カイセン撲滅初日

カイセンと断定された方は一人だけですが、『疑いがある事は疑え』でカイセンなどは決して目に見える代物ではありませんので、「この際徹底的にきれいにする」との意志を鮮明にしてその思いを職員に理解して貰い協力して貰う体制を取り、本日『カイセン撲滅』の初日を迎えました。私自身5時50分に目覚め着替えと洗面を済ませて6時ジャストに家を出て(町報が鳴ったので間違いないと思います。)6時10分に施設の駐車場に入ると本館の玄関前に吉田部長が玄関が開くのを待っている。(宿直者は本日がどういう日か知らないのか)私が車を停めて玄関を入る時には開いていたので、入ろうとすると本日の清掃場所の責任者である西川課長も来たので若干の打ち合わせをして新館2階に行くと、2階の共有スペースへの誘導が始まり、いつもと違う場所での朝食についての戸惑いもありざわついた感じは否めませんでしたが、職員の頑張りでクリアしていきました。業者の方が7時40分にみえたので簡単な打ち合わせ後2階に上がり具体的な話を現場になる居室で行い、8時10分に消毒を開始して貰いました。9時前まで入居者さんの状況把握をして1段落したので早くから頑張っている職員の為にパンを買いに行ったり、作業状況を見にいったりしていて、いつもと違う環境に戸惑いと苛立ちを持っている入居者が多くおみえになると感じ、本館に設置されているカラオケの機械と『日本昔話し』のDVDを取りに行き、カラオケについては恥ずかしながら10曲程歌わせて頂きました。その後『日本昔話し』を映しだしてみてつくづく改めて感じたのは、『楽しい』と感じてもらうのは人それぞれだと思いました。と言うのは私が歌っているのに手拍子をしたり体を動かして『楽しんで貰ってるな』と思える方が歌を止めたら落ち着いていられなかったり、私の歌には全く興味を示さなかった方が日本昔話しになってからはテレビをしっかり見られたりと言う事で『人生いろいろ。趣味もいろいろ』と言う事です。新館2階の清掃もベットメーキングまでが17時には終了しました。明日は新館1階が行われますが本日よりエリアが広いのでより効率的に頑張らなければいけないので、明日に向け早くに帰り明日に備える事にしました。この頑張りがより施設を良くなることを信じて明日も頑張りますのでリピーターの皆さんもこの考え方に賛同してもらえると嬉しいです。

明日から4日を掛けて全館の居室を綺麗にします

疥癬撲滅の為に消毒噴霧の業者とベットの清掃業者とリネンの業者に協力して貰い14日に新館2階、15日に新館1階、16日に本館2階、17日に本館1階と順次対応して貰うのですが、単に業者任せにしたのでは、同じ失敗を繰り返す事になったのでは意味がないので先般10日の日に緊急全体会を開催して、本館開設2年目に疥癬が出て大変な思いをした事(見た目が綺麗な施設だと言う職員の思いの中から掃除がおろそかになり埃や皮膚の脱落がありノルウェー疥癬まで出てしまった)を話すると共に各エリアに分かれて業者に作業をして貰っている時の入居者さんの対応についての話し合いをすると共に、同じことを繰り返さない為の業務の見直しをしました。そもそも疥癬が何なのかも理解していない職員もいる中での検討会でしたので、最初意味も分からない職員の中には眠たそうにしているものもいたのですが、話をしているうちに「きちっとした対応をしなければいけない」との意識が出来てきた中、昨日はフロアの責任者を順次呼び『清潔・不潔』についてや『フロアで不充分な事』等について話し合いをしました。居室が綺麗になるのと同時に他の事もしっかりと出来るようにしたいとの思いからです。さて、本日は台風19号が去り関東方面が大変な状況で私なりに電話連絡で状況把握をしたりもしつつ、台風一過で爽やかな天気(被害にあわれた地区には申し訳ありませんが)で、朝6時から施設の外回りを見て回りその後、明日の対応でベットを運びながら座られていないソファーのマットを何気なくめくってみて目が点になりました。と言うのは想像を絶するほどに汚れていたからです。いつも座ってみえるので確認が出来なかったのですが、あまりの汚れに久方ぶりに『瞬間湯沸かし器』のようになり、そのソファーを外まで運びハイターと洗剤を駆使して納得がいくまで洗いました。なかなかしつこい汚れも落ちましたが大げさな言い方ではなく200本以上の髪の毛がマットの下でこびり付いていました。毎日の仕事の中で細やかな対応を誰か一人でもしていたらと思うと『夏祭り』だとか『バイキング』とかの外向けの事ばかりに目が向くと足元をすくわれるとの思いを強く持ちました。昨日の幹部の意見の中にも「午後からボランティアがある時の昼食後の口腔清拭が出来ない。」との事でした。その時は、「昼の分も含めて夕食後にきちんとしたらどうか」と話をしましたが、本日のような事象にあうと、『地道にこつこつ。そして尚且つ入居者さんが喜んで頂ける企画を』と言う事かな。リピーターの皆さん私の思いも『一歩後退二歩前進』で行きますのでこれからも宜しくお願いします。

昨日東京からの帰りの新幹線は凄まじかった

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昨日は東京で全国老施協総務・組織委員会が予定されており、本来であれば会議終了後に懇親会も計画されていたのですが台風19号が東海・関東地区に大きな影響をおよぼすと4日程前から報道されており、担当副会長の皆川さんと幹事の田中君と事務局と私の判断で「懇親会は止めにしても来週からの総務・組織委員会の展開を考えると委員会は開催しなければだめだ」との判断で昨日13時から東京平河町にある塩崎ビルで行われると言う事で事務局とも事前打ち合わせをしたいと言う事もあり、いつもより30分早い9時48分発の列車に乗り12時過ぎに会場に入って行くと既に森岡副委員長と田中幹事が来ていたので事務局の国井君も入れた四人で事前打ち合わせを(私は塩崎ビルの近くにあるコンビニで買ったパンと牛乳を頂きながら)しました。定刻の13時前にぞくぞくと委員さんが会場入りされて、定刻通り委員会が開催され、私の委員長としての挨拶から始まりました。総務・組織委員会の各委員さんは誰もが論客揃いなので一つひとつの議案に対しても突っ込んだ内容で討議されていきました。東京へ向かう列車の中で明日の名古屋~東京間の新幹線の全便欠航のアナウンスが何度となくされていたのですが、会議室に入るなり田中幹事から「本日は最終列車まで予約が一杯で取れませんよ。」との事だったので「何とか立ってでも帰るから。」と会話していたので、会議が16時20分に終了して直ぐにタクシーに乗り東京駅に向かう中でいつものように切符の手配をしようとしても出来ない。東京駅に着き券売機でエクスプレスカードで操作しても上手くいかないので結局現金を入れて切符を手に入れ16時50分発の『のぞみ』に乗る為に17番ホームに行ってビックリです。最初は1号車~3号車が自由席なので取り合えず3号車を目指したのですが、人ひとヒト人で前に進む事も出来ず3号車にたどり着かず4号車の通路に立つ事にしようと入場が始まって1段落した時に車両に入り名古屋まで立つつもりで通路を進んで行くと、通路は意外と自由がきく位のポジションで上着を脱いで座席の後ろの所に掛けさせて貰い昇降口はぎちぎちに立ってみえたので私は昨年8月のお盆の出来事を思い出していました。(このコラムでも書きましたが急遽長崎に行った時の事です。)その時の経験から昇降口ではなくて通路の中程の方が楽に立っていられると言う経験をしているので座ってではありませんが楽に立っていられる状況の体勢を確保出来ました。品川、新横浜と立ったままだったのですが私が立っている前の席が一つだけ空いていて、新横浜の次は名古屋ですから誰も座られないなら指定席料を払ってでも座りたいと考えていたタイミングで車掌さんが通られたので、お金を払って座らせて欲しいと聞いたところ指定券を持った方がみえたら譲って頂ければ大丈夫との事で新横浜を過ぎた所から座席に座る事が出来ました。そして無事に名古屋で降りると凄まじいばかりの方がみえて、『こだま』の乗り換えまでの15分の間に3本の『のぞみ』に乗る方は満員電車さながらでした。私は名古屋から岐阜羽島の席は楽々で家に8時過ぎに帰る事が出来ました。本日はどのテレビの番組も台風のニュースで。先程名古屋駅周辺についての情報でしたがどこも閑散としていて。そりゃそうですよね。連休の2日分を1日でこなしたのですから。このことからも、リピーターの皆さんバランスが大切だと思ったのですが如何でしょうか。

ノーベル化学賞が決まった吉野彰氏の記者会見での言葉から

令和元年10月11日

『明確なゴールは確信できれは、苦しい時があっても乗り越えられる』との言葉に私は実体験からも大きく頷いてます。かつての、このコラムでも紹介したと思いますが松下政経塾での松下幸之助さんが『成功の秘訣を教えて下さい。』との質問に『成功の秘訣などない。但し、やろうとした事をやり続ける事によって結果として成功する』の言葉とあい通ずるものがあり、成功の為の真理だとも改めて思いました。

私は吉野彰さんや松下幸之助さんのような功績には足元にも及びませんが、38歳で児童養護施設の指導員を辞し2年間の紆余曲折を経て40歳の時に私にとっては全く未知の世界である特別養護老人ホーム(介護保険法施行後は介護老人福祉施設)の建設を夢見て尚且つ地域貢献をしたい。と決意した当時は『法螺吹き』とか『詐欺師』とら『嘘つき』等と言われたり、『何故わざわざ高齢者の施設を今須に建てる必要があるのか』とか、『綺麗な水を汚すな』とか言われながらも地域の方々の不安なご意見に対して一つひとつ誠意を持って(浄化槽の水を地域の皆さんの前で飲んだ事もありました。)答えていく内に少しずつ支援してくださる方が出来、今では『施設がここにあって安心だ』とのお話を沢山頂けるようになりました。

勿論今のようになるまでには正直胃に穴があくのではないかと思えるような事もその度々にあったと思うのですが今では、『色々な事があったけど、今は支援者も多くてありがたいな』と思うと共に『今まで以上に地域貢献に力を入れていきたい。』とも考えています。しかしながら、施設を運営していると施設長として職員に対して噛んで含んだように教えたり指導したりしていることが、いつの間にか職員の都合で変わっていたり、忘れられたり、継続してなかったりすることがあり状況によっては頭が真っ白になりパニックになる事があります。

50代まではその都度湯気が出るほど大きなアクションでクリアしてきましたが、今はそのような時に私の体に異常が現れてしまうことがあります。例えば8月に帯状疱疹で入院したり、今もお腹に違和感があります。つまりストレスを上手にコントロール出来なくなっているのだと思います。

イライラを少なくするには私の考えを幹部職員が担ってくれる事だと思っています。私はあくまで『入居者さんファースト』『地域ファースト』『家族様ファースト』の考えをやり通したいと考えています。『そんな古い考え方は今は通じない』と言われる方がおわりであることは百も承知でのコメントです。

ここでまた、ノーベル化学賞が決まった吉野彰さんのコメントです。『私も会社員なので自分が発明したリチウム電池が全く商品価値がなく売れなかったのには悩みました。』とのコメントには深い意味と凄い信念を感じました。

つまり、会社員としての立場であればいくら素晴らしい研究成果をだしても商品価値がなければ何も認められない。しかし、リチウム電池は将来絶対に商品価値が認められるとの強い思いが素晴らしい成果となり結果に結びついた。但し、ノーベル賞を頂けたのは、勿論吉野先生の努力の賜物だと言うのは勿論ですが奥様の本当に嬉しくて仕方がないご様子から下支えをされた結果を喜んでみえるように思いました。

本日は台風が関東方面に来るとわかっていながらの東京出張なので、(全国老施協総務・組織委員会)今は(午前11時09分)新幹線の中で明日は全面ストップだと何度かアナウンスされていて、夜の懇親会の中止を委員長として早々に決断したのは正解だったし宿泊をキャンセルしたのも正解だったと思っています。しかしながら、つくづく思うに災害は土日にかけてが多いな。

これは、休みを多くしている働き方改革の国家的プロジェクトに対する戒めか等と思うのは私だけですかね。(こんな発言は時代が時代なら監獄行きですか。)

『ゆうゆうビジット』と言う企画に参加しました。

令和元年10月10日

優・悠・邑 和合で朝日新聞厚生文化事業団主催による『日色ともゑとマリオネットによるゆうゆうビジット』と言う企画に参加してきました。

①

日色ともゑさんをご存じの方は私よりも年齢が上の方が殆どだと思うのですが、78歳と言う年齢(私より1回り上です)を感じさせないはつらつとした受け答えでご挨拶して頂きました。マリオネットの二人の方を私は全く知らなかったのですが、焼酎の『二階堂』のコマーシャルソングをされていて、知る人ぞ知るそれなりに活躍されているグループだそうです。確かに二人の演奏は素晴らしかったし、ポルトガルの楽器を駆使されての演奏は圧巻でした。勿論、日色ともゑさんの童話の朗読は素晴らしかったし、マリオネットさんの童謡を中心にした演奏で前もっての台詞を言って頂くタイミングも絶妙でした。

③

企画の最初に理事長として挨拶をとの依頼を進行役の和合の事務長から受け「何分位での挨拶なの」と聞くと「本当に短くお願いします。」と言うので「では、1分でします。」と答えると「理事長の1分は10分になるといけないので10秒でお願いします。」と失礼なような爆笑のような会話になったのですが、結局2分の話になりました。と言うのもこの企画について事前に家族会や地域の方々に告知してあったようで入居者さん利用者さんの他にも多くの参加者がみえたので、その辺への配慮もあり2分になった次第です。

② ⑤

当施設にも60歳から介護の仕事をして70歳で国家試験である介護福祉士の資格に合格された方があり、今もしっかり仕事をして貰っているのですが、日色ともゑさんも素晴らしい朗読をして頂き、単に生年月日だけではわからないし、仕事が生きがい、天性のような仕事をされている方は『凜』とされていると思いました。勿論仕事をリタイヤされても趣味に生き生きされている方、役割のある方も同様だと思っています。私は、趣味らしきものを持ち合わせていないので「趣味は仕事」と豪語しているので、生涯現役と考えていますが、その為には健康に留意して100歳(借り入れが全部返せる)でピンピンコロリが理想なのですが果たして・・・。

④

でも、100歳で(多分)優邑と生活している家族がいた。それは我が家の猫『リット』(推定100歳)です。今朝も私が部屋から出ようとすると、歩くのを邪魔してきて自分が食事をするのを見ていろと甘えてくるし、私が出勤時に玄関先に行こうとすると、でかい体を伸ばして歩くのを邪魔するし・・・。いやいや年をとっての図々しいは猫だけが許されるのであって私は可愛いじい様でいなくてはいけない。でもかなり無理なように思うのですが・・・。

⑥ ⑦ ⑧

 

私を産んでくれた母秋江さんと私の話

(ここは、日本昔話の歌から始まりますかね)

私は父進さん(A型)母秋江さん(B型)の間で長姉光子さん(B型)、次姉春子さん(A型)の次にこの世に昭和28年5月16日(横綱北の海と同じ日)に生まれました。ちなみに私の血液型はAB型です。母秋江さんとはわずか13年8ヶ月しか私との関わりはないのですが、余りに中味が濃いと言うかエピソードが多いのでこのシリーズはコラムのネタがない時に何回か登場させるとして、取り敢えず第1回と言うことでご理解下さい。

先ずは全員の血液型をかっこ書きで書いたのは、長姉光子さんは母秋江さんの血を受け継ぎ、次女春子さんは父進さんの血を受け継ぎ、私は両方の血を受け継いだ幸福者と言うことが言いたかったのです。つまり、両親の思いを一杯受け継いだと言うことです。但し、末っ子の長男程やっかいなものはないと自分でも思っています。つまりは『天下御免の甘えん坊』と言う事で自分で言うのですから間違いなく『甘アマ甘あま』の育ち方を謳歌したと思います。

何故ならば次姉の春子さんは今でも小さい頃の事になると怒ってきますから。

しかも、私は生まれて100日目に心臓が約5分間止まって復活はしたもののそれからの私は『虚弱児』の烙印を押される位で、例えば夏休みに母秋江さんが私に添え寝をして、なかなか寝ない私を団扇であおってくれるのですが、学校では昼寝の時間がなくて眠くないので母秋江さんが寝てしまった隙に家を脱け出し、友達がいる学校のグランドに行き野球をしていていました。夏の事で入道雲がもくもくときて、土砂降りの雨に打たれ慌てて家に帰り着き、母秋江さんの顔を見た途端に39℃近くの熱を出し、母秋江さんは怒るどころか介抱に忙しく、熱があり食欲がない私に私の好きなお刺身を買ってきて、温かいうどんを食べさせてくれるのが定番でした。

冬場になると気温も下がってきて、多分血の循環が悪かったんだと思うのですが、いわゆる『霜焼け』で両手は肘のところまで腫れ上がり手の指10本共に真っ赤になり、学校から帰ると母秋江さんがゴボウの湯で汁を作って待っていて、熱いお湯に手を浸けてゆっくり20を数え、次に水の入った方に手を入れまたまた20を数える事を5回づつしたことも大切な思い出ですし、夜布団に入ると体が温まり霜焼けのところがむず痒くなりなかなか眠れなくて母秋江さんの方が先に眠ろうとすると体を動かしたりわざと泣いたりして甘えたりしてました。

(次に母秋江さんの事を書くときは我が子の為に奇想天外な事をしてくれた事を書こうと考えています。)

私とお酒

令和元年10月8日

私が中1の1月に母秋江さんが他界した事も父進さんが聖人のような人物で誰からも悪口を言われる事のない人だった事は何度もこのコラムで書きましたが、『私とお酒』をテーマにするときは父進さんの駄目だった事をお話しなければいけませんが敢えて書きます。尚、突然にこのテーマにしたのは、朝6時から施設でバタバタしていて、早目の昼食をとり、施設に16時過ぎに帰ってから直ぐに全館清掃の打ち合わせをしていて、コラムで書けそうな話題が無いので、ストック分としてとっておいたお話しとして『私とお酒』の話をしたいと思います。私が中1でお酒など口にしたことがなかった時にお酒を進めたのは、実は父進さん何です。と言うのは、教育者としてバリバリ仕事をして家に帰ってきて、ホッとしたときに、一目惚れして垂井から今須に婿養子にきたのに母秋江は天国に召されて家にいない。思わず酒を飲みたくなる気持ちはわかります。しかしながら、家で一人晩酌をするのが嫌だったんだと思います。中学1年の私に「一緒に飲め」と進めてきて、結構に飲ませて貰いました。そして、高校時代は期末テスト等が終わった時には我が家で宴会になった事も一度や二度ではなかったです。(約半世紀前の事ですから『時効』と言う事で)高校時代に結構鍛えていたので、大学に入って直ぐの『クラスコンパ』(今は流行らないか)では一番沢山のんで、お酒を初めて飲んだと思われる同級生が何ともならないほど酔っぱらったので、もう一人の同級生に手伝って貰い私の下宿に担ぎ込み、酔っぱらった同級生はずっと洗面器が離せない状態で午前3時頃になると吐くものがないからか血へどを出すので私と共に介抱していた二人が今度は青くなり、困ってしまった挙げ句生まれて初めて『119』を公衆電話で。しばらくして救急車に乗り、病院に着き、診察をして貰い処置も終えられたお医者さんに介抱していた二人が呼ばれ、お医者さんにしたたか怒鳴られ、怒られたのですが、私たち介抱した二人は行き掛かり上救急車に乗っただけで、飲んだのは血ヘドを吐いた同級生で私たちは何も悪くないと思っているのでその考え方が露骨に出ていたのだと思います。お医者さんに輪を掛けて怒られた思いでもあります。私はどんなに沢山飲んでも吐くと言うことがなくて、それ以降の人生でも楽しい時にも苦しいときにもお酒を沢山頂いてきました。そして最近の私は、「今の事業が出来たのは、お酒が飲めて、歌が歌えて話題が豊富にあり、人間関係を大切にしてきたから」と言っているのですが、何と言ってもお酒が飲めたからかな。本日のコラム継続もお酒に助けられたし、やっぱりお酒は素晴らしい。リピーターの皆さん機会があればご一緒しませんか。但し、1斗樽抱えて来て下さい。✳今でも太鼓腹なのに大丈夫かとの謗りを覚悟の上でのコラムでした。

久しぶりに朝6時過ぎからフロアを回りました

令和元年10月7日

入居者さん一人ひとりと挨拶をして歩くと、それぞれの性格が表れ楽しくなってきます。フロアで大きな声でお経さんを唱えてみえる方があり、「お経さんありがとうございました。」と言うとめっちゃ照れながらも嬉しそうにされている方、一生懸命に作業をされていて私に気が付かれなかったので目の前で手を出すと私に気が付かれ最高の笑顔を返して下さり、自分が作成されたちぎり絵の作品を嬉しそうに見せながら説明して下さる方があったり、私が目の前に行き挨拶をするまで知らない顔でいて私が挨拶すると急にニコニコされる方もあったりでとても楽しい時間となりました。

その後、10時30分からは関ケ原町の住民課長さんと担当の方ががわざわざ施設に来て下さり、色々な情報交換をしていてつくづく22年の施設の実績の重さを感じました。1時間以上お話をしている中で、先般夜中に斎場の手配等の為に関ケ原町役場へ行って夜間入り口の階段の所が真っ暗で困ったと言うようなざっくばらんな話もさせて頂きました。本日13時から垂井町役場で新規事業の話し合いを副町長さんや担当課長さんとする予定でいたのですが、11時30分に副町長さんから「町議会が延びていて予定が立たないのでまた連絡します。」との連絡を頂き、キリンの首のような状況になっていた時に高齢福祉課の課長補佐さんから「議会の終了時間が読めないので本日の打ち合わせは見合わせて後日予定を連絡します。」との事で肩透かしの状態で、「本日未明から打ち合わせの流れを色々な角度からシュミレーションしていたのは何だったのか」との思いもありましたが、「会わない」と言われているわけではなく、連絡を頂けた事に感謝すべきだとも思いました。そして改めて『予定は未定であり決定ではない』ことを知りました。

これからも大きな事業を行うに当たっては色々な想定外があると思いますが一つひとつクリアしていき、より良い施設を整備して、ますます地域の方々から信頼され必要とされるように頑張っていきたいと考えていますのでリピーターの皆さん、社会福祉法人杉和会の今後の展開について、しっかりと見守り、ご支援ご声援を宜しくお願いします。

 

インドネシアから来たEPA介護福祉士候補生に会って来ました

令和元年10月6日

10月4日に、今年6月にインドネシアから日本にやって来たEPA介護福祉士候補生に、4か月ぶりに豊田市の研修所で会ってきました。4か月前に日本に来たばかりの頃と比べると、二人共日本語での対応は段違いに上達しており、何よりも感心したのは、こちらの投げかけに対して一生懸命に答えようとする姿勢です。

法人側と候補生で、2021年3月までにどのようになっていたいかをビー紙にまとめる作業をしたのですが、下書きを鉛筆で書く時も分からない意味や漢字について一生懸命に聞いて覚えようとし、その姿勢には頭が下がる思いです。そして、後2か月後の12月には関ケ原の施設に来て生活する事に対する不安を払拭する為に、一生懸命に質問してくる事に対しては、迎える側である私としては、出来るだけ不安を払拭していきたいと考え、誠意を持って答えさせて貰いました。私が候補者の立場だったらきっと不安ばかりでこの研修所での生活での勉強三昧の生活にはとても耐えられないだろうし、そもそも異国の地で仕事をしながら、日本の国家試験に挑戦しようなどと言う発想にはならないから「よくぞ、頑張って来てくれました。」と改めて思った次第です。

インドネシアから来たEPA介護福祉士候補生の受け入れは今年で10年目になりますので、受け入れに対するハード面、ソフト面及び国家試験対策に対する体制は整えてきたつもりですが、その年によって多少の違いはありますが、当法人の強みは、施設の敷地内に職員用のアパートがあり、多くの(現在は5人)インドネシアからきた先輩がいる事です。

このような体制を取る事にしたのは、介護職員枯渇時代に対して色々な手立てを講じて裾野を広げなければいけないと考えたからです。その意味では、大垣にある優・悠・邑 和合には当法人でEPA介護福祉士候補生を導入した時から頑張っているシスカさんは、インドネシアから旦那さんを呼び寄せ2人の子どもを出産して育児休業も取り、今は施設から歩いて5分の所にあるアパートで立派に4人家族の生活している良きモデルがあります。また、今年の5月からはベトナム人留学生を2人(中部学院大学社会福祉学部)受け入れ、来年度は3人の受け入れも決まっています。

かつて、故中村博彦会長から「5年先10年先戦略を持って法人理事長としての職責を全うしなければ、法人経営は上手くいかない。」と言われ続けてきたので、その教えを守りつつ職員確保については常に裾野を広める事に汗を流していかねばと豊田の研修所に行って感じました。リピータの皆さん。社会福祉法人杉和会の理念に共感して頂けて良い人材があれば一報下さい。

 

我が家でのお祭りが今(19時21分)終わりました

9月25日に10キロの利平栗が我が家に届けられてから私の奥さまかをり様の祭りのゴングが鳴り、栗の皮剥きを「右手が痺れっぱなし」と言いながらも私は全く意に介さず知らん振りを決め込み、長男の嫁さんが途中から手伝ってくれ、10月2日で皮剥きをクリア(私は全くの他人事)3日からは最終的な買い物に奥さまかをり様は走り回り、私の役割は3日の日にお寿司屋さん(電話で)と肉屋さんに(直接に)注文のみの大活躍。

前日の昨日はインドネシアから来ているEPA介護福祉士候補生の中間発表会の為朝から豊田市に行っていて、16時に終了しての帰りに大垣インターで降りてドン・キホーテによりこの12月3日に4歳になる孫の翔と生まれて初めて一緒にお風呂に入る事になっているのでお風呂で遊べるおもちゃを沢山ゲットして家に帰り、しばらくすると孫の翔が来たので(勿論長男夫婦と共に)一緒にお風呂に入り体等一切洗わずお風呂の中でおもちゃで遊び(遊んで貰ってかな)夕食を共にして、しばらくトランプで遊び、私は2階で横になり、しっかり朝まで熟睡。

私の奥様かをり様と長男の嫁は多分4時に起きて祭りの煮炊きをしてくれていたようですが私は朝食も取らず施設に行き、9時30分まで施設にいて、その後花屋さんで仏様のお花を買いに行き、車の中に積んであった『ゼロのビール』を家に運んで行くと長男の嫁が「お父さん。このビールはノンアルコールビールと違いますよ。」と言われ「そんな事はない。ゼロと書いてあるぞ」と言うと(言いにくそうに)「このビールは糖質ゼロ、カロリーゼロで普通にビールですよ」と言うので、ビールなど買った事ない私は慌てました。

そして、いつも贈り物等で買い物をする酒屋さんに電話をして冷えたノンアルコールビールがあるか訪ねると、銘柄がバラバラなら大丈夫との事で慌てて垂井まで走る事にしました。何故ならば『仕事がある職員にもビールらしき味わいだけでもして貰いたい。』との思いからでした。

何とか職員の第一陣が来る事になっている11時までには家に着き、年に一度の我が家での職員の会食が始まりました。もうすぐ4歳になる孫の翔が我が家自慢の栗おこわのおかわりの接待に忙しくやや興奮気味に活躍してくれました。11時、12時、13時、15時と4グループに別れて職員が参加してくれ、16時からは姉夫婦、甥っ子家族、従兄弟等が順次来てくれて19時に残り物ですが勿体無いので、長男夫婦に本部施設に届けて貰い、従兄弟を長男の車で送って貰い、若山家のお祭りは終了し、私は樽酒を一杯じっくり飲んで全て終了。

このような行為がどのような展開を生むかはわかりませんがこれが私のスタンスです。賛否両論あるかと思いますが、リピーターの皆さんこれが私の生きざまですがこれからも宜しくお願いします。

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