古き良き時代の甘えん坊。その名はヒロシ君
令和元年10月20日
虚弱な私が小学校に入学して1年生から3年生までの担任の先生は塚原先生と言う女性の先生で甘えん坊のヒロシ君はその当時は日曜日にも『日直』のシステムがあり、塚原先生が日直だとわかると私の母親秋江さんに塚原先生とヒロシ君の二人では食べきれないくらいの食べ物を作ってくれて1日中塚原先生の近くにいてにこにこしていたように記憶してます。塚原先生は結構わがままな先生でその当時の学校給食に出てくる脱脂粉乳がお嫌いで飲まれないのを知っていて私は好きでもないのに塚原先生に褒められたい一心で塚原先生の分まで飲んだ記憶があります。こんな対応の仕方を小さい頃からしていたからでしょうか、相手の身になって自己犠牲ができるようになったのかとも思います。(つまり、アクションに無駄なし)塚原先生とは中学校を卒業して大学を卒業するまでは結構接点を持っていたのですがそれ以降は年賀状のやり取りくらいだったのですが、私が今の事業を始めて3年ほど経過した頃に塚原先生が住まわれている近江長岡での老人会の記念講演に講師として呼ばれた時に塚原先生も講演を聞きに来られていて、わざわざ控え室に来て下さり「宏君が高齢者施設で頑張っている事は聞いていて、あのひ弱だった『ひろっちゃん』が凄い事してるんやと嬉しく思っていたんやよ」とお声を掛けて頂いたのはとても嬉しかったのを覚えています。その後はお会いすることもなかったのですが、10年程前に塚原先生の妹をなのる女性から『姉が闘病生活をしていて、妹である自分が介護をするのにも限界があり、介護事業をしている私にアドバイス等を頂きたい』との主旨の手紙を貰い、次の日には入院先の病院に行きました。そこで、塚原先生から「妹に付き添いをして貰っているがずっとは出来ないのでなるべく早くに家政婦さんを頼みたいが何とか探して貰えないか」との事だったので、施設に帰り直ぐに関係する所に連絡してなるべく早くとの私の意向を受けて翌日に病院に行って頂く手際よさで対応して貰ったのですが、わざわざ大垣から長浜まで出向いて貰ったにも関わらず「まだ大丈夫」と返事されたと依頼した事業所から連絡を貰い、またまた直ぐに病院に駆け付け「そんなに都合良く手配していただけないのを無理して都合をつけて来ていただいた方を断るのは考えられない。私も面倒見切れません。」と言ったきりになっていて、ある時看護師の面接に来た塚原先生の住所近くだった方に動向を確認すると塚原先生は既に亡くなっていると聞き、酷いことを言ったきりになっていてそのままにしておいた事を悔やみその日の夜に先生のご自宅に訪問すると妹さんがたまたま家にみえてお線香と共にお経をあげさせて頂きました。頼られていながら中途半端な対応しか出来なかった出来の悪い私でしたが月に1度しか通って来られない妹さんによって家に入る事が出来たのは塚原先生も私にお経をあげさせお許しを頂けたのかと勝手な解釈をしているのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。