本部の体制

令和2年1月17日

昨日、本部施設の幹部会があり、痛感したのは、幹部職員の中にも「支持待ち」的な発想の職員がいる事に半ば驚き半ば不安を感じました。自分の考えで突き進んでしまうのも困りますが、自分の考えを持たないのでは幹部職員とは言い難いからです。それとも、理事長としての私に遠慮して、意見が言えないのであれば、私の手法も考えなければいけない事になるので悩んでしまいます。勿論、22年前の施設の状況と比較したらはるかに良くなっていることは理解しているのですが、入居者さん利用者さんの事を思うとよりよくなることを望むのは当然のことです。

但し、素晴らしい計画を立てて実施していたことが、いつの間にか形骸化していて唖然となる事もあり、言い続けることの大切さを改めて噛みしめています。職員の都合で変えられてしまうものについては、どのような経過でその様なシステムになったかを理解させ、『初心忘れずべからず』を全うさせていきたいと思っています。本部施設においては、かなり意見を戦わせた会議が出来るようになってきましたが、「当然理解出来ているだろう」と思っていることが理解出来ていない時には熱くなって語る事もしていかなければいけないし経験が少ない職員にはハード面の充実によって働きやすい環境も作っていかなければとも考えています。

体制上の話としては、本日早朝4時30分に施設携帯から新館床暖のエラー音がなったとの連絡があり、宿直者とのやり取りや業者とのやり取りをしました。携帯が鳴れば直ぐに反応する対応は施設が事業開始してからこの22年欠けることなく行ってきて、「立ち上げ時と比べたらはるかに少なくなったと言うものの深夜及び早朝の対応はしんどくなってきたな」と思うと、体制面についての検討を今からしていかなければいけないと考えています。ところで、早朝に業者への連絡を宿直者に連絡をさせて、電話での対応で応急処置的な事はしてくれたのですが、確認に来るのは週明けになるとの報告を受けたので、業者への連絡を直接私がしました。そして業者の方には、「特養は365日、24時間うごめいているので、入居者さん利用者さんにご迷惑が掛からないようにと緊急時の対応も含めたメンテ契約をしているんだからきちっとした対応をして貰わなくては困る。」と連絡したところ、午前中に来てくれて不具合のあるところを限定してくれしっかりとした対応が出来ることになりました。

業者の方に不具合の説明を聞いていると12時を回ったので、昨日の幹部会で提供したカレーライスが残っていたので急遽温めて貰い喜んで食べて貰いながら色々な話をしました。気は心と言う事ですかね。より関係を深く出来たように思いました。リピーターの皆さん私の生き方はこのようなものなのですがどう思われますか。私的には『柔』と『剛』を駆使した展開と考えているのですが、私の自惚れですかね・・・。

 

 

私が13歳の今日(53年前)が母秋江が天国に召された日です。

令和2年1月16日

本日は朝9時からお昼過ぎまで東京から規定等のアドバイスをして頂く為にコンサルティング会社の方に来て頂いての検討会があり、昼食を頂いてから17時過ぎからの本部施設幹部会までに時間があったので、姉春子さんに姉光子のお墓が新しくなった事を聞いていたので一緒にお参りに行くかと連絡すると「行く」との事なので、急いでお花を買いに行きお墓のある駐車場に行くとすでに姉春子さんが待っていてくれたので一緒に行き新しく整備されたお墓を見て少しばかりショックでした。

と言うのは、50年間は姉の墓だけが別になっていて嫁ぎ先で除け者にされているように思っていたので、「これで嫁ぎ先の一員になった。」と喜んでいたのですが、新しくなった墓誌の中に確かに入ってはいたのですが、嫁ぎ先のご両親とは一線を引いたその他グループの中に入っていたのは私的には正直不満でしたが、私が小さい頃鬼のように怖かった姉春子さんは「一緒の墓誌に入ったんだから良しとしな」と仏さんのような発言。ここはどんだけ年を重ねても年を越せない姉に従うか。

般若心経を唱えてから姉春子さんに「今日は母秋江さんの命日だけど一緒にお墓詣りに行くか」と聞くと「一緒に行っても良いの」と聞くので私は「当然やろ」と答えて妙応寺のお墓に移動して、「53年前のお葬式の日は大雪でお葬式会場になった妙応寺まで家からの雪融けを地元の方々にして貰う事から始まったね。今日は暖かい日でありがたいけどあの日は大変だったね。」と話をしていて、「進さんはねずみ年で生きていれば108歳の年男で秋江さんはちょうど100歳になるんやな。母秋江は私が13歳の時に亡くなり、父進は38歳の時だから今生きていたらとのイメージは出来んな。」と姉春子さんにしみじみ話をしました。

母の命日で珍しくじっくりお参りが出来たので思わずこんな内容になりましたが、私はつくづく思うのですが(全く自己本位の考え方ですが)、もし私が13歳の時に母秋江さんが、17歳の時に母親代わりだった姉光子さんが、そして38歳(児童養護施設を退職したタイミング)の時に父進が他界したことにより今の私があるように思うのは極端な考え方なのか。リピーターの皆さん、私は本当にそう思っているのです。つまり、母秋江、姉光子、父進の思いを私は形にしただけ。いやいや3人共天国で私の為に走り回っていてくれたからこそ今の私があると思っているのです。だって小さい頃どうしようもない甘えん坊の私が厳しい状況でも立ち向かう事が出来るんだから。『感謝』しかありません。やっぱり私にとって1月16日は特別な日なんです。

 

中日新聞の取材依頼がありました

令和2年1月15日

中日新聞名古屋本社の記者から当法人のホームページで『口腔ケア』のコーナーを見ての取材依頼の連絡がありました。勿論喜んでお受けしましたが、当法人のホームページを記者の方が目にして頂いていたことに先ずは驚きでした。

口腔ケアの充実についての取り組みは『口腔ケアの充実が誤嚥性肺炎の防止につながる』との科学的根拠を知り、早くから歯科衛生士の導入をして、徹底をした口腔ケアの取り組みをしてきました。この取り組みは単に口の中を綺麗にするだけでなく、先ずは食事前の嚥下体操から始まり、嚥下体操後にお茶を飲んで頂き喉を潤して貰ってから食事をして頂き、食事後の口腔ケアまでを一貫して実施することにしてます。口腔内が綺麗であれば食事を美味しく食べて頂けるし、美味しく食べて頂ければ飲み込みも良くなるし良いことづくめではないでしょうか。

人間にとって食べる楽しみが一番の幸せだとも考えているからです。かつて地元の方が猪肉の味噌汁を振る舞って下さった時、嚥下に厳しさを覚える方がごぼうや猪肉を飲み込まれたのを目の当たりにして、また、毎年敬老週間の一企画で大垣の老舗寿司店の寿司吉さんの板前さんの握り寿司を美味しく食べられるのも(毎年実施してます)、日頃の口腔ケアの賜物だと思っています。美味しいものを食べて頂いた時の笑顔は職員にとってもたまらないほどの嬉しさとも言えます。

本館の事業開始した頃(平成10年)に入院される時の診断が『誤嚥性肺炎』の文字があると忸怩たる思いがありましたが、今は『誤嚥性肺炎』の診断が皆無となっている事に嬉しさと感謝の気持ちでいます。本部施設の口腔ケアについて歯科衛生士を職員として雇い入れたから全てが順調に行ったわけではありません。言葉数は決して多くは有りませんが地道にこつこつと入居者さんと向き合い、時には月に一回の全体会で的を得た指導をして、「自分一人では口腔ケアをやり遂げる事は出来ない。全職員の協力があって誤嚥性肺炎はなくなる。」と物静かな言い方の中で熱く語り、言い続けてくれた事で今があると思っています。施設の入居者さんの笑顔は作って出来るものではありません。

このような地道な展開があってこそだと思うと『ワンチーム』と言うより、他(多)職種連携により醸し出されるものと確信してます。リピーターの皆さん。優・悠・邑の職員はみんなそれぞれに良いものを生かしながら頑張っていますので万雷の拍手を送ってやってください。

中学2年生の職場体験の依頼を、校長先生が持って来て下さいました

令和元年1月14日

令和2年度の10月6日、7日の2日間に渡って実施される職場体験学習の依頼状を、関ヶ原中学校の校長先生がわざわざ持って来てくださいました。(私自身は就労支援の関係で笠松町に午前中出掛けていて、お会いすることは出来なかったのですが。)

平成18年以降、介護職員の確保が難しくなってきており、最近はますますその傾向が顕著になっている中で、中学生の体験学習の依頼を受ける為の準備をして頂いていることに先ずは感謝です。午前中も、採用する範囲を広めたいとの思いで出掛けて、足掛かりを築き上手くマッチングが出来る根回しをしてきました。また、体験学習については地元の中学校2校の連名で依頼を受けれたのは大変ありがたいし大切にしていきたいと思っています。

岐阜県高齢者福祉策定会議においての介護人材不足の想定は、毎年千人ずつの不足が予測されています。中学生の内から介護に興味を持って頂く為の企画をして頂ける事は大変有りがたいし、今後の展開に明るい光を与えて頂けるようにも思いました。『介護』に対するイメージが『汚い、きつい。給料安い』の悪いイメージの3Kではなくて、やりがいを持って出来る仕事であることを体験学習で理解して貰い、将来の介護の担い手に一人でも二人でもなって頂けたら素晴らしいと思います。ロボットやAIが将来的に発達して職業として成り立たなくなる業種が出てきたとしても、介護の仕事は淘汰されるべき業種ではなくて、ますます担い手を欲する業種だと思います。

私は午前中の就労支援の話の中でも「介護は優しさと一生懸命さがあれば素晴らしい介護者になれる。その一生懸命の一貫の中で資格を取得することは出来るし法人としても資格取得の支援は惜しまない。」とも話をしました。頭で介護をするのではなく、ハートでするもの。当法人では、現役で卒業した中卒の職員もいますし、岐大を8年で卒業出来なかった者、DVの被害から逃れて当法人を頼ってきた者、インドネシア人のEPA介護福祉士候補生、ベトナム人の留学生、高齢者雇用、障害者雇用などなど多種多用な人材が職員になっています。私は杉和会理事長としての採用基準は『優しくて一生懸命な人材』と決めています。色々な事情で勉強が出来なかったと言うのは全く意に介さず採用してます。いくら成績が良くても人の痛みがわからなかったら決して介護を志すべきでないと考えています。

しかしながら、そのような者を最初から排除するのではなく、職員同士の温かみの中で築いてくれれば良しとしてます。だって色々な人がいて集団を構成するのだから。全く受け入れれない者は自ら気が付き淘汰されるものだと考えているから。だって、福祉は性善説で成り立っているのだから。リピーターの皆さんこのような考えの私が理事長をしている施設に一度来て頂ければ嬉しいです。

 

明日からは本格稼働していきます

令和2年 1月13日

12月29日の夜(餅つきで火の番をしていた日)の夜に内臓が出てしまうのではないかと思える位の咳をして、30日に大切な方への陳情を済ませて病院に飛び込んだ次の日(大晦日の日)は38℃以上の熱を出しました。翌日元旦からの三が日も咳と熱に悩まされ、ようやく4日の日に関ヶ原診療所で診て貰い5日間の入院をして、気が付けば本日は13日で、自分の体調と相談しながらの勤務をさせて貰いましたが、連休明けの明日14日からは本格稼働をしていきたいと考えています。

残念ながら1月10日に行われた全国老施協の各委員会の予算査定の会議には出席できなかったのですが、明日からの頑張りで、施設の事も、全国老施協の事も挽回していく覚悟でいます。

明日14日は就職支援の一貫で笠松町まで出掛けますし、15日は岐阜県老施協正副委員長会議が予定されているのでしっかりと成果をあげたいと考えていますし、10日の日に大吟醸の振る舞いの時に「理事長さんに正月会えなかったので寂しかった。」と言われていたので、『明日からフル稼働するのなら、今まで以上に施設内をしっかり歩いて入居者さんや職員にしっかり挨拶をして回ろう。』と考えています。有言実行が私の真骨頂。頑張りますのでリピーターの皆さんが見守って下さったら嬉しいな。

話は代わりますが昨日ニュースで大相撲の取り組みを久しぶりに見て『トホホ』と『凄い』の2つの事で感心しました。

一つ目の『トホホ』については、相撲取りの中で、お風呂の脱衣場にある鏡に映った私の上半身とそっくりだったのです。確かに私は中学生の時にガリガリだったのであんこ型の若秩父に憧れていたけど、50年後の今の現実にはやっぱり『トホホ』です。いやいや悲観ばかりしてないで、『お腹ぽっこりをなしにするぞ。』と豆腐のような決意をしている宏くんです。

『凄い』の話は身長が168㎝の子どものような炎鵬が大人のような相撲取りに戦いを挑んで見事に勝利を勝ち取ったのには、思わす『凄い』です。しかし、柔が剛を制するのは痛快ではありますが、炎鵬の足腰の強靭さは簡単に出来たものではないと思いました。つまり、努力の勝利と言う事でしょうか。

話は変わりますが横綱白鵬が年内で引退するとの報道がありましたが、私の考えの中には『引退』は簡単に口にするものではないと思うのです。引退を口にして相撲をとるのはお客様に失礼ではないかと思うからです。何故なら、真剣勝負なのに、魂をぶつけ合うのに「私は今年中に引退するのです。」は頂けないと思うのですがリピーターの皆さん、私の考え方についてご意見頂けたら嬉しいです。

令和2年度になるまでに整えておきたい体制

本日は本館の事業開始から23年目を迎える前のこの2ヶ月半の間に整えておきたい事について述べてみたいと思います。

当法人の顧問であるびわこ学院大学教授の烏野猛先生は私と二人で話している時には常に「若山会長はどんなに頑張っても一人です。若山会長が5人も杉和会に存在していたら、天下無敵の組織を作れますが、残念ながらそんなことはありえません。だから先生の考えを理解して少しでも頑張れる人材を育てていくしかないのです。」と言われます。

そんなときに私は悔し紛れに「ドラゴンボールの悟空のように分身の術を身に付けれたら」と返すのですがそれは叶わぬ事。事ある毎に職員に(特に幹部職員に)私の思いを語り続けています。

そして、平成26年4月に組織を分けても大丈夫だと考えて優・悠・邑  和合の事業開始をして、烏野先生流の言い方をするならば『アメーバー方式』で組織を倍にすることが出来ました。そして昨年の11月頃から私は『平和ボケ』と言う言葉を口にするようになり、この平和ボケ状態からの脱却をすべきかを考えてきました。そしてその大枠的な考えが出来てきたので、これからの2ヶ月半でその考えが具体的に機能するためにうごめきたいと考えています。

その大枠とは、

1つ目には何をするにもお互いが牽制し合い正しい方向を常に目指していく事。

2つ目には、係長以上の役職者にはそれぞれが一つトップを担う役割を持ってもらう。勿論最終的には理事長・統括施設長である私が責任を取る形を整えていく。

3つ目には新しく入った職員でも間違いなく動ける為のハードの充実を図る。

確かに今までもこの体制に近いものを展開してきたが、いつのまにか形骸化してしまってきたと思います。常に私は『継続は力なり』と言っていながらできえなかったのは『牽制する体制の甘さ』が私も含めてあったからだと思います。確かに本部施設の月一回のバイキングも昨年暮れに行われたクリスマス会や餅つきもなんなく出来るだけの力は出来ていますが『何となく』ではなく『間違いなく出来る』にする為には、一本筋の通った手法の継続なければと考えています。確かに10年以上の経験ある職員が各エリアに確実にいるので、何とはなしにできてしまうことが殆どなのでしょうが新人の失敗をフォローするだけではなく、思いを一つにして今流行りの言い方で言うならば『ワンチーム』で笑顔に満ちた生活になるように年度が代わるまでにしていきたいと考えています。

リピーターの皆さんワンチームで頑張りますのでこれからも宜しくお願いします。

病院に来てます

令和2年1月11日

1月4日から5日間関ヶ原診療所に入院したアフターケアとして、診療所に来てます。先ずは血液検査をして、退院時からCRP(炎症反応)の数値や肝臓の数値のガンマGTPの数値がどこまで下がったかを測定してもらって結果が出てから主治医の森島先生に診て貰う為に今は待合室で待っています。昨日お屠蘇として、大吟醸『きりんざん』を振る舞い入居者さん、利用者さんから元気を頂いたので、多分数値は下がっていると思いますが少しドキドキしてます。ただ、事前に測った体温、血圧共に正常値なので大丈夫と思っています。待合室でコラムを打っていると小学3年から中学卒業までずっと同級生(1学年1クラスだから当たり前の事ですが。3年生からと言うのは1、2年は分校があった為に別だったから)だった方が母親の受診の付き添いで来ていて、昨年暮れの同窓会の話をしていたりしていたら、「ひろっちゃんは凄く頑張ってるね。」と言われたので、「ぼくは13歳で母親を38歳で父親を亡くしていて、親孝行をするような事が出来なかったので、今地域の利用者さんを親のように思って頑張らせて貰っているんや」と話すると、「私は母親一人でも大変やと思ってるのに大したもんやわ」と言われて『中学校時代に出来が悪かった事を知っている同級生からこのように言われて嬉しいような恥ずかしいような気分やな』と思っている時に同級生の母親が突如会話の中に入ってきて「あんたは小さい頃体が弱かったのに今は立派になって。施設に遊びに行くと楽しいことを一杯やってくれてありがとうね。」と言われてこの時も頑張ってきて、地域の中で頑張れていることに改めて感謝です。本日は18時から施設がある地区の新年会で本来なら私も職員を引き連れて参加させて貰いしたたかお酒を頂くのですが、退院してまだ3日目で『ここは自重すべき』と考えて、新潟県と石川県の冷酒の美味しいのを一升ずつと缶ビール24本入り1ケースと山梨県の勝沼ワイン赤白一本ずつを職員に持たせて17時40分に会場入りをして、先ずは区長さんに新年の挨拶と新年会はご無礼することを伝え、次々とおみえになった方にお断りの挨拶をして帰らせて頂き、今はお風呂に浸かってコラムを打っているのですが、診療所から帰ってお汁粉の振る舞いが順調だった報告を受け、昼食後に地元の天満神社、白山神社、若宮神社(若山家の氏神様)と妙応寺と若山家のお墓に参り、まだ時間があったので美濃国の一の宮である南宮神社もお参り出来ました。私の本格稼働は連休明けと考えていたので、例年以上にお参り出来ました。年末年始に病気をして『ゆっくりすべし』と居直った事により沢山お参り出来たのは『災い転じて福と成す』でしたので、リピーターの皆さんこんな生き方の私をますます応援していただければ嬉しいです。

十日正月でお酒を振る舞いました

令和2年1月10日

(本来元旦に行うべき楽しみが、私の体調不良で本日になってしまいましたが)10時からお酒を振る舞うように9時過ぎに施設に行くと既にお屠蘇用の準備が出来ていて、先ずは「ありがたいなぁ」と思っていると突然の年始のご挨拶のお客様で、会議室で話をしていると10時前になり、職員が「入居者さんが理事長を待ってみえますからお願いします。」と言われお客様にはお詫びのご挨拶をして、入居者さんのところに行き、皆さんの前で「新潟県の大吟醸『きりんざん』を頂いたのを皆さんに飲んで貰いたくて残しておいたのを持って来たのでこれから封を開けて飲んで頂きます。飲みきれないほどありますのでゆっくり味わって下さい。」とお話をして、お屠蘇用の器にお酒を入れて3種類の盃を持って注いで回る事にしました。

最初にお酒が大好きな男性の入居者さんに「一番大きな盃になみなみ注ぎますよ。」と言いながらお酒を注ぐと、手伝っていた職員が思わず「めっちゃ嬉しそうな顔をされている。」との発言にそこにいたみんなが大爆笑。あまりに飲みっぷりが良かったので二回もおかわりをして貰いました。

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飲まれない方には抹茶のサービスがあったのですが、しっかりと一人ひとりとお話させて貰いました。今年初めての方が殆どだったので新年のご挨拶をすると「理事長さんが元気がないとみんなが寂しいから健康に気を付けて」と言われたりして。デイサービスの利用者の女性の方の中で「私がお酒を飲んでいる時に理事長さんと二人で写真を撮って欲しい。」と言われて美味しそうに飲まれているツーショットがとれたり、順番を待って貰っている時のワクワク感がこちらに伝わってきてめっちゃ楽しい気分にして貰いながら、「のんべーさんには一番大きな盃で」等と言いながら次々と注がさせて貰いました。

最後に参加されたデイサービスの利用者の男性の方にお酒を進めたのですが最初は「私は結構です。」と言われていたので色々な話をしていくと、利用者さんの方から「せっかくだから一杯よばれようかな。」と言って下さったので一番大きな盃になみなみ注ぐと「これは美味しい酒やな。久しぶりにお酒をよばれたわ」と言われて実に美味しそうに飲まれたので「もう一杯どうですか。」と声を掛けると「もう一杯よばれても大丈夫か?!」と言って実に嬉しそうにお酒を注がれて飲み干されたので「やっぱりお酒は良いもんだ」とつくづく思いました。

1時間30分の時間の中で4合瓶1本が空になっただけですが、皆さんの目の輝きを引き出せたのだから私も病気などしないで今年一年楽しい企画を沢山実践して『今日一日楽しかったよ』と言って頂けるように職員一同頑張りますのでリピーターの皆さんも一緒にワクワク感を共有して貰えれば嬉しいです。あっ、そう言えば明日11日は『鏡開き』だった。今日は辛口、明日は甘口でパラダイスのような施設にしていきまーす。

28年ぶりに児童養護施設の現場を垣間見ました

令和2年1月9日

就労支援の情報交換の一貫として、児童養護施設の現状を施設長と心理士と就労支援員の3人の話を聞いていて、私が児童養護施設を辞して28年。入所している児童も措置理由が様変わりしていて、その体制をとる為の職員の配置も手厚くなっていて思わず私は『正に私が28年前にやりたかった事が制度の中で行われている事を知り、28年前の私が今存在していたら、今日発表された方の何倍も力を発揮出きるのに』と思ってしまいました。但し、今の児童養護施設の流れは『集団を小さくすることで家庭的な雰囲気を醸し出し、出来たら養子縁組と在宅復帰を目指す。』と言う事なのでしょうが、現実は親の支援が型通りにしか出来ていなくて、また、相も変わらず『施設お嬢様』『施設お坊っちゃま』を排出する段階から抜け出せていないように感じました。

私が10年程前に、高校には2ヶ月位しか在籍せず中退した女の子をその当時の児童相談所の所長さんから以来を受け児童養護施設から本部施設の敷地内の職員アパートに住まわせ厳しく育て、「年明けの成人式には着物をこしらえるかレンタルにするか」などと話をしていた(約3年で200万円程の預金もあったので)ある日、本人が体調を崩し病院に行き、「母親がいる更正施設には電話をつながない」との約束があったのですが3年の経過の中で引き継ぎが出来ていなかった為に母親との連絡が出来てしまい、病院へ母親が迎えに行き、本人と共にタクシーで乗り付け施設を出て行き、母親とは本人のお金がある間は上手くいっていた(表面上)がなくなると喧嘩が始まり、結局2ヶ月もしない内に別れ別れで再び当施設には帰る事が叶わず(私は迎え入れるつもりでしたが)その後行方知れず。

本日の情報交換会で私は質問しました。それは、「日本の親権ほど強いものははなくて、その点に対する対応はどのように対処されているのか」と質問しましたが、結局はしっかりとした答えが返ってきませんでした。情報交換会の後、主催者責任者の福祉事務所の課長さんがご挨拶に来て下さったので、「当法人は色々な方に門戸を開いている」と話をさせて貰いました。

その後施設に帰り本日寄せ鍋のバイキングだったので入居者さんの喜ばれる顔を見て、その後厨房業者の責任者と話をしたりしていると、年始の挨拶にお見えになる方がバタバタ続き、一段落してから決済印を本部と和合の両方の事務長にして、利用者さんの領収、請求の印も押し理事会の日程や新年会の日程を決めたりと、病み上がりの身としてはハードな日程でしたが何とか一日頑張れましたので、その勢いで明日は東京出張はキャンセルしたので『十日正月』と決め込んで大吟醸のお酒を入居者さん利用者さんに振る舞おうと考え、どんな風に喜んで貰えるかを今からワクワクでイメージしてます。

リピーターの皆さん。私は令和2年の本格稼働をようやく本日できましたので、本日から仕切り直しです。本年も相変わらず、ず、ず、ずいっと宜しくおたの申し上げ奉ります。

 

無事に関ヶ原診療所を退院しました

朝6時から30分置きに4回、採血と採尿をしてから朝食を頂きその後、入院最後の点滴を終えて入院メニューを全て終えて退院の片付けをしてからナースステーションに挨拶をしてエレベーターのところまで看護師さんに見送って貰い、一階に降りて入院の清算をして無事に家に帰り先ずは仏壇に手を合わせ早くに退院出来た事に感謝をして、昼食の準備が出きるまでに待望のお風呂に入り体をしっかり洗い、シャンプーで頭を三回洗いさっぱりしたところで10日ぶりに髭をそりました。私は男性ホルモンが少ないからか大して髭は伸びていなかったのですが石鹸を付けて丁寧に剃りました。久し振りの昼食の赤味噌の味噌汁は格別に美味しかったです。(退院報告はここまでにして、昨日見舞いに来てくれた姉春子さんが私が小さかった頃の写真を持って来てくれた時の事を書きます。)写真のところには父進さんの達筆な字で私が生後半年の時に『全快した宏』との文字があり、待望の長男が小さくして大病を患ったが無事に退院をした喜びがわかるもので、私は退院間際だったにしてはふくよかに写っていました。また、40歳半ばの父進が写っているのは既におでこのところがしっかり薄くなっていたのには姉春子と共に笑いました。そして父進さんと母秋江さんの結婚式の写真を見て私は思わす「髪を伸ばした(父進)写真を初めて見た(オールバック)」と叫ぶと共に「秋江さんはめっちゃ綺麗やな。親父が石垣の影から見て一目惚れして、垂井からわざわざ婿養子にくるわけや」と大笑いしてしまいました。姉光子さんと春子さんとのツーショットもありましたが、60年以上前の写真を見て改めて若山進家の長男として生まれた私は本当に大切な存在だったんだと思うと共に姉春子さんに「小さい頃春子さんはよーくふくれた顔をしていたね。」と投げ掛けると「今は丸くなったけどあの頃は私だけ除け者みたいですねとったんやね」と言ってから「誰一人どうでも良い子何ておらんよね」と言われて改めて思いました。『つまらないと思っていても一日。楽しいと思いながら過ごすのも一日。だったら笑顔でいられる事に感謝した毎日であれば良い』と思いました。このような会話が出来たのも私が入院をして得られた事。たまには入院も良いかな・・・。いやいや健康で楽しくでないとと病気をして健康のありがたさを改めて知りました。大谷徹奘師の受け売りのような締め括りになりましたがリピーターの皆さん災い転じて福と成す。私の真骨頂です。明日から一皮剥いた展開をしていきますので宜しくお願いします。※私は巳年なので色々な事があればある程皮を剥いて大きくなりますので・・・。

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