私が児童養護施設を辞した理由
26歳から13年間勤めた施設を辞したのには色々な理由がありますが、一番の理由は35歳の時に化粧品の資生堂福祉財団がスポンサーになって実施されている児童福祉に特化した、海外研修団(第15期)17名の一人に選ばれてアメリカの研修団として参加させて貰ったのが引き金になったと思います。研修団の名称は『ボストン会』と言って、北は気仙沼から南は宮崎県の曲者揃いのメンバーです。かなりの強硬スケジュールでしたが、夜はしっかり飲んで早朝からの研修もこなしました。中味の濃い研修の中、特にインパクトが大きかったのは、福祉に携わる方の社会的評価が高く、厳しい状況に置かれている子どもに対しても手厚い対応がなされていて、個別対応の大切さを学ぶ事が出来、研修を終えてからは、「施設の指導員になりたいと思う人は多くいると思うが、反社会、非社会の子ども達の個別ケアをしたいと考えているのは日本広しと言えどもこの私以外にはいない」と、今考えたらめちゃめちゃ無鉄砲な考えを持ち、海外研修から帰って直ぐに経営者の方に話をしました。その時の経営者の答えは「今いる子ども達の事はどうするのだ。」と言われ一旦は「それもそうだ。」と考え直したのですが、やはりその気持ちを捨てきれず再び申し出ると「先生(その頃そのように呼ばれていました。)の代わりを育てて辞めるのが筋でしょ。」と言われ、新しい職員を採用して貰い、2年がかりで私なりに思いを語り、行事等の流れを教えて晴れて退職が出来ました。このコラムのリピーターさんの中には「何故今は児童でなく高齢者なの。」と疑問に思われる方もあろうかと思います。確かに、退職後の2年間は大学等の非常勤講師や家庭教師をしながら個別ケアに生き甲斐とやりがいを持って突き進みました。しかしながら、気が付けば預貯金は底をついた状態になり、スイカの皮で漬け物をを作って貰ったり、外食はお金がかかるからと昼と夜の2食分のお弁当を持って行き非常勤控え室で食べたりと、節約に節約を重ねる生活をしていて・・・。でも、楽しかったな。だって自分がしたいと飛び込んだ道だったから。しかしながら、嫁さんと二人の子どもの生活の柱である事を考えるとこのままではいけない。そこで拠点作りを画策しました。児童施設で自分なりの考え方をやり通すのであれば『情緒障害児短期治療施設』が一番良いと考えアクションを起こしました。『捨てる神あれば拾う神あり』で、親戚筋の方が松尾山の麓の土地約2万平方メートルの提供の申し出があり、パーツまで作り、その当時の岐阜県児童家庭課に持ち込んだのですが、県の方針は「高齢者施設の予算しかなく、児童の施設は10年後しか無理」と言われ、施設作りは見事に挫折。その後紆余曲折がありそれから4年後に特別養護老人ホームを設立しました。リピーターの皆さん。特養設立までの足跡を次回に書きますので、必ず見て下さい。✳コラムが今に(21時36分)なったのは、午前中に杉和会の理事会があり、その後17時15分からの幹部会の為の打ち合わせ等でバタバタしたからです。正直タイトルから横道にそれた事はわかっていますが訂正する事もせずアップしたことお許し下さい。明日こそは・・・。