『夢一夜』の世界です

昨日は朝早く東京の都市センターホテルで目覚め(5時前に)ゆったりゆっくりお風呂に浸かり、その後荷物の整理をして着替えを済ませ東京駅に向かいました。(時間に余裕がある時はタクシーも直ぐに確保出来るのは不思議です。)6時35分には東京駅に着き7時発の新幹線に乗りました。(この時間だと朝まで飲んでいた方何でしょうか若い女性が介助されていてもふらふらと歩かれて何故か大きな声で泣かれているのは何と理解して良いのやら)券売機で切符を手に入れホームに行くと既に列車が停まっていたので乗り込み座ると同時にコラムを打つ手際良さ(だって施設に帰ったら丸2日間施設を空けていたので目一杯のスケジュールが待っているから)コラムの打ち込みに集中していて、新横浜を過ぎた頃に販売車が来たので迷う事無く『おむすび弁当お茶付き』500円を買って、お弁当を頂きながらコラムを打ちながら私は「これからも、何回このお弁当を食べる事になるのか」と思いました。だって、元気に飛び回れるからこその『おむすび弁当お茶付き』何だから。施設に帰ったのは9時30分過ぎで、11時からは葬儀の参列やら、13時からは順次お客様が来て間隙を縫ってクリスマス会の打ち合わせをして、もう一つ間隙を縫ってやらなければいけなかったクリスマス会での私のステージ衣装の検討が全く出来てなくと本日の本番を迎えてしまい、午前中は年末の挨拶にお見えになった方々との挨拶で終わってしまい、12時前には本日のメインゲストの山崎ていじさんと世古口緑さんがみえたのでご一緒に昼食をとっていると次々にお客様がみえて、いつもの事ながら「開会の挨拶が全く考えてない」と言う事ですが何とか不手際もなく挨拶をして、来賓の猫田先生の挨拶後は私の出番の為に施設長室で着物に着替えるのですが、鏡に写した私の姿はどこから見ても『相撲取り』のようで、北島部長に借りた帽子はアルカポネのようにカッコ良いものではないけど「まっ良いか」と言う事で。ばたばたで歌い出して思ったのは「この企画はぶっつけ本番で大丈夫かと言うより大丈夫にしなければ」で三太郎では、職員の準備の良さに気をとられて失敗ばかりでしたが何とかクリア。次の『夢一夜』ではしっかり歌えたと思って「やったー」と思っていたらまだ途中だったの大失敗。でも一生懸命に頑張ったと言う事で。今(17時14分)から大垣の中華料理でていじさんを囲んで飲み会ですが取り合えず本日のコラムはクリアと言う事でリピーターの皆さん「飲み会に行ってきます」※テーマと全くあってませんが私が衣服を脱ぎ散らかしたと言う事でご容赦下さい。

予定より1時間30分早い列車に乗りました

令和元年12月25日

昨日は全国老施協の午前9時30分から正副会長委員長会議があり(宿泊させて頂いた都市センターホテルだったので助かりました。)午後からは本部事務所がある平河町にある塩崎ビルまで皆川副会長と歩いて移動する途中で昼食にお蕎麦を頂き、会議をする会場に入る前に事務所にいる職員に挨拶をして(私は当然の行為だと思うのですが、今の若い役員はしないのが多いので、常識教育をガンガンしていくのも私の役割だと考えています。)会議会場に行き雑談していると私の長男である和合の事務長が同じビルの中で行われている研修に来ているとの情報を得て携帯で呼び出し役員の方に挨拶をさせていると総務・組織委員会のメンバーが揃ったので、定刻(13時30分)より10分早く始めました。総務・組織委員会幹事の田中君の進行で始まり、先ずは担当副会長の皆川さんの挨拶な引き続き委員長である私が挨拶をさせて頂き会議が進んで行きました。総務・組織委員会は全国老施協の魅力を引き出す為に全国8ブロックに出向き役員さんとの意見交換をして意見集約をしたものを業務執行役員会に上申すると共に各委員会に魅力ある提案実践が出来るサポートをして、会員事業所を増やすと言う大切な役割を担っているのでそれぞれの委員さんも各地で重責を担っていて尚且つ論客揃いで、活発な議論で昨日のコラムでもご紹介したように予定の終了時間を遥かに越えての委員会でした。

会議終了後は『良く学び、良く遊べ』で、忘年会に場所移動をしてお腹を膨らせながらの飲み会で一次会を終え、参加者全員が東京都のタウンミーティング終了後二次会で東京都副会長で全国老施協の広報委員長の案内で連れていって貰った歌えるお店に移動して歌もガンガン歌いましたが、参加者全員が歌を良く知っていて尚且つお上手。自分も含めて言うのは恐縮ですが『出来る奴はやっぱり凄い。流石に総務・組織委員会のメンバーは選りすぐりばかりだと思いました。そして昨夜は23時前にベット入り、前夜とは違い直ぐに爆睡出来たので5時には目覚め、お風呂に入り再び横になるより早く帰って仕事をしたいと東京を7時発の新幹線に乗り今(午前8時11分)は列車の中で本日のコラムを打っています。明日は新規事業の打ち合わせに垂井町長、副町長、担当課長、担当課長補佐が施設に9時に来て頂く事になっていますし、午後は山崎ていじも来ての1日遅れのクリスマス会もあるのでパワー全快でいなくてはいけないし、どんな展開が待っているかはわからないのが今の私の立場ですからコラムも打てたし、リピーターの皆さん、こんな私の生きざまに対して今まで以上に応援して下さい。(と、まで書いて大変な事に気がつきました。明日は本部施設でのクリスマス会で私の出番があるのに本番で着る衣装が決まってない。このままだと南こうせつの『夢一夜』の宏君バージョンになってまう・・・)

昨日のご報告

昨日の新幹線で東京への移動までは書きましたのでそれ以降の事を書きます。

12時10分に東京に着き、代議員総会が行われ宿泊先でもある都市センターホテルに移動して、まだチェックインは出来ないので荷物だけ預けました。昼食にハヤシライスを食べて(これ以上必要ないのに、肉がたっぷり入っていました。)会議の受付をして会場入りしました。

時間が早く(開始時間の1時間前)一番乗りだったので総務・組織委員長としての役割として4ブロック(関東・東海北陸・近畿・東北)で行われた役員懇談会の意見集約と方向性についての発表原稿の最終チェックをしていると定刻の14時になり、厚労省の動きについて北條専務(この9月末まで厚労省の審議官だった方です。)から説明があり、人材確保についてコンサルティングを行っている方の興味ある話を聞いて、偉そうな言い方で恐縮ですが当法人の考え方に近いものがありましたが、具体的資料については追い付いていないと感じました。

その後15分の休憩を挟み代議員総会が始まり、平石会長、石川顧問、園田常任理事(参議院議員・厚生労働委員長)の挨拶があり、その後質疑応答があり、最後のブロック懇談会の話をさせて頂きました。私的には全国の代議員さんの前で話をするプレッシャーはありましたが、昨夜もずっと話の内容をシュミレートしていて最終的には会議前にも考えていたので、本番では自分なりに上手くいったと思っています。会議終了後平石会長からも「コンパクトにまとまっていて説得力があった。」とお褒めの言葉を頂きました。

その後懇親会もありましたが、前夜はしっかり眠れなかったのと、朝から看取り対応をして正直バテバテなので、二次会には行かずに部屋に帰り早くに横になりました。それに、翌朝は9時30分から正副会長会議があり午後からは総務・組織委員会があり、会議終了後は委員会の忘年会があるので、大人しくおとなしくの対応です。

自分らしからない行動で昼間の抑揚感があったためか、いざ横になって寝ようとしても目が冴えて寝返りを何回もうって、あまりに眠れないものだから電気を付けてテレビを見たりして再び横になったりして、何とか朝になったのですが、こんな事なら二次会で外へ飲みに行った方が良かったかな。でも、肝臓が悲鳴をあげそうだから眠れなくても横になっていたのは良かったのかな。何事も良いように考えれる私は幸せ者ですかね。リピーターの皆さんdどう思われますか。

親子はこんな所も似るんだな

令和元年12月23日

昨日和合の施設での全体会が終わり帰り際に私の長男(事務長)と長男の嫁と孫の翔が私を見送ってくれた時に前日の乾町議の後援会の忘年会で参加された方々としっかり話をするためにしっかりお酒を頂いて家に帰ってからラーメンを作って貰い、食べるときに多分酔っぱらってだと思われるのですがラーメンをこぼしてしまい嫁さんに怒られたとの話を聞き、我が家にはインスタントラーメンなるものはストックしてないのでラーメンを食べる事はないのですが、お酒を飲んで帰ると異常に食欲が湧き、いつもおやつで食べる大きなあられをばりばりと食べてしまい、翌日になって後悔するのですが、こんな所まで父親のDNAを受け継ぐのかと思うと、ますます親父の背中をしっかりとしていかなければと思いました。

朝からバタバタでしたが充実した展開にしたいです

本日は全国老施協の代議員総会があり、総務・組織委員会委員長としてブロックの役員さんとの懇談会の中間報告と方向性についと話をしなければいけないので早朝の4時30分には目を覚ましお布団の中でイメージ作りをしていて、6時には起きて施設に行こうと考えていて、5時58分のタイミングで看取りの入居者さんが厳しい状況との事で10時15分岐阜羽島発の新幹線に乗るのにどの様な展開になっても良いようにスーツに着替え施設に行き嘱託医の先生と家族の方を状況把握をしながら待っていて、家族の方(実は中学までの同級生)、そして嘱託医の先生の順に来て頂き7時25分に嘱託医の死亡確認をして頂き、その後は家族の方と今後の段取りについて話をさせて頂きました。いつもの事ですが亡くなられた入居者さんをお風呂に入れさせて貰い身繕いをさせて貰いご自宅にお送りする事にして、家族の方には家の片付けの為に帰って貰い、昨日の昼食で食べなかったジャムパンと飲み物で朝食を済ませて本日な報告内容の検討をしていると9時を回ったので車で岐阜羽島に行き今は(午前11時10分)で新幹線の車中ですが、いつもの口癖『予定は未定であり決定ではない』の教えを守りコラムを早々に打ってます。現に今朝も想定外の看取り対応があったわけだし。本日の会場である都市センターホテルには会議の1時間30分前には着くのでホテル内でもう一度話すないようについておさらいをして、後は私の経験してきた事を信じて誠心誠意を尽くして話をしたいと考えています。予習も復習も学生時代全くしてこなかった私ですが今のこの変わり様を天国の母秋江さんが知ったら(多分天国で見ていてくれるとは思いますが)ビックリですかね。リピーターの皆さんこんな私ですがこれからも頑張りますので応援宜しくお願いします。

令和2年度の戦略について話し合いをしました

本部施設の令和2年4月からの体制について理事長である私と副施設長とびわこ学院大学教授で当法人顧問の烏野先生の3人で二時間をかけて話し合いました。烏野先生は金曜日の20日から災害があった長野県長野市の被災地に行かれていて、直接本部施設に来て頂いたとの事で、烏野先生のタフさに敬服すると共に会議では、しっかりアドバイスを頂きました。主な話題は最近の本部施設の課題は『平安之福』は大変良い事なのですが『平和ボケ』しているところが随所に見られるので、引き締めを図りつつ、お互いが牽制機関の役割を持てる組織 にして、尚且つ『今日一日楽しかったよ』の実践をしていける体制を確立する取り組みをと言うものでした。職員一人ひとりがモチベーションを高く持ちながらキャリアアップに取り組む為にはどのような体制が必要かについて、私と副施設長が意見を言って烏野先生が取りまとめると言う形で進め、今日話し合った事を3ヶ月の根回しにより確実に形にして行く事にしました。実は18時から和合の施設で全体会が予定されていたので、17時15分には烏野先生の車(ちなみにベンツに乗ってみえるのですが、烏野先生は全国を車で飛び回ってみえるのでガタイの丈夫なベンツに乗られているのです。)で和合に乗せて頂く予定でしたが時間が延びて5分遅れで会議に参加しました。和合では会議の前に『ヒヤリハット』の研修がされていて、ちょうどグループ討議がなされていました。その内容はグループ毎に絵が渡されどこにどんなヒヤリハットがあるかを探すものでグループの代表者が見つけたものを発表しているのを聞いていて、「これだけの気付きがあるのであればしっかりとした対応は出来るはず」と思いました。昨日はお酒をたらふく飲んでいたのでコラムを打ち出したのに知らない内に眠りにつき気がついたら午前3時過ぎで何とか送信記録を確認すると4時29分に送っていて、再び寝ようとしていた4時40分に緊急の連絡が入り電話でのやり取りをしていたら6時を過ぎ(救急車で病院に行って貰いましたが再び施設に帰ってみえました。)再び寝ようとしてもすっとは寝れず、ぐたぐたしていて施設でも頭の働きが悪いなか明日の全国老施協の代議員会での総務・組織委員会報告(与えられた時間は20分です。)のまとめがなかなかまとまらなくて昼食後は家族会主催の誕生会に引き続きの会議で和合からの帰り道とその後のお風呂でクリアしたのですが総務・組織委員会については内容がまとまらないので、ここは居直って明日の朝早くに考えをまとめて、10時15分岐阜羽島発の新幹線に乗って東京にいかなければと考えています。リピーターの皆さん時間がない充実した日々を送っていれ宏君に拍手をお願い致します。

施設~東京~埼玉~金沢へ行き施設に帰ったご報告

(12月18日からのお話です。)岐阜羽島から東海道新幹線で東京に行き平河町にある全国老施協本部がある塩崎ビルで北條専務(今年の9月末まで厚労省のキャリアとして審議官をされていた方)、北村事務局長を交えて今月23日に行われる代議員総会での総務・組織委員会での経過報告をどのようにお話したら良いのかの打ち合わせをしました。その内容は東海北陸ブロック、関東ブロック、近畿ブロック、東北ブロックとの役員さんとの懇談会で組織拡大の為の忌憚の無い意見を、どのようにまとめあげて形にしていくと良いのかの方向性についてでした。

最終的には私が総務・組織委員長として意見を集約して20分程度で話をしなければいけないのですが非常に重大な報告なので正直明日(22日)1日悩みたいと考えています。しっかり話をしていきたいと考えています。

次の日(19日)は埼玉県老施協の総務委員会の皆さんと来年2月に開催されるタウンミーティングの事前打ち合わせが、9時30分から開催されるので東京駅の近くで泊まらせて頂きました。翌朝ははじめて行く所なのでホテルを早くに出て東京駅まで歩き八重洲口にあるみどりの窓口で大宮の二つ手前の与野駅に行く為の相談を兼ねて行きました。大宮まで新幹線で行って戻るべきかをお聞きすると「時間に余裕があるので京浜東北線の普通列車で大丈夫です。乗り場は3番線です。」と親切に教えて頂きました。(東京で初めて親切に教えて頂けました。)

与野駅へは一回乗り換えは有りましたが約一時間で着き、時間に余裕があり駅近くのコンビニに行きお茶と玉子サンドを会駅前のベンチでムシャムシャ食べていると副委員長の森岡君が私をみつけてくれて本当の意味でホッとして、残りの田中幹事と事務局とも合流して約15分歩いて会場入りをして、埼玉県の総務組織委員会の方々と名刺交換をして会議が始まり予定の11時を15分延長して意見交換は終了して再び与野駅に歩いて戻り、駅前のお店で飲み物を頂きながら次回(24日)の総務・組織委員会の打ち合わせをして、私は田中幹事に誘導してもらいながら大宮から北陸新幹線で金沢まで行き遅れての参加ですが、東海北陸ブロックカントリーミーティングに合流しました。そして翌日の閉会式では次期開催権挨拶をさせて頂いた事は既にこのコラムで報告させて頂いた通りです。

しかしながら、前回に引き続き実に移動距離の長い旅をさせて頂けるしコラムネタに困らない毎日です。実は今の時間は午前4時18分で遥かに日付けをまたいての原稿になっているのは垂井町の乾町議の後援会の忘年会に顧問と言う立場で参加させて貰い新規事業の地元の方々が多く参加されていたのでしっかりお酒も頂き私の思いもしっかりお話もさせて頂いたので21時過ぎには家に着きコラムを書く予定だったのですが、睡魔に勝てず目が覚めて翌日になりましたが、頑張って打ちましたのでリピーターの皆さんご容赦下さい。(宿直者が6時過ぎのアップになりますが重ねてご容赦下さい。)

大垣市和合のこだわり

平成24年度に大垣市から80床の特養の建設募集があり、当法人も手を挙げました。

当法人の提案は『大垣市の 地域ニーズを形にしたい。』と言う事で大垣市における施設の実態調査をしてわかった事は、特養のベットの個室率は75パーセントで、ショートステイに至っては個室率80パーセントを越えている実態が明らかになりました。この調査でわかった事は大垣市においては平成15年以降の施設建設が多く、国の意向を受けて個室の割合が増えている実態が浮き彫りになりました。

そこで多床室だけれども個室のようなプライバシーを守れるもので、木の温もりのある施設であり、重度化に対応出来る導線を確保した居室の確保もしたいとの思いの中、岐阜県の単独補助として岐阜県産の木材を圧縮したものを床と腰板1メートルに活用をしました。

そして、平成26年4月2日(1日は日柄がよくなかったから2日なんです。)からの事業開始前に幹部職員への理事長としての指示は『大垣市の意向を聞いて厳しい方から入居して貰う』事を念頭にした展開と『地域の意向を積極的に取り入れていく』と言う事での運営を心掛けての展開でした。

その中で例えば『多目的ホール』では、定期的に地元の野球少年団の会議が開かれたり、大垣花火では『和合に3階建ての建物が建ったことにより花火が見にくくなった』と言われないように、花火に合わせて花火見学用に椅子を用意して『焼きそば』『かき氷』『ねぎま』『綿菓子』『ビール・お茶』等を用意して地域の方々に喜ばれているし、その時のイベントといて小学生以下の方限定で『菓子まき』もしています。

和合の施設もお陰さまで6年の月日を重ね地域の信頼も確実に得て来たように思っています。来年は岐阜県にはない施設である盲養護老人ホームの建設を考えています。何故今盲養護老人ホームなのかと言うと私が相談を受けていて「盲養護老人ホームが岐阜県に無くて近い所で探してもなくて、やむ無く千葉県の施設に入居させて貰ったがあまりに遠いので面会にもなかなか行く事が出来ない。」との話を聞いて、「岐阜県老人福祉協議会会長として何とか岐阜県でお困りの方があっては申し訳ない」との思いと「病気の為に途中からの失明者の行き先がなくなってはいけない。」との思いから当法人の理事会・評議員会への理解を得て実施したいと考えています。

福祉の原点は措置施設のセーフティネットだとの考え方の中、厳しい経営を強いられても地域の方々と職員の理解を得て頑張って行きますので、リピーターの皆さんますますのご支援宜しくお願い致します。

尚、今日のコラムは石川県金沢市で開催されたカントリーミーティングで次期開催県挨拶を閉会式の時にさせて貰い、職員の車に乗せて貰いながら携帯で打ったものなので本日は写真のみの掲載として明日カントリーミーティングについては書く事にします。

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新館の時の思い

令和元年12月19日

昨日は本館への思いについて語りましたので今日は新館について語ります。

館が事業開始したのは平成10年でその頃の制度は老人福祉法による『措置』であった為に、医療機構からの借り入れについては民改費相当額についてのみ返済に当てる事ができるシステムだったので、実績のない法人に寄付をしていただくのはなかなか難しく厳しい2年間でしたが、介護保険制度になり借り入れに対しての返済に活用出来るようになり、尚且つ介護報酬の単価も今よりも高かった事もあり、資金を蓄える事ができたので、その頃の地域貢献は施設の増床が一番と考え新館の増床40床を計画しました。

その当時ユニットの建設を岐阜県での先駆けとしてする事にしました。そこでのこだわりはユニットであればプライバシーに重きを置くべきと考えて一番のこだわりは部屋を出たところが見えにくい構造にしようと考えました。次に考えた事は本館の時の反省から荷物を入れる所を多く設置したことと個室のトイレを部屋の外に出したことです。祈りの面で、本館は仏壇は館内の中心にと考え仏壇を置くスペースを1間半にし、仏壇の暗いイメージを払拭するためにステンドグラスを嵌め込む事にして、滋賀県長浜市にあるガラス細工製造をしている黒壁で作って頂きました。新館の場合の祈りは、各ユニットにオリジナルの仏像を彫り物の集落である滋賀県丹生の彫物師に作って貰うと共に、高野山の大僧正であり日本一の書家である静慈圓師に書いて頂きました。

もう一つこだわったのは家具です。何故なら個室料を頂く以上はそれなりの物を導入したいと言う事で色々と検討した結果飛騨家具に決めました。飛騨家具は重厚感があり百年家具と言われるだけに雰囲気も最高で、見させて頂いていっぺんに好きになりましたがかなりお値段が高いのですが、百年で考えたら大丈夫かと思っています。但し、最近気になるのはこだわりについて理解していない職員がこだわりがわからず大切な椅子に洗濯物を平気で置いたりするのを見たりすると愕然となってしまいます。やっぱり常に語り続ける事が大切だと今更ながら思っています。リピーターの皆さんこだわりのある法人に対してご理解とご支援を宜しくありがとうございます。

 

今日は『こだわり』について書きます

私にとって初めての施設は平成10年に完成した本部施設の建設です。

その時は資金がない中での工夫をするため、講演依頼を受けた時に講演した近くの施設を見学に行かして貰ったり(だって旅費が浮くでしょ)、その当時の最大の支援者だった吉田宏岳先生(その当時日本福祉大学中央福祉専門学校校長)から紹介して頂いた施設に行ったりしていました。

具体的に補助金が付くと決まってからは、お金の工面は大変でしたが(まだ、組織が無いので全て自前でしたから)、瓦を見に愛知県高浜にある瓦を製造している所に行ったり、静岡県や愛知県の特殊浴槽の製造工場を見に行ったり、名古屋にあるベットのモデルルームに行ったりしました。

建築が始まってからも、一週間に一度のペースで作業の進捗状況を設計管理を任せている設計士と一緒に建築途中の本部施設を回りました。(正直2階へ行く仮設の階段を歩くのは何度歩いても平気な気分にはなりませんでした)

つまり、文字通り『自分の目で確かめたい。』との思いでした。その当時指示を仰いでいた、吉田宏岳先生から「図面を見ても理解出来ない事があったとしても、例えば鉄筋の数を数えたりする事をすると業者さんは『手を抜けないな』と思うものだ」との教えを守ってのパフォーマンスでしたが、頑張って数えたものです。段々と形になって行くなかで私は図面では気が付く事が出来なかった事で私自身が疑問に思い設計士に疑問をぶつけて大きく修正して貰った事があります。

それは浴室内の蛇口の位置でした。その位置は極普通に一般家庭の位置と変わらなかったのです。私は、特別養護老人ホームの入居者さんは身体的に厳しい方が殆んどだし、入浴で介助を必要とされる方が殆んどだから蛇口の位置は介助する職員に負担がかかりにくい所にすべきだと考えたわけです。でも、介助が必要でない人にとっては不便だと思われる方もおありだと思いますが、いやいや違いますよ。文字通り逆転の発想です。立ち上がりが出来る方であれば屈伸運動が出来てより元気になって貰えるのではないかと考えています。

最近思っているのは、『思い』は語り続けないと形骸化してしまうと言う事と思いと共に、関わりを持たないと記憶が薄れていくスピードが早いのではないかと言う事です。と言うのは本館の時には図面を舐めるように見ていて総面積は3429.25平米で浴室は1階が99.9平米を3つに仕切り、2階は33.3平米と66.6平米にしてある。等とすらすらと出てくるのに新館や和合については私自身が書類を作っていないので、具体的数字まではでてきません。

勿論、新館にも、和合にも思いは沢山ありますので語らなければいけないとの思いを最近富みに持っているのでこのコラムで書いていきたいと考えていますのでリピーターの皆さんも私の思いを共有して貰いますます私を理解して貰えたら嬉しいです。

新しい職員が2人やってきました

 

EPAによる介護福祉士候補生としてインドネシアから二人がやってきました。

当法人では10年前から御縁を頂いており、先輩が後輩を呼んで来るような形で、毎年インドネシアから職員として採用してます。介護業界の人材不足は年々厳しくなっていて当法人にとって貴重な存在と言っても過言ではありません。インドネシアの場合は日本語検定の4級程度を(ちなみにベトナムは3級)取得して日本にくる、いわゆる『選ばれた優秀な人材』です。だってインドネシアで約半年でクリアしてくるのですから。

少しEPAによるシステムについて説明すると、インドネシアの看護大学を卒業して看護師として3年の経験を持った者は看護師候補生としてエントリーをして、3年の経験がない者は介護福祉士候補生としてエントリー(インドネシアでは一年契約なので3年の経験クリアが難しい)をして、選りすぐられた方がインドネシアで半年間の日本語の勉強や介護について学習してその後日本に来て半年間(当施設に来た職員は豊田の研修所)の研修を終えて本日無事に迎える事が出来たのです。

今日やってきた二人には6月に日本にやって来ての入講式の時と10月に行われた中間発表会の時に会いましたが、毎年の事とは言え、6月の入講式の時でさえ平仮名、カタカナ、ローマ字と簡単な漢字を書けるのにはおどかされるのですが、日本にやってきてのほんの4ヶ月での成長ぶりには舌を巻く圧巻さがあります。そして本日施設にやってきて、緊張気味にですが不安な顔と同時にキラキラした目の輝きは感動しかありません。

日本でのニュースでは元農水省の事務次官の息子殺害事件や保育所のハラスメント(昨日のコラムで社会福祉法人云々と書きましたが本当は株式会社でしたのでお詫びをすると共に実はホッとしてます。)と言うあってはならない事件でテレビで放映されているのに引き換え、インドネシアから来てくれて職員になってくれた職員は母国を思い母国の親達に仕送りをするのが当然なような生き方をしてます。私は父進さんが亡くなる直前まで(嫌々亡くなってからもかも知れませんが)甘えに甘えてきた生き方なので人にあーだこーだと言う資格は無いのかも知れませんが敢えてコメントするならば『日本の豊かさ』が色々な問題を起こしているように思います。『相手を思いやる心』が育つ土壌と『感謝する心』があれば決して『自己本意な考え方』にはならずに何処かで抑止力が働くと思うのは私だけでしょうか。『不満を嘆くよりも、自分のいたらなさを理解して向上心を持つ』ことかな。私も親を中心に甘えてばかりいたときには見えてこなかった事が、今の事業をやらせて頂くようになってから少しは理解できるようになってきたように思うし尚且つ今日の新たな仲間を見て改めてその意を強くしました。

リピーターの皆さんこんな私ですが人となりを少しでもわかって頂けたら嬉しいです。

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