昨日は姉光子さんの命日でした
令和2年4月8日
丸々50年前の4月7日が姉光子が急逝した日。姉光子さんには、私が小学3年生頃から実質的な母親替わりで、私より6歳年上の高校1年生だったのですが今から考えると姉光子さんは高校1年生にしてはしっかりしていたと思います。甘えてばかりの私の強敵であった直ぐ上の姉春子さん(とは言え4学年上ですが)の恐怖から私を守っていてくれたし(✳お断りしておきますが今の春子さんは決して、そんな春子さんではありませんよ)先日も書きましたが私がピンチの時も助け船を出してくれたし。(ラケット事件)
私が高校1年生になり姉光子が10月に嫁いで行ったのはめっちゃ悲しかったけど、私が高校を終えて関ヶ原駅で降りるのを待っていて、お小遣いを渡してくれたり・・・。(いやいや私が意図的に姉光子の時間に合わせていたのかも)でも、最高の感謝は私が高校に入ってからお嫁に行くまでの半年間は毎日お弁当を持たせてくれて、その中に必ず玉子焼きが入っていたのですが、その玉子焼きは正に絶品だったと正直このコラムを打ちながら涙を一杯ためながら思い出しています。(✳春子さんが姉光子さんがお嫁に行ってからはお弁当を作ってくれてましたので、感謝してますよ。おいおいついでのように書くな。またまた春子さんに怒られるやろ。いやいや今の春子さんは決して怒りませんから。)
昨日は姉春子さんと共に父進、母秋江、養母英子が眠る墓参りに行き、その後、姉光子さんが眠る姉光子の嫁ぎ先のお墓に行きました。勿論メインは姉光子さんが眠る墓参りだったのですが。一言で50年前とは言え、言い尽くせないものを感じながら朝5時からこのメールを打ってます。姉光子が50年前のままで、今現れたら今の私を見てびっくりするだろうな。先ずは私の体型に・・・。だって、高校生の時には既に身長は160㎝でストップしていて、その頃の体重は40㎏を少し越えた位だったので・・・。(と言うことは倍の体型だから縫いぐるみを着ているようなものか)そして、話をしだしたら自信を持った話し方をするし、まさかまさか私が社会福祉法人の理事長として施設経営をしているとは・・・。でも、驚く事はないか。だって、母秋江さんと共に天国から支えてくれたわけだし、私が38歳からは父進と3人で、私の無鉄砲な生き方を支援してくれていたのだから。
私は時々自分で話をしながら、自分が話をしている自分に驚くと言うより感心してしまう事があります。その最たるものが、入学式でPTA会長として朦朧としてでも何とか話をした事だし、講演をした時のビデオ等を見て自分で良くこんな内容で話が出来たなと思ったり、厳しい状況にさらされながらも堂々と話をしている時、頭の後ろからささやいてくれる誰かがいるのではないかと思う事があるものですから。(大阪吉兆のバカボンのような事ではないですが)私が今あるのは『運』では片付けられないものがあります。『運も実力の内』との考え方もありますが、『もし、あの時にあの支援がなければ』とか『あの時にあの方との出会いがなければ』と言う事があります。立ち上げの資金繰りにしても綱渡りだったけど何とかなったし。しかしながら『自転車操業』などと言う半端なものでは無くて資金が入る先が見えない中での文字通りの綱渡りだったので、今から考えてもぞっとするような状況でしたが、そう言う意味では奇跡を天国の3人が起こしてくれていたのかも知れません。
ところで私にとって唯一の姉になった春子さんですが、姉光子が急逝してからは、若山家の長子としての自覚が出来たのか、父を支える存在になり、私が38歳になりフリーになり無納税者の生活の時には色々な面でサポートしてくれ、春子さんの子ども達から(私にとっては甥っ子、姪っ子)は、「本当に仲の良い兄弟やね」と言われると、姉春子さんは必ず無気になって「当たり前やがな。二人だけの兄弟なんやから」との答えが返ってきます。春子さんが丸くなると共に二人だけの姉弟だからこそ、お互いに助け合うのは当たり前になり、私も年齢と経験を積む中から姉春子さんに迷惑をかけるだけでなく、頼りにして貰える事も多くなってきたように思っています。しかしながら、4学年も上の姉が「あんたのお兄さん頑張っとるね」と言われて喜ぶのは止めて下さいね。リピーターの皆さん。姉光子の話から春子さんの話になってしまい申し訳ありませんでしたが、姉弟がお互いに支えあっている事を言いたかったので、そのところを宜しく。と言うことで・・・。





