メディファクスの記事から

メディファクスというのは、医療・介護・福祉に特化した、いわゆる業界紙なのですが、10月24日付けの記事で『入浴介助でやけど女性死亡』『浴槽の湯60度、府警が捜査』の見出しが私の目に飛び込んできました。その記事によると【大阪市の介護老人保健施設で8月、入浴介助を受けていた入所者の90代女性がやけどを負い、約1か月半後に死亡していたことが22日、捜査関係者などへの取材で分かった。市によると湯の温度は60度ほどあり、介助職員は施設側の聴き取りに「いつも通りの温度設定であるはずと慢心があった」と説明。府警が、業務上過失致死容疑を視野に調べている。

捜査関係者や大阪府によると、8月4日、職員が女性を専用の椅子に座らせて湯船に入れたところ、女性が「熱い」と訴えたため、浴槽から出した。女性は足首や上半身にやけどを負い、皮膚がめくれていたという。9月17日に死亡した。市によると、8月2日、浴槽に高温の湯をためて消毒する作業が施設で実施されていた。作業に当たった別の職員2人は終了後、蛇口から出る湯を通常の温度設定に下げていなかったという。介護職員は4日、そのままの設定で湯をため、暑さを確認せずに入浴させたとみられる。大阪市は故意性はないとしたものの『重大事故』と判断し、施設側にマニュアルの作成など再発防止を徹底するよう口頭で指導した。】

この記事を読んで一番びっくりしたのは『いつも通りの温度設定であるはずと慢心があった』とのコメントには思わず「絶句です」。しかも8月2日に高温での消毒をして、8月4日に高温の設定であるままで使用する前に元に戻す事がされていないのも驚きですが、特浴期の湯の温度を確認もしないでお風呂に入れているのも驚きです。90代の女性が「熱い」と言われながら皮膚がめくれていく状況を思った時「何とも言えない感情になりました。介助が必要な方は、介助する職員に委ねるしかない。自分がお風呂に入る時に「お風呂のお湯は適切かな」と手で確かめますよね。その行為が自分で出来ないから、その行為を職員が当たり前の様にするのは、マニュアル以前の問題だと思うのですが・・・。尚且つこの施設にはマニュアルも無かったのでしょうか。入浴の研修もされていないのでしょうか。重ねて言います。『慢心』と言う事で片付けて言い訳が無いと思います。

介護職員はやるべきことをしっかりしながら、入居者さんと共にワクワクする毎日にしていかなければいけないと思うと共に『他山の石』として本日18時からの本部施設での全体会でもしっかり徹底していきたいと思っています。

私の矯正術は・・・

令和7年10月26日

いつもの様に5時25分のアラームで行動開始をしようと思いベットから起き上がろうとした時「腰が張って痛い」と言う事で尚且つ外はどんよりしており、雨が降っているようなので「今日の朝のお参りは中止にしようか」と一瞬『弱虫の宏クン』になりそうだったのですが「今の宏はそんなにやわくない」と力を込めて起き上がり、リュックサックの中の空になったペットボトル9本に我が家の水道水を入れて(およそ5キロの重さです。)背中に背負い左手に傘を右手に金剛杖を持ちお墓を目指して歩きました。

幸福地蔵様でのお参りを終えて妙応寺本堂では大きな賽銭箱に両手を付いてお経を唱えながら屈伸運動や片足ずつ大きく足を上げたりと、いつも以上に気合を入れて行いました。(誰もいない本堂での祈りの時間だからできますが、誰か見ている方があったら出来ないかも・・・。いやいや、今の私は逆により頑張るかも知れません・・・。)そして、今須稲荷様、3仏様等々にお参りをして六地蔵様から我が家のお墓に行きお水を手向けたあとはいつも以上に気合を入れて般若心経を唱えました。

そして雨の中でしたが背中はほんのり汗をかき、我が家に帰って「あったかい」と感じて、コップ1杯の水を飲み「最高に上手い」と思ってからぬるくなった湯船に浸かり追い炊きで段々温かいお湯になって行くのを「最高」と思い、湯船の中で背筋を伸ばすと「腰の痛みが無くなっている」と言う事で「これが正しく私の矯正術」と言う事です。

小さい頃は寒くなると両手両足がボンボンに霜焼けで歩く事も出来なくて、その当時母秋江さんが学校から帰って来る息子の為にゴボウの湯がき汁と水の入った洗面器を用意して待っていてくれて、湯がき汁と水にかったりばんこで手を突っ込み霜焼けの手の血行を良くすることをしてくれていた事を懐かしく思い出しながら、天国で私を見ていてくれている母秋江さんが「宏も強くなったね」とほほ笑んでいてくれていると思っています。「お母さん、これからも見守っていて下さい。私は地域の方々の為にこれからも走り回って頑張りますので。」と呟いている私なのであります。

和光会グループ100周年記念式典に参加しました

令和7年10月25日

和光会グループの礎は創始者山田光継先生が1925年8月に岐阜市中吉町(現 東金宝町)に『山田内科小児科医院』を開業されたのが始まりだそうです。その当時から往診を積極的に実施されていて、開業当時は自家用車がまだ珍しくて人力車での往診が主流だったころから、自転車、オートバイを経て、3年後にはゼネラルモーターズ製のシボレーを購入し、自動車による往診を始められたとのことですが名古屋を含めても他に例が無いとの記録が残っているとの事で、先見の明があったと思います。(なるべく早くに診て貰いたい患者さんにとっては有難いことだったと思います。)

また、岐阜の開業医として初めてX線装置を導入されたとの記録を目にして「創始者としてのご苦労は沢山おありになったと思いますが、患者さんの思いを最優先にされていて訪問診療に注力されていた思いが今にも生かされているのだ。」と思いました。

そして、山田光雄先生が1957年に京都大学医学部助手の職を辞し、創始者の基で副院長になられて、1961年に2代目院長になられ医療法人和光会理事長に1966年~1995までされ、尚且つ1998年~2016年社会福祉法人和光会の理事長も勤められて、医療のみならず介護・福祉でも素晴らしい展開をされていた事が理解できます。

そして3代目を継がれた地守研三先生が3代目を継がれ、今は山田豪先生が立派に4代目として和光会グループを牽引されているので、「100年は途中経過」と言う事なのだと思います。今では80事業所以上で『医療』『介護』『子育て』『障がい』の事業展開で職員が2000人と言う大組織になっても『地域貢献』の旗印の中での展開をされていて、常に先を見据えた展開をされています。

当法人の社会福祉法人杉和会は設立28年と言う事で全く歯がたたない状態ではありますが、身の丈の中ではありますがこれからも地域の中での安心・安全と生き生きした毎日の為に頑張って行きたいと本日の式典に参加させて頂き思ったしだいです。

逆打ちで歩いたら

いつもの様に5時30分過ぎからお参りの為に歩いて行き、妙応寺の駐車場内の幸福地蔵様に抱き付きながらのお願いをしてから2つのトンネルの中で歩きながら「南無大師遍照金剛」を唱えて本堂に入ろうとすると大きな門が開いていないのでぐるっと回ってお墓の方からお参りすることにしました。

若山家のお墓に行く手前の六地蔵様で花筒とそれぞれのお地蔵様の湯呑に我が家から持ってきたペットボトルの水をお供えして、蝋燭と線香に火を灯してそれぞれに立ててから、それぞれのお地蔵に手を合わせながら「おん ころころ せんだり まり そわか」のご真言を3回ずつ唱えてから我が家のお墓に向かいました。若山家、吉澤家(姉春子さんが嫁いだ家)、及川家(かつて優・悠・邑に入居されていた方)柴田家(大変お世話になったおじさんおばさんで、おばさんは優・悠・邑で看取りまでさせて頂いて恩返しが少しは出来たかなと言う方)の他にお隣同士のお墓も入れて7軒のお墓の湯呑に水を手向けてからいつもとは逆の順番にお参りをしていくのですが、お参りを終えてからの向かう方向がついついいつもの方向に向いてしまい、「今日は違う」と思って方向修正をしながら次の場所に移動する状況だったので「慣れと言うのはこの様な所にもあらわれるのか」と思うと、慣れからくるケアの思い込みは絶対にしてはいけないし、昨日とは違う今日の変化を見逃さない事の大切さを改めて理解した次第です。と言う事は『転んでもただでは起きない』の真骨頂だと自画自賛している私がいるのですがリピーターの皆さん、こんな私の事をどう思われますか。

褒められるのは悪い気持ちではないです。

就職を希望されての施設見学におみえになった方に取り合えず理事長としての思いを話させて頂いてから館内の案内を吉田副施設長に委ねて事務所で待機していて(私が案内する事は簡単な事なのですが、私が案内をすると他の職員がするよりも遥かに説明に時間がかかってしまうのと、他の職員が説明した方が事実に近い形だと思って貰えるのではないかと考えて)案内をした吉田副施設長が「案内を終えました」と報告してくれたので、再び会議室に行くと私が行くのを座らずに待ってみえたので「礼儀正しい方だ」と思いながら再び話をしようと席に着くといきなり「素晴らしい施設をみさせて頂き感動しました。」と言われるので「具体的に何が良かったですか」と聞くと「浴室の蛇口の位置が通常より遥かに高い位置にあり、その理由を副施設長さんからお伺いして思いのある温かい施設だと思いました。」との話を聞いて「思いの部分を理解してくれる方がいたのは有難い」と思った次第です。

そして平成8年に施設の図面を見ながら色んな事を検討して、平成9年に建物の造成と建築が始まった時の事を想い出していました。造成が出来て段々の田圃だったところに石墨をして貰い8050㎡がフラットになった時には敷地内を両手を広げて走り回ったことや、建物が建ちだして毎日現場を歩き回って、「そう言えば浴室の蛇口の位置が家庭用と同じ位置だったので設計士の先生にお願いして、私がお願いした時には現場監督は嫌がられていたけど設計士の先生から言われた事には素直に聞いて頂いて今の位置になったな。」と考え深いものが蘇りました。一つの現象の中に色んなものが内在されていることを、見学された方は理解して頂けたのだと思うと嬉しさが倍増しました。

職員が楽しくなければ入居者も楽しくないと言う事で働きやすい環境を作ることがより良いケアに繋がり、ワクワクする企画が多くあれば入居者さんも元気でいて貰えると考えています。これからもワクワクを大切にした施設を心掛け頑張っていきますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願い致します。

皆さんのご迷惑を顧みず

昨日、和合地区の民生委員児童委員の皆さんが14名、施設見学と理事長のお話を聞きに来て下さいました。私の基本的な考え方は「地域の多くの方に施設を理解して頂き、共存共栄で地域の安心安全に寄与していきたい。」と言う事で、和合地区の民生委員児童委員会代表をして頂いている方には、社会福祉法人杉和会の評議員のメンバーになって頂き、私が和合の施設長になって2年余りでようやく、地元の民生委員児童委員の方が施設に来て頂きました。

それぞれの車でお見えになり、全員の方が揃われた段階で施設内に入られ、一先ず1階の研修室に揃って頂いた段階で、民生委員児童委員の代表者(当法人の評議員)の挨拶に続いて、理事長である私が挨拶をさせて頂き、その中で「どれほどの時間を頂けますか」とお聞きすると「全体で1時間程度で、若干延長しても大丈夫です。」と言う事をお聞きしたので「私は時間指定されないと、永遠に話をしてしまうものですから」とさり気無く「しっかり話がしたいんです。」と意思表示をしてご挨拶を終えてから、伊藤副施設長に館内の案内をして貰いました。元の部屋に戻ってみえた時には「廊下も広くて、木を多く使われていますね。」等々のお話をお伺いしてから、全員が戻られたのを確認して、私のお話をさせて頂きました。

先ずは「皆さん民生委員と言われていますが、実は民生委員児童委員なんですよ。」との話から始めました。そして、「私がその様な事を理解しているのは、大学を卒業して教員として勤めたものの、2年で退職してしまい見事に父親から勘当されて、ダムで沈んでしまった旧徳山村の民宿で居候の、飲めや歌えの生活をしてから、児童養護施設の指導員を13年してから、紆余曲折を経て社会福祉法人杉和会の認可を頂き、本部施設を関ヶ原に造って7年の月日になり、10年前に和合の施設を、そして4年前に盲養護老人ホーム 優・悠・邑 和(なごみ)が出来、3拠点を走りまわっている毎日です。」「3拠点共に『優・悠・邑』が冠にあるのは『すべてにやさしく いつまでもゆとりある やすらぎのばしょでありたい』であることと『今日一日楽しかった』の毎日にしたいとの思いで、職員共々頑張っています。」との前置きをしてから、今年度に入ってからのイベントをスクリーンに映しながら、お話をさせて頂きました。

話が1時間近くになった頃に、責任者の方が時間を気にされていることが分かったのですが、参加者の方々は一生懸命に私の話を聞いて頂いているので、「もう少し、もう少し」と話を続けさせて頂きました。お話を終えて駐車場までお見送りしていく中で「私は同じ班なのに、初めて来たよ」と言われる方があったので「これからは気軽に来てください。」等と答えていて、次の予定があったのかも気にせずに、時間延長をしたことに対しては、皆さんが納得されたご様子だったので「まっ、良いか」と全然反省していないわたしなのであります。

昨日は私にとっては1本の凄い電話がかかってきました。

昨日は9時から関ケ原町役場で副町長さんや住民課長さんらとデイサービス事業に対する今後の考え方についての話し合いがあり、本来の予定では10時30分から本部施設において2か所のお参りを午前に予定していたのですが、話し合いが熱を帯び11時30分までかかったので午前のお参りも含めて、本来午後のお参りは13時30分からなのですが、13時スタートで一機に4か所のお参りを行い、大きな声で15時過ぎまで行ったので涼しいはずの気温だったにも関わらず背中は汗が流れている状態で事務所に戻ってきました。

五次副施設長から、「理事長が学生時代に教えて頂いた先生の娘さんからお電話があり、何かお願いしたいことがあるそうなのでまた電話を掛けて見えるそうです。」と言う事で先生の名前を聞いて「そんなの信じられない」と言う事で電話番号が聞いてあったので早速連絡して、先ずは私の方から「どうして私の事を知られたのか」と言う疑問を投げかけると「知り合いの方がホームページの理事長コラムに私の父の事が書いてあると教えてくれて、今父の回顧録を書いていてかつて若山さんが書かれていたのを想い出してぶしつけだとは思いましたが連絡しました。」との事で「出来たら、若山さんが書かれたものを回顧録に載せたいのですが。」との事で、私はかつてとてもお世話になった(と言うより私の人生を救ってくださった先生・・・)先生の回顧録に載せて頂けるのは有難い」と思いながら「大学時代、先生に顧問をして頂いた『郷土研究の会』のメンバーにも先生とのエピソードを書いて貰えるように働き掛けましょうか」と言うととても喜んで頂けました。

しかしながら縁もゆかりもない方が私のコラムを読んで頂いていて、かつて本当にお世話になった先生のお知り合いの方である娘さんに教えられたと言う本当に細い細い糸の繋がりで電話を下さり、20代前半の学生時代の記憶が一気に蘇り新たな関係を作る事が出来たと言うのは素晴らしい事だと思っています。これからも色んな糸で結ばれて素敵な展開が作れる様に頑張っていき、『理事長コラム』もより充実させていきたいと考えていますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願い致します。

毎日のように熊の被害情報が報道されています。

正直言って『熊』だって好き好んで里に出てきているのではないと思います。しかしながら過去30年の熊の出没情報は右肩上がりに増えていると言う事なので感覚的な印象ではなくてデータとしての裏付けがあるようです。特に東北・北陸では農地や住宅地のすぐ傍での目撃が増えているので、テレビでの報道が増えているのは頷けます。かつて「熊の出没は秋に集中」していたのですが、春や夏にも姿を見せるようになっているようです。また、熊の出没は夜や早朝と決まっていたのが昼間に住宅街に現れるケースも増えているようです。

熊の出没が増えた最大の原因は『人里の荒廃』だと思います。つまり、過疎化や高齢化が進み、かつて人が手を入れていた里山が放置され、その結果、山と人里の境界が曖昧になってきた事によって住宅地や農地が『山の延長』の様になっているのではないかと思っています。地方においては(関ケ原も同じ状況なのですが)人口減少と高齢化により草刈りや間伐が出来なくなって熊の進出が進んできているのではないかとも思っています。

耕作放棄地の問題の他に動物保護みより植物連鎖の崩壊も考えられると思います。それは、かつて日本の山にはオオカミがいて、シカやイノシシの数を抑えていたようなのですが、明治時代にオオカミが絶滅してから天敵がいなくなったのと鉄砲打ちの方が激減した事も大きく影響していると思われます。(ここ40年で鉄砲打ちは4分の1になったとの事です。)自然保護と狩猟制限によってシカイノシシが過剰に増えた事で熊を頂点とした生態系が崩れて熊の餌が減った事も大きな原因の一つだと思われます。餌が減った事によって人間の暮らしの中に入り込んできたのだと言う事なのかと思います。近年の温暖化によって雪も少なくて冬に冬眠をしない熊までいると言うのも困った現象ではありますが現実です。

1990年以降、動物保護や生物多様性の高まりにより春熊駆除制度が廃止、そして2002年の「鳥獣保護法」改正により、春先の一斉駆除は不可能になってからの熊の被害が多くみられ北海道では2023年に条件付きで春期管理捕獲が再開されたとの事。北海道のみならず被害が頻繁におきている現実の中、人への被害をなくすための手立てが必要だと思うので、制度変更を速やかにしていかないと『山菜採り』や『山登り』も出来なくなるのは無しにして貰いたいものです。

『ねんりんピック岐阜2025』の開会式に参加しました。

令和7年10月19日

正式には第37回全国健康福祉祭ぎふ大会「ねんりんピック岐阜2025」の開会式典が長良川競技場で昨日開催され、私にも岐阜県老施協会長としての招待状がきていたので喜んで参加させて頂きました。当日の開会式は10時からの予定でしたが岐阜県老施協の事務局長さんから「恐らく大勢の方が参加されるので、出来たら8時30分までに駐車場に着かれた方が良いと思います。」とのアドバイスを頂いていたので7時には家を出て岐阜県から事前に頂いていた駐車場に向かいました。

これも事前に石川県加賀市での通夜から本部施設に帰って運転をかってくれた吉田副施設長がナビに入れてくれた通りに運転して行ったので順調に行けて8時20分に、入り口で誘導して下さっていた係員の方に駐車券を提示したところスムーズに駐車場に入る事が出来、まだ早かったので楽に駐車出来て、駐車場からの階段を上り会場受付がある所を目指して行くと既に多くの方がリラックスしながらみえて、受付を探しても分からなかった時に『総合案内所』のテントが見えたのでそこを目指して行き招待状を提示しながら受付がどこかと聞くと係員の方がわざわざ受付まで案内して下さり「ここまで徹底した体制を取っているのだ」と感心しました。

受付をしたのが8時35分で受付近くで立っていると関ヶ原町長の西脇さんから声を掛けられお話をしていると老人会長として招待されている本部施設の家族会の吉田会長もみえて3人で立ち話をしていると「9時になりましたので4番或いは5番入り口からご入場下さい。」とのアナウンスが入り吉田会長と共に会場に入りました。この大会は岐阜県内全ての市町村でスポーツを始め、文化やレクリエーションなどが行われるのです。

ちなみに関ヶ原町においては『グランドゴルフ』が実施されます。開会式前に大きな画面に映し出された県内の市町村長さんのコメントが紹介されその間に全国から集まられた選手団の方が続々とグランドに集結され、定刻10時に岐阜放送のアナウンサー二人の進行で始められ最初に江崎岐阜県知事の開会宣言がされ、その後、三笠宮家の彬子さまから「大会を通して健康と福祉に対する理解を深め、参加者同士の友情を育んでいただくことを祈ります」とのお言葉を頂きました。

次に岐阜県選手団長を務める竹内正康さんとインディアカ協議に出場される林豊子さんが「全国の皆さんと笑顔で健康長寿の輪を広げる事を誓います」と選手宣誓が行われてから、炬火が行われ、4日間にわたる祭典が開幕してから夏の甲子園大会でベスト4になった岐阜県立岐阜商業高校の応援団による、甲子園での応援を再現してくれました。総勢1万3000人による開会式典に参加させて頂けた事に感謝しながら、無事に尚且つ盛大に開催されたのは岐阜県民の一人として誇りに思った次第です。

昨夜の久藤先生のお通夜の報告です

昨夜は石川県加賀市での久藤妙子先生の通夜に行き、18時前に駐車場に着いた時には「まだまだこれから」と言う感じだったので、夕食をコンビニのパンとおにぎりで済ますために、吉田副施設長の運転で近くのコンビニに移動して、パンとおにぎりを車の中で食べてから再び斎場に戻ると、既にメインの駐車場には入れない状態だったのですが、吉田副施設長の機転で「玄関先で降ろしたら出ますので」と言うと入る事ができて、駐車場係りの方が親切に誘導して最も近い所に停める事が出来て、車から降りて受付を済ませると焼香の長蛇の列が出来ていて、最後尾に並ぼうとしたら元全国老施協の石川会長から声を掛けられ、近づくと元参議院の園田先生もご一緒だったので私もご一緒させて貰い、メイン会場に入って行くと福祉関係と医療関係のお花が所狭しと並べられていて、改めて久藤先生の交友の広さを理解しました。

焼香前に行った時に久藤先生のお嬢様の赤澤先生から声を掛けられ、改めて記憶力の良さに驚きました。その後、焼香を済ませお棺の中の久藤先生のお顔を見させて頂くと、綺麗にお化粧が施されていて、いつもの様におしゃれな服を着てみえたのには「家族の方の思いが分かるな」と思った次第です。焼香を終えると赤澤先生がわざわざ私たちの所に来て下さり、多くの椅子が用意されている最前列に案内して下さったので、3人が横並びに座らせて貰い、導師に合わせて正信偈も一生懸命に唱えさせて頂きました。お経が終わり導師が退席された後、喪主の長男の奥様から、長男さんの文章を代読された後、赤澤先生からも喪主としてのご挨拶があり、その挨拶は思いの籠った挨拶でした。参加者が退席された後、3人で改めて久藤先生のお顔に手を合わせ退出しようとすると、法人の幹部の方がお見送りに来て下さり、私に対して「若山会長、これからも老施協で頑張って下さいね。」との声掛けをして頂いたのには「重く受け止めなければ」と思った次第です。

その後吉田副施設長が待っている車の方に行き、出口を出ようとすると石川会長が歩いてみえるのが分かったので挨拶をすると、石川会長から「加賀温泉駅まで乗せてくれないか」との事で「車の中がしゃくしゃだ」と言う事で、吉田副施設長が手際よく片付けてくれて、全国老施協事務局の方を含めて3人が何とか乗って頂き、加賀温泉駅まで送る事が出来たのですが、この様な事もあるのでいつも車の中も綺麗にしていかないといけないなと思った次第です。

実は本日も『ねんりんピック岐阜2025』の帰りに、家族会の吉田会長(老人会の会長としてご招待を受けてみえたのです。)をお乗せして「やはり、車の中は綺麗にしておかなければ」と思った次第です。

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