昨日は全国老施協関東ブロック役員との懇談会がありました。

令和元年10月18日

全国老施協では今年度から全国8ブロックに出向き組織強化と会員入会促進の為に各ブロックのそれぞれの代表者との懇談会を持つ事になり、先陣を切って関東ブロックでの懇談会が東京飯田橋にあるホテルメトロポリタンで開催されました。

この企画の仕切りは総務・組織委員会なので委員長として参加させて頂きました。当日は全国老施協役員としては平石会長、鴻江副会長、大山副会長、峯田副会長、北條専務理事に参加頂きました。関東ブロックは東京都、神奈川県、 千葉県、埼玉県、群馬県、茨城県、栃木県、長野県、静岡県、新潟県の1都9県に政令都市も横浜、川崎を始め沢山あり、役員の方も沢山おみえになり、役員の中には本部役員をされてみえる方も多くおみえになりましたが、初めての方も多く参加されていたので、会議が始まる前に名刺交換をしてお話もしっかりさせて頂きました。

最初に関東ブロック会長の川邊先生が開会の挨拶をしていただき、先般の台風15号に引き続いた19号による被害が関東地区にも甚大で、全国老施協との連携もしっかり取りたいとの発言に今回の懇談会のキーワードの一つがあるように感じました。川邊ブロック会長に引き続き全国老施協の平石会長が挨拶され、新規会員施設の獲得の為に何をなすべきかをしっかり、この懇談会の中で理解出来たらとの挨拶を頂きました。その後、全国老施協の役員紹介を全国老施協総務・組織委員会幹事の田中君にして貰い、次に全国老施協の今後の展開について話題提供も含めて森岡副委員長にしてもらいました。その後は意見交換会になり、台風19号への援助体制についての話しについては、平石会長の他に静岡県の災害対策委員長と担当副会長の峯田さんが答える形で進んでいきました。私も全国老施協が推し進めているDWATの隊員として当法人の職員を派遣出来る旨を話ししたかったのですが、時間の関係で出来なかったのは残念だったので派遣要請している埼玉県川越市の役員の方に懇談会終了後直接お話させて頂いて、切実な問題だと感じました。

意見交換では全国老施協の問題点について厳しいご意見を頂きましたが平石会長は一つひとつ誠意を持って答えて下さり素晴らしい懇談会になりました。但し、この懇談会はこれで終わりではなくて、意見集約をして、今後の展開に生かしていかなければ単なるガス抜きだと言われかねません。勿論そんな展開にするつもりもありません。8ブロック全てで懇談会があり私も委員長として全てのブロックに参加させて頂き、可能な限りの手立てをして全国老施協がより良い活動を展開して新規会員促進に私なりに汗をかきたいと考えています。全国にはまだまだ多くの論客、知識人がおみえになるとおもいますので『わくわく』とした気分です。リピーターの皆さん。ますますバージョンアップしていき、このコラムもより充実させていきますので今後とも宜しくお願いします。

 

東京の地下鉄に初めて一人で乗りました

令和元年10月17日

昨夜は全国老施協正副会長委員長会議があり、本日は午後から全国老施協関東ブロック役員との懇談会があり平河町にある都市センターホテルで泊まらせて頂いたのですが、チェックアウトが10時だったので懇談会までにはたっぷり時間があるのでタクシーで行くのも勿体無いし、時間がある時に『地下鉄も乘れるようにしよう。』と言う事でホテルをチェックアウトする時にフロントで聞くと、「麹町から地下鉄有楽町線で1本です。麹町までは歩いて5分です。」と教えて頂いたので地下鉄の麹町を目指して歩きました。

そして地下鉄の入り口までは確かに5分位だったのですが券売機で切符を買うのに、地下鉄のルートが掲示してあるのを見てもなかなか『飯田橋』が見つからない。「そうだ。有楽町線は何色だ。」(偉いです。何がって?『有楽町線』と覚えていたことが。)有楽町線のルートが黄土色だったので先ずは現在地を確認してから飯田橋を探すと2つ目だとわかり券売機で切符を買おうとしても操作が違っていたのか現金が入らない。何度も焦りながら操作をやり直して(多分まだやり方を理解しているとは言えません。)何とか買うことが出来ました。しばらくホームで待っているとホームに凄い勢いで10両の列車が入って来ました。(関ヶ原駅のようにゆっくりとは入って来ないのでホームに落ちられたら助からないのは当たり前か。)

そして楽々で座って6分で飯田橋駅に着きました。目指すメトロポリタンホテルの出口がわからないので「どうするかなあ」と改札出口を出ると案内板がありました。メトロポリタンホテルは『A-2』と書いてあったので標示板を見ながら歩いて行くとこれが結構な距離です。しかしながらここまで来たら案内板に従うしかない。何とか『A-2』にたどり着き上に上がりまたまた案内板で目指すメトロポリタンホテルを探し掲示通りに歩いて行きましたが、不安になるくらいになかなか着かない。確かに「大丈夫か」と思いながら歩いているので長く感じたのも事実ですが。

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途中で聞く所もなく私の地理的感覚を信じて歩いていて諦めかけた時に目指していたメトロポリタンホテルが見えて来ました。大きな荷物をガラガラ引いていたので、ホテルの方から声を掛けられました。(決して怪しくて声を掛けられたのではありません。)午後から会議があることを話して、まだ時間があるので休憩場所を聞くと案内してくださったので、今はソファーに腰掛けながらコラムを打ってます。そして、初体験の『一人の地下鉄の旅』が成功裏に出来たのは、自分の口と耳と目を駆使出来たからだと思いました。そして改めて大きな荷物を転がしながら旅をされている外国人の方に敬意を表します。リピーターの皆さん66歳になって初めて東京の地下鉄に乘って目的地にまで行けた私に拍手を・・・。

 

 

本日から東京への出張ですが朝6時15分から頑張ってます

令和元年10月16日

昨夜はくたくたで21時過ぎに寝たので4時前には目が覚め(年寄りか、いやいや年寄りなのですが)、いかにも早いので5時50分に起きて、出張の準備もして施設に出掛け本日清掃するフロアの本館2階に行くと、本日の起床介助は殆ど終わっていて(もう少し寝ていたかった入居者さんにはご迷惑を掛けてしまいました。)吉田部長、西川課長、西村課長が一生懸命にベットの隠れている埃の掃除をしていました。声を掛けると「こんなに埃があるなかで寝て貰っていたんですね。」との答えが返ってきたので、今回の徹底的な清掃の意味の40パーセントは成果を収めたと思います。

残りの30パーセントは幹部が理解した事を全職員に周知し理解させることで後の30パーセントは理解した事を形にして継続することだと思います。私は本日も出張でいない訳だし、全職員が「何故そうするのか」の意味を理解して、法人の思い、施設の思いを理解した展開をしてくれる事を私は理事長、施設長として節に願っています。

今は(午前1028分)浜名湖を越えた辺りを新幹線で通過しましたが、本日は全国老施協正副会長委員長会議があり、私は本部役員になり13年が経過した今、中村会長が礎を築かれた組織が弱体化している事について是は是、非は非でしっかりと意見を言って行くのが私の役割と思い頑張っていきたいと考えています。だって、岐阜からの交通費、宿泊費(明日関東ブロック役員との懇談会に総務・組織委員長として参加させて貰う為)を本会の会員からの会費で支払って頂くのだから。総務・組織委員長としては、会員促進の為にどのように汗をかくかに尽きると考えています。但し、この事を推し進める為には、各委員会との密なる連携を取る為にも若手である幹事の方々の相談を受けながら委員会の運営が円滑に行くようにしていく事であり、時には事務局員達との連携も取っていかねばいけないと考えています。

今、全国老施協では、ウェブアンケートを会員施設の職員(勿論、施設長等の幹部職員も)に対して実施しているのですが、回答してくれる方が少ないと聞いています。この現象は会員施設の上層部と言われる方々の意識の無さに基因していると考えています。勿論全国老施協の役員がウェブアンケートの重要性を理解する事から始めなければいけない事も百も承知で言っています。5年先、10年先いやいや30年先を見通して展開していかなければ組織は弱体化していきます。私が出来るのは良く出来て後10年です。今、30代40代の方を叱咤激励をしつつ良き方向性を見いだしていきたいと考えています。

さてさてリピーターの皆さん、私を取り巻く環境は内外共に厳しいものがありますが蒸気機関車のようにガタイ強く頑張っていきますのでこれからも宜しくお願いします。

 

朝から『嫌味じじー』をやってしまいました

令和元年10月15日

全館清掃の2日目は新館1階だったのですが、昨日と同じ新館のフロアと言う事もあり、朝6時30分に現場を見に行くと、既にフロアからの誘導を開始していたので、安心して入居者さんの見守りに徹しました。

そして、見るとは無しに新館1階の共有スペースに設置してある仏壇の中を見ると線香立ての灰が溢れんばかりになっていたので、大きな紙を敷き線香立ての中身を全部紙の上にあけて、灰を手でかき分け灰でないもの(大体は線香の残りかす)をみつけては排除して、灰だけを元の線香立ての中に戻す作業をしました。私がしている作業を見た職員の中には「嫌味じじー」と思ったかも知れません。

でも、線香立ても綺麗になり朝食までには20分程時間があったので、お経さんを私が導師になって『正信偈』をあげだすと、お経の本も無しに声を出して唱えて下さる方が複数人みえ、声を出されない方も静かにお経を聞いて下さいました。昨日のカラオケと日本昔話では、全員の方が興味を持たれたわけではありませんでしたが、本日は全員参加で出来て、気分も乗ってきて朝食までにはまだ若干余裕もあったので般若心経も唱える事ができました。自己本位の思いですが「これで一先ず新館は浄化したかな」と思うと共に、明日からの2日間で本館もこの調子で浄化出来たらと考えています。

但し、明日は全国老人福祉施設協議会正副会長委員長会議が有り、明後日は関東ブロック代表者会議があり総務・組織委員会委員長として出席する為に明日早くに本館2階の確認だけしたら東京に向かわなければいけないので、職員に任せて出掛けます。現場の職員の働きをじっくり見る機会は殆どないので今回の全館浄化の中での職員の動きの中や考え方を理解出来、今後の対応にとってもプラスなったなと考えています。これは正に『転んでもただは起きぬ』の真骨頂かな。

新館2階の清掃がなされている時ではありましたが10時30分から垂井町役場内で新規施設に対する打ち合わせがあり、垂井町側からは、副町長さんを初め総務課、建設課、健康福祉課の課長さんを含む担当者が参加して下さり話し合いを持ちましたが、自分で話をしながら自分で言うのは絶対におかしいと思うのですが敢えて言わせて貰うと「よくもこんなに理路整然と話が出来るな」と思うと共に、中学生までの思っていながらも話が出来なかった頃の事しか知らない母秋江さんは自分の息子の事が歯痒かった事と思います。

(今パソコンを打ちながら思い出した事を書きます。)私が小学生の頃はいわゆる『学芸会』と言うのがあり、いつもいつも私はその他大勢組だったのですが、何年生の時かは忘れましたが、最後に一人で登場する白髭を生やしたお爺さん役が決まり、家に帰って母秋江さんに報告するととても喜んでくれて衣装等を作ってくれるのを見ていて、「実は台詞が無く、中央まで歩いて行き黙って会釈をするだけ」とは言えずに本番を迎え、張り切って息子の姿を見に来た母秋江さんは家に帰って息子の私に「老人のように上手に歩けて良かった」と言って貰ったのを思い出しました。だから、母秋江さんにとっては息子である私が大きく育つか、社会人としてやっていけるか等々心配なまま私が中1の1月に他界したので、今、しっかり話が出来るのは、ひょっとすると父進さん、母秋江さん、姉光子さんが私の耳元でささやいでくれているのかも。もしこれが本当なら吉兆の息子さんと変わらんのかも知れない。いえいえ決してそんな事はないですから。(当たり前か)「AB型」の私が何らかの事をきっかけに変わったんです。変わった出来事も分かっているので何れこのコラムで書くことにします。

 

 

カイセン撲滅初日

カイセンと断定された方は一人だけですが、『疑いがある事は疑え』でカイセンなどは決して目に見える代物ではありませんので、「この際徹底的にきれいにする」との意志を鮮明にしてその思いを職員に理解して貰い協力して貰う体制を取り、本日『カイセン撲滅』の初日を迎えました。私自身5時50分に目覚め着替えと洗面を済ませて6時ジャストに家を出て(町報が鳴ったので間違いないと思います。)6時10分に施設の駐車場に入ると本館の玄関前に吉田部長が玄関が開くのを待っている。(宿直者は本日がどういう日か知らないのか)私が車を停めて玄関を入る時には開いていたので、入ろうとすると本日の清掃場所の責任者である西川課長も来たので若干の打ち合わせをして新館2階に行くと、2階の共有スペースへの誘導が始まり、いつもと違う場所での朝食についての戸惑いもありざわついた感じは否めませんでしたが、職員の頑張りでクリアしていきました。業者の方が7時40分にみえたので簡単な打ち合わせ後2階に上がり具体的な話を現場になる居室で行い、8時10分に消毒を開始して貰いました。9時前まで入居者さんの状況把握をして1段落したので早くから頑張っている職員の為にパンを買いに行ったり、作業状況を見にいったりしていて、いつもと違う環境に戸惑いと苛立ちを持っている入居者が多くおみえになると感じ、本館に設置されているカラオケの機械と『日本昔話し』のDVDを取りに行き、カラオケについては恥ずかしながら10曲程歌わせて頂きました。その後『日本昔話し』を映しだしてみてつくづく改めて感じたのは、『楽しい』と感じてもらうのは人それぞれだと思いました。と言うのは私が歌っているのに手拍子をしたり体を動かして『楽しんで貰ってるな』と思える方が歌を止めたら落ち着いていられなかったり、私の歌には全く興味を示さなかった方が日本昔話しになってからはテレビをしっかり見られたりと言う事で『人生いろいろ。趣味もいろいろ』と言う事です。新館2階の清掃もベットメーキングまでが17時には終了しました。明日は新館1階が行われますが本日よりエリアが広いのでより効率的に頑張らなければいけないので、明日に向け早くに帰り明日に備える事にしました。この頑張りがより施設を良くなることを信じて明日も頑張りますのでリピーターの皆さんもこの考え方に賛同してもらえると嬉しいです。

明日から4日を掛けて全館の居室を綺麗にします

疥癬撲滅の為に消毒噴霧の業者とベットの清掃業者とリネンの業者に協力して貰い14日に新館2階、15日に新館1階、16日に本館2階、17日に本館1階と順次対応して貰うのですが、単に業者任せにしたのでは、同じ失敗を繰り返す事になったのでは意味がないので先般10日の日に緊急全体会を開催して、本館開設2年目に疥癬が出て大変な思いをした事(見た目が綺麗な施設だと言う職員の思いの中から掃除がおろそかになり埃や皮膚の脱落がありノルウェー疥癬まで出てしまった)を話すると共に各エリアに分かれて業者に作業をして貰っている時の入居者さんの対応についての話し合いをすると共に、同じことを繰り返さない為の業務の見直しをしました。そもそも疥癬が何なのかも理解していない職員もいる中での検討会でしたので、最初意味も分からない職員の中には眠たそうにしているものもいたのですが、話をしているうちに「きちっとした対応をしなければいけない」との意識が出来てきた中、昨日はフロアの責任者を順次呼び『清潔・不潔』についてや『フロアで不充分な事』等について話し合いをしました。居室が綺麗になるのと同時に他の事もしっかりと出来るようにしたいとの思いからです。さて、本日は台風19号が去り関東方面が大変な状況で私なりに電話連絡で状況把握をしたりもしつつ、台風一過で爽やかな天気(被害にあわれた地区には申し訳ありませんが)で、朝6時から施設の外回りを見て回りその後、明日の対応でベットを運びながら座られていないソファーのマットを何気なくめくってみて目が点になりました。と言うのは想像を絶するほどに汚れていたからです。いつも座ってみえるので確認が出来なかったのですが、あまりの汚れに久方ぶりに『瞬間湯沸かし器』のようになり、そのソファーを外まで運びハイターと洗剤を駆使して納得がいくまで洗いました。なかなかしつこい汚れも落ちましたが大げさな言い方ではなく200本以上の髪の毛がマットの下でこびり付いていました。毎日の仕事の中で細やかな対応を誰か一人でもしていたらと思うと『夏祭り』だとか『バイキング』とかの外向けの事ばかりに目が向くと足元をすくわれるとの思いを強く持ちました。昨日の幹部の意見の中にも「午後からボランティアがある時の昼食後の口腔清拭が出来ない。」との事でした。その時は、「昼の分も含めて夕食後にきちんとしたらどうか」と話をしましたが、本日のような事象にあうと、『地道にこつこつ。そして尚且つ入居者さんが喜んで頂ける企画を』と言う事かな。リピーターの皆さん私の思いも『一歩後退二歩前進』で行きますのでこれからも宜しくお願いします。

昨日東京からの帰りの新幹線は凄まじかった

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昨日は東京で全国老施協総務・組織委員会が予定されており、本来であれば会議終了後に懇親会も計画されていたのですが台風19号が東海・関東地区に大きな影響をおよぼすと4日程前から報道されており、担当副会長の皆川さんと幹事の田中君と事務局と私の判断で「懇親会は止めにしても来週からの総務・組織委員会の展開を考えると委員会は開催しなければだめだ」との判断で昨日13時から東京平河町にある塩崎ビルで行われると言う事で事務局とも事前打ち合わせをしたいと言う事もあり、いつもより30分早い9時48分発の列車に乗り12時過ぎに会場に入って行くと既に森岡副委員長と田中幹事が来ていたので事務局の国井君も入れた四人で事前打ち合わせを(私は塩崎ビルの近くにあるコンビニで買ったパンと牛乳を頂きながら)しました。定刻の13時前にぞくぞくと委員さんが会場入りされて、定刻通り委員会が開催され、私の委員長としての挨拶から始まりました。総務・組織委員会の各委員さんは誰もが論客揃いなので一つひとつの議案に対しても突っ込んだ内容で討議されていきました。東京へ向かう列車の中で明日の名古屋~東京間の新幹線の全便欠航のアナウンスが何度となくされていたのですが、会議室に入るなり田中幹事から「本日は最終列車まで予約が一杯で取れませんよ。」との事だったので「何とか立ってでも帰るから。」と会話していたので、会議が16時20分に終了して直ぐにタクシーに乗り東京駅に向かう中でいつものように切符の手配をしようとしても出来ない。東京駅に着き券売機でエクスプレスカードで操作しても上手くいかないので結局現金を入れて切符を手に入れ16時50分発の『のぞみ』に乗る為に17番ホームに行ってビックリです。最初は1号車~3号車が自由席なので取り合えず3号車を目指したのですが、人ひとヒト人で前に進む事も出来ず3号車にたどり着かず4号車の通路に立つ事にしようと入場が始まって1段落した時に車両に入り名古屋まで立つつもりで通路を進んで行くと、通路は意外と自由がきく位のポジションで上着を脱いで座席の後ろの所に掛けさせて貰い昇降口はぎちぎちに立ってみえたので私は昨年8月のお盆の出来事を思い出していました。(このコラムでも書きましたが急遽長崎に行った時の事です。)その時の経験から昇降口ではなくて通路の中程の方が楽に立っていられると言う経験をしているので座ってではありませんが楽に立っていられる状況の体勢を確保出来ました。品川、新横浜と立ったままだったのですが私が立っている前の席が一つだけ空いていて、新横浜の次は名古屋ですから誰も座られないなら指定席料を払ってでも座りたいと考えていたタイミングで車掌さんが通られたので、お金を払って座らせて欲しいと聞いたところ指定券を持った方がみえたら譲って頂ければ大丈夫との事で新横浜を過ぎた所から座席に座る事が出来ました。そして無事に名古屋で降りると凄まじいばかりの方がみえて、『こだま』の乗り換えまでの15分の間に3本の『のぞみ』に乗る方は満員電車さながらでした。私は名古屋から岐阜羽島の席は楽々で家に8時過ぎに帰る事が出来ました。本日はどのテレビの番組も台風のニュースで。先程名古屋駅周辺についての情報でしたがどこも閑散としていて。そりゃそうですよね。連休の2日分を1日でこなしたのですから。このことからも、リピーターの皆さんバランスが大切だと思ったのですが如何でしょうか。

ノーベル化学賞が決まった吉野彰氏の記者会見での言葉から

令和元年10月11日

『明確なゴールは確信できれは、苦しい時があっても乗り越えられる』との言葉に私は実体験からも大きく頷いてます。かつての、このコラムでも紹介したと思いますが松下政経塾での松下幸之助さんが『成功の秘訣を教えて下さい。』との質問に『成功の秘訣などない。但し、やろうとした事をやり続ける事によって結果として成功する』の言葉とあい通ずるものがあり、成功の為の真理だとも改めて思いました。

私は吉野彰さんや松下幸之助さんのような功績には足元にも及びませんが、38歳で児童養護施設の指導員を辞し2年間の紆余曲折を経て40歳の時に私にとっては全く未知の世界である特別養護老人ホーム(介護保険法施行後は介護老人福祉施設)の建設を夢見て尚且つ地域貢献をしたい。と決意した当時は『法螺吹き』とか『詐欺師』とら『嘘つき』等と言われたり、『何故わざわざ高齢者の施設を今須に建てる必要があるのか』とか、『綺麗な水を汚すな』とか言われながらも地域の方々の不安なご意見に対して一つひとつ誠意を持って(浄化槽の水を地域の皆さんの前で飲んだ事もありました。)答えていく内に少しずつ支援してくださる方が出来、今では『施設がここにあって安心だ』とのお話を沢山頂けるようになりました。

勿論今のようになるまでには正直胃に穴があくのではないかと思えるような事もその度々にあったと思うのですが今では、『色々な事があったけど、今は支援者も多くてありがたいな』と思うと共に『今まで以上に地域貢献に力を入れていきたい。』とも考えています。しかしながら、施設を運営していると施設長として職員に対して噛んで含んだように教えたり指導したりしていることが、いつの間にか職員の都合で変わっていたり、忘れられたり、継続してなかったりすることがあり状況によっては頭が真っ白になりパニックになる事があります。

50代まではその都度湯気が出るほど大きなアクションでクリアしてきましたが、今はそのような時に私の体に異常が現れてしまうことがあります。例えば8月に帯状疱疹で入院したり、今もお腹に違和感があります。つまりストレスを上手にコントロール出来なくなっているのだと思います。

イライラを少なくするには私の考えを幹部職員が担ってくれる事だと思っています。私はあくまで『入居者さんファースト』『地域ファースト』『家族様ファースト』の考えをやり通したいと考えています。『そんな古い考え方は今は通じない』と言われる方がおわりであることは百も承知でのコメントです。

ここでまた、ノーベル化学賞が決まった吉野彰さんのコメントです。『私も会社員なので自分が発明したリチウム電池が全く商品価値がなく売れなかったのには悩みました。』とのコメントには深い意味と凄い信念を感じました。

つまり、会社員としての立場であればいくら素晴らしい研究成果をだしても商品価値がなければ何も認められない。しかし、リチウム電池は将来絶対に商品価値が認められるとの強い思いが素晴らしい成果となり結果に結びついた。但し、ノーベル賞を頂けたのは、勿論吉野先生の努力の賜物だと言うのは勿論ですが奥様の本当に嬉しくて仕方がないご様子から下支えをされた結果を喜んでみえるように思いました。

本日は台風が関東方面に来るとわかっていながらの東京出張なので、(全国老施協総務・組織委員会)今は(午前11時09分)新幹線の中で明日は全面ストップだと何度かアナウンスされていて、夜の懇親会の中止を委員長として早々に決断したのは正解だったし宿泊をキャンセルしたのも正解だったと思っています。しかしながら、つくづく思うに災害は土日にかけてが多いな。

これは、休みを多くしている働き方改革の国家的プロジェクトに対する戒めか等と思うのは私だけですかね。(こんな発言は時代が時代なら監獄行きですか。)

『ゆうゆうビジット』と言う企画に参加しました。

令和元年10月10日

優・悠・邑 和合で朝日新聞厚生文化事業団主催による『日色ともゑとマリオネットによるゆうゆうビジット』と言う企画に参加してきました。

①

日色ともゑさんをご存じの方は私よりも年齢が上の方が殆どだと思うのですが、78歳と言う年齢(私より1回り上です)を感じさせないはつらつとした受け答えでご挨拶して頂きました。マリオネットの二人の方を私は全く知らなかったのですが、焼酎の『二階堂』のコマーシャルソングをされていて、知る人ぞ知るそれなりに活躍されているグループだそうです。確かに二人の演奏は素晴らしかったし、ポルトガルの楽器を駆使されての演奏は圧巻でした。勿論、日色ともゑさんの童話の朗読は素晴らしかったし、マリオネットさんの童謡を中心にした演奏で前もっての台詞を言って頂くタイミングも絶妙でした。

③

企画の最初に理事長として挨拶をとの依頼を進行役の和合の事務長から受け「何分位での挨拶なの」と聞くと「本当に短くお願いします。」と言うので「では、1分でします。」と答えると「理事長の1分は10分になるといけないので10秒でお願いします。」と失礼なような爆笑のような会話になったのですが、結局2分の話になりました。と言うのもこの企画について事前に家族会や地域の方々に告知してあったようで入居者さん利用者さんの他にも多くの参加者がみえたので、その辺への配慮もあり2分になった次第です。

② ⑤

当施設にも60歳から介護の仕事をして70歳で国家試験である介護福祉士の資格に合格された方があり、今もしっかり仕事をして貰っているのですが、日色ともゑさんも素晴らしい朗読をして頂き、単に生年月日だけではわからないし、仕事が生きがい、天性のような仕事をされている方は『凜』とされていると思いました。勿論仕事をリタイヤされても趣味に生き生きされている方、役割のある方も同様だと思っています。私は、趣味らしきものを持ち合わせていないので「趣味は仕事」と豪語しているので、生涯現役と考えていますが、その為には健康に留意して100歳(借り入れが全部返せる)でピンピンコロリが理想なのですが果たして・・・。

④

でも、100歳で(多分)優邑と生活している家族がいた。それは我が家の猫『リット』(推定100歳)です。今朝も私が部屋から出ようとすると、歩くのを邪魔してきて自分が食事をするのを見ていろと甘えてくるし、私が出勤時に玄関先に行こうとすると、でかい体を伸ばして歩くのを邪魔するし・・・。いやいや年をとっての図々しいは猫だけが許されるのであって私は可愛いじい様でいなくてはいけない。でもかなり無理なように思うのですが・・・。

⑥ ⑦ ⑧

 

私を産んでくれた母秋江さんと私の話

(ここは、日本昔話の歌から始まりますかね)

私は父進さん(A型)母秋江さん(B型)の間で長姉光子さん(B型)、次姉春子さん(A型)の次にこの世に昭和28年5月16日(横綱北の海と同じ日)に生まれました。ちなみに私の血液型はAB型です。母秋江さんとはわずか13年8ヶ月しか私との関わりはないのですが、余りに中味が濃いと言うかエピソードが多いのでこのシリーズはコラムのネタがない時に何回か登場させるとして、取り敢えず第1回と言うことでご理解下さい。

先ずは全員の血液型をかっこ書きで書いたのは、長姉光子さんは母秋江さんの血を受け継ぎ、次女春子さんは父進さんの血を受け継ぎ、私は両方の血を受け継いだ幸福者と言うことが言いたかったのです。つまり、両親の思いを一杯受け継いだと言うことです。但し、末っ子の長男程やっかいなものはないと自分でも思っています。つまりは『天下御免の甘えん坊』と言う事で自分で言うのですから間違いなく『甘アマ甘あま』の育ち方を謳歌したと思います。

何故ならば次姉の春子さんは今でも小さい頃の事になると怒ってきますから。

しかも、私は生まれて100日目に心臓が約5分間止まって復活はしたもののそれからの私は『虚弱児』の烙印を押される位で、例えば夏休みに母秋江さんが私に添え寝をして、なかなか寝ない私を団扇であおってくれるのですが、学校では昼寝の時間がなくて眠くないので母秋江さんが寝てしまった隙に家を脱け出し、友達がいる学校のグランドに行き野球をしていていました。夏の事で入道雲がもくもくときて、土砂降りの雨に打たれ慌てて家に帰り着き、母秋江さんの顔を見た途端に39℃近くの熱を出し、母秋江さんは怒るどころか介抱に忙しく、熱があり食欲がない私に私の好きなお刺身を買ってきて、温かいうどんを食べさせてくれるのが定番でした。

冬場になると気温も下がってきて、多分血の循環が悪かったんだと思うのですが、いわゆる『霜焼け』で両手は肘のところまで腫れ上がり手の指10本共に真っ赤になり、学校から帰ると母秋江さんがゴボウの湯で汁を作って待っていて、熱いお湯に手を浸けてゆっくり20を数え、次に水の入った方に手を入れまたまた20を数える事を5回づつしたことも大切な思い出ですし、夜布団に入ると体が温まり霜焼けのところがむず痒くなりなかなか眠れなくて母秋江さんの方が先に眠ろうとすると体を動かしたりわざと泣いたりして甘えたりしてました。

(次に母秋江さんの事を書くときは我が子の為に奇想天外な事をしてくれた事を書こうと考えています。)

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