逃げれば こわさが ましますよ
令和5年10月19日
「逃げる」の意味にはいろんな意味が込められていると思います。例えば、実際にその場から「逃げる」です。この「逃げる」にも怖くて逃げる場合もあれば、事故を目撃したのに、関わりたくないと言う事で立ち去る形で「逃げる」のもあります。但し私は「立ち去る」と言う事は出来ない性格で「私に出来る事は無いか。」と考える事を常としています。
そんな私ですが盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の施設が厳しい状況の時は(今もその状態が解決したわけではありませんが)、この世からも逃げ出したいと考えた事もありました。今もこの世に存在していると言う事は、色んな方々のアドバイスと協力があり、最悪の状況からは脱したからと言う事です。もしあの時に逃げていたら今の自分は無いと思うと、大変だったけど今も何とかなっていると言う事で、ある意味神仏のご加護かなと思っています。
正直小さい頃の私は逃げてばかりの人生(そんな大袈裟な物ではないのですが)、いつからなのか下腹に力を入れて頑張れる様になったのはと考えると、一番考えられるのは「宏命」だった母秋江が、私が小学3年の頃に子宮癌になり、その後胃癌、肺癌で最期は骨癌で、私が中一の時に他界したのですが、母秋江が入退院を繰り返していた時にも頼りになる6歳年上の姉光子の後ろにへばりついていた私ですが、頼りになる姉光子が私が高校2年の4月7日にくも膜下出血で急逝(姉光子23歳)してからは凧の糸が切れた状態で1学期が終わったのですが、(父進さんには大変迷惑をかけました。)その年の夏休みに四国遍路に行き「私でも人様の役に立つ」と理解してからは逃げる生活から一変したと思います。と言うか自己責任の中で茨の道(私はそうは思っていなかったのですが周りからはその様に言われていました。)を歩みだしました。
高校時代には、みんなが「よくやるな」と三無主義がまかり通っている時に、生徒会活動に全力で取り組んだり、大学時代にもサークル活動で厳しい試練も一杯有りました。でもやり切りました。児童養護施設の指導員時代も、私よりでかい中学生を相手にがっぷり取り組みました。その時は「この子を社会人として通用する為には、厳しい指導の頑張らせるしかない。」と信じて実践しました。高齢者福祉施設を建設すると決めて時も色んな場面で下腹に力を入れて話をしなければいけない事がありましたが、その都度乗り越えて来たから今があると言う事で、これからも決して逃げない人生にしていきますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願いします。