運動不足の為か

令和元年10月26日

最近は施設にいると来客者も多く、お客様とお話をしている時間が長くてそんな時は当たり前の事ですが座っています。だから、頭は使っていても体は当然ながら殆ど動かしてない。ガラケーの携帯の万歩計の歩数も全く伸びない。頭から疲れるのかやたら早い時間から眠くて、22時には爆睡。しかしながら体は疲れていないためか午前4時には目が覚めて、如何にも早すぎるのでベットの中で色々な事を考えているとますます目が冴えてきて、朝食の時間までウダウダしている生活リズムになっていて、体を休ませているつもりがかえって体が怠い感じがして、活動的にプロレスラーの誰かさんのように「ファイヤー」とか何とか言って活動的な方が私の生活リズムにはあっているのではないかと考え6時前には起きて久しぶりに我が家にあるウォーキングマシンに乗り歩きながらお経をあげて、父進、母秋江、姉光子、養母英子の写真を見つつ一人ひとりとしっかり話をしました。

そして久しぶりに良い汗をかきましたので、お風呂に入りさっぱりしてから朝食を頂きました。本日は午後から職親プロジェクトの研修が笠松町であるので参加して、介護職の人材不足と社会貢献のマッチングが上手くいく為には何を成すべきかについて理解すると共に次への手を打つ為の意見もしっかり述べていきたいと考えています。

人材確保に対する私の自論は人材への裾のを拡げて確保をして育成し長く勤めて頂く事だと思います。午後からの研修も社会的適合が出来ない、或いは頼るべき人がいないために働く意欲をなくしている場合も多々あると元児童指導員の私は思っていて、今は私も採用する立場でしかも、本部施設の敷地内にアパートがあり(1Kで20部屋)アパートの管理を任せれる職員もいる状況と私自身も含め職員の声掛けの体制を取り負の連鎖を少しでも防ぐ事が出来ればと考えています。(ここまでは研修に笠松町に行く前の原稿です。次からの原稿は明日の当法人の理事会資料の作成後の19時20分からのものです。)

『地域で支える~生きづらさに寄り添って』のテーマでの最初にアオバ住宅社代表の齋藤瞳さんの講演があり、私は26歳で何の知識も無い児童養護施設の世界に飛び込んで、がむしゃらに子ども達と向かい合い頑張った13年の思いが走馬灯のように蘇りました。講師の先生は立ち上げて4年でマスコミも取り上げられたようですが、今の思いを大切にして継続は力なりでこれからも頑張って貰いたいと思いました。

後半のパネルディスカッションではパネリストの一人であったアルファリング代表の有田朗さんの考え方に共感したので研修終了後に名刺を持って挨拶に行くとお互いに共感することが多くあったので、別れ際に「一度施設にお伺いしてゆっくりご教授していただきたい。」と言われたので「是非来て下さい。」と答えました。人と人との関係を大切にすることこそ私の真骨頂。本日の研修の成果を今後に繋げていきたいと考えていますのでリピーターの皆さんも今後の展開を楽しみにしていて下さい。

 

車上狙いのニュースを見て思った事

令和元年10月25日

  今朝の車上狙いのニュースの中で「ほんの5分くらい車から離れるだけだから大丈夫だと思い財布を置いたまま車を離れて被害にあった。」とのコメントがあり、その被害額は80,000円以上との報告がされていて、色々と思う事があったので、コラムの原稿にしました。

  一つには、私なら例え5分であっても絶対に財布を車の中に置いて出る事はないな。ましてや80,000円の大金が入っている財布を。確かに財布はブランド品の高級財布だったように映っていました。そこで思う事は被害にあった方にとって80,000円はどのような感覚なのかな。私がその立場だったら例え5分であっても車の中に置く事はないなと。勿論お金は肌身離さず持っているよな、と思いました。私だったら財布が助手席側にあったら落ち着かない気がします。

  この記事を見た時に私は全く違う事も考えていました。それは、平成26年4月に事業開始した優・悠・邑和合で経費節約の為に「必要以外の電気は細目に消すように。」と何度も話をして、気が付いた時には嫌味な位に指摘していたのですが、ある日、職員が食事をする部屋に誰もいないのに電気がついていたので事務長に指摘して「注意しておきなさい」と言うと、後ほど事務長からの報告で「ほんの少しの時間で帰るつもりだったので点けたままにしておいたとのことです。」との報告でしたので、いつもの口癖である「予定は未定であり決定ではない。つまり、『直ぐに戻るから』と言っても、行った先で想定外の事をしなければいけなくなるかもしれない。だから、誰もいなくなる部屋は電気を消す習慣をつけるべきだから今後徹底しなさい。」と話をしました。『電気一つくらい』がたくさんの電気がある施設では大きな金額になる。お互いに注意して電気を消す事により節約出来たお金で楽しい企画が出来たら素晴らしいと考えています。

この考えに至ったのは本部施設の立ち上げ時には電気を消すと言う概念に乏しい職員が多くて、頑張って消すことによってコストカットできた分が月に200,000円をクリアする事ができたら、年間2,400,000円の削減になりその原資は、入居者さん、職員、法人に3分割して有効活用して行こうとの考えから始まりました。

その意識付けは意外なところにも成果を上げました。それは、電気を消す行為の中から『考える』『気づく』事を身につける事が出来るようになった事です。和合の施設は今は本部施設以上に経費削減に気を使っています。「本部以上に」と敢えて書いたのは、本部施設も22年目を迎えてがむしゃらの時期から安定した運営になってから入職した職員も多く、がむしゃらの時代の思いが浸透していない職員も多くなったように思いますので、今回、『車上狙い』からとんでもない話題になってしまいましたが(いつものことかな)初心に戻り当たり前に出来た事が当たり前には理解してない職員に伝えていく為に、幹部職員が汗をかくことを徹底していきたいと思います。「一歩後退二歩前進」なら良いのですが「二歩後退一歩前進」にならないように。いやいや「前進あるのみ・・・」これは難しいですが出来るだけそのような舵取りの為に頑張りますのでリピーターの皆さん見守りと援助を今後とも宜しくお願い致します。

 

DWATの派遣に埼玉県川越市に当施設から二人が参加します

令和元年10月23日

台風15号、台風19号の洪水被害により、川越市にある施設が甚大な被害に遭い、全国老人福祉施設協議会からの依頼を受け10月29日から岐阜県老人福祉施設協議会で1チーム5名が参加します。その内の2名が当施設の職員です。(特養から1名、デイサービスから1名)本日施設に全国老人福祉施設協議会から私宛に宅急便が届きました。宅急便の中身は『ビブス」と書いてあったので、事務所の職員に「ビブスって何なの」と聞くと「D-WAT派遣チームのゼッケンのようなものと違いますか」と言うので取り敢えず荷物を開いてみるといわゆる『ビブス』なるものが5枚入っていました。

但し、『ビブス』なるものだ5枚入っているのみだったので、敢えて「鬱陶しい奴」と言われることを覚悟しつつも私は全国老人福祉施設協議会に電話をしました。その内容は「施設長である私宛に送るのであれば『ビブス』のみを入れるのではなく一文があって当然でないですか。担当者が全国大会を来週に控えて忙しい事は理解しているが忙しいのと礼儀は別物だから上席者がしっかり指導すべきではないか。」と話をしました。

私はクレーマーのように言っているのではなく、職員の入れ替えもあり慣れない職員の対応であればこそ『鉄は熱いうちに打て』的な発想で話をしました。電話を終えて10月29日から川越に行く職員が2人共にいたので激励の意味も込めて『ビブス』を着て記念撮影をしました。

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勿論2人の職員は気持ちよく勤務変更に応じてくれた職員がいたからこその参加であるので施設の代表であり、岐阜県老人福祉施設協議会の代表であるので改めて頑張って来て欲しいと2人に話をしました。

さて、近年は毎年のように大きな災害が起きていて今回D-WATで参加する伊藤係長は東日本大震災の時にはいわき市に2か月間通しで行き、北海道胆振地震の時も参加していて今回3回目の参加で古川係長の北海道胆振地震に引き続きでの参加です。私は災害はいつ、どこで発生するかわからないので、法人としての準備や対策を講じるのは当然の事と考えていますが、『想定外』だったと結果論で後悔しない為に、対応に苦慮されている施設に積極的に参加させて、自分の所が困った時には「岐阜県なら何とかしなければ」と言って頂けるような体制を整えていかなければいけないと考えています。実際に自分の所が被害に会った時には「勤務外です」等とは言っていられないのですから。

だから、昨日の岐阜県老人福祉施設協議会正副委員長会議では、「職員の理解と協力を得て、D-WATの派遣の第二弾、第三弾の要請があっても良い体制を整えていきたい」と会長として発言させて頂きました。リピーターの皆さん私の思いを理解して家庭での備えをしっかりしておきましょう。「あっ、我が家の備えがどうなっているのかわっかりませ~ん」

『Wedge(ウエッジ)』10月号「再考働き方改革」に思う

令和元年10月23日

『「時短、育休延長、テレワーク、フレックスタイム・・・。」日本企業は今、働き方改革の真っ只中にある。政府も「一億総活躍社会」の実現に向け、企業の実現に向け、企業の改革を後押しする。(中略)しかし、改革を進める一部の企業からは、働き方改革を疑問視する声が上がる。「改革自体が目的になっていないか。本当に生産性は上がっているか不安だ」「残業代のつかない課長にじぶんたちの仕事を肩代わりしてもらって、早く帰らされるのに違和感がある。」「時間削減に繋がる仕事が出来ていない。」などさまざまだ。」』との書き出しを読み、私が日頃働き方について思っていることを書くことにします。

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かつては、私が営んでいる介護事業では、『結婚=退職』というイメージが根強くありましたが、当法人では事業所内保育所を平成20年度の当時の21世紀財団の補助金を活用し、作りました。そのため早くに働きたいと言う職員は子どもの授乳の時間を確保して安心できる職場環境を整えていきました。また、子育てを優先したい職員には時短の環境も整えました。つまり、一日8時間勤務のところを6時間にして給与については8分の6の支払いと言うシステムです。但し、最近の傾向としてなかなか結婚する職員がいなくて保育所は開店休業状態なのですが・・・。

但し、介護業界で働く時間を少なくする為には職員の数を増やさなければいけないのですが、介護報酬の見直しで人件費増の配慮も必要ですが、そもそも介護人材の絶対数が足らない中で何をすべきなのか悩ましい話です。当施設の職員は結婚もしない代わりに退職もしないので何とか頑張れていて、今回の台風15号、19号による水害被害による支援に2人の職員を出すことが出来たのですが、本日岐阜県老人福祉施設協議会の正副委員長会議で「勤務割を考えると研修に出すのもなかなか難しい。」との意見が出て、私自身「この窮状を打開するには色々なハードルを越えなければいけないな。岐阜県老人福祉施設協議会会長として、全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会委員長としてやれる手立てについては精一杯していかなければと考えています。

『働き方改革』を否定するものではありません。ただ一つ懸念しているのは、私も教育者の末席にいたものとして疑問に思っていることと重ねてみたのですが、『ゆとり教育』が標榜されてその結果教育界に何が起きたか。言うものがなではないでしょうか。仕事に対する責任が芽生え憎い職場環境は許されないものだと思っています。意欲のある若者の芽を摘むことなく日本の将来が明るいものになるために耳障りの良いことばかりを羅列するのではなく現実を直視して展開していくことこそ大切だと思います。意を尽くしませんが、リピーターの皆さん私の思いを少しでも汲んで頂けたら幸いです。

 

『肉親とはどこまで』をパソコンで検索すると

令和元年10月22日

「一般的に『肉親』って言うとどこまでが肉親に入るのでしょうか?自分の親、兄弟だけ?夫の父、母も入るのでしょうか?肉親って身近な血族の事を言います。親、子、兄弟、祖父母、孫など2親等くらいだだと思います。」とありました。そうだとすると、私の子ども(長男の誠、次男の諭と孫の翔の他の肉親と言うのは私の直ぐ上の姉春子さんだけだと言う事に今更ながら気が付くと共に、父進、母秋江、姉光子のことはこのコラムに何度となく登場しているのに次兄姉である春子さんの事は殆どいやいや全く登場していない事に気が付きました。

考えてみたら『肉親』の中で一番長く存在しているのに。そこで、姉春子さんの事を書こうと考えていると久しぶりに施設に来て帰ろうとしている姉春子さんの顔が見えたので玄関先まで追いかけて話をしました。私が「最近コラムに進さん、秋江さんは、光子さんが良く登場しているのでそろそろ春子さんの事を書こうかと思ってるんだけど。」と話しかけると姉春子さんが「この間のみっちゃんがおんぶして学校へ行った時に私がアンカを持ってたのに書いてなかったよ。」と言われたので思わず私は「記憶にございません。」と答えると姉春子さんはプリプリしながら「おかしなこと書かんでね。と言って施設を出ていきました。

そして改めて記憶は曖昧なものだと思うと同時に、姉春子との記憶を辿ってみてコラムのネタにすることにします。姉春子さんは父進、母秋江の間に産まれた3人の子どもの真ん中で上に姉がいて、下に弟(私の事です。)がいる文字通り『いじけたり』『すねたり』する環境だったようです。私にとっては姉光子は甘えれる存在で、春子さんは怖い存在だったと思うし、姉春子さんの事を思い出すと『拗ねて、膨れた顔』ばかりが思い出されます。

そして私が、中学1年の5月のゴールデンウイーク後に腸ねん転の手術を関ケ原病院(今は診療所)でして久しぶりに学校へ行って英語の授業が全く分からず姉春子さんに教えて貰ったのですが、あまりに厳しい教え方だったので次に教えて貰おうとは思わなかったのを今でも覚えています。私にとってはあまり良い思い出のない姉春子さんですが、私が高校2年の4月に唯一甘えれる存在だった姉光子さんが結婚半年と言う時にくも膜下出血で23歳の若さで急逝してからは『厳しい』姉の存在が一変してお互いに支え合う仲の良い兄弟になったのです。

私が44歳で優・悠・邑を立ち上げる前後は陰に陽に助けてくれましたし、施設を立ち上げてからの2年間は厳しい状況が続きましたが、この時も支えてくれたありがたい存在です。施設を立ち上げそれなりの存在になり、最近の姉春子さんとの会話の中で春子さんから「最近は沢山の方からお兄さんが頑張っているね。」と話しかけられる。」と言うので「4学年も上の姉に私が年上だとは言われたないで」と言うと姉春子さんはニコニコ顔で「だって私が若く見られている証だから。とぬけぬけと言うのです。でも姉光子さんの死によって春子さんの生き方が変わり幸せな生活をしているのだから人生は分からないものです。とにかく、これからも仲の良い姉弟でいたいと思っています。

 

 

ラグビー準々決勝をテレビ観戦して感じた事

令和1年10月21日

ラグビーワールドカップ日本大会予選は日本が大会前の予想を覆す破竹の勢いで4戦全勝で勝ち上がり日本中に「もしかして世界制覇」と大いなる期待と錯覚をもたらした中での準々決勝が昨夜行われ全くラグビーのルールも知らない私も試合を観てしまいました。ただし、事前の予想をする方々が勢いの中で『絶対に勝てる』的な騒ぎ方をされているのにはやや懐疑的に見ていました。そして、その思いは試合前のセレモニーで確信に変わりました。その理由は国歌が流れてきた時に日本の選手の何人かが泣いているようにみえたからです。そして、南アフリカの選手は『これでもか』と言う位に大きな口を開けて歌われていたのです。この光景を見たときに私は『戦わずして負けたな』と全くラグビーの知識がない私は思ってしまいました。試合前の予想する方の中に「南アフリカの選手は重量級ばかりなので後半はバテて動きが悪くなった時がチャンスだ」等と勝手な事を言っているな等とも思いました。そして試合が始まった早々に南アフリカにトライを決められ5点を先行されました。予選でも先行を許す事が多かったので私もここまでは『いつものパターン』と見ていたのですが、スクラムを組んでいるときに南アフリカに押されっぱなしのように思えた時に「予選とは違うな。日本に対してマジできている」と思いました。勿論予選を相手国が手を抜いてきたわけではないのでしょうが長期的な戦いを考えた作戦にたったものを相手国は考えた戦いをしていて、日本は一戦一戦を最大限の力を出し切った戦いだったのではないかと素人の私は勝手な評論をしてしまいました。そして、南アフリカは後半になっても予想に反して縦横無尽に走りパスをつなぎトライをもぎ取って行きました。その時に私が注目したのは南アフリカの陣容は選手が綺麗に横一線に戦っているのに対して日本の選手の陣形はバラバラなように見えました。「これでは日本のお家芸であるチーム力を生かした戦い方ができていない。それどころか南アフリカに日本のお家芸を取られてしまっているな」と思った次第です。しかしながら、試合終了のホイッスルがなる瞬間まで手を抜かず全力を尽くす姿には感動しました。(ここまでの原稿は朝4時に目が覚めコラムを打ちたくなり5時過ぎまでに打ったものです。)

私はラグビーの事を全く知らないので私の見方が正しいのかがわからなかったのですが、朝の報道番組を見ていて「ベストエイトに入る事がラグビーの世界では大変な事で素晴らしい事だったんだ。」と気付き私は選手達の前回大会から4年間の血の出るような努力を理解せずに語った事を恥ずかしく思っていると同時に何も知らずに叱咤激励をしていた自分に対して恥ずかしさを覚えると共に自分が限界まで頑張っている時に「もっと頑張れ」と言われた時の焦燥感を思い出しました。そして改めて何事も全力を尽くした時の美しさを今回の日本のラグビーに感じました。しかし、本音で言えば「もう少し長く観ていたかったな。」と正直思いました。あっ、これは日本中の本音だったか。でも、選手達は新たな歴史を打ち立てたので、次のステージを見させてくれると信じてます。決して日本大会だったからと言う事のないことを信じています。最後に楽しい夢をありがとう。インターネット上の情報ですが昨日のNHKの実況放送の視聴率は40パーセントを越えたとの事。これは間違いなく日本中に夢と期待を与えた数字だと思います。一見乱暴な格闘技のようなスポーツにみえる競技でしたが実は激しいスポーツだからこそマナーがしっかりしているのだと理解しました。まだまだルールもしっかりわかっていない私ですが引き付けるものを応援していきたいと思います。日本の選手の信じての血が出る程の練習の結果を私も見習っていきたいです。

古き良き時代の甘えん坊。その名はヒロシ君

令和元年10月20日

虚弱な私が小学校に入学して1年生から3年生までの担任の先生は塚原先生と言う女性の先生で甘えん坊のヒロシ君はその当時は日曜日にも『日直』のシステムがあり、塚原先生が日直だとわかると私の母親秋江さんに塚原先生とヒロシ君の二人では食べきれないくらいの食べ物を作ってくれて1日中塚原先生の近くにいてにこにこしていたように記憶してます。塚原先生は結構わがままな先生でその当時の学校給食に出てくる脱脂粉乳がお嫌いで飲まれないのを知っていて私は好きでもないのに塚原先生に褒められたい一心で塚原先生の分まで飲んだ記憶があります。こんな対応の仕方を小さい頃からしていたからでしょうか、相手の身になって自己犠牲ができるようになったのかとも思います。(つまり、アクションに無駄なし)塚原先生とは中学校を卒業して大学を卒業するまでは結構接点を持っていたのですがそれ以降は年賀状のやり取りくらいだったのですが、私が今の事業を始めて3年ほど経過した頃に塚原先生が住まわれている近江長岡での老人会の記念講演に講師として呼ばれた時に塚原先生も講演を聞きに来られていて、わざわざ控え室に来て下さり「宏君が高齢者施設で頑張っている事は聞いていて、あのひ弱だった『ひろっちゃん』が凄い事してるんやと嬉しく思っていたんやよ」とお声を掛けて頂いたのはとても嬉しかったのを覚えています。その後はお会いすることもなかったのですが、10年程前に塚原先生の妹をなのる女性から『姉が闘病生活をしていて、妹である自分が介護をするのにも限界があり、介護事業をしている私にアドバイス等を頂きたい』との主旨の手紙を貰い、次の日には入院先の病院に行きました。そこで、塚原先生から「妹に付き添いをして貰っているがずっとは出来ないのでなるべく早くに家政婦さんを頼みたいが何とか探して貰えないか」との事だったので、施設に帰り直ぐに関係する所に連絡してなるべく早くとの私の意向を受けて翌日に病院に行って頂く手際よさで対応して貰ったのですが、わざわざ大垣から長浜まで出向いて貰ったにも関わらず「まだ大丈夫」と返事されたと依頼した事業所から連絡を貰い、またまた直ぐに病院に駆け付け「そんなに都合良く手配していただけないのを無理して都合をつけて来ていただいた方を断るのは考えられない。私も面倒見切れません。」と言ったきりになっていて、ある時看護師の面接に来た塚原先生の住所近くだった方に動向を確認すると塚原先生は既に亡くなっていると聞き、酷いことを言ったきりになっていてそのままにしておいた事を悔やみその日の夜に先生のご自宅に訪問すると妹さんがたまたま家にみえてお線香と共にお経をあげさせて頂きました。頼られていながら中途半端な対応しか出来なかった出来の悪い私でしたが月に1度しか通って来られない妹さんによって家に入る事が出来たのは塚原先生も私にお経をあげさせお許しを頂けたのかと勝手な解釈をしているのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。

奇想天外な母秋江さんの事

令和元年10月19日

10月9日に母秋江さんの事について書いた時に「フィーバーフィーバー秋江さん」の奇想天外な事について書きますとお約束した事について本日、書くことにします。

私は小さい頃病弱だったのですがラッキーな事にその当時には『今須診療所』と言うのがあり、本多先生と言う女医さんがみえて、若山家の縁の下には酸素ボンベが置いてあるような事もありました。多分私は本多先生が今須に常駐されていたお陰で今があると言っても過言ではありません。そんな大切な本多先生なのに母秋江さんは息子の診察を丁寧に診て貰えなかったのが納得いかなかった時があり、診療所まで怒鳴り込み本多先生が我が家に見舞いの品を持ち謝りにみえた時には私も子どもながら驚きました。

病気がちだった私も何とか小学校に入学して5月に遠足があり母秋江さんは、虚弱な私が遠足に参加するのが心配だったのだと思います。ここで私の母秋江さんのフィーバーは、親しくしている同級生のお母さんを伴いその当時の事ですから(60年前)歩いてる一団の後ろをリヤカーを引きついてきたのです。その時の母秋江さんの論法は「我が息子の宏は全部歩く事が出来ないと思うのでいつでも乗れるようにしよう。但し、他にもえらい子は乗せるのだから文句ないでしょ。」と言うことだったと思います。この行動力は今須の生え抜きの娘だったからこそのものだと思います。このような事は後にも先にもこの一回だけですから。

そして、冬のシーズンになりまたまたフィーバーを起こしました。それは、前回のコラムで書いたように私の手足は冬のシーズンは霜焼けで大変なのですが、その当時の学校はコークス(石炭を再利用したもの)のダルマストーブで、その当時は安全策がしてなかった事に目をつけた母秋江さんは小学校の全学年分(6個分)の金網の柵を寄付する事をその当時の校長先生の所に行き話しすると共に交換条件を飲ませたのです。その条件とは①虚弱な息子である宏をストーブの一番近い席にする事。②豆炭アンカに足を突っ込める袋を作成し学校に持参しても良い事③霜焼けで靴も履けない状態になったら姉光子(その当時中学1年生)におんぶされて学校に行く事を許可する。と言うとんでもない条件だったのですが、母秋江さんの勢いに押されたのか全ての許可がでたのです。今だったら考えられないような事ですが息子を思う親心で叶ってしまいました。

その当時の私はそんな状況にも何の疑問も持たない軟弱な子だったのです。但し、ストーブの真ん前の席で足元には豆炭アンカがあり、授業中は『熱くて熱くて』先生の話は全く耳に入らず「早く授業が終わらないか」とばかり考えていました。また、姉光子さんにおんぶして貰うのを「楽ちん楽ちん」と思ったのは3日間位で、痛い足に我慢して靴を履き滅茶苦茶時間を掛けて学校に行った記憶があります。こんな母秋江さんは私が小学3年の頃子宮癌がみつかり、不思議な事に「もう駄目だ」と言う状況になると胃癌、肺癌、最後は骨癌となり、その当時の事ですから痛み止めはモルヒネしかなく錯乱状態になる事もありましたが、私が中学1年の12日の日には遺言のようにしっかりと「宏は長男だからお父ちゃんを支えなあかんし、これからは一杯種蒔きをしなさい。」と言ってくれました。私の自己本位的な考え方で言うなら、私にこの言葉を言う為に癌の転移を繰り返し痛みの中、モルヒネで頭が錯乱してでも生きてくれていたのかと考えると、母秋江の思いは半端ないと思っています。

リピーターの皆さん。私は今生かされていることに感謝して母秋江が生きれなかった分も生きて頑張りますので今後とも宜しくお願いいます。

 

 

昨日は全国老施協関東ブロック役員との懇談会がありました。

令和元年10月18日

全国老施協では今年度から全国8ブロックに出向き組織強化と会員入会促進の為に各ブロックのそれぞれの代表者との懇談会を持つ事になり、先陣を切って関東ブロックでの懇談会が東京飯田橋にあるホテルメトロポリタンで開催されました。

この企画の仕切りは総務・組織委員会なので委員長として参加させて頂きました。当日は全国老施協役員としては平石会長、鴻江副会長、大山副会長、峯田副会長、北條専務理事に参加頂きました。関東ブロックは東京都、神奈川県、 千葉県、埼玉県、群馬県、茨城県、栃木県、長野県、静岡県、新潟県の1都9県に政令都市も横浜、川崎を始め沢山あり、役員の方も沢山おみえになり、役員の中には本部役員をされてみえる方も多くおみえになりましたが、初めての方も多く参加されていたので、会議が始まる前に名刺交換をしてお話もしっかりさせて頂きました。

最初に関東ブロック会長の川邊先生が開会の挨拶をしていただき、先般の台風15号に引き続いた19号による被害が関東地区にも甚大で、全国老施協との連携もしっかり取りたいとの発言に今回の懇談会のキーワードの一つがあるように感じました。川邊ブロック会長に引き続き全国老施協の平石会長が挨拶され、新規会員施設の獲得の為に何をなすべきかをしっかり、この懇談会の中で理解出来たらとの挨拶を頂きました。その後、全国老施協の役員紹介を全国老施協総務・組織委員会幹事の田中君にして貰い、次に全国老施協の今後の展開について話題提供も含めて森岡副委員長にしてもらいました。その後は意見交換会になり、台風19号への援助体制についての話しについては、平石会長の他に静岡県の災害対策委員長と担当副会長の峯田さんが答える形で進んでいきました。私も全国老施協が推し進めているDWATの隊員として当法人の職員を派遣出来る旨を話ししたかったのですが、時間の関係で出来なかったのは残念だったので派遣要請している埼玉県川越市の役員の方に懇談会終了後直接お話させて頂いて、切実な問題だと感じました。

意見交換では全国老施協の問題点について厳しいご意見を頂きましたが平石会長は一つひとつ誠意を持って答えて下さり素晴らしい懇談会になりました。但し、この懇談会はこれで終わりではなくて、意見集約をして、今後の展開に生かしていかなければ単なるガス抜きだと言われかねません。勿論そんな展開にするつもりもありません。8ブロック全てで懇談会があり私も委員長として全てのブロックに参加させて頂き、可能な限りの手立てをして全国老施協がより良い活動を展開して新規会員促進に私なりに汗をかきたいと考えています。全国にはまだまだ多くの論客、知識人がおみえになるとおもいますので『わくわく』とした気分です。リピーターの皆さん。ますますバージョンアップしていき、このコラムもより充実させていきますので今後とも宜しくお願いします。

 

東京の地下鉄に初めて一人で乗りました

令和元年10月17日

昨夜は全国老施協正副会長委員長会議があり、本日は午後から全国老施協関東ブロック役員との懇談会があり平河町にある都市センターホテルで泊まらせて頂いたのですが、チェックアウトが10時だったので懇談会までにはたっぷり時間があるのでタクシーで行くのも勿体無いし、時間がある時に『地下鉄も乘れるようにしよう。』と言う事でホテルをチェックアウトする時にフロントで聞くと、「麹町から地下鉄有楽町線で1本です。麹町までは歩いて5分です。」と教えて頂いたので地下鉄の麹町を目指して歩きました。

そして地下鉄の入り口までは確かに5分位だったのですが券売機で切符を買うのに、地下鉄のルートが掲示してあるのを見てもなかなか『飯田橋』が見つからない。「そうだ。有楽町線は何色だ。」(偉いです。何がって?『有楽町線』と覚えていたことが。)有楽町線のルートが黄土色だったので先ずは現在地を確認してから飯田橋を探すと2つ目だとわかり券売機で切符を買おうとしても操作が違っていたのか現金が入らない。何度も焦りながら操作をやり直して(多分まだやり方を理解しているとは言えません。)何とか買うことが出来ました。しばらくホームで待っているとホームに凄い勢いで10両の列車が入って来ました。(関ヶ原駅のようにゆっくりとは入って来ないのでホームに落ちられたら助からないのは当たり前か。)

そして楽々で座って6分で飯田橋駅に着きました。目指すメトロポリタンホテルの出口がわからないので「どうするかなあ」と改札出口を出ると案内板がありました。メトロポリタンホテルは『A-2』と書いてあったので標示板を見ながら歩いて行くとこれが結構な距離です。しかしながらここまで来たら案内板に従うしかない。何とか『A-2』にたどり着き上に上がりまたまた案内板で目指すメトロポリタンホテルを探し掲示通りに歩いて行きましたが、不安になるくらいになかなか着かない。確かに「大丈夫か」と思いながら歩いているので長く感じたのも事実ですが。

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途中で聞く所もなく私の地理的感覚を信じて歩いていて諦めかけた時に目指していたメトロポリタンホテルが見えて来ました。大きな荷物をガラガラ引いていたので、ホテルの方から声を掛けられました。(決して怪しくて声を掛けられたのではありません。)午後から会議があることを話して、まだ時間があるので休憩場所を聞くと案内してくださったので、今はソファーに腰掛けながらコラムを打ってます。そして、初体験の『一人の地下鉄の旅』が成功裏に出来たのは、自分の口と耳と目を駆使出来たからだと思いました。そして改めて大きな荷物を転がしながら旅をされている外国人の方に敬意を表します。リピーターの皆さん66歳になって初めて東京の地下鉄に乘って目的地にまで行けた私に拍手を・・・。

 

 

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