平成31年3月3日
以前から何度も言っていることですが、私は教員を辞し半年間の父親からの勘当(本当のところはわかりませんが)の後26歳から38歳までの13年間養護施設(今は児童養護施設と言います)の指導員をさせて頂き、福祉のイロハを学ばせて頂いたので私の福祉の原点は養護施設にあると今でも思っているのですが、私が26歳で飛び込んだ時の(昭和54年)当時の高校進学率が全国平均95%以上の状況の中で養護施設の進学率は30%を超える位の現状で私は岐阜県初の学習担当指導員として、子ども達の学習力を付ける為に心血を注ぎました。心血を注ごうと決意したのは、2年目の卒業生の7名中6名を進学させ、その子達は立派に卒業して社会に送り出す事が出来たのですが、残り1人の男子は残念ながら、進学が出来ず名古屋市内にある社員寮もある会社に就職しました。
その子が5月のゴールデンウィークに里帰りのように施設に帰って来ました。そして、かつての同級生の部屋で泊り施設の子と一緒に長島スパーランドに遊びに行ったり、レストランへ食事に行ったりと楽しい時間を過ごしていたと思っていたのですが、進学した子達は、部活動の話や新しく出来た友達の話をしている中で、就職したその子は毎日毎日仕事と社員寮との行き帰りだけ。そのことに矛盾を感じたのか、ゴールデンウイークが終わり最寄りの駅まで送り社員寮に帰ったものと思っていた3日後に名古屋の警察署から保護した旨の連絡を頂いてからの彼は、仕事にも力が入らず反社会的な生き方しか出来ていないのです。何度か何度か対応はしたのですが良くなることは出来ず、今は消息も分かりません。
この時私は思いました。申し訳ないが彼を再生させることが出来なくて彼の重しを背負う事は出来ない。だったら私に出来る事は何だと考えた時『第二』『第三』の就職者を出さないことだと決意をして、夜遅くまで「マンツーマン特訓」と銘打って学習指導をしてきました。頑張って努力させても公立高校への進学が叶わない子には私立高校への門戸も開拓しました。そして私が在籍していた残りの11年間は全員進学させました。(ただし、今は私立への門戸を開拓したことにより施設の指導者が安直に進学をさせて中途退学しているのではないかと心痛めています。)(実態も知らずに勝手な事を言ってすみません。)
養護施設にいた35歳の時に厚労省児童家庭局の企画でスポンサーが資生堂の海外研修に行かせて頂き、アメリカの児童施設事情を垣間見て、アメリカの5年後に日本に訪れるのではないかと考え、「施設の指導員は私でなくてもしてくれる方は出てくるが、個別指導に生きるのは私しかいない」等と大いなる勘違いをして38歳の時に養護施設を辞し、紆余曲折の末に今は老人の世界で生きているのですが(どういう経過でそうなったかについては機会があればこのコラムで書きます。)社会福祉法人を設立して22年、特養が出来て21年が経過した今、職員も150人になり、職員寮も20室ある今だからこそ、職親となり、児童養護施設の卒園生で仕事に就けず困っている子を一人でも二人でも頑張れる子に出来たらと思っていました。
私自身岐阜県子ども家庭課に5年程前から提案してきた事が今正に形になったのだから、「職親サポーター企業」としてお役に立てればと考えています。当法人の本部施設には昨年中卒を採用して職員寮で生活しながら頑張っている男子もいます。介護は『誰でもが出来るが、誰もが出来ない職種』だったらどんな人がエントリーして貰えるかと言えば、『優しくて一生懸命な人』と言う事です。職場体験からでも大丈夫だし、住む所は敷金礼金なしで大丈夫です「優しくて一生懸命な方」お待ちしてます。