話題がない

令和5年11月14日

朝の点滴前に(9時40分)老施協事務局に連絡すると局長から「常任理事会に皆さんお揃いになりました。」と言う事で「私が常任理事会と言う大切な会議を忘れていたとは。」と言う事で慌てて電話を切りました。そして改めて、「毎日が忙しいからこそコラムのネタがあるんだ。」と思った次第です。今は入院患者として優等生であり、1日でも早くに退院をして、全国大会に向けて頑張るのみ。

只一つ歳をとったと痛切に思っていることを書きます。それは、色々な検査の他には点滴があります。抗生剤入りの小さいのを一本と500ミリリットルの大きいのを一本、10時から14時まででゆっくり落として、夕方にも抗生剤入りの小さいのを一本打つのですが「歳をとった。」と感じるのは点滴の針が上手く刺さらず、刺さったとしても次の日とには改めて打ち直しをしなければいけないのです。

本日も1回目、2回目と上手くなくて入れた針をぐりぐりぐりぐり・・・。「大丈夫ですか。」看護師に聞かれた時は平然としていて「大丈夫です。痛いのは慣れていますので。」と答えている私がいるのですが「本当は痛いに決まっとろう。それより早くちゃんとして下さい。」と言う事で今つながれているルートが夕方も大丈夫か、いやいや明日は新たに打ち直しをしなくて大丈夫かと、こんなことしか考えられない今の私です。リピーターの皆さん今の私の心情をお察し下さい。

情報を得る唯一の方法がテレビです

 

籠の鳥状態で部屋から出たのは腹部エコーとCTを撮りに行った時のみ。あいからわず咳は出ますが熱は落ち着いてきたので、テレビでニュース番組を見ています。BSが映ると大昔の時代劇が見られるのですが、残念ながら映らないのでニュースと17時30分から大相撲を見ました。ニュースはバラエティに飛んでいます。例えばどこかの町長がパワハラやセクハラをした、伊吹山に初雪が降ったとか、どこかの組合長が公金を使い込んで納税義務を果たしていなかったりとバラエティです。そう言えば年末恒例のNHK紅白歌合戦の出演者の発表もみたな、私が応援している山崎ていじが残念ながら入っていなかった・・・。当然か全く話題性がなかったから。5時30分から大相撲を見たのは貴景しょうが首に怪我があるとの事をこれもニュースで知ったので。いつもの様なスカッとした勝ち方ではなかったですが取り敢えず2連勝したので「良かったか」と思っています。

今、多分地元の消防団が鐘をならしながら病院前の道路を通って行きました。リピーターの皆さん空気は乾燥していると思います。十分火の元には注意して下さい。19時10分ですがまだ点滴中ですので、これが終了したら良くなることを信じてしっかり寝たいと考えています。

母秋江さんのフィーバーシリーズPART5

体がえらい時は母秋江さんの事を書くのが一番だと思いました。

私が小さい頃冬のシーズンは霜焼けに泣かされました。だから母秋江さんは私が学校から帰って来るのを見計らってゴボウの磨ぎ汁と冷たい水をそれぞれに入れた洗面器を用意してくれており、私が嫌がるのに対して優しい声かけをするのです。 それに対して(半べそ状態で)「ぼく頑張るね。」と言うと母秋江さんは「これを頑張ったらおやつにしようね。」とまたまた優しく声をかけてくれるのです。それに対してまたまた半べそ状態で「うん、何があるの。」言うのが毎日の日課だった様に思います。そして霜焼けは体か温かくなると無性に痒くなるのです。つまり布団に入り体が温かくなると痒くて痒くて、これまた私はまたまた半べそ状態で「痒い、痒い。」と母秋江さんに甘えて。背中をトントンと優しく叩かれると一生懸命にヒロシ君は寝る努力をするのですがヒロシ君は自分が寝られない内に母秋江さんが寝てしまうと「痒い、かゆい。」と言って母秋江さんを起こしてしまうのですが怒ることも無く、再び背中を優しけ叩いてくれるのです。この時に相手の懐に飛び込む手法を得とくしたのかも知れません。但し、現実には母秋江さんの様に全てに寛大な人ばかりでは無いことを実践の中で学びました。13年間しか一緒ではなかったにも関わらず多くの事を教えてくれた母秋江さんなのであります。

リピーターの皆さん私は時間がたっぷりあるなかで、とても幸せな人生で有ることを再発見しています。

今は固いベッドに横になり、点滴を打ってます

令和5年11月11日

今週の水曜日に体が重くて微熱があり、午前中10時からの会議に間に合う様に朝イチで診療所に行きインフルエンザとコロナの検査をして陰性を確認して薬を処方して頂き、次の日と1日置いて検査をして貰い本日も して頂いたのですがいずれも陰性でホッとしていたら、点滴が間も無く終わろうかと言う時にかかりつけ医の先生がみえて、血液検査の結果が悪くなっているとの事で私が信頼している病院に入院する事になりましたが、リピーターの皆さん毎日点滴に通うより効率的に治して頂く為の入院ですから心配しないで下さい。早くに復活しますので宜しくご理解下さい。

本日のコラムはお詫びのみにします

令和5年11月10日

本日は関ヶ原診療所に行き点滴をして貰い、その後理事長としての役割を一件のみ対応して午後からはずっと寝ていたのですが、コラムが書けないのでごめんなさい。改めて忙しいからこそ書けるのだと知りました。明日には熱も下がり頑張れるがしっかり静養してみます。

母秋江さんのフィーバーシリーズPART4

シリーズ4回目にようやくなりました。母秋江の事を書き出した為か小さい頃の「ヨワミソ」な私が出てしまいました。と言うのは喉が痛くて微熱があったので昨日関ヶ原診療所に行きました。いつものかかりつけ医は予約で一杯との事で一瞬不安になりました。と言うのもかかりつけ医からも「若山さんは異常体質なので困ります。」と言われていたのに若い先生で大丈夫なのかと思った次第です。喉が痛いのに喉をみることもされず、薬を処方して頂いたのみ。案の定夜中になり(まだ熱があり昨日の事と今日の事がごっちゃになっています。)39、6℃まで熱が上がり久しぶりの高熱により、頭がガンガンして、唾を飲み込むのも喉が痛くて大変で。こをな時に母秋江さんがいたら、若い先生の所に怒鳴りこんで行っていただろうなと思っています。だって息子を守るためなら命懸けのような母でしたから。そんな母がいない状況の中では大人しく寝ているしか仕方がない。本日は全国大会の実行委員会が開催されたのですが流石にリアルでの参加は出来なかったのでリモートでの参加となりましたが、実行委員長として最低限の仕事が出来たのはコロナによってリモートが浸透したと言う事で有り難かったです。本日も中身のないものになりましたが元気になったら頑張りますのでご容赦下さい。

なかなかフィーバー話しに行きません

昨夜帰宅したのは20時過ぎで何となく寒気を感じたのでお風呂の前に夕食を食べて、短めのお風呂に入り寝ることにしました。

疲れもあったので直ぐに眠りについたのですが、午前1時過ぎに目が覚めたら喉に違和感があり咳も出て、尚且つ頭も痛くなってきたのでその後はうとうととしていて、いつもの様に律儀にガラケーの携帯が4時25分にアラームが鳴り、私は眠りから覚めなければいけないと言う事で無意識に大きな声を出していました。そこで完全に目が覚めた時に「流石に本日はお墓参りは出来ないと朝食まで布団を被って横になっていました。

朝食を6時20分に頂き10時からの3施設幹部会議に迷惑をかけるわけにいかないので、その前に関ヶ原診療所に行き、8時30分の受付を済ませ熱があるし喉に違和感があると言うと、別室に案内されインフルエンザとコロナの抗体検査をして頂き取り敢えず「陰性」との事でお医者さんに診て頂き薬は町内の薬局に午前中に持ってきて頂きました。

10時からの会議に挑みうどんを作って貰いその後は家に帰らせて貰い、頓服薬を飲み横になり体温を図ると38・6℃でうとっとすると携帯がなりなかなか眠る事が出来ませんでした。夕食もうどんを頂き明日は頑張れる様になればと考えています。

本来ならば「母秋江さんのフィーバーシリーズPART4」のはずなのですが

令和5年11月7日

「シリーズ3で早くも挫折」と言う事ではありませんよ。だって母秋江さんとの13年間は密度が濃~いからそんなに簡単には連載は終わりませんよ。但し、本日は昨日の出来事を書く事にします。それは、和合の施設長になったのが8月からで3ヶ月が経過しました。

その間私は和合の入居者さんに少しでも受け入れられ楽しんで貰える事は無いかと色々と考えました。その中で難しく考えていても何も良いアイデアが浮かばない中で「難しく考えないで私が出来る事をやっていこう。」と言う事でカラオケで歌って入居者さんにも歌って貰える進行をする事とお経を入居者さんと一緒に唱えることを実施して来ました。

今では可能な限り3フロアを週に2回ずつ実施しています。そんな中で最初のうちはあまり興味を示してくれなかったカラオケも段々と参加者も増え手拍子も拍手もたくさんいただけるようになってきたと思っています。またお経についても3フロアを月に2回は実施するようにしています。そんな中で昨日の3階フロアでのお経を終えて片付けをしている時に車椅子の一人の入居者さんが全体の輪から抜け出され職員と何かごそごそされていて、意気揚々と私の所に来て下さったのです。

一つは甘納豆が入った小皿であり、もう一つは抹茶でした。私は私に飲んで貰いたいとの思いが嬉しくて、そしてお茶も飲み頃の熱さで甘い本当に行き届いたものであったので本当に嬉しかったのです。単に一杯の抹茶。されど・・・。

この様な事をしてくださる方が現れた事で3ヶ月の疲れが吹き飛びました。だから今日も頑張れた。やはり、自分一人ではない人生に感謝です。

母秋江さんのフィーバーシリーズPART3(表示を変えました。)

令和5年11月6日

私が小さい頃の我が家での役割は玄関の土間(土間と言ってもコンクリートだったと思いますが)の掃き掃除と風呂焚きだったと思います。長女光子さんは何事も出来るので母秋江さんから怒られる事はなかったのですが次女春子さんは何かにつけて要領が悪かったのか怒られる事が多くてむくれ顔が度々で・・・(今は決してそんな事はありませんよ。

それどころかいつもニコニコ顔で弟の私の事を「お兄さん元気」等と言われて喜んでいるくらいですから。)ところが末っ子の私が少しでも仕事をすると母秋江さんはめちゃくちゃ誉めてくれるのです。小さい頃に掃き掃除と風呂焚きをしていたので今でも掃き掃除は得意ですし、風呂焚きを薪でしていたので寸胴での薪での火の管理は上手ですよ。

但し、正直26歳で児童養護施設の指導員になった時にはそれ以外の事が出来ていなかったので苦労しました。母秋江さんは自分が早くに病気になり亡くなる事を理解していたかの様に姉2人には家事仕事をしっかりしつけた様に思います。

本当は単なるわがまま娘を貫いたと言う考え方もありますが・・・。甘やかされて育ったわがまま娘が目の中に入れても痛くない育て方をしたのですから私が最悪な人間だった事は間違いない事実です。私がめちゃくちゃ勉強をしたのは26歳で指導員になり学習指導をしなければいけない立場になった時です。

本当にとろくさい人間だったら「中学生に勉強を教えるのは無理」と言ってすぐにでも辞めてしまうのでしょうが母秋江さんの遺言である「蒔かぬ種は生えない。一杯種を蒔け。」の教えがあったからこそのいまだと思っています。

母秋江さんのフィーバーシリーズその②

昭和30年代初期は日本も高度経済成長時代前でまだまだそれほど豊かで無くて、何故か卵の値段はその頃も1個10円と言う事でなかなか貴重な時代でした。そんな中で姉2人は1個の卵を分けあっていたのですが、末っ子の私だけは1個を食べる事が出来たのです。

母秋江さんの考え方は「ヒロシは体が弱いし食も細いので食べれる物をしっかり食べないといけないのでお姉ちゃん2人は半分で我慢しなさい。」と言う事でその頃の私は「それが当然な事」と思っていました。姉2人も母秋江さんには逆らえない雰囲気があり、私が少しでも家の仕事を手伝ったりするとめちゃくちゃ褒められて、姉2人は「やって当然な事。」と言う事でそれが当然な事と思っているヒロシ君なのであります。そんな状況に不満を持っていたのが次女春子さんだったのです。だからその頃の天敵は次女春子さんだったのであります。しかしながら、母秋江さんがしっかりガードしていてくれたので太平楽でいられたのです。

※春子さんに悔しがられると思うのですが父進さんの夢を見たのです。ひょっとしたら母秋江さんのコラムを書くと宣言したから「ヒロシ、お父ちゃんも宜しく」と言う事で夢に出てきたのかな。

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