夏祭りは雨の中でしたが、大成功でした

夏祭り当日(8月9日)は朝から雨模様でしたので、ボランティアとして駆け付けてくださった方が、大きなブルーシートを屋根のところから石垣の所のフェンスまで覆い被すようにしてくださり、安心して遊んで頂けるようにしていただき「ありがたいな」と思いました。事前の準備も北島行事委員長を中心に、昨年と比較すると雲泥の差があるくらいに職員の協力もよく、その一つの現象として職員がそれぞれにかいたポスターの出来に表れていたと思います。参加していただいたかたがたは基本的には、入居者とその家族は施設内で地域の方は外で楽しんでいただけるようにして、日本舞踊あり三味線の演奏ありベンチャーズサウンドの生演奏ありプロの演歌歌手である砂田おさむによる歌がありと、イベントも盛り沢山で模擬店もやきそば とうもろこし焼き ねぎま うどん 助六 おでん クレープ フランクフルト かき氷 ビール ジュース 生ビール等々、輪投げ 金魚すくい スーパーボールすくい ぺん立て作り等々があり、雨をもろともせず、ほたるの光がなるまで、しっかり参加して下さいました。
来年もより良い企画をしていきますので、宜しくお願いします

いよいよ夏祭りまでのカウントダウン

3日4日と東海北陸ブロック研修富山大会に参加し、引き続きで今日明日(5日6日)と東京で行われる全国老施協主催の栄養ケアマネジメント研修の責任者として出掛けます。(今は列車で移動中)実は昨日は富山の大会が一時前に終了し急ぎ車で250キロ施設に着いて2日間の報告を聞いてたら17時30分になり、予定通り幹部会を開催。いつものように、リーダー、主任それぞれの提案を聞き、副施設長からの指導の後、私が総括と今後の戦略を話しして終了したのが20時30分。今日は羽島を8時44分に乗ったのですが、その前にかつての入居者さんが昨日亡くなったと病院から連絡をいただいていたので、本来であれば通夜、本葬に参列させていただくのですが出張のため行けないので、羽島に行く前に焼香とお詫びにいかせて頂きました。列車の中でホッと一息ついてよーく考えてみたら夏祭りまでのカウントダウンが始まっているのです。でも、施設までの道路には夏祭りを知らせる看板やポスターが掲示されており、幹部会を事務所内で行っているとホールでは、盆踊りの練習をしていての笑い声がしているし、本当にありがたいとつくづく思っています。ひょっとしたら、私の役割は9日当日の天気を良くなるように祈る事と、トラブルもなく、皆さんが楽しんでいただくように祈ることなのかな。本当にありがたい。感謝、感謝!

業務量調査を受けることにしました。

全国老人福祉施設協議会における調査研究を担っている老施協総研からデイサービスにおける業務量調査の依頼を受けました。まだまだ、当法人内のデイサービスは不充分性を多く持っていることはわかっていますが、あえて受けさせていただきました。何故受けたかと言う事を職員に話ししたことをレポートします。「私は、大学を卒業し小学校の教師になり6月に校内研で授業を見ていただいたのですが自分で言うのも変なのですが、最悪の状態で、校長先生からのコメントは、授業の流れをしっかり作り、板書についても思い付きのようなものでは行けない。ただ1つ救われるのは、教室の子ども達みんなが先生頑張れ頑張れと応援していたのは良かったと言うものでした。そして校内研の次の日からは毎日、校長先生が廊下の窓越しに見に来られていました。私自身このままではいけないと一生懸命に事前学習をしていくようになり9月に行われた教育事務所の指導監がみえての研究授業では自分で言うのも変ですが頑張って出来ました。すると次の日からの校長先生の窓越しの指導は無くなりました。調査が入り体裁を繕う為に何かをしろと言う事ではないが1つのチャンスと捉えて頑張る事が結果的に利用者さんにとっても素晴らしい提供が出来るものとなると思うので受けて行きたい」と話ししました。今後、職員一人ひとりが利用者さんへの対応に対して、今の言葉掛けでいいのか、利用者さん一人ひとりの思いにかなっているのかを振り返り、利用者さんの立場に立った考え方になれはいいのだけれどと思っています。

6月22日付けの英語が嫌いになったもう1つの理由

中学に入学し、英語を習い始めたスタートダッシュの3日間は目を見張るものがあったのですが・・・・。先般書いた体たらくともう1つの方の嫌いになった理由は、(かなり強引な理由ですが)中学校に入学した当初は、アルファベットの練習であったり簡単な英文であったりとゆったりとしたものであったように思います。
そうこうしているうちにゴールデンウィークになり勉強もしないで遊んでばかりだったのに、連休最後の日にお腹が痛くなり、病院に連れて行ってもらったら、腸捻転で手術する事になり入院・・・。退院し久しぶりに登校し、英語の授業を受けてビックリ。英語の先生が何を言ってみえるのか「全くわかりません」。私の不幸はその時の英語の先生が、優秀な生徒に力が入るタイプの先生で、クラス中で寂しい思いをしたことを覚えています。
その頃の私は、そんな状況に反発することも出来ずボーっとしていてますます英語が嫌いになってしまったしだいです。
先般、全体会があった時にも、こんな話をしました。「私が思う優秀な先生は、優秀な生徒に向けた内容と、ごく普通の生徒に向けた内容と、優秀でない生徒に向けた内容とを上手に振り分けて教えて下さる先生だと思います」と。

地元の今須中学校の一年生に話をしてきました

7月2日に今須中学校の一年生の生徒が当施設において入居者さんと一日交流することになっていて、その前段として、6月26日に41年前に卒業した学校でたっぷり2時間講演してきました。演題については生徒さんが4月から「福祉の時間」で当施設の事を調べられ、疑問に思われた事を質問の形でまとめられたものに対して答える形で話しさせてもらいました。質問内容はそれぞれに的確なもので一生懸命に勉強されたことがよく分かりました。講演の後、担任の先生からは「心の思いを語っていただき、生徒にとっても心に響く話しで良かったです。」と言われほっとしてます。
講演を聞いて、福祉に興味を持っていただいた生徒さんの中から一人でも二人でも福祉の仕事についていただければ最高なんですが・・・・・。

中学時代パート1

中学に入学し新しい科目で英語が入ってきます。
その当時、仲が良かった私を入れた三人がそれぞれに、その当時安かった藁半紙を一しめずつ買って、一枚ずつ毎日その紙が真っ黒になるまで英語の単語を書いて練習する事にしたのです。三人の中で決めたこと、最初の3日間は確かに手が真っ黒になるまで書いて夢中になれたのですが、あまりカリカリ勉強したことがなかった私が一番にリタイアしてしまいました。その一番の理由は(理由ではなく弁解かな)指にマメができて鉛筆が持てなかったからです。何故こんなにすぐにマメができたかと言えば、今は理解できる事なのですが正しい鉛筆の持ち方が出来ていなかったから…。鉛筆どころかお箸もちゃんとした持ち方が出来ない。何故なら小さい頃から体が弱かった私は生きるのに精一杯で正しい鉛筆の持ち方や正しいお箸の持ち方は二の次三の次だったからです。お陰で、今も英語は苦手ですが、英語が苦手になったのはもう1つ理由がありますがそのことは次回に話をしたいと思います。職員達に継続は力なりと言っているわりには中学までの私はまるでだめ人間だったようです。

雑感パート2(普通では経験できない小さい頃の話)

前回の雑感で体が弱かったことは書きましたが、今回はどれほど弱かったかを具体的に書きます。私が生まれた頃私の家から200メーターも離れていない所に診療所があって本多先生と言う女医さんが見えました。すぐに高熱を出す私が小学校入学前に、学校へ行くのを一年遅らせたらどうかと言う話もあったそうです。母親はそんな事は忍びないと言って通常通り入学しました。その当時の母親は、学校に疾風を巻き起こしてばかりだったようです。例えば入学早々に遠足があったのですが、自分の息子の体力を信じられない母親は近所の同級生の母親を付き従えて、遠足本体の後ろからリヤカーを引いてついてきたり、冬のシーズンになると私の手と足はしもやけの為に手は肘のあたりまで、足は膝のあたりまでボンボンに腫れて、歩く事も鉛筆を持つ事も出来ない状態だったのを今でも覚えています。そんな私の為に母親は、その当時あっただるまストーブの柵を全学年に寄付をし、その代わりに息子である私の教室での席をだるまストーブの真ん前にするようにし、尚且つ、豆炭アンカに足が入るような袋を作り、それも学校へ持って行って良い許可までとりつけて、靴も足がボンボンで履けない私を中学に通っていた姉におんぶさせて登校する許可まで取り付けたのです。当時の私は何の疑問も持たず学校に行き、目の前の真っ赤に燃えているだるまストーブと豆炭アンカで熱くて熱くて、一日中ぼーっとしていて何の勉強をしているかもわからない状態で…。でも今母親の思いを図りしろうとするなら、多分カラダの弱い息子の為に母親ができることは何かと言う事を一生懸命考え行動に移したのだと思います。
今、介護の仕事に携わらせていただいているわけですが入居者さん利用者さんに対して何をして差し上げたら良いのかを考える方向性を母親が示してくれたのだと思うと、小さい頃体が弱かったのも今の自分を作り上げるのにも必要な期間だったのかも知れないと思います。
人生に無駄なし、全ての出来事に感謝!! 少し格好良すぎかな!?

雑感パート1

色んな方からよく「どうして休みなく仕事が出来るの」と聞かれます。私はそんなときに必ずこう答えます。
「私の父親から聞いた話しなのですが、私は生後百日目位の時に心臓が止まって、母親が泣きながら私の唇に水を付けていてその後どういう加減か解らないが息を吹き返して、それからも、度々高い熱を出して、我が家の縁の下には酸素ボンベがいつも置いてあったと言うことです。だから、生きているかぎり生かされていると思うと人の為に頑張りたいと考えています。」と。
少し格好良すぎのようにも思いますがこれが私の思いであることは間違いありません。私の母親は私が中1の時に他界しました。その母は私に対して、文字通り目の中にいれても痛くないような育て方だったので、仲良くしている姉からはその頃の話になると今も嫉妬されます・・・。
そんな母親が私に残してくれた言葉があります。

それは・・・。
「蒔かん種は生えない」
と言う言葉です。確かに私の母親は養子娘でわがままで気前がよくて親分肌で。そんな母親を父親はこよなく愛していたように思います。母親の言葉を今、実践したことが私の人生にとって大きく影響し、今正にそのことに感謝し、改めて母親の大きな懐で生かされていると思うと“感謝”“感激”“感激”です。

インドネシアに行ってきました。

インドネシアから来年、介護の現場に来てくれる候補者の若者達と面談するためにインドネシアへ行ってきました。ズバリの第一印象は久しぶりに目の輝きの素敵な若者達を見たなという事です。自分で言うのも変ですが30年前の自分とダブらせてしまいました。強い志をもって飛行機で8時間以上かかる所に来て、仕事をしながら勉強しようとされているわけだから、当然と言えば当然なのかもしれませんが感動しました。この若者たちが日本に来て、一生懸命さと優しさで仕事をされたら現在いる職員たちも含めて取り仕切られてしまうかもしれないなと言う感じさえしました。今は日本に行きたいと言う一念で日本の勉強をされているということですが、自己紹介を兼ねて名前を書いてもらったら、何とカタカナで書いてくれたのには驚きと同時に感動を覚えました。会話についても、一生懸命に日本語で応えようとしている姿には感銘しました。日本は不景気で就職先を探している方はいっぱいみえる割には人材不足が解消されていない今、頑張りたいと言うインドネシアの若者が大勢いることに日本の現実に違和感すら覚えたのは私だけではなかったと思います。

7時発の新幹線に乗りました。

昨日17時から全国老人福祉施設協議会在宅委員会が主催している作業委員会が行われ遅くなりましたので泊まらせて頂いたのですが午前中に施設での打ち合わせを入れておいたので6時に起き今は列車の中です。
さて、昨夜の作業委員会の事を考えると、いつもの事ながら作業委員会に出てくる若手のメンバーはよく勉強していると、改めて自分の不勉強さを反省すると同時に当法人の施設職員は大丈夫かなと不安になります。このブログを法人内の職員も見ていることを意識してのメッセージなのですが!?
改めて、井の中の蛙にならないように、自戒と叱咤激励のために。いつまでも、やればできると言う段階で足踏みしないように…。

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