高品質な介護は国民の安心を与える事を理解した考え方に終始して欲しい。

介護事業所は残余財産を多く持っているとの根拠のようなものを示す事が有りますが、老朽化した施設の改修費に対してまで残余財産と言う括りにされたら「改築をするのな」と言う事になるのではないでしょうか。

リピーターの皆さんもご理解とご支援をしていただければ幸いです。【余談】議員とのお約束が13時30分で昼食がまだだったので受付を済ませて地下1階の食堂で今はハンバーグ定食(和風・980円)を頼み、席を案内されたら「議員専用席」と書いてあり、4席の所を一人で独占して恐れ多い事です。恐れ多いと言えば13時30分にお会いした衆議院議員の先生は陳情を終えて写真も撮り帰ろうとするとエレベーターの所までお見送りをして頂きました。

 

 

夜中1時30分に真っ青です。

21時30分に眠りにつき、喉の渇きを覚えて目を覚まし何時かなとガラケーの携帯で時間を確認しようとするとガラケーの携帯がウントモスントモ動かない。「おいおい、ガラケーの携帯が動かないで東京出張は無理だ。」何度もガラケーの携帯をいじっても、ウントモスントモうごかない。

午後からの出張なので「朝イチにドコモショップに行く事にして寝よう。」と言う事で眠りについて、いつもだと4時過ぎには目を覚ますのですが目を覚めたのが5時10分と言う事で、いつもの様にベッド上で体操をしている時に「仏壇でのお参りをしないで水替えをして手を合わせるだけにしてお墓参りに行く事にしよう。」と考えて、てきぱきと行動をして妙応寺まで行くといつもは開いている大門が空いてない。「私と一緒で起きるのが遅かったのかな」と思うと同時に「本堂のお参りを後にして先にお墓に行く事にしよう。」とお寺の外周を回る形で六地蔵さまでお線香を供えてから、お墓に行きました。

お墓でのお経も終えて本堂の方に行ったのですがまだ大門は開いていなかったので、本堂のまえで般若心経を唱えて今須稲荷で本堂の分も含めてお賽銭を供えて、またまた外周を歩いて家に帰りました。その後お風呂に入り6時40分から朝食をとっている時に携帯ショップは10時からではないかと我が奥様が言うものですから少し焦りながらいつものお店の営業時間を調べると「9時から」と言う事で「流石にドコモショップ」と言う事で8時30分に家を出てドコモショップに行くと開店間際と言う事で直ぐに受付をして事情を話しして携帯を預けてしばらくすると、「当店の充電器で確認したら充電出来ていますから大丈夫です。」との事だったので一安心。ほっとしたところでもう一台のスマホのボタン操作が押しにくいと言うと、「楽々フォンは押しにくくなっていますので通常に戻します。」と言ってあっという間に治して頂き私は「今までの苦労は何だったのか。」と思った次第です。

新しい充電器を購入して本部施設に行き銀行の決済を本部施設と和合の分をして、11月からの人事異動の辞令を作成して早い昼食を頂き(おにぎり二個と焼きそば)いて、岐阜羽島に向けて車を走らせ本日は地元の議員と衆参の議員会館でお会いするのにデジカメを持って行くのを忘れていたのに、本部施設に戻っていると時間がないと言う事で車を広い所に停めて本部施設の職員に持って来て貰う事にして、車から降りて待っていてデジカメを受け取ると岐阜羽島に急ぎました。「まだ、10分はあるから大丈夫」と考えながらいつもの駐車場に乗り入れようと思ったら「満車」の表示が・・・。隣の駐車場を確認しても「満車」もう一つの駐車場に移動すると係員の方がみえて「一番奥に2台はあります。」と言われたので「入ります。」と言って入場すると確かに2台分は空いていたのですが「めっちゃ入れにくいところ」と思ったのですが、「時間も無いし頑張って入れよう。」と何とか駐車スペースに入れて荷物を車から出して脱兎のごとく走り、乗車券を購入して、エスカレーターに乗って、半分位のところで「列車出発します。」のアナウンスが・・・。

「これ以上後の列車では議員会館のお約束の時間に間に合わない。」と言う事でエスカレーターですが「ごめんなさい」と言いながら荷物を抱え走りました。(もちろんお客様がいないのを確認して)何とか列車に乗り込むと同時に列車は走り出しました。列車に乗って気がついたのは客席が一杯で名古屋までは立っていて、名古屋で多くの方が降りられて座る事が出来てコラムを東京に着くまでに打てました。このコラムを本部施設に送信したら議員会館の対応に集中して17時からは全国老施協の制度政策検討会議に挑み、その後は本来6月に役員改選の新旧役員交換会が延び延びになっていたのが実施されます。明日も議員会館での陳情があるので頑張ります。リピーターの皆さん私の来年の介護報酬改正についての全力の展開を見ていて下さい。

 

日々のくりかえし これに飽きた人が負け

今朝の大谷徹奘師の言葉には正直、生意気な言い方になりますが「少なくとも今の私には当てはまらない。」と思いました。だって今の私は良いか悪いかは別にして毎日が刺激的であり、表現を変えると「充実した日々」 であり、「まだまだ成長しなければいけない状況」と言う事なのだと思います。そんな事を考えていて、1973年に森繫久彌さんが60歳にして83歳の「恍惚の人」を演じられた映画の事を思い出しました。

私はかつて、とっても親不孝な人間でありながら父進さんに対して「私が一杯困り事を作るから親父は惚けんのだから、これも一つの親孝行や」等ととんでもない事を平気で言っている、わけのわからない人間でした。話を恍惚の人に戻しますが、「恍惚」から「痴呆」に変わり今は「認知症」と言われているものです。1973年と言うのは半世紀前と言う事ですから50年も前に恍惚の人を世に出した有吉佐和子さんは実に先を見られている方だったのだと思います。表題の「飽きる」と言う事は絶対にありませんが「トーンダウン」してしまうと「やるべき事」が出来ない状態になってしまうので、常に緊張感を持った生活を送っています。こんな生活が出来るのは、頑張って頑固に頑張って来たからだと思うのですが、一体いつからからこんなに頑固な性格になったのか。大変な事も一杯あったと思うのですが振り返ればとっても幸せな人生・・・。いやいや、まだまだ頑張って行かなければいけないし、80代、90代でもかくしゃくと頑張られている方から言わせれば「60、70鼻たれ小僧」と言われてしまいそうなので「はい、はい私はまだまだ未熟者ですから咤激励をよろしくお願いします。」

明日は今月2回目の東京への出張ですが、会議の合間を縫って岐阜県選出の議員の先生の所へ陳情に行きます。陳情の内容は来年の介護報酬改正についてこの物価高、賃上げ機運が高まっているのに政府は僅かな報酬アップを目論んでいる事に対して衆参の地元の先生に厳しい窮状を訴えて理解をして頂き介護の業界の火が消える事の無いようにして頂く為に頑張って来ます。だって制度政策は最終的には国会で決めるわけですから。議員の先生方に理解して頂く為の資料は本部職員にも協力して貰い完成しましたので後は明日と明後日の2日間で理解が得られる様に頑張ってきます。こんな状態ですから「飽きる」等と言う言葉は今の私の辞書にはありません。リピーターの皆さん少しかっこ良すぎですか・・・。

びっくりしました。

令和5年10月22日

本日は午前中に和合での対応をするために7時30分過ぎに家を出て、7時50分に垂井にあるパン屋さんの前を通ったら開店前だと言うのに駐車場に車が一杯で、玄関先からずらっと並んで見えたのにはびっくりしてしまいました。驚いた理由は二つです。一つ目は、私も地元の人間だと思うのですが、それ程興味のない店なのに多くの方が開店前から並んでいると言う現象です。二つ目の理由は35年前に資生堂財団の研修団の一員に選ばれ(第15期「ボストン会」)アメリカに行き、ホワイトハウスの見学出来る列が物凄く並んでいて、一旦最後尾に並んだものの、最後尾の方に「見学できるのか」と聞くと「そんな事はわからない」と言われたので「そんなのに並んでも仕方がない。」と言って並ぶのを止めた記憶が蘇って来ました。あれから35年で日本の方の考え方も随分と変わったのだと感じた次第です。

ところで、一番最初に玄関先に並ばれた方は一体何時に並ばれたのかとも思った次第です。本日は、本来の予定は和合の施設で午前中に2回の入居者さんとのお経があり、午後から1階の方とのカラオケを予定していたのですが、本部施設で施設内のお祭りに理事長がいなくては困ると言う嬉しいオファーがあったので、和合での朝の申し送りの時に、お参りを9時30分からに、カラオケを10時30分からに変更して貰い実施する事にさせて頂き実施しました。お参りについても皆さん一生懸命に唱えて下さりホッとした次第です。

11時30分に終了して本部施設に行く前に朝の申し送りの時に気になった方の部屋に行って、その報告をしていると家族の方がおみえになり、家族対応での救急対応をされるとの事でその対応をしていたので、和合の施設を出たのは13時少し前になったので、とても13時30分には間に合わないと言う事でその旨を連絡すると、「理事長を待っています。」との事で本部施設には13時32分に着いて交流スペースに入って行くと、既にスタンバイオーケーの状態だったので「あと5分だけ待って」と言って施設長室で冷めたうどんを急ぎ食べて、デイサービスから順次5か所のフロアを回りました。

やる事は同じで私が北島三郎の「まつり」を歌っている所に神輿軍団が来て「わっしょいわっしょい」引き続き「まつりと言えばたい焼きだ。たい焼きは無いけどおよげたいやきくんを歌います。」でまたまた神輿でわっしょいわっしょい。最後は皆さんと共に健康祈願の万歳三唱の後お菓子まきをして終了。5ヵ所で90分だったので移動時間を除くと1会場では15分程度ですから、それぞれの会場の方にとっては「嵐」の様な時間だったと思いますが、みんなで盛り上がれたのは最高でした。毎日がお祭りと言うわけには行きませんが「本日は楽しかった」と職員共々満足しています。リピーターの皆さん、コロナも小康状態ですし、そんな施設に遊びに来てみませんか。

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星がいっぱい

表題に星がいっぱいと書きましたが、正確に書くならば、東の空には無くて西の空にいっぱいと言う事です。そんな事を考えているときに「天才バカぼん」の主題歌が頭の中に浮かびました。「西から昇ったお日さまが東にし~ずーむ♪♪それでいいのだ♪それで♪いいのだ♪天才バカぼん♪バカぼんぼん♪♪てんさ~い♪一家だ♪バ~カ♪ぼんぼん♪」朝からこんな歌を思い浮かべたのは自分自身に元気をつけようとの意味があったのか・・・。いつもの様にお墓参りにいった時の妙応寺の大谷徹奘師日めくりカレンダーの言葉は「ほしいのは    自分に負けない    心です」とありました。「う~ん。負けないように頑張っていても今の自分では何ともならない事があるし・・・。でも絶対に負けるわけにはいかない。」と意を強くしてます。ちなみに本部施設の」事務所のには「何を そんなに あせっているの」とありました。「う~ん。落ち着いている様でもどこかで焦っているのかな」と思っている次第です。

 さて、9時30分から本部施設の職員が昨年手作りしてくれた神輿(重量37キロ)を「チーム伊藤」総勢12名ので地域を練り歩くのですが、中心者である私のテンションが低くてはいけないので、9時前に本部施設に行くと「チーム伊藤」の責任者である伊藤係長が既に準備を整えていて順次「チーム伊藤」のメンバーが揃って来たのですが、「雨が心配だ。」と話をしていたので、大きな声で雨封じのお祈りを声高らかに天に向かってして「これで大丈夫」とみんなの前で宣言すると「あ~ら不思議」お日様が雲の間から出て来てきました。(決してはったりでは無くて事実なのであります。)9時30分になり、施設の玄関先で記念写真を撮り、その後、施設の南側にある天満神社に行き私が先導で2礼⒉拍手1礼のお参りをしてから地元新明地区を鐘と太鼓に合わせて大きな声で「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声と共に神輿を中心に練り歩きました。家の前まで来て待っていて下さる方も多くあり、その都度「〇〇家 家内安全、健康成就」と声を掛け、神輿を大きく3回掲げ「万歳、万歳、万歳」と大きな声を張り上げました。元気な子どもさんが来てくれた時には神輿を担いで貰ったりして記念写真を撮ったりもしました。無事に本部施設に帰って来ると寒い日であったにも関わらず背中がびっしょりと言う事で良い汗をかきました。昨夜は色々な事を考えていて殆ど寝ていなかったのですが「チーム伊藤」及び地域の方々に元気を頂いた勢いで和合に行き、職員との懇談の後、地域のボランティアとのカラオケが13時30分から予定されていたので急いで本部施設に向けて急いだのですがお約束の13時30分には間に合わない旨を連絡して先に始めて貰う事にして、本部施設に帰ってからは、ボランティアさんの歌を聞きながら急いでおにぎりと焼きそば(UFO)を掛け込み5曲目からの参加となりましたが、お神輿行列で元気を頂きそれでもいつもよりは若干元気が無かったのですが、逆にその影響で余分な力が入らなくていつも以上に上手く歌えました。こういうのを「怪我の功名」と言うのでしょうか。それとも「禍を転じて福と為す」と言うのでしょうか。とにかく明日からもしっかり頑張りますのでリピーターの皆さん応援よろしくお願いします。

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まだまだ夜明けが遅くなる

いつもの様に4時25分のアラームで目を覚まし左向きに寝返りしてカーテン越しでは有りますが外を見たらまだまだ真っ暗です。軟弱だった頃の私であればきっと「こんなに暗くては歩くのも危険だし歩くのを止めておこう。」と言う事になるのでしょうが、今の私は「暗いの何かエンやこーりゃ。」と言う事でいやいや、それどころか「また、楽しからずや。暗いからこその発見があるはず。」とのプラス志向。我ながらこんな考え方が出来る事に感動してます。マラソンの有森さん流に言うならば「自分を誉めてあげたい。」と言う事なのでしょうか。

本日は朝から盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)に行き、入居者さんと共にのお経とカラオケ2曲(和合で乗って頂ける曲)舟木一夫の『銭形平次の主題歌』と杉良太郎の『遠山の金さんの主題歌・すきま風』を歌わせて頂き、終了後は職員の全体会に参加して、吉澤施設長と共に打ち合わせを兼ねて昼食を頂き、打ち合わせが長引いたので、急いで和合の施設に移動して地域の方々とのサロン『そわか』で挨拶をさせて頂いてから、職員との懇談をして、これまた終了後本部施設に移動して明日実施される予定の(今は18時で雨が降っていますが必ず晴れます。)地域の中を施設の職員が昨年作成した神輿を担いで練り歩くイベントの打ち合わせをして16時からのリモート会議に参加しました。

今は3施設の移動を余儀なくされている分忙しく走り回っている形ですので家に帰るといつもクタクタなのですがクタクタの割には全く食欲が落ちないので何とか頑張れています。明日は鐘をや太鼓を打ち鳴らしながら施設がある地区の38軒の家を練り歩くのですが、コロナの影響で祭であっても賑やかな事が無くなっている状況の中、ボランティアを買って出た多くの職員と共に賑やかに盛り上げたいのでさてさてどんな派手な衣装で参加しようかと今からワクワクしています。いっその事おちょぼ稲荷の参道のお店で先般購入したドレスを着ようか。でもそれはあまりにも違和感があり過ぎて地域の方々から変な誤解を受けては逆効果だし・・・。「う~ん。悩ましい」などと悩むのも「また楽しからずや」明日は地元の皆さんに元気を頂いて貰う為に頑張ります。多分岐阜新聞の取材があるので来週のタイミングで掲載して下さる予定なのでそれもリピーターの皆さん楽しみにしていて下さい。

 

逃げれば こわさが ましますよ

令和5年10月19日

「逃げる」の意味にはいろんな意味が込められていると思います。例えば、実際にその場から「逃げる」です。この「逃げる」にも怖くて逃げる場合もあれば、事故を目撃したのに、関わりたくないと言う事で立ち去る形で「逃げる」のもあります。但し私は「立ち去る」と言う事は出来ない性格で「私に出来る事は無いか。」と考える事を常としています。

そんな私ですが盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の施設が厳しい状況の時は(今もその状態が解決したわけではありませんが)、この世からも逃げ出したいと考えた事もありました。今もこの世に存在していると言う事は、色んな方々のアドバイスと協力があり、最悪の状況からは脱したからと言う事です。もしあの時に逃げていたら今の自分は無いと思うと、大変だったけど今も何とかなっていると言う事で、ある意味神仏のご加護かなと思っています。

正直小さい頃の私は逃げてばかりの人生(そんな大袈裟な物ではないのですが)、いつからなのか下腹に力を入れて頑張れる様になったのはと考えると、一番考えられるのは「宏命」だった母秋江が、私が小学3年の頃に子宮癌になり、その後胃癌、肺癌で最期は骨癌で、私が中一の時に他界したのですが、母秋江が入退院を繰り返していた時にも頼りになる6歳年上の姉光子の後ろにへばりついていた私ですが、頼りになる姉光子が私が高校2年の4月7日にくも膜下出血で急逝(姉光子23歳)してからは凧の糸が切れた状態で1学期が終わったのですが、(父進さんには大変迷惑をかけました。)その年の夏休みに四国遍路に行き「私でも人様の役に立つ」と理解してからは逃げる生活から一変したと思います。と言うか自己責任の中で茨の道(私はそうは思っていなかったのですが周りからはその様に言われていました。)を歩みだしました。

高校時代には、みんなが「よくやるな」と三無主義がまかり通っている時に、生徒会活動に全力で取り組んだり、大学時代にもサークル活動で厳しい試練も一杯有りました。でもやり切りました。児童養護施設の指導員時代も、私よりでかい中学生を相手にがっぷり取り組みました。その時は「この子を社会人として通用する為には、厳しい指導の頑張らせるしかない。」と信じて実践しました。高齢者福祉施設を建設すると決めて時も色んな場面で下腹に力を入れて話をしなければいけない事がありましたが、その都度乗り越えて来たから今があると言う事で、これからも決して逃げない人生にしていきますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願いします。

ケアニンのプロデューサーの講演を聞いて

昨日からの東海北陸研修大会の講演で制作からシナリオから資金調達までされているプロデューサーの講演を聞きケアニン制作にかける熱い思いを聞きました。正直に最初にケアニン制作を思いつかれたのは「お金になると思って」と正直に話され、制作の為に多くの施設関係者に話を聞かれる中で介護に関わる人たちの一生懸命さに介護に関わっている方々の一生懸命さに魅力を感じて今はケアニンの制作を通して介護人材が素敵な仕事だと思って貰えるように頑張っていきたい。との話しになった時には介護が脚光を浴びる様に私も微力ながら頑張っていきたいと思っています。本日は分科会に分かれていわゆる学会方式でのもので私は第一分科会の「経営」の分科会に参加しました。経営の中心は「業務の省力化と科学的根拠」と言う事でロボット・ICTの内容が殆んどでした。先進的な発表が聞けたので出遅れている面の巻き返しの為の展開をしていかなければいけないと思った次第です。12時30分に全日程が終了して、直ぐに名古屋駅に向かい13時発の大垣行きに乗り駐車場に預けてあった車に乗り15時から岩田理事との打ち合わせがあるので途中でうどん屋さんに入り四川風味噌煮込みうどんを頂き、岩田理事の所で16時になり、岐阜県老施協事務局に行き、介護の日特集の新聞広告の打ち合わせをして、17時30分から開催される長城の会が行われる大垣フォーラムホテルに何とか定刻前に着き長城の会のお歴々の方々にご挨拶をして会食をしながらの歓談をして(多彩な方々なので話題は盛り沢山です。)19時30分に終了後急いで我が家に向かい20時過ぎに家に着きお風呂は短めにして何とか21時には横になれそうです。明日からは通常の生活にもどるので4時25分のアラームと共に1日が始まります。7時40分には和合に向かい午前中は和合での対応をして、午後からは岐阜県庁議会棟で2つの会議があり、その後も次長さんとの打ち合わせがあるので気合いを入れていきたいと考えています。今、21時を過ぎたので爆睡します。いつもよりは短いコラムですが限界です。リピーターの皆さんご理解下さい。

本日も大谷徹奘師のお言葉です

令和5年10月17日

「できるとき    できること    できるだけ」この言葉は然り気無い言葉であり、考え方によっては「当たり前のことやろ」と誰もが思われる事と思います。しかしながら、常にその言葉の通りに生きていく、或いはやっていく事はなかなか難しいと思います。それどころかその様に展開していくのは甚だ難しいのではないかと思っています。だって自分としては一生懸命にやっていても外部からの何らかのアクションによって上手くいかない場合もあるし、頑張っているときに体調を崩してしまい挫折してしまうことも考えられます。と言う意味では、例え上手くいっていない時であっても「今は大変だ。でも、頑張っている」と言う時は幸せな日々ととらえていく方が精神的にも肉体的にも充実していると言う事でご先祖様にも神仏にも守られているといった方が良いのだと考える様にしています。私の事を「楽天的だ」とか「良くそんなプラス志向でいられるな」とか言われます。私だって食欲が無くて眠れない日々を過ごす事があります。そんな時こそ表題の通り「できるとき   できること    できるだけ」を実践して活路を見出だす努力をしていると支援して下さる方が現れて切り開く。そんな私の人生に感謝です。さて、本日は名古屋の駅前で全国老施設協の東海北陸大会があるので今は名古屋に向けて電車に乗っています。昨夜までは関ヶ原駅まで送って貰い電車で大垣で乗り換えていこう。と考えていたのですが、明日は17時30分から2ヶ月に一回の長城の会と言う情報交流する会が大垣フォーラムホテルであり、帰りが遅くなる事も考えて大垣駅北口まで自分が運転していく事にしました。久しぶりの大垣北口で駐車場への乗り入れ口がわからなくて目の前にある駐車場に入れなくてかなり大回りをして何とか駐車場に入れました。駐車場に入ると「何だこんな行き方があったのか」と言う事だったのですが知らないと言う事はこんなものです。大垣駅の券売機で名古屋までの往復切符を購入してホームに行くと列車が待っていて 直ぐに発車され名古屋駅10時前に着き先ずは本日宿泊するホテルにスマホに案内されて歩いて行きました。ホテルのホームページの情報では駅から7分との事でしたがたっぷり15分かかりましたがホテルのフロントで荷物を預け大会が開催される会場にこれまたスマホのナビでいく事にしました。ホテルまでは間違いなく案内してくれたスマホが会場まではかなり大回りをしてくれたので結構汗だくになりました。何とか会場の玄関口にたどり着くと岐阜県老施協副会長に声をかけられて、安心して会場がある13階に行くとスタッフの方が沢山みえてご挨拶をしていよいよ本番です。今は講演が一つ終わって15分の休憩時間に本日のコラムのまとめをしてます。無駄無く頑張りましたがこれ以降の報告は明日にします。

弱い自分に出会った時が強い自分になるチャンス

令和5年10月16日

いつもの様に大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉で、昨年の6月から日めくりカレンダーをめくっているので少なくとも15回は目にしているはずなのに、いつも新鮮に感じています。特に今朝はこの言葉が私の心にスッと入ってきたので、先ずはその時の気持ちを素直に書く事にします。

最初に思ったのは、小学校時代までは困った事が起きると母秋江さんが長女光子さん、次女春子さんは勿論の事、地域の方々も巻き込んで私をカバーしてくれる体制を取って下さったので、困り事が困り事で失くなってしまうので、自分を成長させる芽を摘んでしまっていたので・・・。決して母秋江さんを責めているのでは有りません。あの頃の私はそんな環境が当たり前だと思っていたし、考え方によっては本当に幸せな日々だったと思っています。夏休みの宿題は全く手付かずで2学期が始まる3日前くらいにになって出来てない事を話しすると、一定は怒られるのですが、そんな時の私の得意技はべそをかいて泣く事です。そうすると、私に代わって春子お姉さまが答えを書いて私はそれを一生懸命写すのです。絵を画く課題にしても、下絵を春子さんなのでいくら色塗りを自分でしてもどう考えても私が画いた絵ではないのですが、それで通ってしまうのです。

そんな私ですから何の矛盾も感じる事無く過ごしてしまっていたと思います。そんな私でしたから38歳で児童養護施の指導員を退職してフリーの立場で大学・短大・専門学校の非常勤講師と家庭教師と一番形にしたかった教育・福祉カウンセラーの仕事をしていくのも、全て自己責任で、初めての講義では80分の授業時間なのに40分話をした段階で、話をする内容がなくなってしまい、4月だと言うのに背中から滝の様な汗を出したのを今でも覚えています。この失敗からしっかりとした内容を準備していかなければいけない事を理解したものでした。

大学の講義をする様になると、講義用の教科書の執筆を依頼された時には、思いの限りの文章を書いて自信一杯で編集会議に出席した時は「この内容には魅力を感じますが、教科書としては使えません。」と編集者の方に酷評されて、全面的に書き直した事もありました。その後も何冊かの依頼を受けましたが、同じ失敗をする事は無かったです。フリーになって2年目には拠点施設をつくらないと本当の意味でやりたいことが出来ないと言う事で、『情緒障害児短期治療施設』の建設を計画して、その当時の岐阜県児童家庭課にパーツまで持っていった時には「ここ10年は計画していません」との回答に唖然としたものです。計画した伏線はあったのです。それは当時の厚労省の専門官と話をしていて、必要性を語って行く中で決めた事なのですが、今考えてみたら当たり前の事なのですが、国が承認する前に岐阜県の承認を取らなければいけないと言う、基本中の基本を逸脱していて徹底的に弱い自分をさらけ出して色んな思いをして強くなった事がありました。

特養の計画の時も、土地取得で大変な思いをして強くなった事もありました。リピーターの皆さん、昔から言いますよね「失敗は成功の基」と。自分で事業をさせて貰う中で一杯失敗をして強くなったんだと思います。これからも失敗をしながら強くなっていきますので宜しくお願い致します。

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