勘当された徳山村でのPART⒉

徳山村での勘当の身の生活は、毎日のように民宿へのお客さんがお見えになり、人数に合わせた買い物(魚と豆腐)と料理を作る事が本職になったような日々(良くても悪くても環境に馴染む事が出来るのが私の特性かな)で余った時間は村の中を散策して村の方々と仲良くお話をしたり、河原でラジカセの音楽に合わせて思いっきり歌を歌ったりして、全く自由奔放な生活を謳歌してました。時には、親しくなった家に遊びに行ってはお客さんが無い日などは夕食を頂いて色々な話をしました。ちょくちょく遊びに行って徳山村の方々の今後についての話を聞き手上手になったり、3月までは教員をしていた事の話をしていて、その家の娘さんが東京に出て女優になりたいと聞いていて、私の自惚れだったと思うのですが、娘さんと私を結び付けたいような話酔っぱらいながをお互いに酔っぱらいながらしていました。そんな時に東京から娘さんが帰って来るので食事を共にして欲しいと言われて自惚れていた私は厚かましくも家に行き宴会に参加しました。ご両親は私と娘さんを隣の席にして何とか娘さんが興味を持ってくれないかと思っていたようですが娘さんには全く持って我関せずの状態だった事を鮮明に覚えています。確かに女優を志すだけあってスタイルも良かったし綺麗な子だったので、歴史にもしもと言う事はありませんがもしも一緒になっていたら今須一も奥さんだったな等と思っています。私の徳山村での生活は8月末で突然ピリオドを打つことになりました。と言うのも何の前触れもなく、全く私が知らない方が私を訪ねてみえたのです。その方は、3月まで私が勤務していた神戸北小学校の近くにお住いの方でその当時大垣市内の中学校の校長先生だったのです。その方は自分の紹介が住むと同時に私を一喝されたのです。それは、「いつまで徳山村でくすぶっているのか。自分の生きる場所と違うだろ」と・・・。私はあまりに唐突な話についていけない状態で黙っているとその方から「教員としては異端児のような存在だったかも知れないが君のような人材を求めている世界があるので紹介したいので私について来なさい。」と言われ、何も分からないままに穂積(今は瑞穂市)にある『児童養護施設』でいきなり面接のようなものを受けました。面接ですから白のカッターシャツにネクタイにスーツを着て行ったのですが、その当時はいつも四国遍路の時に首からかけていた数珠がカッターシャツから透けて見えたのを面接をして下さった経営者の方が目ざとく見つけ「その数珠は何ですか」と聞かれたので「高校2年の夏休みの時から四国遍路をするようになり常に身に付けています。」と答えると「ここは、禅宗のお寺ですが弘法様もお祀りしてしてます。信仰心があり、小学校、中学校、高校の教員免許を持っているなら、明日からでも仕事をして貰いたい。」と言われたので、「流石に明日からと言うわけにはいきませんが週明けの月曜日から勤めさせて貰います。」と答えていました。しかしながら、その当時の私は『養護施設』(当時の言い方です)がいったいどんな施設かも殆ど知らずに就職しました。つまり、26歳の私が自分でやりたい事を見つけての生き方は38歳まで待たなければいけないのです。

※今は『コロナ』の話題ばかりでその話題になると胃が痛くなるので今は過去の振り返りシリーズにしています事にお付き合い下さい。

父進に勘当された時のパラダイスのような日々の話です

令和2年3月16日

勘当されたときの父進さんのお言葉は「教員を辞めたのは仕方がないけど、毎日ネクタイを締めて学校に勤務していた宏が家でゴロゴロしていたら今須は田舎だから『若山さんちの宏君このごろとっても変だ』と言われたらいかんので、どこか遠くで生活をしなさい。」と言われて、その頃の私は「それもそうだ」と変に納得をしたので、当時は『勘当』だとは思わなかったのですが、これはいわゆる世間では『勘当』と言うのですよね。

どこかに行くと言っても当てがなかったのですだ、ふと学生時代のサークル活動で落語や演劇をしていたのですが、もう一つ学術的なサークルで『郷土研究の会』と言う、いわゆる柳田民俗学にも所属していて、ダムで沈む『徳山村』に長く留まって調査した時に、その当時徳山村の語り部でインスタントカメラで地元住民をバチバチ撮って後に写真集まで出した増山たず子さんの所が民宿をしている事を思い出し、私はぶしつけにも民宿での『居候』を決め込み当たって砕けろ精神で徳山村戸入の増山さんの家に突然押しかけ、「民宿のお客さんが一人でもあったら私がお客さんの食事を作り接待もしますから遠慮なく写真を撮りに出掛けて下さい。但し、お客さんがあった時の料金はただにして下さい。

お客さんが無い時は一日2000円で泊めて下さい。」とむしの良い提案をしたのですだ、増山のおばちゃんはその条件をニコニコしながら了解してくれました。料理を作ると見栄を張ったのですが、正直そんなに自信があったわけではありません。但し、増山さんの家は大きな囲炉裏があり自在鉤が吊るしてありいつも炭火が点いました。そこで、お客さんの人数プラス私の分の魚(イワナ、鮎、マス)を養殖している所に買いに行くと共に徳山で作っているとても固いお豆腐を手に入れ、尚且つ、食べきれなくて困っている家のジャガイモを貰って来たものを料理しました。でも、よく考えてみると料理と言えるのかなあ。

だって、魚は綺麗に洗って鉄櫛に刺してしっかり塩を付けて囲炉裏の炭火で焼くだけだし、お豆腐は半分に切ってお皿に乗せて、村の方に連れて行って貰って手に入れた天然わさびをすってお醤油はお客さんに好きなだけかけて貰い、ジャガイモの料理は綺麗に洗ったのを炭火の上に網を乗せたところで焼いて貰いお客さんに好みでバターか塩をつけて食べて貰う。

お漬物として、わさびの葉を前日に土鍋にお湯を沸かし葉を入れて密封して一晩そのままにしたものを切って出すと言うものです。昭和54年は衆参同時選挙があり、最後の選挙戦と言う事でマスコミが大挙して来て、景気の良い時で取材や撮影が終わってからは宴会が始まり私もちゃっかりお相伴にあずかり、徳山村ではよーく飲まして貰ったなあと思いますし、マスコミ関係の方と酔っぱらいながら激論をしたなとの思い出ばかりです。リピーターの皆さん『勘当』も良いもんだと思いませんか。実はこんな生活が5か月も出来たんですから『勘当』も良かったと父進さんに感謝ですかね

 

神戸北小学校時代PART『2』

令和2年3月15日

41年前の公立学校では、その当時の文部省の指導要領通りの授業案を作成しないと駄目な時代で、私の授業案を『週案』として、基本的に毎週月曜日に教務主任の所に提出するようになっていて私もきちっと提出するのですが、提出した日の2時間目後の20分の休憩時間は、いつものようにグランドに飛び出せないのです。何故ならば、2時間目が終わると同時に間髪いれないタイミングで、教務主任から私を呼び出すアナウンスがあるからです。そして職員室に行って、教務主任からの懇切丁寧なご指導があるからです。

特に私が拘ったのは、社会科では、自分なりに自分が休みの度に8ミリカメラで撮影をした独自の資料を作成したものにしたかったからです。子どもたちは喜んでくれていたのですが、文部省の狙いとは違う場合もあっての指導でした。毎週月曜日の教務主任と私のバトルが続く中、6月に私の校内研究授業を開いて頂きました。その時はしっかり準備したはずなのに、正直メロメロのものになり、授業後の指導は辛らつな指導を受けました。最後に校長先生の講評では、「全く褒められた内容ではなかったが、子ども達が『先生頑張れ』と言う気持ちが伝わってきたので日頃の信頼関係には素晴らしいものがあるんだと思いました。これは若山先生の素晴らしい人間性だと思います。」との事で正直この時は落ち込みました。

そして、その後の現象としては、校長先生が毎日のように私の教室の窓越しに見ていかれる日が続いたものです。あの時の校長先生はわざとかと思う程廊下を歩く音が響いていて、その音がすると誰ともなく「校長先生が来た来た」と言って急にお利巧さんをしてくれていたのには感謝しかなかったのを覚えています。

そして9月の終わりの頃、私の授業をその当時の西濃教育事務所の教育指導の先生が見に来られる事になり、私も6月のリベンジとばかりに必死に準備をして挑んだのですが、自分なりに満足のいくものであったのですが、教育事務所の先生の講評も良いもので、その後の校長先生の評価も良く、「6月の段階では正直頭を抱えていたのですが本当に良かったです。かなり努力をされたんだと思います。」と最大限の評価をして頂き、その後は教室の窓越しの確認はなくなりました。

しかしながら、私の月曜日の教務主任のお呼び出しは続いていました。そして最大のピンチが12月初めの月曜日に起きました。それは、私が確信犯的な行動に出たから覚悟はしていたのですが・・・。その時の週案の火曜日の1時間目から6時間目の科目が全部『図画工作』にしていたのです。リピーターの皆さんの中にもお気づきかも知れませんが、図画工作は週に2時間と決まっているので全くの暴挙なのです。当然のように2時間目終了後に館内放送で教務主任からのお呼び出し。いつもの私なら理屈にならない答弁をするのですが、その時ばかりは、「やはりこのような週案は認められませんね。」と素直に訂正作業の為に自分の机に戻り、1分もしない修正を終えて再び教務主任の所に行くと教務主任が「えらく早くに訂正出来たね。」と言いながら週案に目を通して、完全に呆れた顔でお見えになるので「駄目でしょうか」と言うと「当然でしょう。」とのやり取りをしているのを隣の席に座っている教頭先生が声を掛けられて週案を見て、「これは、教務主任としては認められんわな」と言われたのです。

当然の反応だと私も思いました。と言うのは最初の週案で6時間目まで図画工作にしたのは「自分で作った大きな凧をお正月に飛ばさせたい」の一念だったから、6時間目まで図画工作にしたのですが書き換えたのは1,2時間目までは図画工作で、3,4時間目は理科、5,6時間目は体育に教科を変えて内容はそのままのものです。今から考えたら無茶な話だとは思うのですがその時は真剣だったです。その時には教頭先生が助け船をだして下さいました。「こんちゃん(教務主任をそのように呼ばれていました)の言われるのは正論です。でも、若山先生の思いも理解出来るのでここは、この計画を認めましょう。私も作りたいので一緒にお手伝いしますよ。但し、若山先生の教科を変える考え方は通りませんよ。だから、2,3週目の図画工作を振り返ると言う事で教務主任ハンコを押してあげてください。」で了解が取れて、翌日の凧作りは大変盛り上がり、完成した自作の凧を校庭で元気よく飛ばしてくれましたし喜んでそれぞれが自作の凧を喜んで持ち帰りました。

私の教員生活はこんな調子でしたので、これ以上は他の方にご迷惑をかけてはいけないと、翌年の3月で教員生活を辞めました。流石に温厚な父進さんもこの時ばかりは怒りを通り越して、さり気無く私を『勘当』して下さいました。リピーターの皆さんこの続きを書いても良いのであればエールを下さい。

 

25歳の時に安八郡神戸町立北小学校4年3組担任時代の私

令和2年3月14日

神戸北小学校の4年3組の担任をした当時、水谷豊さん主演で小学3年担任の『熱中時代』と言う番組があり、私は4年と3年の違いこそあれ、「あんな先生でいたい。」と真剣に考えていました。その当時の私は「あのようなフットワークの良い親しみのある動きをするには子どもたちに会うまでに何をすべきか」を考えました。

そしてその結論は「子ども達と同じ目線で接する為には始業式の1日で担任をする35名の子ども達の顔と名前を覚えて接する事だ。」と思い、その為には「一人ひとりの子どもとインパクトのある接点を持つ事だ」と考え始業式の日には駆けずり回り、家に帰ってから資料にある写真を見ながら名前を言ってみたのですが、35人中32人の名前を言えたのですが、どうしても3人の名前が言えなくて悔しい思いをした事を今も鮮明に覚えています。

次の日には、その3人は特に接点を持って35人を完璧に覚える事が出来ました。その頃の学校では2時間目が終わると20分の休憩時間がありました。今考えるとあの20分は先生方の『お茶タイム?』あるいは『煙草タイム』だったように思いますが、私は2時間目のチャイムが鳴った瞬間に子どもたちと一緒にグランドに飛び出していて、担任である私がまるで『ガキ大将』のようだったと今になって思っています。1学期も1週間が経過して気になる女の子がいました。

その子は給食を食べるのがいつも遅くて給食の時間が終わり掃除の時間ギリギリに下膳をするのです。そこで、私は給食をグループで食べて順番にグループを回って食べる事にしました。そのようにした3日めに彼女のグループの番になり彼女をさりげなく観察していると、彼女は牛乳の瓶に口を付けるものの全く飲んでいない事に気が付きました。

そこで私は彼女に「先生も小さい頃は牛乳が嫌いで飲めなかったんだけど、先生になってから頑張って飲んでみたら飲めたのでTさんも頑張って飲めるようにしよう。」と声を掛け、ほんの少しずつ本当に時間がかかったのですが、(掃除の時間に食い込んで1時間位)1本の牛乳が飲めたのです。そして、子ども達が下校して職員室で翌日の資料(予習などしたことがない私ですが)を作成していると、Tさんの母親からの電話だったので一瞬ドキッとしながら話を聞くと母親が「うちの子が帰ってきて興奮しながら生まれて初めて1本の牛乳を先生に見て貰って飲めた。と言うので私もあまりに嬉しくて思わず電話しました。」との事で、内心ホッとしながら「あれだけの事で喜んで貰えるのか。」と思うと同時に「これからも、気が付いて出来る事はしっかり実践しよう。」と思ったものでした。私は新しく職員になった者には「先ずは入居者さん利用者の名前を覚える事。

そして、相手の方がして欲しいと思う事を起案を出して実践して下さい。」と言っているのですが、そのように言えるのはあのような体験をしたからだと思っています。リピーターの皆さん、一生懸命に無駄なしです。これからも頑張りますので宜しくお願い致します。

 

 

 

特租法改正案に一言

令和2年3月13日

新型コロナウイルスの感染拡大に備える新型インフルエンザ等対策特別措置法改正案が12日の午後衆議院本会議で賛成多数で可決、通過し本日、参議院でも通過するとの紙面を読み、また、新型コロナウイルスのニュースをテレビで見るにつけ、日本人の気質と法案の中身にギャップを感じたのは私だけでしょうか。と言うのは、愛知県でコロナウイルスの陽性が確認された方が、「コロナウイルスをまき散らしてやる。」と言ってパブに行き、お店の従業員の方に感染させたとの報道に、日本の法律は基本的に『性善説』に立っているためか、陽性反応が出た方の自宅静養に強制力も罰則規定もないと言う事。「罰則規定がないから外に出て何が悪い」との考え方には私自身は違和感を持ちますが「遂にこの様な考え方の日本人が存在するのか」と思った次第です。

極端な考え方かも知れませんが『アメリカの銃社会は自分を守る為に必要な物』つまり、『自分の身は自分で守る』との考え方からだと思うのですが、日本では銃の保持は認められていません。それは、『安全な国 日本』の象徴だと自負していました。(今も99%はそうだと思っていますが)また、外国の方の中には日本の自販機の多さに驚かれるとも聞いています。これは、「日本では自販機を壊す人がいない」とのこれまた性善説からです。

また、『児童虐待』についても、「親が虐待をすることはない」との考え方の中、私が知り得る中では、警察官が出向いても「躾の一貫です。やり過ぎた事は改めます。」で家の中まで入るのはなかなか難しい状況が長く続きましたが、最近はようやく少しは介入出来るようになったと聞いていますが、最近のニュースでも子どもの虐待で子殺しの事犯が報道されているのには心痛みます。何故このような事が起きるのでしょうか。『自由を謳歌する事による勘違い』『利己主義をまかり通す風潮』・・・。よくわかりません。でも言えるのは『我慢強さを育ててこなかった』事の反動だと思うのですが、リピーターの皆さんはどのように思われますか。

本日午前中にお見えになったお客様から驚くようなお話を聞きました。それは、同居している孫に祖父である方のお箸で食べ物を食べさせようとして、孫の親から叱られた。との話を聞き私は驚きました。「じい様が使った橋はばい菌まるけなんか。愛情の表現はどうしたらいいんや。無菌状態にすることは心身共に弱い子にしてしまうのと違うんかい。」一本の筋が通らない事で色々な問題を醸し出すのと違うのかな。これまたリピーターの皆さんご意見下さい。

 

『病は気から』と申しますが

一旦お腹の張りは治まっていたのに、昨日は一日張りが強くて、施設にいても事務所内の職員に気を使わせてしまうような状態で、午後からは垂井町で実施予定をしている新規計画の為の土地に建っている町営住宅の解体をするための下見に垂井町の担当者の方の協力を得て行われたのでご挨拶を兼ねて出向いたのですが、少し歩くのもお腹にこたえるような状態でしたが、何とか皆さんに迷惑をかけない対応は出来たのですが、正直脂汗をかいていました。

下見が終わり少し早かったのですが直接家に帰らせて貰い、横になり、コラムを打とうとガラケーの携帯とにらめっこしても、一人になると『コロナ、コロナ』と呪文のような状態で・・・。だから、昨日のコラムで書かせて貰ったように発想を『セーフティネット』の話題に変えて頭の中から『コロナの呪文』を追い出したら元気が少しずつ出てきたので、本日は朝早くからコラムを打っていて今(午前6時00分)関ヶ原町のチャイムが鳴りました。

今日は午後から笠松に出掛けるのでスーツに着替えようと準備していると三重県老施協の近藤会長から電話が入り、話し終わって再び着替えようかと思ったらまたまた携帯がなり今度は、福井県老施協の皆川会長からの電話で、どちらも当然の事ながら話題は『新型コロナウイルス』『マスク、消毒薬』『名古屋市のデイサービスの休止』です。確かに我々高齢者介護に関わる者として、当然と言えば当然の事なのですが、未だ終息の目処が立たない状況においては私も含めて皆川会長、近藤会長もそれぞれの県の代表者としてどのような対応がベストなのかを考えると正直頭を抱えなければいけない状況です。但し、お互いに情報共有をしてより良い提案・実践をしていきたいと改めて思いました。

話しはガラッと変わりますが、コロナ、コロナと言う事で頭が一杯でしたが気が付けば3月12日。新年度になるまでにそれほど日数がない。実際に3月20日には杉和会の理事会も予定されているのだし、事業案、予算案に対する計画を固めなければと色々と連絡をとって構想をまとめています。本部施設本館は22年が経過し、新館においても16年が経過して(16年が経過していて『新館』と言う呼び方には少し無理がありますが)特浴も老朽化が激しいのもありますし、ポンプにしても耐用年数をはるかに越しているのもあるし、ここは理事長としての手腕が問われます。

また、令和2年度に盲養護老人ホームと養護老人ホームの合わせて80床の計画をしているのでこの1年間で新規採用も含めた人事についてもしっかり事業計画に組み込まなければいけないので、じっくりと考えを練らなければいけないと考えています。理事長には職員の任命責任がありますが、これを上手くしないと組織の動きがしっかり出来ないので、しっかりとした考え方で提案したいと考えています。

立ち上げ時とは比較にならないほど職員の質も量も確保できている今だからこそより充実した組織体にしていきたいと思っていますので、リピーターの皆さん、これからも杉和会へのご理解ご協力宜しくお願いします。

最後のセーフティネットへの挑戦

最近の話題は新型コロナウイルスばかりで、私の頭の中も「新型コロナウイルスを施設に持ち込まない為に何をすべきか」を祈るばかりで、頭の機能が停滞しているのがストレス(最近はこのストレスを撥ね飛ばせんのです)となり、お腹の張りが治まりません。まるで、石をお腹に詰められたオオカミのようです。このお腹の張りは単なる『あぶら』とは違うことは私自身が一番知ってます。

こんな状態ですから逆に元気にノリノリだった時の話をします。(ひょっとしたら、既に何度もこのコラムで登場しているかも知れませんが)私が38歳で児童養護施設を退職して反社会、非社会の児童の個別指導をやると決意して、その事だけでは生活出来ないので大学、短大、専門学校の非常勤講師を最大で週に13コマをこなしながら、それでも生活出来ず家庭教師もしていたのは既に話しましたが、44歳で施設を建てるまでの6年間はいわゆる無納税者だった時に、私は無謀にも施設が建つ前の2年間、PTA会長を勤めたのです。

1年目は地元小学校の会長と共に関ヶ原町連合長を引き受け、2年目は何と無謀にも(1年で懲りないのが私の・・・。)岐阜県連副会長を引き受け、西濃地区連合会長まで引き受けたのです。確かに、その頃の私はバタバタの毎日(今もそうですが)でしたが、時間調整をして対応してました。但し、無納税者の私でしたが全国大会が大分県であり行かして貰いました。その頃の私はお金がなくても人一倍夢を語っていました。私の父進は教員を40年実直に勤めた聖人君主と言っても過言でない人物だったので、財産をたくさん残してくれたわけではありませんが、時代背景としては補助金に恵まれた時だったので夢を実現出来たのだと思います。

但し、たくさんの補助金を頂くわけですから、提出する書類は半はなく多かったですが、睡眠時間を節約して頑張りました。確かに紆余曲折がなかったとは申しませんし、その当時年に一回開催されていた海外研修団ボストン会のメンバーからは「若山は死んじゃうんではないか」と真剣に話していたとの話を後から聞いた事もありました。

平成9年7月にその当時の岐阜県知事から法人認可を頂き翌年5月には事業開始に漕ぎ着け、1年目は職員と私との考え方に大きな開きがあり、崩壊寸前までの危機もありましたが、2年目から職員との解離がないような運営にして、職員の提案に耳を傾け少しずつ組織が強固になってきたと思います。但し、事業開始3年目に介護保険が導入され、特別養護老人ホームへの参入に拍車がかかり、現在、一部の法人の中には社会福祉法人の大切な使命を蔑ろにしている所があるためか『社会福祉法人の非課税に否定的』な方が出ているのも事実です。

当法人は地域のニーズに応えながらの展開をしてきたと自負しています。その流れのなかで令和2年度の事業で盲養護老人ホームと養護老人ホームの建設を計画することにしました。これは文字通り『セーフティネット』としての役割を担いたいと考えたからです。その理由は盲養護老人ホームが岐阜県に無いことによる不安を岐阜県視覚障害者協会の会長からお聞きして、その不安を払拭することが法人としての役割と考えたのと養護老人ホーム静風園が老朽化していて入居される方がいないとの話を聞いたのと『8050』による問題には養護老人ホームの必要性を感じたからです。

今は養護老人ホームは全国的に稼働率が悪くて経営を控える傾向にある事は理解していますが、西濃一円に養護施設がなくなる事は最後のセーフティネットがない状況を作ってしまうと考えたからです。経営については本部施設と和合の施設と垂井に予定している3施設のトータルで考えて行き、西濃一円と岐阜県一円のセーフティネットになることが大切だと考えたからです。リピーターの皆さん。

お陰さまで『コロナ』から『セーフティネット』に思いを馳せたお陰で元気になってきました。明日からの元気を取り戻した(多分)コラムをまたまた宜しくお願いします。

日本中新型コロナウイルス一色なのです

令和2年3月10日

本日は10時30分から岐阜県老施協正副委員長会議があり、最初に会長としての挨拶も新型コロナウイルスに対する話からさせて貰い、議題に入ってからも今月25日に予定していた午前中の役員会は場所を変えて実施することにして、総会については書面承諾を頂く事にして、総会後の全国老施協桝田委員長の講演は介護保険制度や書類の簡略化についてのものなので、コロナウイルスの終息に合わせて実施する事に決めました。その後来年度の事業計画、予算計画について検討して、その後はまたまた、コロナウイルスに対する対応と午後に予定している岐阜県高齢福祉課へ持っていく古田知事宛の要望書についての打ち合わせをしました。午後1時30分からの予定で県庁に陳情に行くので昼食の弁当を頂きながら陳情の流れを打ち合わせしました。

その後県庁への移動をしたのですが、駐車場が一杯で車を停めるのに一苦労しましたが、時間通りに私を含めて役員4人で高齢福祉課に行き、話し合いをして最後に要請文を課長さんに渡して無事に終了して本部施設に帰る前に和合の施設に寄り人事の内示の話をしてから佐藤施設長と打ち合わせをして本部施設に帰り書類の整理と決済をしていると薬師寺執事長の大谷徹奘師(私が初めてお会いした時は副執事長さんでしたが)とソフトバンク元社長室長の嶋聡氏からのメールがきていて、大谷徹奘師の内容は新型コロナウイルス感染拡大防止の為に公開講座等々が中止になった連絡と共に最後に『日々の勤行で、皆様方が感染しないこと、そして早く感染拡大が治まることをお薬師様にお願いさせて頂いておりますが、今は一人一人の心がけが大事な時です。どうぞご自重の上、ご活躍頂くようお願い申し上げます。お薬師様のご守護がありますようご祈念申し上げます。合唱』この終わり方でつくづく思いました。単に祈るだけでなく、正しい生活こそ平穏への道と。(少し格好良すぎかな)

もう一方の嶋さんの内容な新型コロナウイルスについて縷々書いてありましたが最後に嶋さんらしい提言があったので書き写します。『「大風呂敷」と言われた明治の政治家、後藤新平は関東大震災の後の帝都復興計画で有名ですが、元々は医者でした。西南戦争の時は、大阪でコレラ対策を行い、日清戦争後は当時中国で流行していたコレラの蔓延を防ぐために、陸軍検疫部の事務官長として帰還兵の検疫を指揮しました。下関、広島、大阪の沿岸の島に検疫所を設け687隻、23万3千人の検疫を2ヶ月で済ませ、「世界に誇りうる成果であった」とされています。時の陸軍次官は後に日露戦争の参謀長となる児玉源太郎。「で、経費はどれくらいかかりますかな」と聞く児玉に対し「まあ、ざっと百万円」同席した人達は大風呂敷なとてつもない金額にハラハラしたそうです。児玉はしばらく考えて言いました。「後藤さん、百五十万用意しましょう。完全な検査をやってください」日本政府も明治の先人を学び、大風呂敷な政策を断行していただきたいと思います』は故事に習った大胆な提言だと思いました。

もう一つ『湘南通信』のコーナーにも面白いと言うか納得の記事が載っていましたので書きます。『「四耐」という言葉があります。「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑(はまの意味)に耐う」というものです。この中で一番難しいのが閑(ひま)に耐えることとされます。多くの皆様は、多分出席予定の会合が次々にキャンセルされ、時間が出来ていると思います。私もお願いされていた講演がすべて中止になり、湘南の海を見ながらゆったり過ごす時間が出来ました。この機会を活かそうと帝王学の古典「貞観政要」新釈漢文大系を買い求め、読み進んでおります。守屋洋先生の要約本は40代の時に読んだのですが、原点は圧倒的な面白さです。さらには5月から仕事で必要なので、挨拶が出来るように韓国語の勉強も始めました。大変な事態でありますが、伝染病の蔓延とそれを克服してきたのが人類の歴史。コロナもいつか克服されます。その時にそなえた「閑」を活かしたいと思います。』には、『出来る人は常にピンチをチャンスにされる』と思うと共に私も明日から余裕が出来た時間をより充実させていきたいと考えています。つまり、「忙しくなるまでの前にやるべき事を今から準備すべし」で頑張りますのでリピーターの皆さん私の動きにも留意していただければ嬉しいです。

反実仮想(薩摩の教え)

「もし〇〇ならば」「どう対応したら良いか」を考える思考の仕方で、薩摩(今の鹿児島県)ではこの考え方で幕末に薩長同盟によって、日本の新しい歴史が出来たと言っても過言ではないと朝のテレビを見た時に教えて貰いました。その時に閃きました。それは、当法人の顧問である烏野猛先生(びわこ学院大学教授)がよく言われている災害に備える為の準備で「例えば東南海沖地震等の大きな地震が起きた時の備えをすべき」との言葉が私の頭をよぎりました。烏野先生によると「インフラが回復するには最低3日間はかかるので少なくても3日間の備えは必要だ。(3日間の籠城と言う表現をされていました。)」と力説されます。

昔から『備えあって憂いなし。』地震など来ないに越したことはありませんが、絶対に来ないと言う事を断言出来る根拠はないし、最近良く耳にする『想定外』と言われる事態が多くあるのも事実です。今回の新型コロナウイルスにしても中国武漢で発症したと報道されて2ヶ月もたたないにも関わらず日本でいやいや世界で大変な事になってます。岐阜県老施協としては早々にマスク及び消毒液等の在庫状況や入居者さんへの面会やボランティア対応の考え方をアンケートを作成して調査した集計結果は、マスクや消毒液の在庫をそれほど抱えていない施設もあることや、治療薬がいまだ見つかっていない現状での不安を訴える記述が多くありました。

名古屋市内2つの区でデイサービスの営業自粛での対応への不安も増幅してます。明日は午前中に岐阜県老施協正副会長委員長会議があり年度末にすべき内容もたくさんあるのですが、今会員施設に対して応えていかなければいけないのは、新型コロナウイルスに対する色々な不安を払拭することが大切だとの思いから午後から岐阜県庁高齢福祉課に陳情に行くためのアポイントメントをとったので依頼すべき内容を取りまとめ県庁に行きたいと考えています。お陰さまで私のネットワークの中で、他県の情報を色々頂いているので、その情報も明日の陳情では活かしていきたいと思います。具体的には施設に対して、1万枚のマスクの提供を提案してきた県があったり、県と市の両方から提供に対する言質を貰ったとの事であったり、ある市では3万枚のマスクの提供を獲得した等々です。冒頭のテーマに戻りますが、目に見えないものを想定しての布石は打てませんがだからこそ色々な事を想定してのハード面ソフト面の備えは必要だと感じています。

本日夕方に地元の新聞社に各市町村のマスク及び消毒液の備蓄数量の調査は可能かどうかを聞いてみました。即答は得られませんでしたが、視点は悪くなかったと思うので何らかの答えを頂けるものだと思っています。このような思考が出来るのも色々な経験をさせと貰ったからと思うと改めて『何事も無駄なし』と思うのですがリピーターの皆さんはどのような考えられますか。

中学一年の時の大ピンチについてお話します

令和2年3月8日

突然全く前後の脈絡無しに中学一年の時の大ピンチだったお話をするのは毎日のように新型コロナウイルスの話をしていてもあまり前向きな話が出来ないし実際に私の頭の中はコロナウイルスの影響を受けない事しかないのでコラムの題材が全く浮かばない中で、ふっと「私自身のピンチは何だったかな」と思考回路を変えた時に、第一のピンチは生まれて半年目に心臓が5分程度止まってから虚弱児の毎日だった事だけれども、この事は多分両親にとっては大変だっただろうとは想像出来るのですが、私の中では、ただただ甘えてただけでビンチだった思いはないのです。勿論両親に対する感謝の念はありますが。さて、私自身に自我が芽生えてからの大ピンチはと言うと小学時代の私はそれほど勉強をしないで、飛び抜けて悪くも良くもなかったと思うのですが、中学に入学して5月のゴールデンウィークが終わり学校の学習にもギアが入る頃に腸捻転で手術の為に長期入院をして久しぶりに学校に行き英語の授業を受けた時に頭が真っ白になった事です。どうしてかと言うと英語の先生が言われる話に全くついていけなくて・・・。他の教科も遅れたものを取り返す為に父進の計らいで(多分母秋江さんの意向)英語は春子さんに数学は光子さんに教えて貰う事になったのですが春子さんの教え方は「何でこんなことがすぐに理解できんの」的な教え方で、私は否応なく涙が溢れてますます春子さんに怒られたのを今でも悪夢のように思い出されます。(こう言う事を書くと後日春子さんから怒られるだろうな。でも今は怒られても泣かんだろうな)そう言う意味では数学を教えてくれた光子さんは優しかったし頭にすすっと入ったな。(これは完全に春子さんが怒り心頭だぞ)この時期の出来事によって英語は全く嫌いになったし、全く努力もしない人生に(そんな大袈裟な言い方をしなくても・・・。)数学はその後挽回して好きな教科になりました。ここでお断りをしておきますが英語が嫌いになったのは決して春子さんの責任ではありませんから。その当時の英語の先生が勉強が出来る子中心の教え方だったし、私が努力をしなかったのがいけないのであり、決してけっしてケッシテ春子さんが悪くはありませんので。(この書き振りは無駄なあがきかな)今の私ならばピンチをチャンスにする術をそれなりに持っていると自負していますが残念ながらその当時には出来なかったから今の私があるのか。でも、英語が出来なくても35歳の時にアメリカ研修に参加させて貰った時もさほど不便を感じなかったし、今は英語が必要な時には英語が得意な職員に頼れば良いし。私は私がやらなければいけない事をしっかりすれば大丈夫だと考えて頑張っています。しかし、中学時代には英語の先生に指名されないようにおどおどしていたのを50年以上前の事なのにしっかり覚えています。今、社会福祉法人杉和会は150人のスタッフと色々な関わりの方々を含めると多種多様なメンバーがいて、私自身本当に恵まれた環境にいる事に感謝して、ますます地域の為に福祉の為に頑張っていきますのでリピーターの皆さんこれからも応援宜しくお願い致します。

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