どっぷり浸かる事になった児童養護施設での出会い

 

 

教員を辞めて父進さんに勘当の形で今須を追われ、それを良いことにして旧徳山村で好き勝手な生活をしている時に、わざわざ旧徳山村まで来て下さって児童養護施設を紹介して下さった方があり、(その当時中学校の校長先生で児童養護施設を経営されている理事長の娘婿)「遠い所を来て頂いて紹介して頂いて採用して頂けたけど、私が好んで選んだ仕事では無いので年明けの3月で辞めて進むべき道に行こう。」等と生意気な事を考えていたのです。そして実際に仕事をしていく中で、就業条件は14時~22時までで、夕食までの時間は小学3年生から6年生が小学校から帰って来てから順次宿題等の勉強をみる。夕食については中学生が準備したものを小学生から高校生までと一緒に食べる。夕食終了後は中学生の勉強をみる。勤務については、基本的には月曜から金曜日までの勤務で土日が休み。しかも、22時になったら直属の上司である理事長の息子さんが「先生ご苦労様でした。」と挨拶にみえるので私はまるで専従の家庭教師と錯覚するような状態でした。しかも、小学生はかわいく慕ってくれるのですが、中学生は何も教えてくれとも言わないので中学生が座って勉強しているのを熊の様にぐるぐる歩き回っていたのです。そんな状況の中3日目に初めて教えてくれと手を挙げてくれたのが当時1年生だった女子です。張り切って教えようとしたのですが、数学の問題が解けなくて教えられる状況でなくて、かつての同僚の数学の先生に泣きついて指導を仰ぎ、それからの半年間はその先生の所に日参しては中学生に教える綱渡りの様な毎日になりました。ここで、自分自身が学ぶことの大切さを学んだ様におもいます。そして、中学生と一緒に学習指導に取り組む中でその当時中学2年生の男子が小学年生の子が置いて行った算数の計算プリントに取り組んでいるのを注意しようとして、回答が全く違っているのに衝撃を受け、その中学生に少なくても中学を卒業するまでに読み書き算盤は出来るようにしたいとの思いから、その時は父進さんに生まれて初めて頭を下げてアドバイスを受けその当時の支援学校の誠意性を紹介して貰い指導を仰ぎ、自分なりの計画と独自のプリント作成をしてその中学生と格闘しました。成果を上げていくと自分自身にモチベーションがあがり、派生効果的に指導にのめり込み13年もの年月を過ごしました。自分で決めた事を実践できる喜びで、オーバーワークを全く苦になりませんでした。リピーターの皆さん人生はわからないものですね。

何故か教員時代の事をコラムで書きたくなりました。

令和6年5月27日

父進さんが、厳格な教育者であった影響もあり、私も大学を卒業後に教員になったのですが、正直「わけのわからない教員だった。」と自分でも思っています。教員最後に(とわいえそんなに長く勤めていたわけではありませんが)神戸町立北小学校4年3組の担任だった時の事を何の脈絡もなく頭に浮かんだので本日のコラムで書きます。4年3組の児童は35名で子どもたちとの格闘をするのに顔と名前が一致しなければ話にならないと考えた私は「初日に全員の名前と顔を一致させる。その為には35名一人ひとりの子どもとの接点をしっかりと持つ。」との目標を持ち、色んなタイミングで時間を作り全員の名前を覚えたつもりで家に帰って確認して残念な事にパーフェクトとはいかず3人の子の名前と顔が一致しなくて、次の日にはその3人の子に多くの時間を割いたお陰で35名の子の名前と顔の一致が2日でクリア出来ました。(今の私ではとても出来ない事ですが『若さ』と『気力』と『記憶力』の賜物なのかと思います。)それからの毎日は休憩時間と言う時間は子どもたちと遊んでいて、まるで担任の先生と言うよりは『ガキ大将』の様な存在だった様に思います。

正し、6月に行われた『校内研』での授業は舞い上がってしまったのと、準備不足で自分で言うのも変ですが、全く評価の対象にもならない出来でした。その時の校長先生の評価は「板書も含めてまとまりのないものでした。ただし、若山先生が焦っているのに対して子どもたちから『若山先生頑張って』と言う雰囲気があったのは共感を持ちました。」との事だったので、その日を契機に徹底的な事前学習をするようになり、板書については事前にビー紙にマジックで整理したものを準備するようにしました。

そして10月の西濃教育事務所の課長さんがおみえになっての授業の時には高評価を得て「私自身が生きた勉強が出来た。」と今になっても思います。但し、「4年生くらいの時は遊ばないかん」との考えはブレることなく12月には「一日かけてお正月に自分で作った凧を飛ばそう」と計画を立てて顰蹙を買いましたが教頭先生が理解をしめして下さり無事にそれぞれが作れたのは私の教員時代の素敵な出来事の一つです。

そう言えば必ず給食が遅い子がいたので「どうして毎日遅いのか」と観察していて、牛乳が飲めない為に遅かった事に気付いて、給食を隣の席で食べて「先生も牛乳が嫌いだったけど飲めるようになったから、先生と同じだけ頑張って飲もう」と言って少しずつのんで、彼女も何とか1本飲めた時に嬉しそうが顔になったのですが、学校から帰って家で「牛乳が飲めた」と興奮しながら報告してくれた。と母親から連絡を頂いたのは今でも良く覚えています。どうしてこんな昔の事を書こうと思ったのかは私自身良くわからないのですが、リピーターの皆さん、「若山宏はこんな人間だ」くらいの理解はして頂ければ嬉しいです。

5月は大切な日が一杯です

令和5月26日

既にこのコラムで報告しましたが、5月15日は孫娘の誕生日であり、16日は私の誕生日でもありました。そして本日は私と私の奥様の41回目の結婚記念日なのであります。そこで結婚記念日の日に合わせてかをりさんとの出会いについて既にこのコラムでも話したかも知れませんが改めて語りたいと思います。私は正直言って大学時代も教員時代も明確な希望や目的があったわけではなく、26歳の時に児童養護施設指導員と言うある意味『天職』に巡り合い「フレックスで仕事しています。」と豪語して尚且つ「公休については大学5年行かせて貰った時、そして教員を辞めて5か月間旧徳山村での生活をエンジョイしていたので前倒しで頂いているのでいらないのです。」と言って思いっきり児童養護の子供たちと格闘していて、気づいたら30歳を目前にした施設内の大掃除の時にその当時中学生男子に「先生、年が明けたら30歳になるけど結婚相手はおらんね。」と囃し立てられたのです。

囃し立てられたのには理由があります。端的に言うと『口は災いの基』で日頃の子どもたちとの話題の中で「先生彼女いないようだけどいつ結婚するの」と言われる度に「30歳までには結婚するから。」と言っていたのです。ところが30歳を前にしても子ども達との格闘が楽しくて恋愛等と言うものとは全く無縁の日々だったので多分子どもなりに心配していたのだと思います。

その年は年末年始のお休みを3日(12月31日から1月2日)頂いていたので伯父さんから結婚を紹介してくれる方の所に身上書なるものを持って行けと言われていたので、紹介者の所に行ったのが12月31日で翌日元旦の日に紹介して頂いた方の家で顔合わせをして、翌日に私の車であてもなく車を走らせ、一週間後の1月9日に京都までドライブをして1月15日(当時は成人の日でした。)に明治村に行き、明治村の中の教会でパイプオルガンの演奏がされている所の長椅子に二人で座っている時に「結婚しましょう。」と言って、3月1日に結納、5月26日に結婚式と言う慌ただしさの日程でした。

つまり私は良く言われる「釣った魚には餌をやらない。」と言いますが「釣った時にも餌は与えていないのです。」と言う事なのですが結婚式を挙げてから『41年』考え深いものがあります。リピーターの皆さん。若山宏はこんな男ですがこれからもよろしくお願いいたします。

苦渋の決断

令和6年5月25日

当法人が事業の一つである『デイサービスセンター えりかの里』は、1997年7月17日に『社会福祉法人 杉和会』の法人認可を岐阜県知事から頂いた翌年1998年5月21日から事業開始をしています。(『特別養護老人ホーム 優・悠・邑』は同年5月18日です。)そして、事業開始をした翌年である1999年4月からは、年中無休で尚且つ事業時間を9時15分~15時30分と9時15分~17時の2つの事業で展開してきました。

この様な事業にしたのは、「地域のニーズに出来るだけ応えていくことこそ、社会福祉法人の使命」との考えからでした。しかしながら、昨今の社会情勢の大きな流れの中で『働き方改革』と『職員確保の難しさ』が大きく圧し掛かってきています。『えりかの里』の事業を今のまま続けて行くと『オーバーワーク』が強いられる現状になる事が必然なのです。と言うのは、デイサービスの事業の中に『送迎時間は入らない。』と言うのが関ケ原を中心にした事業展開の中では大きな足かせになるからです。送迎エリアは広く点在しており、最低でも迎えで1時間、送りで1時間はかかるのです。年中無休を実施するには、職員の週休二日を確保するには、多くの職員を確保していくことが難しくなっている現実もあるからです。正直『苦渋の選択』です。

しかしながら、利用者さんとその家族に現状を理解して頂き、7月1日から『木曜日を定休日』とさせて頂きました。木曜日にした理由は、関ケ原町には町立のデイサービスがあり、どうしても木曜日に利用したいという方はそちらの利用をして貰いたい、との意図があります。『木曜日を定休日』にしましたが、年末年始だからとか、ゴールデンウイークだからと言って長期休暇のシステムにはしません。何故かと言えば「長期にお風呂に入れない・楽しみがないシステムは駄目だ。」と言う考え方からです。社会情勢にも適応しながら地域の要望にも応えていく事こそ社会福祉法人の役割だとの理念は貫いていきたいからです。リピーターの皆さん社会福祉法人 杉和会はそんな組織です。ご理解頂ければ幸いです。

久しぶりに人間ドックに行ってきました。

5時15分の起床で仏間とお墓でのお参りをして、家に戻ってお風呂に浸かるまでいつもと変わらなかったのですが、朝食は抜きで病院にいかなければいけない指示が出ていたので、お風呂の後は少し横になり7時30分から持ち物の最終確認(検尿・検痰・お薬手帳・諸々の書類等)をして出掛けました。8時30分までに病院に着けば良かったのですが8時15分にいつもの病院の駐車場に着いたのですが病院が全面改築をしていて、どこが入口かがわからず案内板の通りに進んで行くと新しい建物の玄関口にたどり着いたので自動ドアから進もうとすると自動ドアが開かない。「8時30分から検査開始と聞いているので困ったな。」と思い夜間用のインターフォンがあったので押してみたのですが反応が無かったので職員さんが出勤の為に通られた方にお尋ねすると「8時30分にならないと自動ドアは開きませんのでしばらく待っていて下さい。」と言われて待つことにしたのですが椅子が置いてあるわけでもなく10分間がなが~く感じられました。

自動ドアが開き中に入り「人間ドックに来たのですが。」と言うと「若山さんですか」と聞かれたので「そうですが」と言うと受付をする所を教えて頂いたので言われた通りに行くと保健師の方が待っていて下さり、尚且つ昨年11月に入院した時にお世話になった検査技師の方も挨拶に来て下さり書類の確認の後、身長・体重・脅威の腹囲の検査から始まりました。次に院長先生による診察があり、その後はCTやらエコーやら心電図を案内されるがままに場所移動をして検査して貰い、極めつけは血液採取をたくさんして貰いました。そして本日のメインイベントである胃カメラになり、私の希望を聞いて下さり鼻からカメラを挿入して頂いたのですが、何ら問題もなく挿入して頂けたら先生か「上手く入りましたね」と声掛けをして頂けたので全く緊張感もなく検査を終えることが出来ました。

胃カメラが本日の最後の検査でしたので、検査着から私服に着替えて最初に受付をしたところで待っていると、胃カメラの検査をして頂いた先生から画面を映しながら説明をして頂きました。説明は3点ありました。①ポリープが1つありますが良性なので何ら心配はいりません。②胃の部分が少し色が黒いのですが、これはピロリ菌の治療の後はこの様になるので問題ありません。③その他に気になるところはありません。との説明に安心した次第です。来週の金曜日にも大腸検査があるのですが、取り敢えず一日目の人間ドックは無事に終わり、本部施設に行き明日の理事会の打ち合わせが18時から岩田先生に来て頂いて行われます。このような展開が出来るのも健康だからこそです。明日の理事会が無事に終わり2週間後の評議員会が済めば理事長としての役割も1段落です。

明日は人間ドックです

令和6年5月23日

「来月には行こう」とか「再来月には行こう」と考えていて何度か予約はしたのですが、その都度会議や出張が入って延びに延びていた人間ドックに明日は行けそうです。でも「いざ明日だ」と思うと億劫になっている自分がいます。最近の情報で「高齢者になると食事の摂取量が減るので野菜を食べる前に肉や魚を食べた方が良い。その理由は野菜から食べると肉や魚を食べようとしたときにはお腹が一杯になってしまって体重減につながる。」と言うものでした。

私は今月16日に71歳の誕生日を迎えたのですが一向に食事量は減らずに逆に体重が増えるのを気にしなければいけない状況に感謝・・・?毎朝5時15分に起床して仏間でのお参りとその後の妙応寺経由のお墓参りを再開してからは、ますます体調が良くて健康そのものだと思うのですが、意外な所に落とし穴があってはいけないし、昔から『備えあって憂いなし』と言いますので明日は7時30分に家を出て池田町にある病院に行ってきます。検査をする前の先生からのご指摘を考えると「体重は身長の割には多すぎます。だから当然のことながらBMIの数値は高いです。

また、腹囲が100㎝を超えているのは言語道断です。」と言われるのは必然かな。でもね、過去に私よりも腹囲があった尊敬すべき先輩が急激に痩せられて「若山さん、体重が減ると体が軽くて楽だぞ。」と言われたのですがその先輩はその後3か月で急逝されたのでその事を教訓にして「絶対に痩せません。」美味しいものを楽しく頂き頑張って仕事をさせて貰う事にします。勿論、内臓の面で早期発見がされたら前立腺がんを克服したように素直に治療をしていく前向きな生き方をしていきますのでリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

特別養護老人ホームにおける誤薬が社会問題化している様です

 

 

5月19日の岐阜新聞で『高齢者施設の服薬昼1回に』とあり『学会提言、誤薬リスク減』との記事に目が止まりました。その学会とは『日本老年薬学会』の提言でした。私は本来高齢者施設側から実状を訴えるべき所を、薬を提供する側から出て来たと言うのは、情けない話だとは思いますがこの事を契機にして、全国の状況を把握してしっかりとした方向性を全国老人福祉施設協議会としても、提案していかなければいけないと思います。学会の提案の中で『投薬は昼1回』と言うのは現場の実情を把握しての提案だと思います。と言うのは昼食時であれば対応する介護職員の数も多いし、尚且つ間違いなく看護職員も勤務しているからです。学会のコメントの中にも「高齢者施設では処方薬が多い上、認知機能や運動機能の低下から服薬の介助が必要な入居者が多い。服薬のタイミングもさまざまで、職員の負担感が強く誤薬事故につながっていると指摘されている。提言では、職員数が多い昼間に服薬を集約することで、誤薬リスクの低下だけでなく、入所者や職員にとって負担軽減につながる。」と述べられている。勿論、単に「服薬は昼のみにする。」と言うだけでは済まない課題も多くあるので、嘱託医の先生とも良く話をしていかなければいけないし、現場の意見もしっかり聞いていかなければいけないと考えています。業務の省力化をした時間を入居者さんとの時間をより充実させれる様に多方面に渡って検討していかなければいけないと考えています。

どっぷり介護事業に浸かっていて気が付かない事についてリピーターの皆さんから教えて貰えたら有難いと思っていますのでよろしくお願いいたします。

本日は8時に家を出て岐阜に向かいました

令和6年5月21日

昨日は午前に和合の施設で多職種連携会議があり、午後からは福祉会館で岐阜県老人福祉施設協議会の理事会があり、本日は岐阜市内のホテルで社会福祉法人経営者協議会の役員会に引き続いての総会と研修会があるのですが、11時からの役員会前に会議会場をお借りして、岐阜県福祉政治連盟の打ち合わせをしたいと言う事で、政治連盟の会議を設定した私が遅れて行くわけにはいかないと言う事で、時間に余裕を持って出掛け交通渋滞も無かったので、9時10分にホテル着いたので会議室前のソファでコラムを打っている次第です。このように時間に余裕がある時にコラムを打たなくてはいけないので、時間を無駄にしなくて良いのは有り難いと思っています。

9時30分になり事前打ち合わせをすることになっていた政治連盟事務を担って貰っている西川さんが来てくれたので、早速書類の確認と簡単な打ち合わせをしていると役員さんが順次集まってみえ、定刻の10時前に私が開会宣言をして話し合いに入りました。先ずは経過報告を西川さんにしてもらい、全員の承認を頂き、私から今後のあり方について話しをさせて貰った後、政治連盟の歴史について一番ご存知の私の前の老人福祉施設協議会会長で政治連盟顧問の井上先生に話をして頂き、結論として今ある岐阜県福祉政治連盟を解散して新たに、老施協と施設経営協の政治連盟を組織化して新たな歩みをしていく骨子が決まりました。

解散の手続きでやらなければいけない事はありますが、岐阜県選挙管理委員会に手続きについての指導を仰ぎながら、老施協の新たな政治連盟設立に向けての対応についても頑張っていきたいと考えています。と言うのも介護事業については公定価格であり、政治的な配慮も多くあるので、政治家の方々に対しての対応も多く有るのが現実だと理解しているからです。これは自分の所の法人だけの事では無くて介護・福祉を取り巻く現状をより良くする為のものですが、「誰かがやらなければいけないのであれば、気が付いている私から頑張るしかない。」との考えからです。勿論、リピーターの方の中でご理解ご協力をして頂けるのであれば有難いのでそのような方は是非ご一報下さい。

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私は修験者かそれとも修業僧?

昨日午前中に本部施設の第三者委員会が開催されたのですが、第三者委員会の田中委員(大垣市会議員)が時間より早くにおみえになり、もう一人の松井委員(元今須地区長)をお待ちしている時の話で、田中委員が、「老犬が死んでから、犬との散歩が無くなり、朝歩く事がなくなってから動きが悪くなった。」との話を聞いたので「私も犬を飼いたかったのですが、出張で外に泊まる事が多くて、私に代わっての犬の散歩を奥さんは絶対にしてもらえないので、犬を飼う事が出来なかった。でも朝の散歩はしたかったので毎朝5時15分に起きて着替えた後、仏間に籠り正信偈と般若心経を唱えてから、リュックサックに水が入ったペットボトルを8本持って妙応寺でのお参り後に若山家のお墓に行くと大体45分かかり適度な運動になります。」と話をすると田中委員が「8本のペットボトルの水と言うと4キロを背負っているわけで、しかも朝早くの歩きとはまるで修験者の様だ。」と言われたので「そんな見方もあるのか。」と思っていると「首に袈裟をしていて袋を持っていたらお金を入れたくなるね。」との話になり、「雨の日はどうするの」と聞かれたので「傘をさして行ってますし、雪が降っていても行きますよ。」とさらっと言うと「凄いね」と感心されて盛り上がっている時に松井委員が会議室に入ってみえたのでその話はそれまでになったのですが・・・。その話をよくよく考えてみると、地域のかたは私の行動をどの様に理解されているのかと考えると・・・。でもね、私は私の生き方で頑張るしかないのでリピーターの皆さん、これからもよろしくお願いいたします。

お腹に大きな傷があるのですが

私は母秋江似なので、肌は自信を持って『餅肌』なのです。

だからなんでしょうか先月20日に行った和合の施設での花魁では化粧ののりが良くて自分でも満足な仕上がりでした。自分でその様に思っているのですからリピーターの皆さん「良し」として下さい。

と言うよりも私はそんな性格なのであります。

本題に入ります。お腹の大きな傷と言うのは大学3年生の時に手遅れ寸前の腸閉塞の手術でお臍を中心に縦に上下10㎝位、つまり縦に20㎝程切ってあり、入院生活を終えて帰宅後に我が家のお風呂に入ってしっかりと術後の傷を見るとバカでかいムカデがいるかの様な状態で思わず卒倒しそうになり、大きな声をあげてしまったのを今でも覚えています。

今は傷の方は小さくなっていますが、それでもお腹には大きな傷跡があります。それ以外には、これも大学時代に私の従兄弟がケーキ屋を開店した時に手伝いに行き、その当時はパンも販売していたので食パンを機械で切り分けていて右の人差し指に「しかっ」と痛みが走り、その後血がドバっと出てきて、傷口を良く見ると切れた所から奥の方が白く見えたので「この白いのは骨だ」と思うと「骨を削ら無くて良かった。」と思った次第です。

しかしながらあれから50年近くが経過して傷の所も小さくなりその部分だけが周りより白く感じるくらいです。(※人間もトカゲ程ではありませんが再生する能力はある様です。)

私は今どき『刺青ではなくてタトゥーだ』と言って体を傷つけている方を見かけますが、私は親から頂いた体を傷つける事はしたくないので、お腹の傷は他人様に見せる事はないので基本的には綺麗なものなのですが、和合の施設で寸胴を使ってタケノコの味噌汁を作っている時に燃え上がる寸胴に軍手もせずに一瞬ですが触ってしまい触った所の皮膚がめくりあがり直ぐに水で冷やして、傷口からばい菌が入らない様に大きなバンドエイドで保護をしばらくの間はしていたのですが、今はバンドエイドの必要がないので傷跡を確認すると3㎝程度の筋がついていて「母秋江さんに貰った綺麗な体に傷がついた・・・。」

リピーターの皆さん「「何のこっちゃ」と言わんといて下さいね。

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