児童養護施設の13年間での思いを語ります
令和2年3月18日
児童養護施設の就職が決まり、徳山村での『勘当生活』が解かれた私は、再び家からの通勤となったのですが、片道26㎞の通勤は色々な意味で気分転換になりました。
勤めだした頃の私は意外な形での勘当の幕切れだったのですが、「わざわざ徳山村まで来て頂いた方への礼儀として、年度内の翌年の3月までは勤めなければ」等と生意気な考え方でいたのです。どうしてかと言うと私自身『福祉』の『ふ』の字も知らないし、自分が積極的に望んで飛び込んだわけではないからです。しかしながら、児童養護施設には、学校のように文部省の指導要領のようなものは無いし、男性職員は理事長である禅宗の高僧とその息子さんと末寺を任されている男性指導員の私を入れても四人のみで、他の方は保育士さんや厨房のスタッフで女性ばかり。
私は小学、中学、高校の教員資格があるのでと言うことで14時から22時までの勤務時間で出勤して、挨拶に行くと職員がみんなでお茶タイムをされていて、私はお客様のような扱いで保母さん達がお茶やお菓子を運んでくれて・・・。『まるでハーレム』。15時過ぎから帰ってくる小学生が持ち場の掃除をして、おやつを食べた子から順次(3年生以上)児童館で宿題と本読み程度を見て、夕食前までに小学生の勉強を終えて食堂に行くと既に中学生が準備してくれている夕食を全員で合掌をしてから頂き、夕食が終わっての再び合唱したら私は児童館にて中学生が勉強に来るのを待っている。流石に中学生は小学生のように最初からすんなりと受け入れてくれなくてその当時13人いた中学生の座っているところをまるで熊のように(その当時は体重が50㎏位だったから野良犬位だったかも)机間 をうろうろしているだけで、22時前になると理事長の息子さん(主任指導員)が「若山先生、今日はこの位でありがとうございました。」と言われて児童館の玄関の鍵をしてから私の車を見送って頂く、まるで家庭教師の先生のような扱いに戸惑いながらも「まっいいか」で1週間が過ぎたら、児童館の鍵を新たに作って頂きお見送りの対応は1週間のみ・・・。(当たり前か)
私が児童養護施設に就職した年は『国際児童年』と言う事で、どの施設もイベントをそれぞれの施設ですることになっていて、2週間目からは午前中から来て、看板作りをしたりしている内に、子ども達との接点も密になり、子ども達の家族環境等の背景も少しずつわかってくると、子ども達の学習指導にも力が入り、私自身の学習能力と指導力の無さに気が付きました。普通はここで自分の限界に気が付き逃げ出すのでしょうが私は子ども達と共に成長したいと思い、かつて神戸北小の同僚の先生に「恥ずかしながら」と当たって砕けてもの覚悟で教えを乞い、納得がいくまで指導を仰ぎ『むてかつの指導者』と頑張りました。
正直この時の約半年の期間程勉強した時期はなかったと思います。もともと勉強が苦手な私は、前日に自分が学んだ事を教えるのだから、子ども達の『解らない所が解る』カリスマ的な指導者に子ども達がしてくれたと言っても過言ではありません。自分でそれぞれの子ども達に理解して欲しい事を把握して手作りのプリントを作成しました。子ども達は「私の為に、(僕たちの)為にプリントを作成してくれた。」と言う事で一生懸命に取り組んでくれました。但し、施設に入所する前の家庭状況では、勉強をする事の意義を見出だせない子が殆どで端的な言い方をすれば『学習遅滞児』が多かったです。しかしながら、親の支援を受けれない子ばかりなので、私は子ども自身に『強さ』とか『強み』を持たなければいけないと考え、勤めて2年目からは『高校全員合格』を焦点化する目標を立てて、時には阿修羅のように、時には蒸気機関車のように湯気を出した指導もしました。
しかしながら有り難かったのは子ども達が本当に良く付いてきてくれた事により、私がいた2年目からは高校全入と大学、短大、専門学校に進学して立派になってくれています。勿論、せっかく苦労して高校進学しても中には中退した子もいて、心痛めている事も事実です。今は児童福祉から高齢者福祉の世界にいますから児童福祉の事を語る資格はありませんが、私の児童に対する思いは、社会に適合出来なかった子を当法人には敷地内にアパートもあり、食事の提供もできるので一人でも二人でも杉和会に飛び込んでくれたらと思うのですがリピーターの皆さんは私の今の考え方に対してどのようにお考えになるかご意見を頂ければ嬉しいです。
✳久し振りの東京出張で、新幹線の往復でコラムを書いたのですが、東京の状況は新型コロナウイルスの影響でしょう。東京で降りる時は降りた車両では10人程で、丸の内まで歩く途中の蕎麦屋さんはいつもは一杯で表まで並ばれるのに13時過ぎでもがらがらでした。