暑いです

令和元年8月17日

昨日、10日間の入院生活から解放され、夕方に本部施設で幹部会があり施設から迎えに来て貰い会議に参加した時にはそれ程感じなかったのですが、本日は久さしぶりに自分の運転で施設に行こうとして家から出て「暑い」を痛感しました。

本日は14時から「亀山さん・岡本さんの歌のボランティア」があり、亀山さんは鮮やかな青紫のブレザーで岡本さんはこれまた鮮やかな黄色のロングドレスの衣装を着て昔懐かしい歌を1時間に渡って歌って頂きました。(岡本さんに「艶やかな衣装ですね。」と投げかけると「もっと派手な衣装がありますよ」と返ってきたので、私が何を言いたいのかを瞬時にくみ取って頂けたのは大変嬉しかったです。)今回2回目のボランティアなのですが、入居者さん、利用者さんは歌に合わせてタンバリンや鈴を上手に叩いていました。 一時間のショーが終わると参加した方々に職員が機敏に準備したかき氷で喉を潤して頂きました。暑い時のかき氷は水分のこまめな補給にも最高ですし職員がこのような配慮をしてくれるからこそ「熱中症」対策がしっかり出来ていて本当にありがたいと思うと暑さも吹っ飛ぶように感じました。こまめな水分補給の事を思った時に先般の台風10号に伴う雨の多さについて、2日間で1000ミリの雨量だった所もあったとの報道や長良川の増水により鵜飼船が壊れたり流されたりした報道に対して思うのですが、一時に降った雨は表面を流れてしまい色々なトラブルになることを思うと、「過ぎたるはおよばざるが如し」の格言のように思うと水分も一気に飲んで貰うよりはこまめに飲んだ方が良いのだと思います。

つまり、単に数量にとらわれずこまめに飲んで頂く事が肝要だと思った次第です。 確かに、一気に飲んで頂いた方が業務的には一見効率的に思えますが、結果的に熱発されたり食欲が進まない状況になれば結果的には入居者さんは勿論の事、職員も大変な思いをすることになると思うのです。居室を掃除したり、清潔保持をしっかり行うのもその一貫だと思います。最後に、ぴったりの格言ではありませんが「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」誰でもそうですが人間「楽」な方が良いですよね、退院した我が身だからこんな事を考えるのかな。とにかく「健康が一番」です。

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10日間の入院生活を終えて退院しました

 

令和元年8月16日

入院してからの3日間は寝ていても頭が痛くて熱も39℃近くも出て、「こんなことで治るのか」と途方に暮れながらの入院生活でしかもトイレもない個室でトイレまでが遠くて、まるで尋問を受けているような日々でしたが、熱が下がってくるのと平行するように頭の痛みも少しづつ軽減してきて、この二晩は9時前には眠くなり、22時からの点滴は夢の中て言う順応の良さ。4日目からは施設の有り様についてじっくりと考える時間となり、日本中が暑さと台風で騒いでいる時に施設職員には申し訳ない位にゆったりとした時間を過ごす事が出来ました。そして本日12時からの点滴治療の後、昼食を頂き入院費用を医事課で支払い病院を後にしました。

家に帰りつきしばらく横にならその後17時15分本部施設の幹部会に参加して、夏祭りの事やバイキングや本部施設の現状について、病院生活で温めていた事を熱く語れました。その中で20年の実績により怠惰になっていることについては『是は是。で頑張ればその思いは必ず通ずる。』との思いを改めて熱弁しました。会議が終わり久しぶりに家のお風呂に浸かり遅い夕食をしていると昨夜の就寝時間ははるかに越えて眠い中でコラムを書いているので中味なしで話も乱れていますがご容赦下さい。明日は本日のぶんも頑張りますので本日のコラムは単に明日に繋げただけですが継続できた事をご理解下さい。(コラムを打ちながら目が閉じてまう。)

台風10号が猛威をふるっています

令和元年8月15日

流石にNHKは台風情報をずっと流してます。私はまだ明日まで退院許可が出ないので、職員の頑張りで対応してもらうしかないのですが、今(13時33分)では高知に上陸し中国地方を縦断するとの事で、台風の目からは遠いのですが台風の目から東に大きく影響すると言う事で、午前中にデイサービスの責任者である北島部長から、「副施設長とも協議をして、利用者さんの家族にご理解を得て14時に終了して家にお送りする体制でいきたいのですが。」との連絡を受け、「家族にご迷惑にならないように理解を得てケアマネさんともしっかり連携を取り実施して下さい。」と連絡を取り合いました。

『嵐の前の静けさ』なのか病室だからわからないのかは定かでありませんが、利用者さんを安全にお送りする体制を取ってくれると安心してます。私にとって『台風』と言うと何と言っても昭和34年に発生した『伊勢湾台風』です。私は当時6歳でしたが、小さい頃ながら記憶にあります。その頃父進さんは赤坂小学校の教頭で母秋江さんの実家に母秋江さんと子ども三人を預けて父進さんはその当時の事ですから自転車で赤坂小学校に向かったのを覚えています。今でこそ、父の判断を理解出来ますが、その当時は複雑な思いだったと記憶してます。

伊勢湾台風がすさまじいものだった事を思い知らされたのは、23年前に今の本部施設の本館工事での造成の時に土の中から大きな木が掘り出された時に当時の地元の長老の方が毎日のように工事現場の様子を見にみえていて掘り出された巨木を見て「あの巨木は伊勢湾台風の一時水で流れてきたものに違いない。」と教えて頂きました。昭和34年の伊勢湾台風以降に大きな影響を受ける事なく今に至り、岐阜県事業で土砂災害防止の大々的な工事と谷からの一時水が土砂を運ばないようにと大きな砂防ダムを計画実施して頂いている事に台風10号のニュースを見て改めて感謝の気持ちを持ちました。『備えあれば憂いなし』です。

勿論今以上の備えを法人としてしなければと考えています。先程「8メートルの街路樹が倒れて道路を塞いでいる。」とのニュースを聞いて、倒れた巨木の映像を見てつくづく思いました。土の上は8メートルと立派だけれど、根っこはほんの1メートルあるかないか位で、「これでは簡単に倒れるな」と思いました。そう言われれば桜の根っこはどんどん伸びるので山に雑木があるのが大切何だと思いました。自然を守るには100年戦略が必要だと台風を前に思った次第です。

 

入院して思う色々なこと

毎朝6時に点滴をして貰うのですが、その時の看護師さんの対応も様々です。点滴を施行してもらう時に元気良く声をかけてから点滴の業務に取り掛かる方もあれば黙って黙々とされる方もある。それよりも何よりも驚いたのは、夜中にあまり眠れず「点滴中は朝の食事になる8時まで寝れたらいいな」と思っている時にいきなりブラインドを開けられたのにはビックリしたし目が覚めました。親切のつもりでされているのなら一声かけて欲しかった。

点滴が終了する時の対応も色々です。点滴は大抵一回当たり一時間なので終了間際に看護師さんが確認に来ていただくのですが、ある時、明らかにまだ点滴が残っているのに「あと少しだから終了します。」とさっさかさっと『回収作業』をされる看護師さんがおみえになるかと思いきや今朝の看護師さんは(本日点滴の入りが悪く一時間の予定が二時間かかって)8時になり点滴が止まったような状態で「あと少し」と言う時にナースコールを押して看護師さんに来て貰い「もう少しだし、針から抜いて下さい。」と言うと「抜きますが折角の薬が勿体無いので」と言って針の所に手を当てて早く点滴が落ちる配慮をして全部点滴が終了するのを見守ってから針を抜いて下さいました。また、薬の対応についても色々です。ある看護師さんは薬を袋から出して薬を私の手にのせて頂き、薬を飲んだのを確認される方、ある看護師は袋のまま手渡して帰られる方で、本日昼食後の看護師さんは私の昼食が遅かった(退院後のスケジュール調整を携帯でしていたため)何度も様子を見に来て下さった上に昼食が終わっているのを確認して薬の袋から薬を私に手渡し私が薬を間違いなく飲んだのを確認して薬の袋の回収もしっかりして頂きました。どこまでが業務かも私にはわかりませんし、患者さんの状態によっても対応が違うのは私も特養の仕事に従事させて頂いているのでわかりますが、入院した身だからこそわかるコミュニケーションの大切さとちょっとした配慮の大切さを改めて感じています。

今、コラムを打ちながら本日付けで奈良薬師寺の執事長になられた大谷撤奘師の講演でのお言葉を思い出しました。「病気をして健康のありがたさを知る」。やはり蘊蓄のある言葉だと改めて思いました。私は施設を造るまでの6年間は無納税者で厳しい生活を経験したので贅沢をしたいとは思いませんが、入居者さんの笑顔の為、地域の福祉の為にお金を遣う事はいといませんが、有効なお金の使い方をしないのは駄目だと思っています。話題がそれましたが来月の敬老週間はお金を使って実施するのも大丈夫ですがお金を使うのではなくて職員と入居者さんの共同作業のイベントも企画に欲しいな。職員が頑張っていることはわかっていますが今以上の施設にする為に。今に甘えることなく切磋琢磨を頼みます。リピーターの皆さんより良くなる施設になるための支援を今後とも宜しくお願い致します。

昨日のコラムに対して『律儀』に答えます

令和元年8月13日

昨日のコラムで『千巻経』か『千願経』かと私の中の葛藤のように書きましたが本日朝6時からの点滴が始まって右腕を拘束されている時間帯にインターネットで「どっちやねーん」と検索してびっくりしました。と言うのも検索して出てきた一番目は当法人のホームページの2016年9月22日付けの『今日の優・悠・邑』が出てきたからです。そして、2番目に2017年9月10日の私のコラムが出てきたのにはまたまたビックリです。そして私のコラムを改めて読むと朝のご挨拶回りの時のやりとりで『千願経』か『千巻経』かについて入居者さんとのやりとりが書いてあり、入居者さんに突っ込まれながらも本心ではない正論を答えているのです。だから今でも私自身おもわず『千願経』と書いてしまうのです。

しかし、2016年の『今日の優・悠・邑』に掲載されている写真を見ると『千巻経』になっていましたので、「昨年は千願経だった」は間違いですが、頭の良い入居者さんだから間違えられたのではなくて、きっと話題提供をして下さったのか、この話題を一年間温められていたのか。どちらにしても、病院のベットの上では入居者さんとの会話も出来ないので早くに退院出来るように優等生の患者でいたいと考えています。

しかしながら、インターネットの情報システムはどのようになっているのかわかりませんが、『千巻経』と検索して出てくると言うことはたまたま何かを検索して我が法人のホームページに巡りあって下さる方もあると言うことなので今後も色々な角度から書きたいし表題の付け方は最初に明確な言葉を入れるべきだと思いました。だって検索した結果が当法人の記事だったんだから。 つまり表題は例えば前置きなどせずにズバリ『敬老週間』とか『バラ風呂』とかにすると違うところにも載せて貰えてホームページのリピーターも増えていくのかな。いやいや現在のリピーターさんから見放されない為の切磋琢磨こそ大切だと思います。私のコラムを見ていてくれている職員の皆さん入居者さん利用者さんへの切磋琢磨による『今日一日楽しかったよ』と同時に新たな職員確保の為にもホームページの更なる進化を宜しくお願いします。

✳最後は職員向け発進になったことをお詫び申し上げます。ただ、何と言ってもベットの上の籠の鳥状態での唯一の発進の場だと言うことをご理解下さい。

入院中ですが仕事ができました

令和元年8月12日

昨夜はしっかり眠れ、しかも祭日だと言うのに担当医が朝の9時に来て下さり、患部の治りぐわいがとても順調だと言って頂け、気分を良くしていて、8時間毎の点滴が10時に開始され、しばらくすると施設から「来月の千願経は22日だと聞いていたのに14日との情報もあり、どちらですか。」との連絡が入ったので、「22日から変わったとの連絡は滋賀信行会の内藤会長から聞いてないので22日だと思うが一度内藤会長に聞いてみる。」と返事をして、直ぐに内藤会長に連絡すると「22日で連絡済みだから22日で大丈夫」と言われたので、折り返し施設にその報告をすると「千願経が22日で決まったのなら、恒例になっている、笑福亭伯枝師匠の落語と大垣の老舗寿司屋の寿司吉さんの日程調整をお願いして頂いて敬老週間の一週間の日程を決めます」との依頼があったので「調整してみます。」で先ずは伯枝師匠に連絡すると「9月16日前後なら大丈夫なんですが・・・。」と少し口ごもった話ぶりなので、「本当に大丈夫ですか」と聞き直すと「実は2月に大腸癌の手術をしましたんや」との答えが返ってきたので「だったらあかんじゃないですか」と言うと「いやいや高座にも出てますし行くことは出来るんですが、お酒と甘いものがあかんのですわ。」と言われたのでこれは突っ込みで返すべきかと悩みつつ「師匠、お酒を飲みにきはるんやのうて落語をしに来てくだれるんやから大丈夫です。お酒飲まれんでも美味しいものは一杯ありますし、なんやったらお酒飲まれんでも師匠のお好きなキャバクラ行きますか。」と言うと師匠から「絶対に行きます。」まるで落語のような会話でしたが、和合の日程も調整しますで、和合でも、毎年して貰っているねで事務長に連絡して調整後本部の翌日が都合が良いとの事だったので再び伯枝師匠に「16日、17日の2日間でお願いします。」と連絡すると「必ず行きます。」との元気な声が返ってきました。なお、伯枝師匠は笑福亭仁鶴師匠の弟弟子で大阪落語の席亭のトリを勤めれる実力者です。次に寿司吉の大将に連絡すると「理事長の都合で決めて貰って結構です。」との事だったので落語と千願経の中日と言う事で19日で調整させて貰いその報告を施設にして、来月の敬老週間は9月16日から22日の1週間に決め、千願経と落語会には早速招待状の手配をしなければいけないし、寿司吉さんの目の前での握りのパフォーマンスは入居者さん利用者さんの人数確認の他にもテーブルの配置や職員の対応を決めなければいけないので、夏祭りが終わったばかりなのに準備に忙しいですが『今日一日楽しかったよ』を実現するために職員が一丸になって頑張ってくれるのです。ちなみに、寿司吉さんの本格的な握り寿司は職員さんも食べて頂きます。(くるくる寿司でなく本格的な『とろ』もついてます。)三つの他にも週二回のお風呂の中で好評の『バラ風呂』を一回実施してあと一回のお風呂を『酒』『牛乳』『よもぎ』などの候補が上がっていますし、とにかく、一週間を通してのイベントを実施してますます良い笑顔で過ごして貰えるようにしていきます。リピーターの皆さん良ければ入居者さん、利用者さんとその家族、そして職員の素晴らしい笑顔を見にきませんか。

((追記・お断り))

『千願経』と書きましたが、本来は『千巻経』と書くべきなのです。何故ならば『般若心経』をみんなで千巻唱えて幸せを願うからです。しかし私的には『それぞれの願いを叶えて欲しい』と思うから。✳本当を言うと最近になって『千願経』を『千巻経』に変えたのに混乱しているのは私自身だったのを認めない私の駄目なところが出ただけです、やっぱり『千巻経』で行きますのでご留意下さい。

まだ、入院中ですが

令和元年8月11日

明日は私の父進さんの命日なのに入院していては我が家の仏壇やお墓でのお参りもできないので、命日を前にして私が38歳で他界した頃の話を書く事にします。

(平成4年)私の父進は明治の最後の年である明治45年4月10年生まれで、誕生日を迎えて満80歳になっていました。その年の6月末に体調を崩し当時の関ヶ原病院(現診療所)に入院しました。私はその年の4月末を持って児童指導員を退職し大垣女子短期大学の非常勤講師や家庭教師や教育カウンセラーとして不登校児の相談にのったりとフリーの立場で走り回っていて、父の世話は殆ど養母と奥さんに任せっきりで何も出来なかったように記憶してます。ただし、今回は厳しい状況だと認識していた私は、『今までにどれだけ迷惑をかけたか計り知れないので何かをしたい』との強い思いを持っていたので、『どんなに忙しく遅く帰ってからでも、先ずはお風呂に入り一日一枚般若心経を写経をする』と決めて書く事にしました。(書いたものは棺の中へ私が四国八十八ヶ所で判を押して貰った白衣と一緒に入れました。)

そして、忙しくフリーの仕事をしていた私ですが12日の日は一日空いていたので、生まれて初めて父親の付き添いの為に病院に泊まる事にしました。その日は確か18時頃に病院に着き、父親に「今夜は私が付き添うから」と父親に伝えると「仕事は大丈夫か」と言いながらも嬉しそうに感じたのは私の自惚れかな。でも確かに嬉しそうだったです。22時頃になると痰が絡んでだと今ならわかるのですが「かーかー」とうるさくてその当時の私は「親父、私は一日忙しかったので、少し静かにできん」等ととってもわけわからんことを言っていたのです。(今から考えたら何て馬鹿な事を言う親不孝な息子だったかと悔やんでも悔やみきれません。)ところがしばらくすると父親の寝息が静かになったので私はうとうとと眠っていたのですが、静かになったのではなくて息が細くなっただけで、翌早朝に息を引き取りました。

私は父親にとって最後の最後まで迷惑ばかりかけて何も役にたつことが出来なかった。でも、父進は「息子が病院に来て泊まってくれる」と安心したのだと無理矢理にも思うしかないのです。但し、私が病院に泊まった事で葬儀の手順は早く整える事ができました。私はこの父進の死によって否応無く『自立』『自律』共にせざるを得なくなりました。先ずは葬儀の最後のお礼の言葉はまるで私の決意表明のようになりましたが、それを聞いていた、父進が垂井小学校の校長時代に教務主任をされていた服部先生(当時児童文学で有名だった先生です)に大垣女子短大の非常勤講師室で「若山君の話は思いがこもっていてとても良かった。これは本当に君が父親の事を大好きだった事を素直に表現された証だと思います。」と言っていただけました。

あれから28年が経過するのですが、叶うことなら自律・自立した私の姿を父進と母秋江に見て欲しいとお盆を前にして思う私です。病院で時間があるからこその原稿だから入院も悪くないのかなと職員や関係諸兄に迷惑をかけている身でありながら思っています。

 

入院4日目を迎えてますが

入院生活の報告ばかりだと同じ空間の中で同じようなスケジュールをドクターや看護師さん等のスタッフのお世話で過ごすのみで、変化を捕らえて書くとすると対応の善し悪しを書き連れることになり、段々と書き振りが悪くなるので本日は『今日は何の日』的な事を書く事にして『昨年の今日は何をしていたかな』と考えていて、めっちゃインパクトがあった日だったと実は今ニンマリしています。昨年の今日は急遽長崎に職員二人を引き連れて行ったのです。この事はこのコラムでも書いているのですが敢えて書きます。(書きながら日にちが一日ずれている事に気が付きましたがこのままの勢いで書かせて下さい。)8月9日に突然長崎県警から電話がありました。それは当施設の行方不明になっていた職員が「長崎県で保護されたとの事で迎えに来て欲しい」との内容で「直ぐにも来て欲しい」との依頼だったのですが、こちらも体制を取らなければいけないし、しかも私は明日の東京出張は代わりが利かないので「11日なら何とか対応します。」と答えると「それでも結構ですから来て下さい。」との事で実は10日の出張は遅くなる予定だったので、ホテルの予約をしていたので当然帰りの列車のチケットは取れておらず、事情を話して19時には東京駅に行き予約は全くとれない中、新幹線のホームに行ってびっくり。何故ならば自由席の所は人だかりで1本2本の列車をやり過ごしただけでは何ともならないと腹を据えてドアの所まで一杯の所に潜り込みドアの所で一歩も動けずしかも、隣の方は若い女性だし・・・。私は両手を挙げた状態のいわゆるホールドアップの金縛り状態で岐阜羽島までの2時間を我慢して、翌11日には朝イチの米原発の新幹線で大阪乗り換えで(大阪までは大阪止めのこだまだったので座れました)博多までのほぼ4時間は全く座れない状態で足はだるいは腰は痛いはで大変な思いをしましたが何とか博多でレンタカーを借りて長崎の目的地のホテルに着きかつての職員と合流し取り敢えずそこでじっくり話をしながら食事をして、ホテルに泊まり翌朝から警察やその他ご迷惑をかけた所に謝りに行き、かつての職員に「当法人でもう一度頑張れ」と言う事で午後の新幹線で帰ってきました。(帰りの指定は取れましたので座れました。)ちなみに今はかつて以上に頑張って仕事をしています。一度『縁』を結んでまた頑張りたいと言う職員は貴重な戦力です。これからもますます頑張ってくれると信じてます。だって『縁』と言う字は『えにし』と言うことですから。今日は一年前の事を熱く書きましたが、昨年が入院の日々だったらこんな事は出来ないので、やはり健康にはしっかり留意した生活を退院後はしたいと今は考えています。(『今は』は反省してない証しか)

入院3日目の報告

朝5時30分に目覚めると全身びっしょり汗をかいていて、昨日とは違い汗をかいた後に爽やか感を感じています。先ずは予備に置いて貰っていた病衣に着替え洗面を済ませ部屋に戻り(部屋にはトイレ、洗面もない個室なので)(個室はこのタイプしか空いてなかったのです)ベットに寝ようとするとバスタオルを敷いた所から外れていた所がべたべたに濡れていた(まるでおねしょをしたように。も、も、もちろんおねしょではありませんよ・・・。)のでナースコールを押しシーツを新しいのに替えて貰うと引き続き点滴をすると言う事で入院者としてのお仕事が始まりました。本日はどんな入院生活になるのか先ずは朝イチの報告でした。点滴2本を終えると朝食がきたのでお盆にのっているのを見ると『本日はパン食』。私にはパン食の習慣はないのですが『たまには良いか』と美味しく頂きました。美味しく頂けたのも平熱だからこそだと思います。8時40分に看護師さんが検査にお連れしていただく為に車イスで迎えに来て下さいました。検査の理由は一つには患部の腫れに膿が溜まっていないかで二つ目は脳髄炎症を疑ってのものでした。検査は入院者への配慮が出来ていて直ぐに二つの検査は終了したのですが結果は心配です。11時20分に耳鼻科外来に再び車イスで連れて行って貰い、膿が溜まっているのではなくリンパが腫れているとの事で切開する必要はないとの事で一先ずほっとしました。本日はお陰さまで熱も上がらず昼食も美味しく頂き、14時に主治医の先生が部屋に来て頂き、思った程には治療の効果がでないので治療の仕方を変える為に2ヶ所に血液検査をしたいとの事。先生は患部の所から検査すべきものを採取して帰られ、さてさて二ヶ所の血液採取ですが、右腕は点滴をしているので、左手の腕と足にする事になり、腕は直ぐに出来たのですが足は先ずは左足に針は刺さったのですが全く血が出てこずに失敗で何とか右足で血は採れて、この結果がどうなるのかその結果次第で入院期間が長くなったらいやだなと思っています。今(19時45分)は夕食も終えて歯磨きも終えて一日熱が出なかったので検査以外は特にしんどい思いをすることなくおえれそうですがただ22時から点滴があるのでまだ、入院者としてしなければいけないことはありますが、取り敢えず本日の報告はここまでにします。(1000文字近く書けたことを調子のバロメーターだとご理解下さい。)

入院二日目の報告

令和元年8月8日

本日の最初は昨夜9時から翌朝9時までの勤務の爽やかな男子看護師が5時30分にお茶の配りの為訪室してくれたのに目を冷ましその後点滴に再び来てくれたので「12時間の間に仮眠があるの」と聞くと「そりゃありますけど、やっぱり眠いです。」との返事。当施設の職員は夕方の16時から翌10時までだからより厳しい条件で仕事をこなしてくれているんだ。と勤務について話していたら「休みは多い感覚ですね」と答えてくれ「理解が早いな」と思いました。9時過ぎには再び点滴。11時30分になると寒気がしてきて、12時過ぎに看護師さんに来て貰うと38℃の熱があり「お昼の薬から痛み止が追加されたので、食事前だけど飲みましょう」で薬を飲んだのですが一向に熱が下がらずそれどころか体ががたがた震えだし39℃を越したので再び解熱効果のある薬を飲みようやく汗が出て熱は下がったのですが昨日から楽しみにしていた目玉焼きが入った焼きそばを『2時間で破棄にする』ルールで食べそこないました。夕食時は熱もなかったので無事に頂きましたがいかにも目玉焼き入り焼きそばは惜しい事をした。しかしながら目玉焼き入り焼きそばか点滴の話位しか話題に出来ないのが入院生活だと思うと日々走り回れる事が何と幸せ何だと痛感してます。明日は耳の後ろの所に膿が溜まってないかを調べる検査があり溜まっていたら切開するとの事。あまり期待せずに入院レポートを読んで下さい。

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