我が家の屋根から雪が

令和6年1月26日

朝、和合に向けて出勤するために玄関の戸を開けると屋根からの雪がドーンと落ちていて道路の向い側の車庫に行くまでに先ずは雪どけをして一汗かくことになりました。そして思ったのは「今回の雪は積もるのも早かったけど、屋根から落ちるのも早かったな。」と言う事です。屋根から雪は勢い良く落ちるので密度が重なるので、そこそこ重みが増しています。

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我が家の家の前の道路は県道なので除雪はしてあるのですが、大きな除雪車なので大きな塊を残して行くので、これまた大変です。朝は出勤前だったので、玄関前しかのけれなかったので、和合の施設から本部施設に向かう途中で一時間だけ我が家で途中下車をして雪どけをして15時ギリギリに本部施設に着き打ち合わせ対応をしました。

打ち合わせは一時間で終わると考えていたのですが意外に時間がかかり、16時25分に終わったので、直ぐに家に帰って雪どけの続きをしに家に帰ろうと考えていたところで珠洲市に派遣された吉澤施設長から「今米原を通過したので予定より早く施設に帰れそうです。」との連絡に、雪どけを後回しにして盲養護老人ホーム「優・悠・邑    和(なごみ)」に行き、無事に帰って来た労いを言いにいかねばと考えて施設に向かいました。

施設に着くと同じような時間に2班とも着いていたので荷物を降ろしてから会議室に集まって貰い、簡単に報告を聞き、それぞれに疲れていると思うので18時20分に解散をして急いで家に帰り玄関先の電気を頼りに雪どけを再開しました。頑張って雪どけをした甲斐がありかなり片付ける事が出来ました。

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雪どけは正直余分な仕事ではありますが、しなければ大変な事になるのでやるしかないのですが、全く生産性の無いものとつくづく思った次第です。本日はくたくたなのでリピーターの皆さん、ここだけでお許し下さい。

明日は石川県に派遣した記事をしっかり書きます。必ず読んで下さいね。

「シーパップ」が無いと熟睡出来ません

昨日は本部施設に行くどころか家にも帰れず、結局和合の施設のゲストルームで泊まることになったのですが、コンビニで買ったお弁当を食べながら大変な事に気が付きました。それは、私の体重が倍近くなり、首回りも36cmだったのが今は47cmのカッターシャツなので、首回りだけで10cm以上太くなった(とほほの話です。)訳で、喉の所にも「肉」が付いているので、いわゆる「無呼吸症候群」で呼吸が止まるのを防ぐ為に「シーパップ」と言う医療機器を装着して寝るのですが家に帰ることが出来なかったので当然ながら和合にはありません。もちろん車の中で寝るよりは温かい布団の中で眠る事が出来るのは良いのですが「シーパップ」が無いのは不安です。事実昨夜の眠りは浅かったと感じています。そんな中で、6時に起きて、施設の玄関先の雪どけをしてから、3フロアそれぞれに入居者さんの座ってみえるテーブルにご挨拶をさせて頂きました。入居者の皆さんはご挨拶をすると良い顔で応えて下さいました。その後は入居者さんと同じ朝食を頂きました。本日は時間に余裕があったので急遽では有りましたが2階と3階の皆さんとお経を唱えさせて貰いお話もしっかりとさせて頂きました。昼食を夜勤明けの北島部長と食べに行ったのですが行った先が一杯でお店で食べる事を諦めて、コンビニでおにぎりを買い車の中で食べました。その後は岐阜県福祉会館で13時30分から指導者向けの研修があり、13時過ぎに会場に行くと会長として挨拶をするように依頼を受けたので、挨拶は石川県能登地方襲った地震の支援に行っている状況を話しました。そして、私は昨日からきたきり雀状態で長靴にジャージのズボンに対する理由を話させて貰いました。15時40分に終了して、本日は迷うこと無く家を目指す事にしました。車に乗って直ぐにラジオを着けたら交通情報を聞く事が出来たのは良いのですが大垣の楽田から西は交通規制がされているとの情報。「冗談じゃない。楽田はもうすぐだぞ。」と思わず叫んでしまいました。但し、道路には雪は無いし「行けるところまで行くぞ」と進んで行くと楽田の交差点は楽々通過出来て進んで行くと今度は車のナビがうるさいくらい「右折してください。」と言うのですが、「まだまだ進める。」と言う事で垂井まで行くとラジオが「21号線の規制は全て解除されました。」との事です。「本日は私の勘が当たっていた。」と言う事で何の支障も無く家に着く事が出来ました。「本日はゆったりとお風呂に浸かって久々に大好きな冷酒を飲むことにしよう。そしてシーパップをつけて爆睡をしよう。」とお風呂前にコラムも書けたし「めでたし、めでたし。」リピーターの皆さんたまには良いですよね。

関ヶ原の雪は半端無い

関ヶ原の雪は半端無い

 

朝目が覚めた6時に外を窓越しに 見ると5cm位だったので、「天気予報で脅された割には大したことなかった。」と思って7時前のNHKの天気予報を見ながら朝食にしようと1階に下りてテレビを点けると天気予報で岐阜市内で14cmと言っているのを聞いて「風が強くて雪が東の方へ流れたので、風が治まったら関ヶ原に強く降るかも知れないな。」と思い朝食後の休憩を取らずに8時前に家を出て和合に向かいました。かなり強く吹雪いていたので時速30キロ位で走って、渋滞をする事無く垂井まで来て大垣に入りしばらくは走れたのですが、パタッと車が動かなくなり、20分程全く動かなくて、その後もジリジリとしか動かなかったので、Uターンをして、旧道を走る事にしました。この頃は吹雪いて前を見るのも大変な状態になり、ゆっくりと走りました。但し、ばたっと止まる事はなかったのですが、かなり大回りをしたので、10時過ぎにしか和合の施設に着きませんでした。情報によると関ヶ原がとんでもない状況になっていると聞いたので昼食のカレーライスを頂いた後、関ヶ原の本部施設に行く事にしました。国道21号線は渋滞をしていると考えて旧21号線を走る事にしました。後少しで垂井に差し掛かる信号手前で、全く動かなくなったので、左折をして養老方面から垂井を抜けて関ヶ原に行く事にしました。ところが、どの道も混んでいて、その度に迂回して、上石津町牧田まで来て、国道365号線が全く動いていなかったので旧道の生活道路に入り、途中まではすんなり行けたのですが、対向車でにっちもさっちも行かない状態で地元の方も多く出ていて下さり、地元の方から「このままでは何ともなら無いからUターンした方が良い。」と言われて、Uターンする事にしたのですが、その時は何人もの地元の方が誘導をして頂けたのは本当に有り難かったし、教訓として、「雪の時は狭い道には入ってはいけない。」と言う事です。再び国道に出たら、やはり全く動いていないので、車から降りて前のトラックの運転手に状況を聴くと「10時から百メートルも動いていない。」との事だったし、そのタイミングで交通情報が入り、関ヶ原を中心にして東西南北の道が交通止めになっているとの事で、本部施設に帰ることも家に帰ることも諦め和合の施設に泊まることにして、またまたUターンをして、しかも、かなり大回りをして和合施設の手前のコンビニでお弁当を買い、和合に着いたのが17時30分。正直、疲れました。

19時のNHKニュースのトップは関ヶ原で30キロの渋滞で大変な状況だと言っていたと言う報告を受け「私の判断は正しかった。」と考えていたら、本部施設の水野施設長から、国道21号線の渋滞の為に帰宅出来ない職員が多くいるとの事で年末に突いたお餅や頂き物のカップ麺や飲み物を提供するとの報告に、本部施設はコミュニティハウスやゲストルームなど、いざと言う時に泊まれるところがたくさんあり、今回は私は和合で一人お弁当を食べるのみで残念ですが、本来だと私が「合宿だ。」と言って災い転じてと行くのですが・・・。でも、違和感無く泊まってくれる事に感謝です。そして、もう一つ嬉しかったのは、関ヶ原の雪情報が全国ネットだったので、心配をして、連絡をしてくれた方が何人かあったのも感謝、感謝です。

珠洲市へ派遣した吉澤施設長から現状報告がきました

令和6年1月23日

昨日17時にようやく連絡が取れて「16時に(珠洲市にある)長寿園に着いて打ち合わせをしています。」と話した後はまたまた連絡がなく、心配になったので本日早朝6時56分にメールで「余裕がある時に連絡下さい。状況がわからず心配しています。」と送っておいたので、7時40分にようやく携帯が鳴り、吉澤施設長の元気な声を聞く事が出来「ほっ」としながら「そちらで良く眠れたか」と聞くと「それなりに眠れました。」との返事が返ってきたので「そちらの状況はどんなもんだ」と改めて聞くと「直ぐに連絡出来なかったのは自衛隊の方が給水に来てくれたので、水を運んでいました。」との返事に「忙しいのに申し訳なかったね。ところで困っている事は何だ。」と聞くと「水に制限があるので風呂が入れないのは仕方がないのですが、洗濯が出来ないので入居者さんも困っているし、断水の地域が広いので、コインランドリーに行くにしてもかなり時間がかかる所に行かなければいけないのは困ります。」との事。電話を切ってから改めて「断水だと言う事で、水洗トイレの水が流せない事とお風呂が入れない事はイメージ出来ていたけれど、洗濯が出来ない事は考えつかなかったので、改めて現地に行かなければ分からない事があるし、本厳しい状況があるな。」と思った次第です。

昨日遅くに全国老施協の災害対策担当者から、「被害が酷かった要介護者が金沢市内の千木園に避難されているので、その応援に27日の土曜日から1チーム派遣して貰えないか」との事だったので、本日その対応をしているのですが、少しづつ支援の仕方が変わっていると感じています。それは、被災した施設での限界がきているのと、少しづつ問題整理が出来て来た事により、被害が少ない地域に移す事が可能になってきた事が考えられます。と言う事は、今後の支援は1.5次避難所あるいは2次避難所への応援支援及び岐阜県内での要介護者の受け入れが大切になってくると思いますので、今迄以上に全国老施協及び岐阜県との連携を密にしなければと考えています。

本日、デイサービスと新館の2ヵ所でお参りをさせて頂いた時に、お経が終了後のお話では被災地が如何に大変かと言う事と、本部施設には今回の地震では被害が無かった事は『平安之福』について話をさせて頂きました。本部施設の入居者さん、利用者さんはお経にしてもお話にしてもしっかり聞いて頂けることに感謝です。

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2班に別れての石川県の救援の見送りに行きました。

令和6年1月22日

全国老施協の依頼があまりにも急だったのですが、何とか1チーム5人の2チームが編成でき、本日8時に盲養護老人ホーム優・悠 ・邑    和(なごみ)を出発するので、私は7時10分に施設に着き10名の隊員とそれぞれの施設長の方が順次来てくださったので、会議室に一旦集まって頂き、派遣する隊員に労いの言葉を述べさせて頂き、8時前に車の前に集合して貰い、岐阜新聞に掲載して頂けると言う事で写真を撮って貰い、それぞれ車に乗車してお見送りをしました。無事に珠洲市の長寿園、輪島市のゆきわりそうに着いて5日間岐阜県老施設協を代表して頑張って来て貰い、26日に無事に帰ってくる事を祈るばかりです。

車はトヨタレンタカーを昨日の内に取りに行き、それぞれの車に荷物も積んであったので、段取り良く出発して行きました。現地の情報では、電気は来ているが断水状態なのでトイレは仮設で 、水については自衛隊が毎朝給水に来てくださっているとの事です。但し、新たな地震が起きないとは限りませんので、寒さ対策用品、飲料水や食料と衛生用品もしっかりと購入したつもりですが、過不足がないのか心配ですが出来る限りの事はやったつもりでいます。お見送りに来て頂いた方々の対応も終え、ここ何日間は石川県能登地方への派遣対応で和合の施設に行けてなかったので、終了次第、和合の施設に行き職員の面談を精力的に行いました。

14時からの全体会に参加して間もなくの14時10分に輪島の「ゆきわりそう」の派遣に行った責任者から「着きました」との報告があり、そのタイミングで全体会にリモートで参加していた当法人の顧問であるびわこ学院大学教授の烏野先生からは「比較的輪島市は交通事情が良いけど、珠洲市は厳しいかも知れないですな」と言われたので心配していると、14時29分に珠洲市長寿園チームの責任者である盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の吉澤施設長から「穴吹市内まで来たのですが信号機が全く機能していないので大渋滞です。」との一報がきてから何度か連絡をしたのですが、連絡がつかなくて心配して、副責任者の谷汲の杜の伊藤業務長に連絡すると留守電になってしまい、益々心配になり16時54分に再び連絡すると「施設に着くと直ぐに打ち合わせになり、電話を取れなくてすみませんでした。16時には無事に施設に着きました。」との事。盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)の施設を8時に出て昼食等の休憩があったとは言え、輪島市の施設まで6時間、珠洲市の施設まで8時間と言う事で派遣をしてからも心配は尽きません。

とにかく26日元気に帰ってくることを祈ると共に、これからも被災された方々に対して出来る事があれば積極的に頑張りたいと思っています。

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久々に我が家の猫の話です。

令和6年1月21日

私が知る限り我が家の猫「まる」と「おもち」がくっついているのを見るのは初めてなので思わずガラケーで写メを撮りました。本当は「おもち」の方が先住猫なのですが、「おもち」が家を出て放浪猫をしている5ヶ月の間に「まる」が我が家に来たので「まる」が先住猫の様に振る舞っているようにみえます。2匹の猫は仲が良いのか悪いのかよくわかりませんが、とにかく、本日はご覧の様に仲良く寝ていました。

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「おもち」が先住猫でいた時に私が酔っ払った勢いとからかい半分で大きな声を出して追いかけてからは徹底的に嫌われて私の気配がすると逃げていくは、歯を剥いて威嚇するはと可愛くないのですが、初めて我が家で飼って20年いて最後の半年でようやく仲良くなった「リット」の事があるので「和睦の意思」を表すために猫が大好きな「チュール」と言う食べ物を与えて仲良くなりつつあったタイミングで「おもち」が家を出て行ったので、再び和睦が解消された様で帰って来てから再びチュールで仲良くなろうとチュールを準備すると、「まる」が敏感に察知して「おもち」との仲良し作戦を邪魔するので未だにチュール仲良し作戦は成功していなくて、昨日などは私の姿が見えたら毛を逆立てて歯を剥いて威嚇するので私は大人気なく苛ついてしまいました。本日は家に早く帰って来たときに「おもち」だけが寝ていたので、「チュール」を置いておいた冷蔵庫の上の「チュール」を取りに行って机に座って「おもち」にチュールの封を破ってやろうとすると「まる」が私の膝に乗ってくてチュールを要求するのです。仕方がないので「まる」からやることにして、食べ終わったので「おもち」にやろうとすると机の下に隠れてしまったので、本日のチュール作戦は見事に失敗してしまいました。ところで、2匹の猫が寄り添っているのを見て、寒いときはお互いに寄り添うのだと理解しました。と言う事は震災で大変な思いをされている方もお互いに協力しあってみえるのだろうと思った次第です。明日から岐阜県老施協の会員のメンバーが輪島市と珠洲市に5名づつ協力隊で行ってくれます。きっと成果をあげてくれると信じています。

インドからの技能実習生に会って来ました

令和6年1月20日

水野相談員兼係長の運転で名古屋市緑区にある研修センターでインドの技能実習生が各法人に移動する為の説明会があり、当法人も本部施設に3名(男性1人、女性2名)が来週の23日に来てくれる事になっているので参加してきました。当法人が技能実習生を採用するのは初めてですが母国において日本語4級を取得して昨年12月20日に来日して、研修センターで1カ月の研修を終えられたとの事で、インドにおいて日本語を教えた先生も参加されており、この1カ月で飛躍的に日本語力がついたと驚かれている様子を見て、成果のほどが分かりました。

最もインドにいた時にリモートでの面接をさせて頂いた時と比べても飛躍的に伸びているのは感じました。私が会場に入って行くと説明会が始まったばかりで、いきなり岐阜県老施協会長としてのご挨拶をさせて頂きました。

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その話の中で、いつもの事ながらメモを取る事の大切さ。なるべく早くに入居者さんの名前を覚える事。施設の中では日本語での対応をする事の大切さを話させて頂きました。11時30分に説明会は終了して総勢16名の技能実習生と共にインド・ネパールレストランに移動して昼食を頂く事になりました。私はインド・ネパール料理は食べた事がないのですが、お店に入るとカレーの良い匂いがしてきたので「これなら大丈夫かな。」と思った次第です。紹介者機関の方が配慮して下さり、私と水野相談員が座ったテーブルに23日から本部施設に来てくれる3人と共に5人でテーブルを囲む事になりました。

3人は積極的に話をしてくれて、日本語力の高さを改めて知りました。それともう一つ痛切に感じたのは『礼儀の良さ』です。昼食を終えてレストランを出ようとすると、それぞれに挨拶に来てくれたのは日本に来て教えられたものではなくて『身に付いた習慣』だと感じました。日本人の中で礼儀と言うのが段々と出来なくなっている事を思うと「教えるより学ばなければいけない事があるのではないか。」と思った次第です。

当法人には『EPAによるインドネシアからの介護福祉士候補生』を皮切りにして『特定技能による、ベトナム人及びネパール人』そして今回『技能実習生によるインド人』と採用してきました。採用ルートは確実に出来てきた今、よりレベルの高い介護職に育てていき長く働いて貰える体制を理事長として構築していかなければいけないと痛切に思っています。これからも杉和会理事長として、5年先10年先を睨んだ展開に努めていきますのでますますのご支援をお願い致します。

「えっ、第2陣が同じ日何ですか」

「えっ、第2陣が同じ日何ですか」

 

1月22日から第1陣が出発するので、本日10時から盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)の施設で顔合わせと説明会をする為に途中でケーキを買い駐車場に車を停めたタイミングで(9時35分)全国老施協から電話があり、「何事か」と電話をとると淡々とした女性の声で「1月22日から追加のチーム編成をお願いします。」との内容に「何かの間違い」かと思いました。だって本日が19日ですよ。しかも「午前中にメンバー表を送って下さい。」と言われて私はおもわず「絶句」です。今週16日に1チーム編成する様に言われたのも何とか対応出来て「ほっとしての説明会だったのに。ドラえもんのポケットの様にはいかんぜよ」と思ったのですが、余りに淡々と話をされるので「言う事なし。この女性に言っても私の意図は通じない」と思った私は、全国老施協災害対策事務局責任者に携帯して事情を確認して、事情がわかったので「これは何とかしなければいけない」と私自身にスイッチが入ったので、10時からの顔合わせと説明会では最初の挨拶をさせて頂き、あとの説明については吉澤施設長に任せて急いで本部施設に行き、35人の派遣意思のある方の施設長さんに電話を精力的にかけました。正直、なんと言っても時間の無い状況での勤務調整をして頂かなければいけなかったのですが、午前中には看護師さん2人と介護士さんが3人の方から協力を得ることが出来たので早速岐阜県老施協事務局に報告をしてリスト作成をお願いして、急いで昼食を食べて、第1陣と同じ様にレンタカーの手配と共に派遣した職員の方に出来るだけご迷惑を掛けない様に買い物に出掛けました。

前回は私の車で行ったので2回に分けて荷物を運んだので本部施設の荷物が沢山積めるキャラバンで出掛けました。前回は初めての事でトヨタレンタカーでも買い物でももたもたしたのですが『トヨタレンタカー』では「同じ条件のものを手配します。」との事で簡単に済み、寝袋を購入に行った『ヒマラヤ』では前回対応して下さった方だったので、これまた手短に購入する事が出来ました。そして、諸々の物を購入しなければいけなかった『D2』では、最初は品物を探してみたのですがなかなか見つからなかったので前回のレシートに購入リストが書いてあったのでサービスコーナーに行き「前回購入したリストで品物を揃えて頂けますか。」と言うと店長さんを呼び出して下さり品物を揃えて下さいました。

本日は朝の一報によりまたまたバタバタの一日でしたが岐阜県老施協の会員施設が協力的だったから何とかなったので良かったです。後は22日から26日までの5日間派遣先(珠洲市と輪島市)で活躍してくれて無事に帰って来てくれることを祈っています。

いよいよ石川県能登地方の災害支援に参加します。

令和6年1月18日

今月1月1日に起きた石川県能登地方の震度「7」の地震での災害支援の要請が全国老施協から来たので、来週月曜日22日から岐阜県老施協の会員施設の職員5名を派遣する事になりました。5名の中のリーダーとして盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の吉澤施設長が参加するので、「派遣した職員が厳しい状況化に置かれるので、出来るだけの支援をしたい。」と言う事で、昨日吉澤施設長と共に災害時の用品を買いに行きました。派遣された職員は最悪廊下などで寝る事になると言う事なので、電気は来ているから暖房は大丈夫との事でしたが、最悪の事も想定して寝袋を買いに『ヒマラヤ本店』に行きました。今はキャンプがブームと言う事もあり、何種類かの寝袋がありましたが、マイナス15℃でも大丈夫と言う品物を今後の派遣も念頭に置いて7個購入して、寝袋の中に敷く保温用のマットも購入しました。

次に、諸々の用品を購入する為にホームセンターの『D2』に行きました。ここでは、ペットボトルのお茶を大量に、カートリッジコンロとボンベ、貼るカイロ、やかん、紙コップ、電気ケトル、懐中電灯など、考えられる用品を購入しました。その後レンタカーの予約に『トヨタレンタカー大垣店』に行き、荷物も多いので10人乗りのハイエースで、当然ながら4WDでスタッドレスタイヤの装備もお願いしました。私が参加するわけでは無いので、参加してくれる職員が頑張れるだけの準備をさせて貰いました。昔から「備えあれば患いなし」と言いますので。

準備と言う意味で、明日19日には5人の集合場所である盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の施設で顔合わせと共に、それぞれが準備すべきものと事前にこちらで準備したものの説明のために10時に集まって貰います。今回は第1陣ですが、今回の派遣は期間が長引くと考えられますので、派遣した5人が元気に帰って来てくれて次につなげていきたいとも考えています。

17時過ぎに岐阜県から情報を頂きました。その情報によると、明日19日から要介護高齢者の広域搬送と受け入れが始まるとの事。「ようやく」との思いと「いよいよ」との思いが交錯しています。派遣にしても、受け入れにしても、被災された方々に少しでも安心な状態を作れる様に、私は岐阜県老施協会長としても、社会福祉法人杉和会理事長としても出来るだけの事をさせて頂こうと考えています。リピーターの皆さんもお互いに手を差し伸べて頂ければ幸いに思います。

昨日が命日だった実母秋江さんの事

令和6年1月17日

私の実母秋江さんは私が中学1年の1月16日に他界しているので生まれてから13年と言う親子関係の中で比較的短い年月なのですが、『中身の濃い13年』だったと思います。と言うより小学3年までの私は母秋江さんの存在なしには考えられない文字通り『べったり』の関係でした。簡単に言えば母秋江がいなければ何も出来ない幼少期だったと思います。そう言う意味では私が小学4年になり、母秋江に癌が見つかり闘病生活の為に入退院を繰り替えしてからの私の生活は『激変』したと言っても過言ではなかったです。

何故ならば小学3年までの私は母秋江の後ろにくっついていれば良かったからです。つまり、小学4年からは後ろにくっついていたくても母秋江は私の前にはいないのですから。我が家の生活は一番年下の私中心に回っていたと言っても過言では無かった。それが許されたのは母秋江が若山家の絶対者でいたから。どうして母秋江が絶対者でいられたかと言うと、母秋江は若山春吉・ますを両親に持ち跡取り息子の長男よりも末娘を溺愛していて、母秋江の上に3人の娘がいたにも関わらず、敢えて母秋江に若山家の分家を作り、父進を養子に迎えたのです。

つまり、母秋江は今須町筋通りの地付きの娘で尚且つ父春吉(私にとっては祖父)は今須村の議員をしていたうるさ型で母ます(私にとっては祖母)は自宅敷地内で機織りの工場を仕切っていたしっかり者だったので、私が25年前に今の事業を始めた頃は、機織りの仕事をしていた時に「秋江さんは色白で綺麗な方だった。」とよく言われたものでした。

父進さんは、母秋江を石垣の陰から見て一目ぼれをして養子に来たとの事だったので(私が大人になり父進とお酒を飲んだ時の話しです。)母秋江に絶対服従だったわけですから母秋江の天下であった事は客観的に間違いない事実だと思います。但し、以前からこのコラムで書いている様に私が虚弱だったので「目の中に入れても痛く無い」息子の為に何をしたら良いのかが母秋江の思考の中心だったと思います。

そんな母秋江が死の淵に立った時に考えたのは私の生末の心配だったと思います。だから私は命日だった昨日には「心配をかけ続けた宏ですが、今は多くの方々に支えられながらも頑張っています。そして、母秋江さんには心配ばかり掛けて何も恩返しが出来ませんでしたが、地域の高齢者の方に母秋江さんに出来なかった恩返しのつもりでこれからも頑張って行きます。と仏壇でお経を唱えながらお話をさせて頂きました。

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