社会福祉法人杉和会の令和6年度指針を作成しました。

令和6年3月17日

3月20日に社会福祉法人杉和会の理事会があるのに合わせて令和6年度の法人の指針を提案しなければいけないので、法人本部のある関ケ原の施設でパソコンに向かい作成しました。本日は指針作りに集中したのでそのままコラムの記事とします。

【コロナ感染症が昨年5月8日に2類から5類になったとは言え、感染症対策を怠る事無くおこなう事により『平安之福』の生活をしっかり堅持すると共に、今年元旦に起きた能登沖の地震を教訓にして防災についても再構築をしてこれまた『平安之福』の生活にしていく。

法人理念を昨年度までの「すべてに優(やさ)しく いつまでも悠(ゆとり)ある やすらぎの邑(ばしょ)を実現します。」から、法人発足時の「すべてに優(やさ)しく いつまでも悠(ゆとり)ある やすらぎの邑(ばしょ)でありたい。」に戻す事により初心の思いを大切にしつつ入居者さん、利用者さん、職員に笑顔溢れる施設の構築に努める事により、地域の方々からより信頼を持って頂ける様に職員一丸で邁進していく。

職員がゆとりを持った対応が出来る為に、国の補助金が確保出来たのでロボット・ICTの導入により業務の省力化を計り余裕の出来た時間を今迄以上に入居者さん、利用者さんとの時間の充実に取り組んでいく。また、3拠点施設の良さをお互いに共有できる仕組み作りに取り組む事により職員同士の切磋琢磨が出来る様にしていきたい。

地域と共に歩む中で今まで以上に地域の思いを法人の特性を生かして活動しく事により、地域の中でより信頼を得ることに邁進していきます。】以上の指針に基づき職員が一丸となり、地域からより信頼される様に理事長を先頭に頑張っていきますので、リピーターの皆さん、温かいご支援を宜しくお願い致します。

岐阜新聞の記事から

【路上の戦後史】の大きな見出しで「『ヤンキー』日本様式に」「リーゼントに学ラン、全国へ」の見出しに興味を持って読ませて頂きました。記事の中では「ヤンキー」「ツッパリ」日本が生んだ最大の若者文化であると断言してあり私は正に私が高校生、大学生の時代の事だったなと思った次第です。

記事を読んでいく中で「『ヤンキー』はアメリカ人の俗称だが、日本の不良少年たちが何故そう呼ばれるようになったのかは定かでない。彼らの登場時期としては、1960年代後半の横須賀の若者たちが元祖との説がある。横須賀には米海軍の基地があり、当時はベトナム戦争に従軍する若い兵士たちも寄港した時に街にでただろうから、路上の日米交流があったかもしれない。」とあり、『ヤンキー』にそんな由来があった事など全く知らなかったと言う事は新聞とは視野を広げるものだと改めて思った次第です。

記事は続きます。「リーゼントやロックンロールは戦後アメリカの不良文化に由来するが、そこにさまざまな要素が加えられ、日本固有の様式へと変化していく。とりわけ70年代に世間を騒がせた暴走族は『特攻服』と呼ばれたツナギ服、労働着、鉢巻などをまとい、旗を持って改造バイクで集団走行すると言うユニークなスタイルを全国に広めた。70年代後半~80年代前半、原宿の歩行者天国では、フィフティーズ・ファッションを身に着けて、ラジカセから流れるロックンロールに合わせて踊る『ローラー』と呼ばれる若者たちが現れている。彼らは暴走族のような危険なことよりも、ストリートで楽しく遊びたい、目立ちたいと言う欲求に素直に従っていた。ホコ天には、より奇抜な服を着てダンスするグループ『竹の子族』も登場している。当時は受験戦争や管理教育が過熱し、若者が校内暴力など反学校行動に走った時期。フィフティーズ・ファッションにはそんな彼らの心情も仮託されていた。」以上の記事を読みながら「高校生の時にはリーゼントの高校生も沢山いたけど私はロン毛で通していたな。学ランの知り合いも沢山いたし短ランの子もいたな。だけど私は全く興味がなかったな。」と懐かしく思ったものです。

そして私が教員を辞し児童養護施設の指導員をしていた頃は中学校も荒れていて、校舎内の廊下を自転車で走り抜ける子だいたなと懐かしく思い出しました。どの時代でも押さえつけると反発する子が出てくるもんだとも思った次第です。色んな事を若者がしてくれるから面白いのだから今の若者ももっと元気でいて欲しいなとわけの分からない事を思った次第です。

介護労働安定センターの賛助会員交流会に参加しました

令和6年3月15日

13時30分からワークプラザ岐阜で交流会に参加しました。参加者は20人だったのですが、それぞれに事業所の責任者が参加されているので、研修会が始まる前に名刺交換をして定刻の13時30分に開会が宣言され、岐阜支部長さんと理事長さんが挨拶されました。その後交流会になり、事務局長さんから「介護報酬改定について」の講演がありました。理事長さんも事務局長さんも東京本部からきて頂く力の入れようであったのには驚くばかりでした。実は事務局長さんは元厚生労働省の審議官であり、事務局長になられる前は全国老施協の事務局で専務として大変お世話になった方なので久しぶりに会えるのを楽しみにしていたし、お話は厚労省とのやり取りを織り交ぜながら軽妙に話されたので楽しく興味を持って聞く事が出来ました。

公演は15時に終了して10分の休憩を挟み、賛助会員を2グループに分けての意見交換会の時間になり、私のグループの進行役は社労士の方がされて順番にそれぞれの意見を発表する形で進行されて行くのですが、異口同音の様に人材確保に困られている状況が理解出来ました。私の順番になり「今後はますます新規学卒者を採用するのは厳しい状況の中、外国人介護者の導入が必要です。確保出来たらそれで良いと言う事では無く、質を上げていく為にアウトソーシングも含めて実施していかなければいけない。

また、給与の見直しをしてモチベーションアップにつながるようにしていかなければいけないと思います。」と意見を言わせて頂くと、色んな方から質問を投げかけられたので、丁寧に答えていきました。終了時間になり、取りまとめの意見を言う事になり、支所長さんから私が指名されたのでコンパクトにお話をさせて頂きました。全てのプログラムが終わり、会員の皆さんに挨拶をすると共に支所長さん、理事長さんに挨拶をしてから、北條事務局長さんに「再開出来るのを楽しみにしています。」と話をして、3階から階段で降りて、車に戻り急いで本部施設に向かいました。と言うのは17時30分に業者さんの打ち合わせを入れてあったからです。17時20分に本部施設に着くと既に業者さんが会議室にみえているのが分かったので急いで会議室に行き1時間あまり打ち合わせをしてから書類の整理とコラムを打ちました。何とか20時までに帰れそうですのでゆっくり湯船に浸かり身体を癒し明日も目一杯の予定が入っているのでしっかり寝ます。

コラム連続掲載の危機

令和6年3月14日

昨日は17時30分から補助金の打ち合わせがあり、コラムも中途半端な状態で打ち合わせ後に書き出すと職員からの相談があったりして、17時30分前に前日移動販売で緊急用に飼っておいたジャムパンを1個ほおばりながらパソコンとにらめっこしながらコラムを打ち終えたのが21時と言う事で我が家での夕食は無しにしてお風呂に入り寝る事にしました。前の夜花粉症の為に連続くしゃみが思いきり7連発。その影響か朝から後背に痛みがあり、時には激痛で息も出来ない状態で・・・。(会議中に激痛が走った時は身体を変に動かす事が出来ず困りました。)とにかく疲れていたので直ぐに眠りにつけましたが午前3時に目が覚めて色々考えていると再び眠る事が出来ず、その時考えていたことの一つが「コラムの連続掲載が出来なくなる。」と言う事だったのです。

と言うのは9時には業者の方と契約更新の打ち合わせがあり、10時からは3施設合同幹部会があり、昼食をとった後は和合に移動して13時30分から多職種連携の会議があり、その後は東京からおみえになるお客様の対応があるのでコラムを書く時間が無いのです。そんな事を考えながらの「9時からコラムを書く時間が無いのであれば9時までに書けば良い。」との結論を出し、再び眠る事にしました。6時過ぎには目覚めたので朝食をとり(昨日は夕方にパン1個だったのに空腹感は有りません。

と言う事は日常が食べ過ぎなのか・・・。)スーツに着替えて本部施設に行きパソコンに向かいコラムを書いています。朝早くには職員からの相談も無く順調にコラムが書けそうなので「コラム連続掲載記録」が挫折する事も無く『危機』は逃れられました。「時間は作るもの」「忙しい人の方が効率よく仕事が出来る。」と自画自賛です。確かにもっと凄い危機があったなと思い出しました。それは名古屋市民病院で網膜剝離と黄斑円孔の手術をした時です。

一晩中下を向いて寝なければいけなくてしかも片目は眼帯をしている状態だったのですがベットの下に穴が空いていて携帯を穴の下で支えながら原稿を打った事を思い出しました。あの状態を考えたら朝少しゆっくりする時間が無かったのだとはなんと言う事もないなと思っています。とにかくリピーターの皆さん、連続更新に拍手をお願いします。

職員確保の充実の為に

合計特殊出生率が1.57になった平成元年の時に『1.57ショック』と言われてからもその数字は一向に改善されるどころか下降の一途である事は周知の事実です。日本の経済成長を支えてきたのは『人口増』により、日本人の購買力が逞しかった事と就労人口が伸びていった事が起因だと思います。そう言う意味では、経済成長も鈍化して、賃金が上がらない中で物価上昇を抑えるデフレスパイラルによって世界経済の中で「アメリカに次いで2位だ」と言っていたのだ先進7か国で一番最後になり、いずれはインドネシアにまで追い越されるとさえ言われている状況の中で今更ではありますが「賃金アップ」を政府が言い出し、大手企業は追随する「労働組合の要求に満額回答」とか「要求以上の回答」とのニュースが景気良く流れているが、「景気の良い中小企業がどれだけあるのか」と思ったり、「介護事業所が給与面で大手企業に肩をならべるには介護報酬をかなりあげて頂かなくてはいけないので、現実的ではない。」と言わざるを得ない。

コロナ感染症対策の一貫で一時は他産業からの(特に飲食業)転職も極一部ではありましたが、昨年の5月8日にコロナ感染症が2類から5類になり、職員採用はますます難しくなっています。就労人口がどんどん減って行く中で、介護職が魅力ある職業にしていく事は大切だと思います。その為の情報発信をする為に来年度に計画している事はホームページのリニューアルで職員採用に力点をおいていきたい。その中で給与面に対して基本給の見直しと共に手当の充実に対する提案に知恵を絞っていきたいと考えています。また、ロボット・ICTの補助金を頂いたので記録に掛ける時間の効率化をはかり、ケアの効率化を図っていきたい。その先進的な情報をホームページ等で発信して学生さんから指示される事によって一人でも二人でも新卒者を採用出来たらと考えています。また、外国人材も多く採用したので外国人向けの日本語力と介護の知識と実践の充実の為にアウトソーシングも含めた対応に力を注ぐ事によって職員の底上げをしていきたい。その為には総力を挙げて現場力高めれる様な方向づけを示していきたい。

宮崎駿さんについての個人的見解です。

令和6年3月12日

宮崎駿さんは1941年1月5日生まれですから満83歳と言う事ですが、ニュースではアメリカで映画の最高峰の栄誉であるアカデミー賞の受賞が決まったとの事で、83歳にしての制作意欲には「素晴らしい」の言葉だけでは言い表せないものがあります。私より1回り(12歳)年上なのですから。私が12年後に現役バリバリでしかも秀でた存在でいられるのかと思うと・・・。心もとないです。

2001年に『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞を受賞されたのが正直絶頂期で、2013年に『風立ちぬ』の作品を制作された時には引退宣言の様に「もう作品は作らない」と言われたと聞いています。それから10年の月日を経て『君たちはどう生きるか』と言う作品を制作され、名当たる方の作品を尻除けての受賞ですから言葉に言い表せないくらいの出来事です。引退宣言を撤回しての受賞と言う事絵宮崎駿さん自身は「一旦引退を表明したものが受賞したからと言って晴れの舞台に出るのはおこがましい。」的な発言があった様に聞いていますが、その話を聞いて私は83歳にして「シャイな方で少年の様な心の持ち主だな。」と思いました。その様な方だからこそ素晴らしい作品が出来るのだと思った次第です。

私も宮崎駿監督の様にいくつになっても頭柔らかく活動できる様に頑張りますので、リピーターの皆さん、これからもよろしくお願いします。

 

赤ちゃんのパフォーマンスには参りました

赤ちゃんのパフォーマンスには参りました

 

午前10時から優・悠・邑 和合で色んな趣向を取り入れて歌や踊りをして下さるのです。そのボランティアは『てるてる座』と言って本部施設では20年近くも来て頂いているのですが、準備の都合もあり、9時20分には来て下さったのですが、その中に座長の娘さんとその子ども(座長にとっては孫)も来て下さったのです。私が玄関を入って行くと丁度1歳になる座長のお孫さんは長くて広い廊下を好きなようにハイハイしているのです。私はその姿を見ただけでメロメロになってしまいました。入居者さんが一堂に集まって楽しんで貰う為に2階の会場で実施して貰うので、私も2階に行くと入居者さんは集まってみえて座長のお孫さんはハイハイしては座り込んで両手を挙げたりするのが可愛くて思わず見とれてしまいました。賑やかな催しが始まっても赤ちゃんは全く動じる事も無く、座長がおんぶして会場に出てきた時もなく事も無く座員としての役割をこなしてくれています。座長の娘さんが歌に合わせてフラダンスを踊って貰っている間も大人しく見ているのには感心するのを通り越して感動でした。

全ての催しを終えて着替えをして貰ってから1階の理事長室で飲み物やお菓子を頂いて貰ったのですが、座長の娘さんの膝に乗っていたのですが、ビニール袋に包まれた煎餅を座長がお孫さんに渡していたのですがどの様に袋を開けたのかは定かでないですが、袋に入った煎餅にかぶりついているのです。下の歯2本がビーバーの様に生えていて、娘さんが煎餅ではなくて玉子ボーロ―を口に入れられるといつもは食べているはずの玉子ボーロを吐き出してしまい、煎餅を食べようとするのが可愛くて愛おしくてたまらなかったです。まだ1歳ですから玉子ボーロの様な薄味のものを食べるのが自然なんでしょうが、人間は味の濃いものを好む傾向があるのだと思います。でも早かったかな・・・。煎餅の様なものに目覚めさせるのは。でも1歳くらいの赤ちゃんの仕草は何をしても可愛いものだとしみじみ思いました。

飲み物やお菓子を食べて貰いながらの談笑の時間を終えて玄関先でお見送りをする為に玄関先にいたら、座長の娘さんが「抱っこして下さいますか。」と言うので「喜んで」とばかりに手を差し伸べると赤ちゃんは私の腕の中で大人しくしていてくれたので益々愛おしくなっている時に座長から「知らない人に抱かれると直ぐに泣くのに理事長さんは大丈夫なのは不思議です。」といわれたので益々嬉しくなりました。そして、座長から「大きくなった時に理事長さんに抱っこして貰ったと話が出来ますね。」と言われたのは本当に幸せな時間になりました。

リピーターの皆さん、一生懸命な毎日の中でのご褒美だと思うのですが・・・。

週刊現代の没後40年の有吉佐和子さんの特集から

令和6年3月10日

【1931年生まれで、25歳の時に芥川賞候補となった『地唄』で文壇デビュー。「才女」と注目を浴びてテレビ出演など慌ただしい日々を送ったが、母親から「あなたが何を書いたというのか」と叱られて一念発起。作家として本腰を入れるために、自らの家系をモデルにした『紀ノ川』を発表。これが出世作となり、作家としての地位を確立していく。】との紹介があったのですが、私は最後のページに自筆で書かれた文章が凄く気になった言葉であったので紹介すると共に、私の考え方を書く事にします。

〈けわしい道と知らずに歩き出し、けわしい道と知っても歩き続ける。それが多分、人生なのだろう。〉有吉佐和子さんは作家として生きていく事を最初から志されたのでは無かったのだと思います。極端な書き方をするなら「何となく書けた作品が芥川賞候補となり、「若き女流作家」ともてはやされていたのを母親から戒められてから腹を括って作家の道を全うされたのだと思います。人生にはどこかで有頂天になり、そこから抜け出せないでいる方も多いと思うのですが(私にも心当たりがあります。)有吉佐和子さんには素敵な母親の存在があり、そこで覚悟を決めて全うされたのは素晴らしいと思います。人生には何度か分岐点があるのだと思います。そんな中で大きな柱からズレ無いで走り続ける人生はなかなかないのではないでしょうか。

そう言う意味では、私も色んな意味で分岐点がありましたが、その都度支援して下さる方や助言をして下さる方がみえて、今の事業を全う出来ているのだと思います。そして、自分がやって来た事を信じて頑張って行く事が肝要だとも思っています。

本日は和合で午前中は3階でお参りを、午後は1階でカラオケをさせて頂いたのですが、回数を重ねる毎に温かく迎えて下さるので有難いと思っています。それぞれの職員が自分の特技や趣味を生かしてアクションを起こしていく事によって『集団のダイナミックス』が起きる。それは、文字通り『多職種連携』『他職種連携』と言う事だと思います。これからも自分を信じて頑張って行きますのでリピーターの皆さん、よろしくお願いいたします。

一つひとつ

令和6年3月9日

本日もスマホの話からです。正直私はスマホの操作は出来ないので私のスマホを預けて職員に簡単に出来る様にして貰っていて、昨日からメールの着信の確認が出来る様になりました。返信メールについては、たまたま出来たり出来なかったりなので自信を持って出来るまでには至っていません。携帯の着信についてはまだまだ焦って取る為か上手くつながらなくて掛け直しているのが現実です。但し、こちらから掛ける事は少し自信を持って出来る様になってきました。

中途半端にスマホをなぶっているためか、アラームのセットを8時30分にしたのを解除できず、それどころかアラームが鳴っても止める事すら出来ません。「スマホは便利なもの」のはずですから今後、スケジュール管理やコラムの送信も出来る様にして、かっこよく情報を手に入れる様にもなりたいです。私のスマホの操作も日進月歩で出来る様に努力していき決して『昭和おじさん』と揶揄されない様にしたいと考えています。

カウントダウンの様な気温の下がり方に感動です。

午前中に和合の2階でお参りを終えて、管内のトイレの排水が悪いと言う事で道具を持って確認に行くと、何とか流れる様になったのでその後、本部施設に移動しました。和合の施設では温かくてジャンバーを脱いでいたのです。

そして車に乗った時は温かくて車内の温度を確認すると『8℃』だったので、思わずエアコンの温度設定を『19℃』にして運転していたのです。そして、垂井地内に入ると雪がちらついてきて、車内の温度が下がってきたように感じたので車内の温度計を見ると『5℃』に下がっていたので「雪がちらついているから仕方がないな。」と思いつつ西に向けて更に進んでいくと見事に4℃』『3℃』『2℃』『1℃』と気温がまるでカウントダウンする様に下がって行き、今須地内に入ると『0℃』になったのには思わず絶句です。

今は13時40分で本部施設の事務所の窓越しに外を見ると吹雪で、公用車の上には雪が積もっています。和合と本部では道路上の距離は23キロなのですが気温の差がこれほどにあるとすると、『住めば都』とは言え、愕然としてしまいます。リピーターの皆さんはこの現象をどの様に思われますか。

和合1階のお参りで初めての四国遍路でのお話をしました。

午前10時30分から和合1階の入居者さん・利用者さんとでお参りをしました。最初に正信偈を唱えさせて頂いたのですが大垣エリアは東本願寺(一般的に「お東」と言います。)門徒が多いのか私のお経にしっかりついてきて下さいました。と言うより助けて貰っています。御文さんも一緒に多くの方が大きな声であげて唱えて下さいます。

そんな中で、本日発見した事があります。それは、私がカラオケに入った時にはいつも眠そうにされている入居者さんがおみえになるのですがお経の時には数珠をしっかり手に持ちしっかりと口が動いているのです。しかも姿勢もシャンとされているのです。その姿を見た時にその入居者さんから「カラオケは興味がないけどお経は頑張るよ。」と言う事です。つまり、『人それぞれに興味がある事は違う。』と言う事を教えて頂きました。十人が十人興味を持って貰う事など無理ですから、興味のない方のフォローは他の職員(今は実習生のいます。)にして貰えればと思っています。

正信偈と御文さんのあと四国遍路で覚えた般若心経を中心にしたお経を唱えさせて貰うのですが本日は何故か四国遍路に初めて参加させて貰った時の事を思い出しながらお経を唱えていたので、お経さんを終えた後の話は初めての四国遍路であった事をお話しました。ひょっとしたらかつてのコラムで書いた事かも知れませんが本日お話をした事としてこのコラムで書かせて頂きます。

それは53年前の出来事です。私が高校2年生の夏休みに生母秋江のお姉さんの旦那さん、つまり伯父さんに当たる熊の様にガタイが大きい鉄砲打ちの方が先達での団体にご一緒させて頂いた時に船底で四国に渡り高徳線で夜中に『坂東』と言う小さな駅で降りて、60人程度の団体ですので青年会の方が点呼をしている時に先達である伯父さんに呼ばれて「団体の最後尾を歩け」と言われたので、何の事かはわからないままに先達の伯父さんの指示に従う事にしました。歩き出して暫くして分かったのですが、小学生から77歳の女性までの60人からの団体ですから団体のペースで歩ける方ばかりではないわけです。事実30分も歩くと77歳の女性が少しずつ遅れられました。当然の事ながら私は最後尾を歩く様に伯父さんに言われているのでその女性と一緒に歩く事になるのですが・・・。まさかその女性をおんぶして本体に追いつくわけにも行かず、一緒に歩きながら「どうしたら少しでも楽に歩けるか」と言う事を考えながら歩いていて「女性が背中に背負っているリュックサックを私が持てば少しは楽になるのでは」と思い女性に声を掛けると「そんな勿体ない事は出来ません。」と2度は断られたのですが3度目にリュックサックを渡しに委ねて下さいました。その時に学んだのは「高齢者の方の中には遠慮される方がある。」と言う事です。

その時の教えは今、特別養護老人ホームで仕事をさせて頂いている中で役に立っています。四国遍路では多くの学びがありましたので機会があればまた書く事にします。

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