今(17時50分)になって、急激にお腹が空いてきました。

令和6年2月16日

昨日のコラムで書きましたが、本日も朝起きたらお腹の腫れがやや治まったもののまだ違和感があったので、大食漢の私が今朝の朝食はパン1個と牛乳1杯だけにしました。

本日は10時に岐阜県老施協前会長の施設に、パサーダの西川先生の車で行く事になっていて、和合の施設に迎えにきてくれる事になっていたので、家を8時に出て途中で手土産を買って、和合の施設に行き西川先生を待っていると9時ジャストに来て下さり、直ぐに井上会長の施設に向かい10時丁度に施設に着き、井上会長の政治連盟に対する意見を聞き、話の流れの中で岐阜県選挙管理委員会で指示を仰いだ方が良いとの結論になり、11時15分と言う時間で「お昼の休憩時間前に着きたい」と言う事で急いで井上会長の施設を退席して岐阜県庁の受付をしたのが11時58分。「13時まで待つように」と言われるのを覚悟して受付から連絡して貰ったら「今すぐ7階まで来て下さい。」との対応に感謝しつつ7階までエレベーターで行くと、エレベーター前で担当の方が待っていて下さり会議室まで案内して下さったので、「本当に有難い対応だ。」と思いながら、相談の趣旨を私の方から話させて頂き、書類の書き方もしっかり教えて頂きました。

その後14時から岐阜県高齢者安心策定会議が水産会館(岐阜県庁の向かいにあります。)であるので和合の施設まで西川先生に送って貰い、直ぐに水産会館に向かいました。少しは時間に余裕があるので食事をしようかとも思いましたが、お腹が空いた状態ではなかったのですが「少しは食べなくては」と思いコンビニでパン1個と牛乳パックの一番小さいのを買い、岐阜県庁の駐車場で食べてから会議会場まで歩いて行きました。13時30分には会議会場の受付を済ませたので、一番乗りだったのです。早過ぎるとは思ったのですが、本日の資料が当日渡しだったので事前に少しでも目を通しておきたいと思ったからです。車の中で食べたパンと牛乳は違和感なく治まってくれたのでホッとしながら、14時からの会議に挑みました。

委員の皆さんはそれぞれにお立場のある方ばかりなのですが、事務局の説明を聞いた後は質問の時間になり、先ずは座長の飯尾中部学院大学学部長さんから質問され、その後を受けて私が質問をさせて頂きました。会議は15時40分には終了して、委員さんや県の次長さん以下の方々に挨拶をしてから本部施設に向けて車を走らせました。運転をしている時に無性にお腹が空いてきたので「これでお腹の調子は良くなった。」と思い、本部施設に着いて食べ物を探していたら水野施設長から「ここで無茶食いをしては駄目です。」と言われ「忍忍」と言う事で今(18時45分)でコラムを打ち終えたら家に帰るのですが、お風呂に入ってからの夕食は「軽く軽く」して、本当に体調が万全になった時に美味しいものを食べれるのを頭に浮かべて我慢します。

絶、不調です。

昨日は関ヶ原町の会議として「介護保険策定会議」と「関ヶ原診療所運営委員会」の2つがあり、私は両方の委員を勤めているので13時から16時30分まで会議に参加しました。どちらの会議でもしっかりと意見を言わせて頂きました。但し、和合の施設の一階で入居者の皆さんとお参りをしているときからお腹が張っているのが気になり昼食はきしめんのみ食べて会議に挑んだのですが、会議中もお腹の張りが気になり、会議終了後は家に帰らせて貰い、パジャマに着替えて横になりました。19時にお風呂にだけ入り、少しの牛乳と胃腸薬を飲み夕食は食べずに寝る事にしました。明日の朝には治まっていれば良いのですが・・・。

残念ながら朝になってもお腹の張りは変わらず全く食欲は無く、昨日の夕食に続き、朝食も昼食も食べないで本日は一日頑張りました。お腹の調子が悪かったのですが全国老施協の全国大会岐阜大会の各分科会の優秀作品の中から最優秀作品を決める為の審査員として動画を見ながら評価をする役割の締め切りが近いと言う事で8時前に本部施設に行きメールで届いている動画を開けようとしても動画が重たい為かなかなか開かずに各発表の3事例の評価をした段階で10時からのフロア責任者会議になり、慌てて会議室に行き、11時30分までしっかり会議に挑み、「昼食を取らないのなら、せめて1発表だけでも見ておこう。」と言う事で、何とか1事例を評価して、慌てて岐阜県福祉会館に向け出掛けました。

と言うのは岐阜県DWATが平成29年に設立されて初めてのチーム編成をして石川県金沢市にある1.5避難所に向けて出発する出発式に健康福祉部の次長さんも参加されると聞いているのと岐阜県老施協の会員施設の職員も参加するので会長として参加させて頂く為です。13時30分から福祉会館玄関前でセレモニーがあり隊員たちを激励して14時前に隊員たちは出発しました。その時に児童養護施設の代表の方もみえたので挨拶をして名刺交換をすると、私の名刺を見て素っ頓狂の声を出されたので「?」と思うと「若山先生ですか。雰囲気が全く変わられていたので分からなかったのですがお会い出来て嬉しいです。」と言ってから、「写真を撮らせて下さい。」と言われたので写真を撮って貰いながら私は『32年振りかな』と声掛けをしました。(とってもテンションが上がりました。)その後慌てて和合の施設に行き、幹部会に挑みました。

16時に終了して再び本部施設に向かい審査の残りを評価すると共に今(19時10分)にコラムも打ち終えました。食事を取らない分休憩もなかったので本当に中味の多い一日でした。なお、夕食までは控えていきたいと思っています。

 

朝から面接をしました。

令和6年2月14日

当法人には外国人介護士の方もたくさんいますが今回は初めてミヤンマー人の面接をリモートにて実施しました。いつもいつも外国人の面接をする度に思うことは日本語の習得が素晴らしいと感じます。もちろん日本語が出来なければ入居者さんとのコミュニケーションが取れないので介護士としての仕事は出来ないのですが、本当に驚かせられます。

 

介護保険料の改正について思うこと。

 

本日13時から関ヶ原町介護保険策定委員会があった中で介護保険料の制度改正によって収入によって支払い額が9段階になっていたのが3段階までの低所得の方は安くなり、4段階から9段階の方は変わらず10段階から13段階の新しい段階が出来てこの段階の方は年間に支払う金額が高くなるのです。このシステムは高齢者であっても収入が多い方は支払いが多くなると言う事です。私は収入に余裕が有る方が多く負担するのは良い事だと思います。ところが、そのシステムが理解できない方がおみえになるのです。そんな方の中には「俺は元気で介護保険料を払うばかりで損をしている。」と言われる方がいるのです。私は「元気で働いているから支払いが出来るんでしょ。」と言いたいのです。健康だから頑張れる。「互助の精神は大切だし、そうでなければ誰もが幸せになる事は出来ない。」とも思います。「世話する者、世話される者の構図ではない」社会を構築していくのが大切だと考えています。

深夜にコラムを書いてます。

令和6年2月13日

只今午前1時49分。ひと眠りをして目が冴えていて時間が勿体無いので夜が明けて10時からの3施設合同幹部会議の来年度の方向性を決める骨子について考えています。夜中に考えている事は通常だと霧の中に消えてしまうのですが、私はガラケーの携帯に打って記憶が消えないようにしています。先ずは根本的理念の変更です。設立当初は「すべてに優(やさ)しく、いつも悠(ゆとり)ある、やすらぎの邑(ばしょ)でありたい。」から「邑(ばしょ)を実現します。」に変えたのですが、今の現状は「場所を実現します。」にはなっていないと思うので元に戻すのが良いのか或いは「場所であり続けたい。」に変更すべきかと悩んでいます。もちろん、夜が明けてからの幹部会で検討するので理事長として提案をして行くことになると思います。「言葉は力なり。」と思うので頑張って検討していきたいと考えています。

朝起きた時には眠りが浅かった事もあり頭が重かったのですが、10時からの3施設合同幹部会では私の思いをしっかり話しをさせて貰ってから、幹部職員の意見を聞きました。その中で「理事長が方向を示して貰った事に 対して邁進していきますので、4月からの変更について示して下さい。」との結論になったのでもう少し時間をかけて結論を出して示していきたいと考えています。その他にはホームページのリニューアルをどのようなコンセプトで構築していくのかと言う事での検討をしました。その中でホームページを見てもらう方の焦点化が必要だと言う事で先ずは人材確保に力点を置いたものにして、検索しやすいシンプルなものにしていきたいとの方向性を打ち出しました。

また、その事にリンクするよう給与に付加するものについても検討しました。私が理事長として一人で考えていた時には出てこなかったアイデアも多く出して貰ったので、集約をしてインパクトがある形に整理したいと考えています。午前中の会議に時間がかかり、慌てて昼食を食べてから和合に行き、2階のフロアでカラオケを実施して、終了後は和(なごみ)に移動して古いピアノを頂いたのがリニューアル出来たので搬入作業を確認してからまたまた本部施設に移動して外国人材の登録機関との打ち合わせをしました。但し、登録機関の方が関ヶ原駅で降りられてタクシーが無くて約束の時間より遅かったのですが色んな話をしていて、19時を過ぎたので私の車で関ヶ原駅まで送りバタバタの一日が終わり今は21時になりましたと言う事はめちゃめちゃ長い時間をかけてコラムが書けました。リピーターの皆さん。こんな日も有りますよと言う事で。

白と黒、三寒四温、てるてる座のボランティア

令和6年2月12日

白と黒

「白」とは我が家の猫「おもち」であり、「黒」(正確にはミケ)とは「まる」の事です。童謡に「猫は炬燵で丸くなる。」の通り、いつも日の当たるところで寝ているのですが、ある時両方の猫が日の当たるところで寝ていたので、それぞれの体を触ってみると、白い方の「おもち」は冷たいままでしたが、黒い方の「まる」は温かくなっているのです。と言う事は白いのは比較的温かい所で生活しているのかと考えていて、「だとすると、ホッキョクグマは氷の所で生活しているぞ」と考えると「絶対」と言う事は無いのだと思った次第です。

白黒

三寒四温

今朝は屋根が薄っすらと雪で白くなりました。1月24日に関ケ原はゲリラ雪(ドカ雪)に見舞われましたが、アッと言う間に雪は解けてしまいました。本日は2月12日でその間も温かかったり、寒かったりと言う事ですが、3月1日からの東大寺のお水取りを境にして「春が来る」と言う事ですが、リピーターの皆さん間違いなく三寒四温で春に向かっています。私は小さい頃は冬場は『霜焼け』で両手両足がボンボンになる程に腫れて真っ赤になったので「冬場は嫌い」と思っていたのですが、高校2年生の冬からは一切霜焼けになっていないので、寒い冬も暑い冬も嫌いでは無いのです。だから、健康でいられるのだと思います。但し、30歳に結婚した時は50キロ位だった体重が、今は半俵の米を担いでいるような体重に自分でも驚くばかりなのですが、風邪もひかずにいられると言う事は「ベストの体重」だと豪語して自分自身で慰めているのですが、食事を美味しく食べれて健康なので大丈夫だと考えています。

てるてる座のボランティア

本日午前は和(なごみ)の施設で、午後は本部施設でのショーがあったのですが、午前の和(なごみ)の施設では挨拶だけして急遽和合の施設に行ったので、午後の本部施設でのショーのみに参加させて貰ったのですが、本部施設の入居者さん利用者さんの笑顔は素晴らしいものがあると改めて思いましたし、最後に歌に合わせてのタンバリンの動きは感動もんでした。ショーが終わってからてるてるの方と話をしている時に「どの施設よりも乗りが良いので楽しい。」とまで言って頂けました。これは25年の蓄積の賜物と思っています。

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しっかりとデイサービスの在り方について検討しました。

昨年6月から「トラピ」と言うコンサル会社にデイサービス「えりかの里」の今後の方向性や現状の改善点についてのコンサルをお願いしていて、本日は年度が変わってからの事業展開について、トラピの3人の方に本部施設施設まで来ていただき11時から15時過ぎまで話し合いを持ちました。えりかの 里の伊藤係長、谷田主任と水野施設長に理事長である私を加えて総勢7名での検討会です。

最初に理事長である私から今の現状と今後への方向性について語り、トラピの責任者である鎌田さん、計画立案者の山崎さん、そして、実際の指導に当たって貰っている斎藤さんにも適時指摘をして貰いながら進めて行きました。話しに熱が入り、気が付けば13時を回っていたので、今須唯一の喫茶店に電話をして、皆さんにランチを予約して効率よく時間の節約をして昼食を食べて貰いました。

ランチの内容が充実していたのを、大阪、東京、福岡とそれぞれから来ていただいた三人三様に内容を誉めて貰いながら「田舎は物価が安いのでお値打ち何です。」と話をして、再び本部施設に戻りました。

昼食後は理事長である私と水野施設長は会議に加わらず2人の職員の意見がしっかりと出るように配慮しました。デイサービス事業経営は全国的に厳しい状況がある中ではありますが、地域のニーズに応えながらも効率性を求めて行く必要性を理解した展開になるようにしていくように、最終的な方向性については2月末を目途にして、断続的に決めて行くことに決まりました。もちろん「決めて終わり」と言う事ではありません。決めた事を利用者さんとその家族に理解して頂ける様に努めていかなければいけないし、地域の理解を得ていかなければいけないので単純な作業では有りませんが本日の話し合いで行くべき方向性は見えて来たと思います。地域のニーズに応えつつも経営の視点も理解した展開でなければ行けません。

最近よく耳にする「持続可能な」展開をしていかないと「職員に霞を食べて頑張れ」と言うわけにはいきません。「えりかの里へ行くのが楽しみだ」と言って頂ける様に職員一同で頑張っていかなければいけない。そのためには職員の処遇も良くしていかなければいけないし、職員のスキルも上げていかなければいけない。やるべき事は山積みですが一つひとつクリアしていきたいと考えています。

リピーターの皆さん素敵なアイデアを宜しくお願い致します。

我が家の2匹の猫について語ります。

令和6年2月10日

20年頑張って生きてくれた我が家で初めての飼い猫「リット」が亡くなり、真っ白な「おもち」が我が家にやってきて、少し我が家が明るくなったのですが、ある日奥様かをり様が玄関の戸を開けた瞬間に家出をした時の奥様は真っ暗な状態が続き(但し、我が家に戻る半年の間に奥様はなかなかやろうとしなかった足の手術が出来たので結果往来なのですが)「限界だ」とのタイミングで飼い猫第一号のリットにそっくりの「まる」が我が家に来て、尚且つ半年近くみつからなかっなかった「おもち」がインターネット情報で「そっくりな猫が掲載されています。」との情報を得て、保護していただいていた家に受け取りに行ってから、我が家には2匹の猫がいるのです。2匹になった当初はお互いに警戒していて、あとから飼いだした「まる」が先住猫の様に振る舞っていて私的には「まるは可愛くない。」と思っていました。最も「おもち」も私には警戒心を持ったままですが。昨夜2階の自室に行く途中で「おもち」だけが寝ていたので「チュールをあげて仲良くなろう。」とチュールを持って来て、椅子に腰かけてチュールを「おもち」にあげようかと思ったら「まる」が忍者の如く私の前に現れたのです。私は仕方なく「まる」からチュールをあげる事にしました。半分くらい「まる」にあげてから「おもち」を見ると大人しく座って待っていたので、残り半分を「おもち」にあげました。その時「まる」も大人しくしていたので、このような状況ならこれからもチュールを2匹共にあげる事が出来るなと思った次第です。そして本日は朝から仲良く重なる様に寝ていたので、私は「ようやく若山家の住猫になれたな。」と思った次第です。2匹共に仲良く長生きをしてくれたらと思いましたし、これからもチュールを機会ある毎にあげたいと思います。と言うのは、チュールをあげるときだけ2匹共に大人しいので・・・。

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「朝から気分が良い事がありました。」

 

8時に家を出て和合の施設に向かっている時に垂井から大垣市に入る交差点の信号が赤だったので車を停めると右折するために停まっていたバスがあり、最後尾に座っていた子が私に向かって手を振っているように見えたので私も一生懸命に手を振るとガラス窓の曇りを手で綺麗にしてまたまた手を振ってくれたのです。そして、バスのガラス窓を開けてくれたのです。その時に信号が青に変わり車が動きだした時に私も車の窓ガラスをあけて「バイバイ」と言うと小学高学年くらいの女子だったと思うのですが「バイバイ」と手を振って応えてくれました。私にとっては爽やかな出来事でした。見知らぬ子がめっちゃ身近な存在になり爽やかな気分になった次第です。

我が家の2匹の猫について語ります。

令和6年2月10日

20年頑張って生きてくれた我が家で初めての飼い猫「リット」が亡くなり、真っ白な「おもち」が我が家にやってきて、少し我が家が明るくなったのですが、ある日奥様かをり様が玄関の戸を開けた瞬間に家出をした時の奥様は真っ暗な状態が続き(但し、我が家に戻る半年の間に奥様はなかなかやろうとしなかった足の手術が出来たので結果往来なのですが)「限界だ」とのタイミングで飼い猫第一号のリットにそっくりの「まる」が我が家に来て、尚且つ半年近くみつからなかっなかった「おもち」がインターネット情報で「そっくりな猫が掲載されています。」との情報を得て、保護していただいていた家に受け取りに行ってから、我が家には2匹の猫がいるのです。2匹になった当初はお互いに警戒していて、あとから飼いだした「まる」が先住猫の様に振る舞っていて、私的には「まるは可愛くない。」と思っていました。最も「おもち」も私には警戒心を持ったままですが。

昨夜2階の自室に行く途中で「おもち」だけが寝ていたので「チュールをあげて仲良くなろう。」とチュールを持って来て、椅子に腰かけてチュールを「おもち」にあげようかと思ったら「まる」が忍者の如く私の前に現れたのです。私は仕方なく「まる」からチュールをあげる事にしました。半分くらい「まる」にあげてから「おもち」を見ると大人しく座って待っていたので、残り半分を「おもち」にあげました。その時「まる」も大人しくしていたので、このような状況ならこれからもチュールを2匹共にあげる事が出来るなと思った次第です。そして本日は朝から仲良く重なる様に寝ていたので、私は「ようやく若山家の住猫になれたな。」と思った次第です。2匹共に仲良く長生きをしてくれたらと思いましたし、これからもチュールを機会ある毎にあげたいと思います。と言うのは、チュールをあげるときだけ2匹共に大人しいので・・・。

「朝から気分が良い事がありました。」

8時に家を出て和合の施設に向かっている時に、垂井から大垣市に入る交差点の信号が赤だったので車を停めると、右折するために停まっていたバスがあり、最後尾に座っていた子が私に向かって手を振っているように見えたので私も一生懸命に手を振ると、ガラス窓の曇りを手で綺麗にしてまたまた手を振ってくれたのです。そして、バスのガラス窓を開けてくれたのです。その時に信号が青に変わり車が動きだした時に私も車の窓ガラスをあけて「バイバイ」と言うと、小学高学年くらいの女子だったと思うのですが「バイバイ」と手を振って応えてくれました。私にとっては爽やかな出来事でした。見知らぬ子がめっちゃ身近な存在になり爽やかな気分になった次第です。

1月14日に京都三弘法に行った時の事です。

1月14日に京都三弘法に行った時の事です。

2023.2.9

「何を急に1ヶ月近く前の事をコラムに」と思われたリピーターの皆さんがおみえになられたかも知れません。実は京都三弘法に行った時の事をいずれコラムに 書こうと考えていたのですが、有難い事に毎日毎日書く話題があったので今日に至ってしまいました。もう一つの理由は本日和合での会議で若い職員或いは外国の職員の指導が難しいとの話題が出たのも大きな理由だと思います。回りくどい前段になってしまいましたがそろそろ本題に入ります。京都三弘法の主宰は滋賀信行会青年部なのです。その為、それぞれのお寺でお経を本堂と大師堂で唱える時の導師は基本的には青年部の役員の方が担うのです。役員と言っても20代の方々です。そして参加者は殆どが経験豊かな方なのです。そんな中で事件が起きました。(そんな大袈裟な事では無いのですが。)仁和寺で本堂でのお参りを済ませて大師堂でのお参りの時です。本来であれば本堂でご本尊のご真言も唱えなければいけなかったのですが、若い役員の導師がご真言を飛ばしてしまったので大師堂でご真言を唱えたのです。私は「本堂で出来なかったので、律儀にも大師堂で追加したんだな。」と思っただけだったのですが、わざわざ青年部の責任者に「ご真言は本堂ですべきものだぞ。」と馬鹿丁寧に大きな声で指摘しているのです。私は若い役員の一生懸命さを失くすような事をわさわさ言わなくても良いのにと思いました。実は私にも苦い過去があるのです。それは、私と今の滋賀信行会の内藤会長が大学時代に総勢50名の責任者で先達の様にして行った時に私も導師を勤めさせて貰い、お経を間違えたら超ベテランの方に鐘と拍子木を奪われて次からは導師をさせて貰えなかった苦い過去があるからです。

若い者は失敗をしながらも成長していくもの。永い目で育てていかなければと言うお話です。本日は殆んどガラケーの携帯で打っていたのを一瞬の操作ミスで消してしまったので動揺を隠せなくて言いたいことだけを書きました。昨日同様ご容赦下さい。

聖人賢者にはなれない。

令和6年2月8日

本日は何故か自分の生き方について考えてみたくなりました。私の幼少期についてはこのコラムでも何度か書いてきました。そして、今の私の口癖は「生後半年で心臓が5分近く止まったので、その後の時間はおまけの様なもの。そんな中で自分の感性と出会いの中で今の自分が形成されたのだと思います。人間の顔は生まれた時は親の責任。しかしながら30歳になってからは自分の責任だと。26歳からの児童養護施設でのがむしゃらな展開によって、少しずつ自分の生き方を自分で決めれる様になってきました。しかしながら、児童養護施設での指導員としての展開では「わしがやらねば誰がやる」的なある意味「おごり」に近いものの中でうごめいた13年間だった様に考えています。

そして、「おごり」と「世間知らずの勘違い」により、児童養護施設の職を辞し、文字通り「自己責任の世界」に飛び込んだのが38歳の時です。今から考えても「無謀」な選択だったと思います。だって、「霞を食って生きて行くの」的な選択だったわけですから。但し、私的には「理想に燃えて」と言う事です。但し、現実はそんなに甘くはありませんでした。だから、私の理想に燃えたわがままに家族を巻き込んだのは、今も申し訳無く思っています。

何かをするときには、色んな方々が支援やアドバイスを頂けたのは本当に有り難かったです。私の展開の仕方は無欲から成り立っているので、かなりあぶなっかしいものがあったので、良くも悪くも今までやってこられたのが不思議なくらいです。もちろん、いつも上手くいくわけではありません。正直、自暴自棄になったり、この世と縁を切りたいと思った事もあります。そんな時には愚痴も出ますし、怒りを露わにした事も何も出来ないでいた事も度々です。「相手の身になって」を心掛けて色んな展開をしてきて今があります。但し、今も頑張れているのは、色んな方の支援や助言を頂けたからこそ。

「聖人賢者になれない。」と言うより、端的に言うと私は「凡人ですが、他の人より劣っていると思っているので、何事も120%で頑張ってきて今が有るのでは無いかと思っています。」正直今でもトラウマの様に覚えているのは、小学校5年の時の知能指数の評価が『99点』だった時に私は「標準点以下なんだ」と落ち込んだ事を覚えています。だからと言って特別な努力をした覚えはありません。リピーターの皆さんすみません。本日は私の心が乱れていて支離滅裂なコラムになってしまいました。連続コラム継続が出来た事だけでお許し下さい。

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