関ケ原駅は凄い歴史がある事を改めて知りました
令和2年4月2日
施設で資料の整理をしていて、随分前にコラムでも登場させた『ふわのあゆみ』を見つけ改めて関ケ原駅の凄さを知りました。(父進が不破郡郷土誌編集委員長で昭和43年5月30日改定版※初版発行は昭和36年11月3日で父進は編集常任委員)関ケ原駅についてインターネットで検索すると大垣駅よりも早く長浜~関ケ原を1883年5月1日に列車が走った記録を見つけました。(※日本で一番最初に走ったのは1872年に新橋~横浜)そして『ふわのあゆみ』に掲載されている記事を見て驚くような内容があったので紹介する事にします。
関ケ原~長浜に列車が走った翌年1884年5月には大垣~関ケ原を1日3往復走ったとの事です。その当時の汽車賃は垂井~関ケ原が中等10銭、下等5銭で垂井~大垣が中等15銭、下等8銭で、上りは関ケ原発が午前6時53分、午後3時37分。午後7時13分で下りが午前7時40分、午後0時30分、午後8時とのことです。そして、もう一つ驚くのはその5年後には大垣~垂井~関ケ原~玉(現在は存在しません)~近江長岡を経て京都まで行ける東海道本線が全線開通したと言うことです。その後の記録を読んで唖然としました。それは、玉へ行く路線は坂が多いとの理由で今須トンネルを作って今の路線になったとの事で、今須に路線が変更になった時に『今須駅』構想もあったようなのですが、その当時の今須の有力者の方が「駅が出来ると若い者が出て行ってしまうので駅はいらない。」と言う事で断ってしまったと言う話を聞いた事があります。ちなみに今須に駅があったら私は今ごろ駅前で饅頭売りを生業にしていたかも・・・。いやいや、みたらし団子かな。
その他に興味深いものを見つけました。それは、関ケ原駅での年間別乗降客数の推移です。明治20年は25,179人、明治40年は63,237人、大正11年は185,790人、昭和10年は330,399人、昭和30年は1,421,675人、昭和41年は1,002,936人との事でした。この数字から私の憶測でものを言うのなら、明治20年は25,179人と言う事は、1日の乗降者の平均は69人となり、列車に乗るのは貴重な乗り物だった事が分かります。また、昭和30年がピークの数字になっているのは自家用車の普及が進んだからだと思うのです。
昭和30年の数字を改めて確認すると1,421,675人です。この数字を365で割ると(1日の平均乗車数)3,895人です。現在関ケ原駅に停まる列車は36本(昭和30年にそれだけの本数があったかはわかりませんが)で割ると、平均で108人の乗降者があった事になります。私は滅多に東海道本線の関ケ原駅で降りることはありませんが、昨年岐阜で飲み会があり、午後11時頃に関ケ原駅を降りたのは私一人でした。。今、関ケ原駅の事を書きながら大学時代にサークル活動の一つとして、郷土研究の会(柳田民俗学)の顧問の祝(はふり)先生の教えを思い出しました。「若山君。民俗学の研究を決して難しく考えてはいけませんよ。例えば、同じ位置から1年に一回写真を撮り続けてそれを例えば30年続けて比較してみるだけでも立派な研究何ですよ。」と言われたのです。と言う事は、何事もビックデーターが大切だと言う事。リピーターの皆さん、またまた焦点が惚けた原稿になってしまいましたが主旨はご理解頂けたら嬉しいです。