神戸北小学校時代PART『2』
令和2年3月15日
41年前の公立学校では、その当時の文部省の指導要領通りの授業案を作成しないと駄目な時代で、私の授業案を『週案』として、基本的に毎週月曜日に教務主任の所に提出するようになっていて私もきちっと提出するのですが、提出した日の2時間目後の20分の休憩時間は、いつものようにグランドに飛び出せないのです。何故ならば、2時間目が終わると同時に間髪いれないタイミングで、教務主任から私を呼び出すアナウンスがあるからです。そして職員室に行って、教務主任からの懇切丁寧なご指導があるからです。
特に私が拘ったのは、社会科では、自分なりに自分が休みの度に8ミリカメラで撮影をした独自の資料を作成したものにしたかったからです。子どもたちは喜んでくれていたのですが、文部省の狙いとは違う場合もあっての指導でした。毎週月曜日の教務主任と私のバトルが続く中、6月に私の校内研究授業を開いて頂きました。その時はしっかり準備したはずなのに、正直メロメロのものになり、授業後の指導は辛らつな指導を受けました。最後に校長先生の講評では、「全く褒められた内容ではなかったが、子ども達が『先生頑張れ』と言う気持ちが伝わってきたので日頃の信頼関係には素晴らしいものがあるんだと思いました。これは若山先生の素晴らしい人間性だと思います。」との事で正直この時は落ち込みました。
そして、その後の現象としては、校長先生が毎日のように私の教室の窓越しに見ていかれる日が続いたものです。あの時の校長先生はわざとかと思う程廊下を歩く音が響いていて、その音がすると誰ともなく「校長先生が来た来た」と言って急にお利巧さんをしてくれていたのには感謝しかなかったのを覚えています。
そして9月の終わりの頃、私の授業をその当時の西濃教育事務所の教育指導の先生が見に来られる事になり、私も6月のリベンジとばかりに必死に準備をして挑んだのですが、自分なりに満足のいくものであったのですが、教育事務所の先生の講評も良いもので、その後の校長先生の評価も良く、「6月の段階では正直頭を抱えていたのですが本当に良かったです。かなり努力をされたんだと思います。」と最大限の評価をして頂き、その後は教室の窓越しの確認はなくなりました。
しかしながら、私の月曜日の教務主任のお呼び出しは続いていました。そして最大のピンチが12月初めの月曜日に起きました。それは、私が確信犯的な行動に出たから覚悟はしていたのですが・・・。その時の週案の火曜日の1時間目から6時間目の科目が全部『図画工作』にしていたのです。リピーターの皆さんの中にもお気づきかも知れませんが、図画工作は週に2時間と決まっているので全くの暴挙なのです。当然のように2時間目終了後に館内放送で教務主任からのお呼び出し。いつもの私なら理屈にならない答弁をするのですが、その時ばかりは、「やはりこのような週案は認められませんね。」と素直に訂正作業の為に自分の机に戻り、1分もしない修正を終えて再び教務主任の所に行くと教務主任が「えらく早くに訂正出来たね。」と言いながら週案に目を通して、完全に呆れた顔でお見えになるので「駄目でしょうか」と言うと「当然でしょう。」とのやり取りをしているのを隣の席に座っている教頭先生が声を掛けられて週案を見て、「これは、教務主任としては認められんわな」と言われたのです。
当然の反応だと私も思いました。と言うのは最初の週案で6時間目まで図画工作にしたのは「自分で作った大きな凧をお正月に飛ばさせたい」の一念だったから、6時間目まで図画工作にしたのですが書き換えたのは1,2時間目までは図画工作で、3,4時間目は理科、5,6時間目は体育に教科を変えて内容はそのままのものです。今から考えたら無茶な話だとは思うのですがその時は真剣だったです。その時には教頭先生が助け船をだして下さいました。「こんちゃん(教務主任をそのように呼ばれていました)の言われるのは正論です。でも、若山先生の思いも理解出来るのでここは、この計画を認めましょう。私も作りたいので一緒にお手伝いしますよ。但し、若山先生の教科を変える考え方は通りませんよ。だから、2,3週目の図画工作を振り返ると言う事で教務主任ハンコを押してあげてください。」で了解が取れて、翌日の凧作りは大変盛り上がり、完成した自作の凧を校庭で元気よく飛ばしてくれましたし喜んでそれぞれが自作の凧を喜んで持ち帰りました。
私の教員生活はこんな調子でしたので、これ以上は他の方にご迷惑をかけてはいけないと、翌年の3月で教員生活を辞めました。流石に温厚な父進さんもこの時ばかりは怒りを通り越して、さり気無く私を『勘当』して下さいました。リピーターの皆さんこの続きを書いても良いのであればエールを下さい。