勘当された徳山村でのPART⒉
徳山村での勘当の身の生活は、毎日のように民宿へのお客さんがお見えになり、人数に合わせた買い物(魚と豆腐)と料理を作る事が本職になったような日々(良くても悪くても環境に馴染む事が出来るのが私の特性かな)で余った時間は村の中を散策して村の方々と仲良くお話をしたり、河原でラジカセの音楽に合わせて思いっきり歌を歌ったりして、全く自由奔放な生活を謳歌してました。時には、親しくなった家に遊びに行ってはお客さんが無い日などは夕食を頂いて色々な話をしました。ちょくちょく遊びに行って徳山村の方々の今後についての話を聞き手上手になったり、3月までは教員をしていた事の話をしていて、その家の娘さんが東京に出て女優になりたいと聞いていて、私の自惚れだったと思うのですが、娘さんと私を結び付けたいような話酔っぱらいながをお互いに酔っぱらいながらしていました。そんな時に東京から娘さんが帰って来るので食事を共にして欲しいと言われて自惚れていた私は厚かましくも家に行き宴会に参加しました。ご両親は私と娘さんを隣の席にして何とか娘さんが興味を持ってくれないかと思っていたようですが娘さんには全く持って我関せずの状態だった事を鮮明に覚えています。確かに女優を志すだけあってスタイルも良かったし綺麗な子だったので、歴史にもしもと言う事はありませんがもしも一緒になっていたら今須一も奥さんだったな等と思っています。私の徳山村での生活は8月末で突然ピリオドを打つことになりました。と言うのも何の前触れもなく、全く私が知らない方が私を訪ねてみえたのです。その方は、3月まで私が勤務していた神戸北小学校の近くにお住いの方でその当時大垣市内の中学校の校長先生だったのです。その方は自分の紹介が住むと同時に私を一喝されたのです。それは、「いつまで徳山村でくすぶっているのか。自分の生きる場所と違うだろ」と・・・。私はあまりに唐突な話についていけない状態で黙っているとその方から「教員としては異端児のような存在だったかも知れないが君のような人材を求めている世界があるので紹介したいので私について来なさい。」と言われ、何も分からないままに穂積(今は瑞穂市)にある『児童養護施設』でいきなり面接のようなものを受けました。面接ですから白のカッターシャツにネクタイにスーツを着て行ったのですが、その当時はいつも四国遍路の時に首からかけていた数珠がカッターシャツから透けて見えたのを面接をして下さった経営者の方が目ざとく見つけ「その数珠は何ですか」と聞かれたので「高校2年の夏休みの時から四国遍路をするようになり常に身に付けています。」と答えると「ここは、禅宗のお寺ですが弘法様もお祀りしてしてます。信仰心があり、小学校、中学校、高校の教員免許を持っているなら、明日からでも仕事をして貰いたい。」と言われたので、「流石に明日からと言うわけにはいきませんが週明けの月曜日から勤めさせて貰います。」と答えていました。しかしながら、その当時の私は『養護施設』(当時の言い方です)がいったいどんな施設かも殆ど知らずに就職しました。つまり、26歳の私が自分でやりたい事を見つけての生き方は38歳まで待たなければいけないのです。
※今は『コロナ』の話題ばかりでその話題になると胃が痛くなるので今は過去の振り返りシリーズにしています事にお付き合い下さい。