籠の鳥状態二日目の報告をします

昨夜は入院初日の夜と言うことで、多床室の大きな部屋に一人と言う事で自分の咳を気にする事もなく、ゆったりとした気分で「そろそろ21時の消灯時間だから寝る体制に入ろうか」と考えていたところへ看護師さんが訪室し「消灯の時間ですから電気を消しますよ」と言われたので、「常夜灯のスイッチはどれですか」と聞く「この部屋には設置されていないので、足元を照らす電気を持ってきます。」と言われて持ってきて貰ったのを取り付けて貰い、部屋の電気を消して貰うと足元の電気より出入り口の硝子のところからの光が廊下から延びていて「全く困る事はなかった。」と思うと共に、「廊下の電気は夜どおし点いているのか」とも考えました。(結局朝まで点いていました)

入院初日と言う事でなかなか眠れなかったのですが、その原因を2つ感じました。一つは部屋に暖房が入っていて乾燥状態が酷いのだと言う事。だから、やたら喉が渇き深い眠りに入る前に目が覚めてお茶を飲むことになったからで、二つ目は病院の準備してくれている枕が私には合わなかったからです。この2つについては本日中に加湿器とマイ枕を持ってきて貰ってクリアです。

只今、午後5時12分ですが今のところ熱もなく、咳もそれほど苦になる状況ではないので今夜はしっかり眠れると確信しているのですがいつもの口癖『予定は未定であり決定ではない。』と言う事もあるのでわかりませんが・・・。

但しもう一つ好材料があります。それは私にとって唯一の姉春子さんが14時過ぎに、お手製の漬け物を持って見舞いに来てくれて16時までしっかりお話をしたのと施設から届けてくれた2百枚以上の年賀状の整理が出来たのでほどほどに病人の私にとっては良い意味での疲れがあるからです。週刊現代の記事を読んだりして、自分の時間を持ったゆったりとした時間が流れる1日を満喫出来るのも「少しはゆっくり休みなさい」と不動明王様が言われているのか、薬師如来様が言われているのか、父進さんなのか、母秋江さんなのか、はたまた姉光子さんなのかはわかりませんがこのようにプラス思考で考えて明後日火曜日の血液検査で良い数値を出して早く・・・いやいや『予定は未定で決定ではない。』なので、焦らずあせらずで、リピーターの皆さん私はやっぱり焦っていますかね。

そこで、戒めの天からの声「腹から絞り出すような咳が連続で出て、頭が割れるように痛かった時の事を思い出せ。あの時は遺書を書かなければといってきたやおまへんか(このイントネーションはどこからや)ぐちゃぐちゃのレポートですみません。これは病気と言う事でお許し下さい。

ようやく関ヶ原診療所にきました

令和2年1月4日

12月29日から1月3日まで関ヶ原診療所が年末年始に入り、29日の夜中から突然にしかも激しく連続の咳き込みが発症して、但し、30日の9時30分から私の方からアポイントメントの約束をしておいた事なので、かなり無理をして出掛けたのですが、お話をしている時に相手の方に咳をして不快な思いをさせないように喉スプレーをしたりして、話については目的を達成して自分の車に乗り込むと我慢していた反動なのか連続での咳が止まらずそのまま最寄りの病院に駆け付け翌日も病院に行った事はこのコラムで既に書いた通りです。

昨夜は夕食を頂いて体が熱いと熱を計ると38℃を超えているので、頓服を飲み横になりました。そして夜中に着替えを二回して朝6時過ぎに目覚めた時には「熱が下がり過ぎて体が怠い」と感じました。尚且つ「夜中にはメチャクチャ咳き込んでいたな」と思いながら熱を計ると36℃。「永年熱との戦いがあったからわかるものやな」と思い、本来今日は診療所においての検査の日だったのですが、受付で検査のキャンセルと血液検査と受診の依頼をしました。今は血液検査の結果を待ってホームドクターのような先生の診察を待ちながらコラムを打っている次第です。『血液は嘘をつかない』と言いますから結果を基に判断して貰う事にします。私の体を私の次に理解して貰っている先生ですから。病気になって改めて『安心と信頼』の大切さを痛感してます。

(ここからは検査の結果を診察時に聞いてからの事です。)結果は半ば予想をしていたのですがCRP(炎症反応)が18もあり、この数値は自宅療養では対応出来ない数値だと言う事でそのまま入院になってしまいました。ショックですし、私の予定が大きく崩れますし、本当に困るのですが、これも天命と諦めるしかない。しっかり治してからまたバリバリやるしかない。考えてみたら私も66歳。私が生まれた頃の66歳は完全なご隠居さんだったけど今は違う。生涯現役の時代なんだからこんな事で負けません。入院をしていて出来なかった事を責める人がいたとしたら、その人は健康で良かったねと言うしかない。だって今は籠の中の鳥なんだから。

そう言えばかつて児童施設に勤めていた時に休みも取らず頑張っていて、体調を崩し入院して退院した後、お詫びの挨拶に行ったら「あんたは体が弱いね」と言われたのが退職を決める引き金になったな。と自嘲気味に思い出しました。私はその経験から病気で休む事に対しては寛容でいようとの発想でいます。その流れで産休はもちろん育休についても寛大な発想でいたのですが、今の働き方改革で当然なようになってきたようなので私の考え方は先を見ていたと言う事なのでしょうか。

どちらにしても療養に専念すべしです。リピーターの皆さん。しばらくは籠の鳥レポートになりますので狭いエリアでの報告になりますが、災い転じて福と成す私の真骨頂を期待してしばらくはこの状況でのコラムですが宜しくお願いいたします。

 

明日は絶対に関ヶ原診療所に行きます

令和2年1月3日

あいからわず熱が下がらず咳も出て頭痛も酷いですが、大変な時期に病気になったと嘆いていても一向に改善の気配はみられません。テレビでは昨日、今日と箱根駅伝がずっと流れていますが、テレビをつけても頭に入ってきませんが取り合えず決着が付き往路優勝と総合優勝をお馴染みの青山学院大学が、総合2位と復路優勝を東海大学が勝ちとったようです。昨年は4連覇していた青山学院大学が東海大学に優勝を奪われての雪辱戦だったのですが、見事に成し得たのは並大抵の努力ではなくてしかも、それぞれの選手の特性やその日の調子を見てのエントリーだと思うので、監督さんの指導力と眼力は尊敬に値すると思いました。そして私は今、何の脈絡もなく大学3年の時の夏の団参の時の事を熱でカッカしている時に思い出しました。

(45年前の事です。)私は団参の先達のような役割をさせて貰っていて(60人位の団体だったと思います。)団体の取りまとめを青年会のメンバーと一緒にしていたのですが、13番札所の大日寺の宿望で夕食のお膳が並べられた時の事でした。私たちの頭は固く出来ていて『食事』は『精進料理』と思っていたのですが、何とお膳に『刺身』や『肉』がならんでいるのです。そこで正義感一杯の頃ですから青年会幹部で話し合い、代表者3人がご住職さんの所に行き直談判することになりました。その当時めっちゃ風貌があると言うか、威厳とオーラに圧倒されながらも結局私が話をするとしっかり頷いたかと思いきや「今時の若者がそんな事にこだわっていてどうするのだ。この熱い土用修行を終えることが出来んぞ。」と言ってご住職が立ち上がられ、次に私たちの前に立たれた時には一升瓶のお酒と湯飲みを持ってどんと座られ「お参りを形でするな。皆がお参りされる事こそ肝要なんだ」と言われ、食堂にいる方達に食事をするように指示して再び住職の元へ。

するとご住職様直々に湯飲みを渡して貰い湯飲みに並々のお酒を注いで貰い「飲みなさい」の指示でお酒を一斉にあおりました。結局ご住職も入れて6人で2升の酒を空にしました。そして翌朝は青年会のメンバー5人は全員二日酔いで私はそれに気付かれたくなくて道路に大の字の逆バージョンで根っ転がり「地球を捕まえた」等と言っていました。私もまさか四国巡拝中に二日酔い地獄を味わうとは思ってもみませんでした。しかしながらお参りは結構なものです。一時間も歩いて汗をかきそれ以上の水分をとって二日酔い地獄は解消されました。私は良く「0から1にするのは大変だけれども、1から2、3とすれのは0の生みの苦しみとは比較にならない。」と言っていますが、正に今は四国の宿望ではさしみや肉はあたり前でビールやお酒を頂くのも当たり前になっています。つまり45年前の13番大日寺のご住職には今の展開が見えていたと言う事で素晴らしいお坊様だったと今更ながら思っています。

しんどい状況の中わけのわからない話になりましたが、南無大師遍照金剛を唱えていてこんなコラムになりました。リピーターの皆さん色んな出会いをさせて頂いている私のコラムは永遠に続きますので宜しくお付き合い下さい。だって熱が高くてさっきまでうんうん唸っていても書けたので大丈夫かな。多分・・・。

 

悪夢にうなされて目が覚めたのが午前2時30分・・・。

昨夜は熱も37℃代前半で「熱も落ち着いてきたので後1日あれば大丈夫かな」と思っていたのに悪夢(いつもの夢です)で目を覚ますと体がガタガタ震えるので熱を計ると38℃を超えているので2階にあった頓服は飲みきったので1階に下りて頓服を飲みまたまた熱と戦います。次に目が覚めたら朝になっていて熱が下がっていることを願って目をつむります。(朝の宿直者7時の報告メールで目を覚まし続きを書きます。)

まだ、頭が重いしすっきりとはしてませんが、昨日とは違う喜ばしい事が出来ました。昨日までは布団の中でお経を唱えていても途中で集中力を無くしてしまうのかお経がまともに詠めなかったのですが、今朝はしっかりとしかも3回も詠めました。そして父、母、姉、養母への呼び掛けも出来ました。何となく気分が優れてきたように思います。

ここでリピーターの皆さんの中には「布団の中でのお経で大丈夫なの」と思われる方もおありだと思いますので私が38歳の時のエピソードを書きます。それは、私が児童施設を辞しフリーになって、私にとってその頃の師であり支援者でもあった吉田宏岳先生(当時は日本福祉大学中央福祉専門学校校長)が『教育と福祉を考える会』と言う学会の責任者で末席で参加させて頂いていた私を可愛がって頂きよく宏岳先生の自坊(真言宗豊山派のお寺)に泊めて頂き朝食になり先生にこわごわ聞いたのです。

それは先生と布団を並べて寝ていて、絶対に朝のお勤めをされてないと思ったので「先生はこのお寺の住職ですよね」「そうですよ。それがどうかしたの」と言われて(私は固まりながらも「朝のお勤めをされましたか」とお伺いすると「しましたよ」との答えが返ってきたので(私はますます固まりながら)「先生は私とずっと隣の布団で寝られてましたよね」と言うと「そうですよ。お勤めは布団の中でしっかりしたから大丈夫です。」と答えて頂き、深い話だとその時思いました。『場所は違えども祈りは通ずる』と。

だから、私のお経もご先祖様、仏様に聞こえているはず。

本日、寝込んで4日目ですがこの状態から早く脱出しなければとも思いつつも職員が頑張っている事に感謝しつつ1日静養します。11時になり異常な寒さによりガタガタ震えて頓服を飲みました。ちゃんと静養しているのに何故。と思った瞬間不動明王様が「今は動くでない」とのご意志何だと思い、苛々せずに『ノウマク  サーマンダ  センダ  マカロシャヤー  ソワタヤウー  タラター  カンマン』の御真言を唱えるしかないと思った瞬間に体が楽になりました。結局時間をかけて治すしかないんだと。

元旦は熱が38℃から下がりません

最悪のお正月になりました。

頓服を飲んでしばらくは楽になるのですが、直ぐに寒さを覚えて38℃以上に熱が上がります。焦っても仕方がないのは百も承知してますが『このまま熱が下がらなかったらどうしょう』とか『携帯で遺書を書こうか』等とかなり弱気になってます。

だっていつもの私の症状の出方が真逆だからです。いつものパターンだと『喉が痛くなって』『熱が高くなり』最後が『咳』で終わるのに、今回は『猛烈な咳き込み』から始まったから正直不安なのです。

寝ていて『南無太師遍照金剛』と『オン  コロコロ  センダリ  マトウギ  ソワカ』(薬師如来さまの御真言)を一生懸命に唱えているのですが、一年間の無理が最後に出ているのか。いやいや昨年は8月に帯状疱疹で10間入院したし、新規事業も暗礁に乗り上げているのに年末年始にこの体たらくをどのように理解したら良いのか悩んでしまいます。

やっぱり元々生まれつきの虚弱児のわたしがこのような展開する事自体無謀な生き方何でしょうか。志を高く持って生きる事は決して悪いことでは無いし、私のスタンスは地域のお役に立ちたいと言う事で頑張ってきたのですが、ここは少し休みなさい。と言う事なのか。横になってうとっと眠るとやらなければいけないことが出来てないと責められっぱなしで目が覚めて。ゆっくり休めと言われているとは思えない状況です。

大きな事業を3回させて貰った時も一生懸命な姿を見て救世主が現れました。手立てが無いときは誠意を尽くしていくしか無いのでしょうが厳しい状況が続くのは天の戒めなんだろうか。でも私は揺るぎ無い思いの中で事業を22年させて頂いているのだし、本館が出来ての舞い上がりについては、それこそ倍にしてお返しをして今があるのだから体調を崩しての愚痴をコラムに書いてしまい、リピーターの皆さんすみません。

体調を戻しまたバリバリと事業を推進していきますので今日のコラムはご容赦下さい。

39・3℃まで熱が上がりました

令和元年12月31日

異常に頭が痛いので朝起きて昨日飛び込みで行った病院に電話をすると9時からは診察しますが、昨日の先生ではありませんが良かったら来て下さい。との事なので車に乗せて貰って出掛けました。

本日は内科の先生が一人だけなので10人位の患者さんなんですがなかなか診て貰えず、苛々してしまい熱が上がってきたように思っていて、「インフルエンザは大丈夫か検査して下さい」と言うと「熱が出て3日も経っているならもしインフルエンザであったとしても薬の効果は無いですから意味がないですよ」と言われたので「私は色々な方とお会いする仕事なのでお願いします。」と言ってから不思議な事を思い出しました。と言うのは職員が熱を出してインフルエンザの検査をしたが、熱を出したばかりなのでインフルエンザだとの判断が出来ないと言われたとの報告を受けていたからです。早くても遅くても駄目だとすると検査の意味があるのか不思議な気がしてきました。

薬を貰うのにも時間がかかり、結局二時間半も病院にいたので、多分私が苛々したためか家に着いた時にはふらふらで家に着くなり熱を計ると38・9℃に上がっていて、直ぐに頓服を飲み横になったのですが頭はガンガン痛いし体はガタガタ震えるしで30分後にもう一度熱を計ると39・3℃で思わず絶句です。とにかく眠くて約三時間眠ると(その間は頭がガンガンでわけのわからない夢ばかりみていて)、目を覚ますと汗をかいていたので全部着替えてさっぱりして一階に下りて熱を計ると37・5℃で少し落ち着いて来ましたがまだ頭の痛いのはあいからわずです。

本日は大晦日ですが明日が元旦で全国的にお正月ですが、私は気力で生きているのかも知れません。12月29日の午前中に咳き込んではいましたが何とか話をすることが出来たのですがその後は寝っぱなし。寝正月とは情けないですが、毎年私がしていたのし餅を切る仕事やお正月用品の購入は出来なかったのですが私の代わりに職員がしてくれた事に感謝して一年間の疲れを癒したいと思います。ところでこのコラムがいつもより短いですがリピーターの皆さん頭がガンガンですのでご容赦下さい。

人間は基本的に気力によって成り立っているのかな

令和元年12月30日

昨日無事にお餅つきが午前中で終わりました。ちぎり餅で『大根おろし』『きな粉』『あんこ』の3種類を入居者さんの分を除いてちょうど10升つまり15キログラムを作って貰ったので(例年より2升多い)頑張ってくれた職員には各フロアで食べて貰い、残った分を手伝いにきてくれたボランティアや職員に持って帰って貰うと共に、日頃お世話になっている方々に配りに行き再び施設に戻り遅い(13時30分)昼食に私もお餅を頂き、「さてさて今年の大きな催しは終える事が出来たし残り少ない今年の時間は片付けをしなければ」と思った瞬間から私の体に異変が・・・。

そんなに大袈裟に言う事ではありませんが急に咳き込むようになり、咳き込むと結構体力を使う為かかなりしんどい状態になり早くに帰らせて貰い、早くに横になり眠ろうとすると体が熱くなるからなのか咳き込みがひどく、長い時間寝たはずなのに体が気だるい。但し、本日は9時30分からのお約束があり着替えて出掛けて二時間近くお話をさせて貰いながら出来るだけ咳き込まないようにしていて喉スプレーをしてなるべく相手の方に不快な思いをしていただかないようにして、お話を終了して車に乗ったらどっとしんどくなったので、その足で病院に飛び込みました。

有り難い事にそれほど待つ事なく診て貰え、病院前の調剤薬局で薬を頂き、食欲が無い時はパンと牛乳とバナナが一番と途中で買って家に帰り、昼食前に食間の薬を飲み、パンと牛乳とバナナを頂き、ベットに横になると、昨夜しっかり眠れなかった為かそれとも体が睡眠を要求したのか二時間程眠る事が出来(あいからわず咳は出ますが)少しは体が楽になり、継続しているコラムを打ってる次第です。しかし、午前中は話し合いをしっかり対応出来ましたが、終わった瞬間からの体たらくは、改めて人間はやるべき事があった時には頑張れる。つまり、しんどくてもどこからか補助エンジンが作動するのかな。と言うことは『やるべき事』が毎日のようにあるから私は頑張れているのかな。国の方針が『働き方改革』と言う名の『働かなくて良い改革』で年末年始は『休むぺし』と言うことで私の体が順応してしまったのかも知れません。等とコラムを打っていると小さい頃の嫌な思い出を思い出しました。

それは母秋江が癌の転移の期間だけ比較的元気になり(不思議な現象ですが事実です)退院して家にいて楽しそうに話をしているのを聞いていた近所のおばちゃんが聞こえよがしに「あきちゃんはあんなに元気なのにのほはんと入院していて羨ましい」と話をしているのを聞いて私の感情の中で増悪が生まれた事を思い出したのです。こんな事を思い出すのは本来の自分でないからかも知れません。リピーターの皆さん。私が体調が悪くて負のスパイラルになっている事から脱出出来るように『元気玉』を私の為に送って下さい。✳最後の件は『ドラゴンボール』愛読者しかわからない話でした。

今年最後のイベントとして餅つき大会が行われました

餅米を蒸す回りにお酒とお塩を撒き、盛り塩もして9時ジャストに火入れを行いお餅つきのイベントが開始されました。

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今は火入れに新聞紙に点けてと言うまどろっこしい作業をしなくても着火剤と言う便利な物があり上手に火が回り勢い良く燃えてくれ、30分もすると三段目のところまで勢い良く湯気が上がって餅つき大会も絶好調。

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今年の餅つきには、高橋工務店の社長一行が10人(息子さん夫婦と娘さん夫婦と子供さん。つまり高橋社長の孫がいっぱい)とかつての入居者さんの孫さんが母子で来て下さったり、職員の子どもさんも沢山来てくれ、また、夜勤明けの職員も沢山手伝ってくれたり、休みの職員も来てくれたりで大賑わいの餅つきになりました。

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3升の石臼に2升の餅米なのでつき手は楽勝なのか、子ども達がパプリカの曲に合わせて踊ったり、太鼓をついて雰囲気を盛り上げたりと楽しい雰囲気の中で2臼はのし餅を作り、3臼目の前に入居者さん利用者さんもホールに揃われたので火の番を高橋工務店社長にお任せして、職員に餅を食べて頂く為の留意事項を改めて話しすると共に参加されている方々に「お餅は一杯ありますから慌てずにゆっくり味わって下さい。」と話をして、食前体操とお茶を飲んで貰い、お餅を楽しんで貰いました。

私はほとんど火の番だったのですが、ギャラリーの方々のお餅の最初のつきをさせて貰いましたが30回もつくと正直『限界』だったのでバトンタッチをしました。

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綺麗につけた餅を小指の爪程にちぎり、大根おろしとあんこを付けて、ゆっくりと味わいながら食べて頂きました。入居者さん、利用者さんは昔ながらの餅を堪能して頂くとそれぞれに満足して頂けたようです。お餅を食べて頂く行為は、特別養護老人ホームにおいては無謀な事と言う考え方があることも充分理解してます。しかしながら、充分な配慮をして実践していく事で満足して貰えれば素敵な時間を持って貰えるのではないかとの思いを職員がいわゆる『ワンチーム』になって取り組めば、思いは通じるし、入居者さん利用者さんの笑顔をみればおのずと「来年も頑張ろう」との気持ちになると考えています。

話しは変わりますが、高橋工務店の社長と話をしていて、社長が施設に来る車の中で中学3年生になるお孫さんに話された内容に嬉しさを感じたので蛇足的なはなしですがさせて下さい。その話しとは「年々優・悠・邑のお餅つきには多くの方が来られるようになってきた。どんな事でも、人が集まって下さると言うのは素晴らしい事だから人が集まって下さるような生き方をしなさい。」と話をしたとお聞きして改めて思いました。「お餅つきの企画も最初から沢山の参加があったわけではなかった。」と。リピーターの皆さん『千里の道も一歩から』です。これからも自分を信じて頑張りますので今後とも宜しくお願い致します。

大谷徹奘師の言葉から

令和元年12月28日

大谷徹奘師の日めくりカレンダーの今日の言葉が私の心にすっと入ってきたので、その言葉を書くと共に私の思いを書く事にします。

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先ずは本日の師の言葉は『自分が大切だと信じるものを   自分が大切に大切に育て続ける   それがすべてだと     私は思う』です。私は師の言葉から一番最初に思った事は『自分でやると決めた事は諦めず、腐らずやり通す事。』私は生まれ育った関ヶ原町今須の地で特別養護老人ホームを作るんだと決めて4年の月日が経過して出来た優・悠・邑は正に師の格言通りでした。何故なら私自身が資産家でもなければ沢山のお金を稼ぐ人間でもないし。ただ、「これからは高齢者を支える施設が無いと家族介護では限界がある。その事に気づいている私が色々な人の理解と協力を得て地域の為に特別養護老人ホームを作らなければいけない。」と思ったわけです。

最初の内は誰もが単なる法螺吹きだと思ってみえたと感じましたし、相談に行った役所等も全く相手にしてくれませんでした。しかしながら『絶対に作るんだ』との思いで語り、一人二人と理解者を増やしその方の中から支援をしてくれる方が現れてきて、一歩一歩形にしていきました。そして4年の月日がかかりましたが平成9年5月に国からの内示を頂き、7月には岐阜県知事から法人認可を頂き、8月8日に建設の入札をして、翌年5月15日に竣工式、18日からの事業開始に漕ぎ着けました。

しかしながら、『思い』だけで作ったので私も正直舞い上がっていて、その当時は職員との考え方に大きな開きがあり、胃に穴が開くのではないかと思えるような経験をして、施設の再編にも信念を持って頑張り今は職員達も私の考え方を良く理解してくれて頑張っていてくれてます。その一つの現象が一昨日のクリスマス会の賑わいだと思っています。

22年前には施設の存在に疑心暗鬼な方も多くみえた事は否定出来ませんが今は地域のセーフティーネットとして欠かせないものと思って頂いてます。これからも、地域の方々のセーフティネットとしての展開をしていきたいしそうでなければ社会福祉法人杉和会の存在価値はないと考えています。私は理事長として10年先、20年先の地域での必要性を考えた展開をしていきたいと考えていますのでより一層のご支援をリピーターの皆さん宜しくお願い致します。

『三太郎』に思う

令和元年12月27日

昨年のクリスマス会で『桃太郎』『金太郎』『浦島太郎』の格好をした職員が登場し私が『帰ってこいよ』の替え歌を歌い非常に盛り上がったので、今年も同じ出し物をさらにパワーアップして、入居者、利用者、家族や来賓の方に喜んで貰おうと本館、新館、デイサービスで代表者を決めて衣装や小道具は共同作業で競わせて、昨日がそのお披露目だったのですが、衣装合わせも練習も一切無しの文字通りぶっつけ本番。

それぞれの担当での準備は万全で落ちこぼれていたのは歌を歌う私だけが落ちこぼれで。歌の方は最近の飲み会で披露していて常にバカウケしていたので自信があったし、歌の披露には私は立派なお腹で歌うわけだし大丈夫とたかをくくっての本番だったのですが、最初に登場してくる『桃太郎』が大きな桃の中から出てきたのに圧倒され、『金太郎』ではかなり恥ずかしい登場で、しかも金太郎は熊の縫いぐるみを着た北島部長が金太郎を乗せての登場で、金太郎を乗せたまま入居者、利用者の回りを歩く姿に感動し、最後に登場した『浦島太郎』の登場時には『桃太郎』『金太郎』『浦島太郎』が私の回りを歩き回られ、私は嬉しさから正直舞い上がり、「亀に乗ってる浦島太郎」と歌わなければいけないのにも関わらず『桃太郎』だったのか『金太郎』だったのか『浦島太郎』だったのかがわからなくなってしまい、三番の歌い出しを間違えてあたふたしてしまいました。

しかしながら、災い転じてで逆に大うけでした。私自身は一曲目で失敗したのが尾を引く形となり二曲目の『夢一夜』は上手く歌えたのですが「早くに終わりたい」と言う気持ちがあったのか三番があったにも関わらず終わってしまい、私自身はメロメロでしたが、聞き上手な方に助けられた次第です。

私の次の出し物は職員のダンスによるパフォーマンスだったのですが、私は見ることが出来なかったのですが大変好評だったようです。そしてクリスマス会のメインゲストの山崎ていじ歌謡ショーでは、私の出番をていじさんが作って下さったので、ここは名誉挽回をするため赤のズボンに緑のジャケットでていじさんのヒット曲である『おまえしか愛せない』を歌わせて貰ったのですが、私が歌うときにはていじさんは段から下りて私が段に上がらせて貰っても、横にいるていじさんの方が背が高いのは許せん話だけど仕方がないか。でも、本人を前にしてもしっかりと歌えたのは良かったです。

クリスマス会も終わり、ていじさんと来賓の方々でケーキを食べて頂き最後は記念写真で盛り上がりました。29日にはお餅つきもあるし、一つひとつ楽しみを大切にしていくのが優・悠・邑及びえりかの里の真骨頂。リピーターの皆さんこれからも応援宜しくお願いします。

 

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