卓球のラケット購入事件

私が中学一年生で当時、卓球部に入部して間も無くの事です。入部したての頃はラケットを買って貰えず(記憶は定かでないのですが)家族の誰かが譲り受けた物を使う事になったのですが、そのラケットは手を握るところがみんなが持っているものより高くないもので、スタートラインで恥ずかしい思いをしていたのですが、そのことをはっきりと家族に対して言えるような子ではなかったのです。

そんな時に同級生の子が「新しいラケットを買って貰ったので今まで使っていたのを譲ってもいいよ」と言う事になりその程度のお小遣いを持っていた私は譲って貰おうと学校へお金を持って行った日が先輩達の試合がある日で、同級生の何人かが試合を見に行く話がまとまっていることを私は知らなくて、その時の私は「ラケットはいずれ買ってもらうとして試合を見に行きたい。」と。たまたまラケットを買うお金を持っていたので友達と共に試合を見に行ってしまったのです。

ところが、試合終了が意外に遅くて、関ヶ原駅からのバスがなくて仕方なく怒られる事を覚悟しつつ電話をしたら、母秋江がその当時車を持っていた方に頼み込み迎えに来て貰ったのですが、そのおばさん(今も健在です)が車の中で「おかあちゃんがとても心配していたので、家に帰ったらちゃんと謝らなあかんよ」と言われて、(その当時の母秋江は、癌が肺から骨への移行期で家にいたのです。)家に帰ると心配していた母秋江さんが「どうして黙って出掛けた。」「お金はどうして持っていた」等と・・・。

私が「今のより使いやすいラケットが欲しかったので友達に譲って貰おうとお金を持っていった。」等と話すると父進さんが「黙って言ったので心配した。」「ラケットが欲しかったのなら話をして頼まないかん。」と言われて、母秋江は心配していたのがほっとしてカッカとしていて「ちゃんと話が出来ん子はご飯食べんでもいい。」と言われました。

私が悲しくて悲しくて涙が止まらなくて何ともならない時に、両親が混乱しながら収集がつかない状況にいる時に、私が高校2年生の4月7日に急逝した母親替わりだった姉光子さんが毅然とした言葉で「宏はちゃんと謝ったんやし、ご飯食べたらあかんと言う理由にはならんのだから、ご飯を食べたらあかんと言うのはおかしい。宏はもう泣かんとご飯食べなさい。お腹空いたやろ。」と言われて、家族みんなが落ち着いた状況になった事を66歳の今だから理解出来たように思います。

何故、今日突然にラケットの話になったかと言うと、ラケットの話には全く出てこないもう一人の姉春子さんが姉光子の命日のお墓参りをどうするかと聞いてきて、ふと頭に浮かんだからです。そう言えばあの頃の姉春子さんは膨れ顔ばかりで若山家での存在感は薄かったな。(こんな事を書くとまたまた春子さんに叱られそうですが、今の春子さんは『にこにこ春子さん』だから笑って許してくれるはず)

怒られた次の休みの日に父進さんに大垣のスポーツ店に連れて行って貰いラケットを買って貰って『めでたし、めでたし』の話でした。

リピーターの皆さん。私は愛情一杯に育てて貰った幸福者です。母秋江、父進、姉光子には恩返しが出来ない分を地域で恩返しをしていきますのでこれからも温かくこのコラムを見て頂ければ幸いです。

昨日チラッと登場して貰った祝(はふり)先生について書きます。

令和2年4月3日

大学時代5年間(「えっ大学は4年じゃないの。」私は勉強が好きだったから5年何です。この答弁は間違っています。正しくは、勉強が好きだったのでは無くて大学が好きだったのだと言う事で・・・。)を通して所属していたサークル活動は郷土研究の会で顧問の先生が祝(はふり)先生だったのです。祝先生は折口信夫(おりぐちしのぶ)先生の直弟子で文化庁を退職された後、名城大学法学部に天下った方だと聞いています。

また祝先生は文化庁に勤務されている時にイギリスのロンドンに長く留学されていた本場仕込みの『イギリス紳士』の方です。私が一年生に入学して郷土研究の会に入部した時にはまだサークル活動としての承認が得られていない状態でクラブボックスが与えられていなくて、(私が2年生の時にその当時の学術局の代表者に私がなるのを条件に学術局に所属でき、同時にクラブボックスを獲得しました。)サークル活動の拠点は祝先生に相鍵を作って頂き先生の研究室に間借りしていて、先生が講義を終えて部屋に戻られると必ず鏡のある洗面台で髪を整えられるのを感心して見ていたものです。

祝先生はとても温厚な方で物静かな方でしたが、時代が学生運動の盛んな時代で私が教授会で名前が挙がった時にはいつもは発言される事が少ない祝先生が私の弁護をして下さり危うく退学になるのを救って下さった事もありました。その時の発言内容を聞いてやはり信念のあるかただと思いました、その発言とは「若山君は組織の考えの中で活動されたのだから、もし若山君を退学にするのであれば、集会に参加した学生を全員退学にしなさい。」で、私は大学生活を続ける事が出来ました。

サークル活動の一環として最初に手掛けたのは長野県妻籠を一大観光地にする為に大学の建築学科と共にプロジェクトを組み調査を進めて行く時も、ダムで沈む前の岐阜県揖斐郡徳山村(当時)の調査の時も祝先生が先頭指揮を取って下さり多くの事を学びました。大学を何とか卒業して教員を経て児童養護施設の指導員になった頃に祝先生の奥さんから突然手紙を頂きました。その内容に「主人が癌に侵され顔色も悪く『サルノコシカケ』を煎じて飲ませたいが自宅のある藤沢ではあまり良い品物が手に入らない。若山さんの所は山深いところだと聞いているので、もし手に入るのであればわけて欲しい。」との趣旨のものでした。

私はその手紙を読み終えて直ぐに私の父進が、我が家の玄関先にある(今もありますが)古木の紅梅の木に出来ていた立派なサルノコシカケを籠に入れて乾燥させてあるのを知っていたので、勤務先の施設に事情を話して藤沢市のご自宅まで届ける事にしました。藤沢駅に着きご自宅に連絡をして道順を聞き何とかご自宅に着くと奥様が玄関先で出迎えて下さり、「しばらくお待ちください。」と言われて奥に行かれおおよそ15分後に奥様が出てみえた時に私は感動しました。と言うのは奥様の横にスーツにネクタイをして右手でステッキを持った先生が「体調が悪いので立ったままで失礼します。遠いところをわざわざありがとう。」と言われて、「せっかく来てもらったがこれで失礼します。」と言って奥に行かれるのを見届けながら、私は「15分もかかったのは身支度を整える為だったんだ。

最後までイギリス紳士だと感動して、私もこうありたい。」と思いました。その後3か月位してから再び奥様から手紙を頂きました。『若山さんに届けて頂いたサルノコシカケを毎日煎じて飲んで頂いたお陰か茶色かった爪の色がピンク色になり嬉しく思うと共に行動力のある若山さんに感謝しております。』との内容に涙が溢れたのを覚えています。私は祝先生の様に『イギリス紳士』のような振る舞いは出来ませんが(スーツのズボンにサスペンダーをするくらいかなー。)祝先生の様に信念を持った生き方をこれからもしていきたいと思っていますので、リピーターの皆さん、そんな私の生き様も見守って頂ければ嬉しいのですが。

関ケ原駅は凄い歴史がある事を改めて知りました

令和2年4月2日

施設で資料の整理をしていて、随分前にコラムでも登場させた『ふわのあゆみ』を見つけ改めて関ケ原駅の凄さを知りました。(父進が不破郡郷土誌編集委員長で昭和43年5月30日改定版※初版発行は昭和36年11月3日で父進は編集常任委員)関ケ原駅についてインターネットで検索すると大垣駅よりも早く長浜~関ケ原を1883年5月1日に列車が走った記録を見つけました。(※日本で一番最初に走ったのは1872年に新橋~横浜)そして『ふわのあゆみ』に掲載されている記事を見て驚くような内容があったので紹介する事にします。

関ケ原~長浜に列車が走った翌年1884年5月には大垣~関ケ原を1日3往復走ったとの事です。その当時の汽車賃は垂井~関ケ原が中等10銭、下等5銭で垂井~大垣が中等15銭、下等8銭で、上りは関ケ原発が午前6時53分、午後3時37分。午後7時13分で下りが午前7時40分、午後0時30分、午後8時とのことです。そして、もう一つ驚くのはその5年後には大垣~垂井~関ケ原~玉(現在は存在しません)~近江長岡を経て京都まで行ける東海道本線が全線開通したと言うことです。その後の記録を読んで唖然としました。それは、玉へ行く路線は坂が多いとの理由で今須トンネルを作って今の路線になったとの事で、今須に路線が変更になった時に『今須駅』構想もあったようなのですが、その当時の今須の有力者の方が「駅が出来ると若い者が出て行ってしまうので駅はいらない。」と言う事で断ってしまったと言う話を聞いた事があります。ちなみに今須に駅があったら私は今ごろ駅前で饅頭売りを生業にしていたかも・・・。いやいや、みたらし団子かな。

その他に興味深いものを見つけました。それは、関ケ原駅での年間別乗降客数の推移です。明治20年は25,179人、明治40年は63,237人、大正11年は185,790人、昭和10年は330,399人、昭和30年は1,421,675人、昭和41年は1,002,936人との事でした。この数字から私の憶測でものを言うのなら、明治20年は25,179人と言う事は、1日の乗降者の平均は69人となり、列車に乗るのは貴重な乗り物だった事が分かります。また、昭和30年がピークの数字になっているのは自家用車の普及が進んだからだと思うのです。

昭和30年の数字を改めて確認すると1,421,675人です。この数字を365で割ると(1日の平均乗車数)3,895人です。現在関ケ原駅に停まる列車は36本(昭和30年にそれだけの本数があったかはわかりませんが)で割ると、平均で108人の乗降者があった事になります。私は滅多に東海道本線の関ケ原駅で降りることはありませんが、昨年岐阜で飲み会があり、午後11時頃に関ケ原駅を降りたのは私一人でした。。今、関ケ原駅の事を書きながら大学時代にサークル活動の一つとして、郷土研究の会(柳田民俗学)の顧問の祝(はふり)先生の教えを思い出しました。「若山君。民俗学の研究を決して難しく考えてはいけませんよ。例えば、同じ位置から1年に一回写真を撮り続けてそれを例えば30年続けて比較してみるだけでも立派な研究何ですよ。」と言われたのです。と言う事は、何事もビックデーターが大切だと言う事。リピーターの皆さん、またまた焦点が惚けた原稿になってしまいましたが主旨はご理解頂けたら嬉しいです。

 

令和2年度社会福祉法人杉和会辞令交付式に開催に思う

令和2年4月1日

介護人材の枯渇した状況が続く中、5人の新規採用者を迎えられた事は大変ありがたく、5人の新規採用者が生き生きと、それぞれに活躍してくれる事を願っています。その為には色々な配慮が必要だと言うことも分かっています。新型コロナウイルスの影響があり、ベトナムからの留学生3人とインドネシアからのインターンシップの学生⒉人が未だ日本に来れなかったのは非常に残念ですが、新型コロナウイルスの終息により、何れは杉和会の仲間になってくれるものと思っています。さて、辞令式は優・悠・邑 和合の佐藤施設長の開会挨拶に続き理事長である私から、新規採用者5人(本部施設4人と和合施設1人)それぞれに辞令を手渡し、

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引き続き1年前に人事交流した職員に対して元の施設に復帰するための辞令を渡してから理事長としての訓示を述べさせて貰いました。

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私の話の後、新人職員の代表の挨拶があったのですが、代表で話をした職員は「昨日まで町の職員だったのですが、理事長の理念と施設の実績を理解して杉和会の一員になった。」との話をしてくれたので、若干プレッシャーを感じながらも嬉しくもありました。次に、異動した職員代表の話があり、その中では、新たに頑張ろうとの気持ちが表れた内容だったので、配置換えが上手くいったとほっとした次第です。その後、先輩職員を代表して昨年新規採用した職員が話をしたのですが、一年の経験で随分成長したなと嬉しくなりました。経験年数が3年未満の退職者が多い業界の中で、当法人の退職者は殆どないのは、改めて有難い事だと思っています。最後に本部施設の副施設長が閉会の挨拶をした後、和やかにいやいや緊張気味にではありましたが記念写真を全員で撮り、辞令交付式を終えて本部施設職員の新人職員4人を会議室に残って貰い、約1時間に渡って理事長である私が、福祉の思いを私の生き様と共に話をさせて貰うと共に入居者、利用者の笑顔を引き出すためにも早くに名前と顔を一致させコミュニケーションを円滑にすると共にケアの充実をする為には相手を知る為の努力が必要だと熱く語ると共に地域の方々と共に歩む事が大切だとも語りました。

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語りながら、つくづく実感したのは、22年の実績の重さでした。と言うのも私は児童養護施設の指導員としては自分で言うのも恥ずかしいもですが、はっきり言って日本一のカリスマ指導員だったと自負しています。しかしながら、がむしゃらに特別養護老人ホームの建設が出来、平成10年5月18日に開所した時には高齢者のソフト面の知識は全く無くて、経験のある職員を頼りにしながらも福祉の思いを語るしか出来なかった私に対して、時には命を賭して教えて頂いたり、しんどい思いをして教えて貰ったから今があると言っても過言ではありません。そして私が絶対に忘れていけないのは、中1で他界した母秋江さんと、高2で他界した母親代わりだった姉光子さんと、38歳で他界した父進さんが私に対して注いでくれた愛であり思いやりです。『孝行したい時には親はなし』の状態ですが、利用者さん、入居者さんに対して一生懸命が恩返しと思って頑張りますのでリピーターの皆さん、これからも変わらぬ応援を宜しくお願い致します。

 

新館の思いの中で各ユニットに立派な書を書いて頂いた静慈圓師の事

令和2年3月31日

新館が完成したのが平成16年4月ですから、既に15年以上前の事なのですが、各ユニットの名称の『喜』『笑』『天』『結』に合わせた梵字を書いて頂くように滋賀信行会(本部は長浜市)の内藤会長にお願いに行って貰ったところ、立派に書いて頂いたのですが、内藤会長のこだわりで台紙を京都の紙屋さんに行って購入して貰う時に『赤色』『クリーム色』『オレンジ色』『うぐいす色』を指定したところ、お店の方が「どなたに書いて貰うのですか。」と聞かれたので「高野山の静慈圓先生です。」と答えられたら、「そんな色の紙には絶対に絶対に書いて貰えませんよ」と言われたのに対して内藤会長は「静先生なら書いて頂けますよ」と涼しい顔で答えたとこれまた涼しい顔で私に話をしてくれたのを15年前に聞いたものです。

立派に書いて頂いた年の8月20日に施設に来て頂き、書いて頂いた書が各ユニットに飾ってあるのを見て頂き、本館1階の畳の間(デイサービスの静養室)に設置してある1間半のスペースに収まっているステンドガラスの入った三方開きの仏壇で(リピータの皆さんも一度見に来て下さい。)静先生を導師にして般若心経をあげて頂きました。その後、関ケ原駅前の料亭『末廣』に場所を移し交流を図ったのですが、静先生の話題は豊富で、空海が遣唐使で中国に渡られた時に船が難破して当時の長安の都まで2400キロの足取りを20年かかりで調査された時の調査団長をされて、中国から渡ってきたはずの真言宗のお寺は根絶やしされていて全くなくなっていたので、中国での再興に尽力をされ、中国に『空海ロード』を作られると共に『空海学会』までが出来て、静先生は中国では最高の評価を受けられているとのお話を聞きました。

その時は1回だけのご縁かと思っていたのですが、静先生の方から「若山さんは実に思いのある施設運営をされている事、本当に素晴らしいです。来年も立派に運営されている姿が見られたら嬉しいのですが。」と言われたので「こちらこそ宜しくお願いします」と言う事で毎年8月20日と決めて来て頂いてます。(※一昨年だけは来て頂けませんでした。その理由は静先生が『法印』※としての役割を1年勤められたので、高野山から降りられる事が出来なかったからです。)今は、『前官』※※となられ昨年の8月20日にも来て頂きました。

この15年の間には私も忘れられない出来事がありました。それは、静先生の書が西暦3世紀頃の書家で中国2000年の歴史の中でナンバーワンの書家と評されている『王羲之』の墓誌の隣に静先生の記念碑が建立されると言う事で私も随行させて頂きその時は改めて静先生の凄さを感じさせて頂き、私もビップな歓迎を受けました。※『法印』とは、岩波書店によれば・・・(法印大和尚位の略)最高の僧。※※『前官』とは、岩波書店によれば・・・功労顕著な者に対し、その退官後も在官当時の待遇与えられる。

静先生が1年の内1日のみとは言え優・悠・邑にきて下さる事は凄い事だと理解しているので、毎回、静先生の素晴らしさを理解して頂ける方をご招待させて頂き私のネットワークをより強固なものにしてます。ちなみに、遠い方では北は栃木県からで、南は鹿児島県です。静先生とのご縁はこれからも大切にしていきたいと考えています。

 

昨日、誕生会が終了後しみじみと家族会会長の吉田さんと話をしました

家族会会長の吉田さんは私が孤軍奮闘で、私が生まれ育った今須の地で高齢者福祉施設の建設計画をしているのを聞きつけて、施設の建設が岐阜県の計画にも挙がっていない段階から協力を申し出て下さり、色々と相談に乗って下さったり、具体的に進んできた時には吉田さん所有の倉庫を事務所として提供して下さったりして頂きました。

また、平成8年度での計画が白紙撤回され暗礁に乗り上げて、その当時の大垣商工会議所の河合会頭の計らいによって岐阜県庁議会棟での話し合いにも同席して下さり、関ケ原町に於いての必要性について熱弁を奮って頂いた方です。

岐阜県庁に行った時の話で盛り上がり「あれは、平成8年8月だったから24年前なので私が42歳で吉田さんが47歳の時ですね。」と投げかけると吉田さんが「お互いに若かったな。でもあの時は必死に食らいついて良い結果になり今があるんやな。」と言って頂いた時にはお互いに熱いものがこみ上げてきました。

一言で『22年が経過した。』と言っても、過ぎ去った経過の中でどこを取っても印象深いものがあります。本館の竣工式が行われた平成10年5月15日には、式典が無事に終了してから、吉田さんと共に手を握りあって喜んだのを昨日の事のように思い出しますし、土地の提供をして頂く話の最終段階の話を取りまとめて下さったのも吉田さんでした。

竣工式が終わり3日後に事業開始(5月18日)する段階になって、実際に居室のベットに寝てみました。そして私自身が真っ青になったことがありました。と言うのは、多床室の間仕切りを木で感じ良くして頂いたのですが、寝た位置からは隣が丸見えだったのです。そこで、建築施工業者を経営されている吉田さんに相談すると、「何とかする。」と言って翌日には材料を手配して下さり見栄えも良い形で目隠しをして下さり「立派に完成したご祝儀だからお金はいらん。」と言って頂いたのは本当にありがたかったです。

吉田さんの家には色々な相談もさせて頂く事があり、吉田さんのご自宅へも何度となく行かせて頂いているのですが、その当時お茶を持ってきて頂いたりしていたお母さんのお世話を今は当施設でさせて頂いていて、家族会の会長をお願いしたら気持ちよくお引き受けして貰って、月1階開催している家族会主催の誕生会には必ずきて頂きプレゼントをその月の誕生日の方に渡して貰っていますし、毎年8月に開催している夏祭りでは、かき氷の販売をして頂いています。吉田さんはこよなく関ケ原町を愛されているので、関ケ原町敬老会の会長さんもされているのですが、3つ年上の今須の先輩として誇りに思っていますし、今後も親しくお付き合いして頂けるようにしっかり施設での運営をしていきたいと思います。

リピーターの皆さんも吉田さんのように下支えして下さる方がおみえになるから施設が盤石になっていく事をご理解していただければ嬉しいです。

非常勤講師二回目からの私

令和2年3月29日

一回目の講義がハチャメチャだった私は一週間リベンジを考え続けました。そして、小さいときの私と違って失敗を引きずらない自分がいることに自分自身驚きながらも、私が起こしたアクションはまたまた驚く事に教材に選ばせて貰った吉田宏岳先生監修の教科書『養護原理』を何度も何度も読みました。そして、何度も読んで理解した事は『教科書と言うのはアウトラインしか書いてないので全く面白くない。』と言う事で、次に考えたのは『教科書に書いてあるものに私の体験談を話しながら肉付けしていく事にしよう。』との結論でした。

つまり、一般的な講義は、教科書を開かせ、専門用語を示してからおもむろに説明される(多分・・・。だって私が受けた法学部の講義がそうだったから・・・。だから正直面白くなくて、段々受けなくなったから※自己弁護しなくていいのに・・・)と思うのですが、私は逆転の思考(そんな大袈裟なものではありませんが)で、私の体験談を話をして、「今話した事は教科書の何ページに書いてある用語の事の説明ですから後で読んでおいて下さい。」と言う講義スタンスにしたのです。私はがむしゃらに、しかもむてかつに13年間児童養護施設の指導員をしてきて専門用語など知らずにいたのですが、大学で講義をさせて貰うようになり自分の足跡を整理する事が出来た事と現場の生の声を学生に伝えれたので学生も聞きやすくて分かりやすいと親しみを持って受け入れてくれたように思っています。

その一つの現象が2月14日のバレンタインデイには一杯チョコレートを貰えましたから。(当時は軽トラ一杯位と大袈裟に言ってましたっけ・・・)その当時吉田宏岳先生(日本福祉大学中央福祉専門学校長)が代表を務められていた『教育と福祉を考える会』の末席に座らせて頂いた私の講義に対する学生の評価が高いとの話が出て、少しずつ講義するコマが増えてきて、一番多い時は週に13コマで毎週月曜日は6コマの依頼を引き受けていました。(勿論吉田宏岳先生のご配慮があっての事ですが)1コマの時間は90分ですから一番多い時は90分✖6コマ=9時間の講義をしっかりやっていました。だから、月曜日は関ヶ原駅近くの駐車場(月額5千円)に車を預け、名古屋の金山駅に8時30分には着き午前中2コマを専門学校で行い、午後は近くの短大に移動して2コマをしてから再び専門学校に戻り夜間の学生を教え再び金山駅に21時前で電車を待っていたものです。

食事は昼と夜の分の2食のお弁当を非常勤講師室で食べたにもかかわらず、少しの時間を利用してホームにあるきしめんを食べるのが楽しみでしたが、遅い時間なので『きしめん完売』の立て札があると、がっかりしたのを昨日の出来事のように思い出してます。

13コマしていた時は月曜日が6コマ、火曜日が4コマ、水曜日が2コマ、土曜日に1コマだったと思います。私は基本的にマイクを使わなかったので(マイクを持ったら歌い始めてしまうでしょ)150人規模のクラスだと、かなり大きな声を出さなければいけなかったのですが、大きな声をだすようになり、お陰さまで声が渇れる事もなく出来たので結果的に複式呼吸がしっかり出来るようになったのと声帯も鍛えられたように思います。だから、お陰さまで今でもお経を大きな声で唱えられるし、カラオケでもしっかり声を出せています。

大学の講義は、施設の借り入れ返済をある程度私が担わなければいけなかったので(償還金を措置費においては民間改善費以外は使っていけないしばりがあった為)引き続き週に2日は自分の公休日に行っていました。13コマもさせて頂いている時には大学で使用する教科書の執筆を依頼された事も何度かありました。最初の執筆の時には出版社の担当者から「先生に頂いた原稿の内容は大変興味深いものですが、教科書としてはそのまま載せるわけにはいきませんので、大変申し訳ありませんが書き直して下さい。」と言われて「どの部分を直せば良いの」と聞くと再び「誠に申し上げにくいのですが全面的に書き直して下さい。」との答えに若かったと言うか世間知らずだったと言うか、かっかとしながら「どこがいかんのや。私的には最高の書き振りと思っているのに。」と言うと「確かに面白いしわかりやすいのですが、この内容は教科書にはなりません。この原稿は、いずれ先生お一人の本として完成させて下さい。その時はお手伝いします。」と言われ、私的には不本意な内容で書き直しました。

考えてみると、高校生の時代からの私はそれまでグーっと押さえていたのがはち切れて、どの世界でも跳び跳ねていたのだと、このコラムを書きながら思ったしだいです。と言うことは、現在66歳だからかれこれ半世紀以上跳び跳ねていて、まだまだ収まっていない私はある意味幸せな人生だけれども、つくづく大変な生き方をしているのだと客観的にはおもうのですが、リピーターの皆さん、これからもハラハラドキドキの人生を歩む事になると思うのですが宜しくお付き合い下さい。※今日の原稿は2千字を越える長さだったものを最後まで読んで下さりありがとう御座いました。

非常勤講師での初めての講義は・・・。

令和2年3月28日

38歳に児童養護施設のカリスマ的指導員(自分で言うか・・・。でも、事実ですから)を辞し文字通りフリーになり、一番最初に非常勤講師をさせて貰ったのは、当時の大垣女子短期大学幼児教育学科の3部生(※3部生とは働きながら学校に来ている学生で、午前中講義があれば午後から仕事、午前中仕事であれば午後から講義)の学生に養護原理の講義をする事になりました。

私は児童養護施設の指導員時代になる前もなってからもいわゆる専門書なるものは一切読んだことがなく、自分の思いを実践する事だけでやってきましたので、『養護原理』と言う授業がどのようなものかも知らずに講義をお引き受けしたのです。私の辞書に『予習と言う文字はない』等と豪語していた私ですが流石にそんなわけにはいかず当時80分授業に見合っただけの準備をしようと教科書を開いて見ても全く面白くないので、最初の講義は私の福祉感を伝えて学生の気持ちをゲットしようと考えたのですが、いざ、何を話そうかと考えても何も出てこない。何かとっかかりの仕込みがいるなと考えた私は、父進の書斎から岩波書店の『広辞苑』を借りてきて(その頃の私が広辞苑なんて洒落たものを持っているわけがないでしょう。

ちなみに今な手元に常に置いていますが。)『福祉』と言う言葉の意味を調べました。(と言う事は『福祉』が何たるかもその時まで知らなかったと言う事です・・・。)その中に「福祉の福にも福祉の祉にも『示すへん』がある。この示すは元々何を意味するものだったかと言えば、神様にお供えをする三宝を表していて、誰もが豊かで幸せな生活を送る事を意味している。」と書いてあったのです。

その時、この意味からイメージ出来るものとして私はかつて読んだ漫画の中で(私の愛読書は漫画ですから)手塚治さんの『ブッタ』があり、その中でお釈迦様に何もして差し上げれないと思ったウサギが燃え盛る火の中に飛び込み自分を食べて貰おうとした行為を思い出しました。それは、豊かな国で無ければ福祉は成り立たない。今の日本は豊かな国になったからこそ福祉が語れるのだ。との意味を理解して初めての講義に挑みました。そしていざ話をしていて私の中では80分の講義になると思って挑んだのですが、実際には60分の時間も持たず、初めての事なので「今日は早いですが以上です。」等と厚かましい事が言えずに4月だったので決して熱くない時期だったにも関わらず、私の背中は滝のように汗が流れたのを覚えています。

また、今から考えたら「この先生は大丈夫か」と思われても仕方がない失敗もしたから乗って話が出来なかったとも言えるのです。それは『しめすへん』と言わなければいけないところを『ねへん』と言ってしまい、学生から指摘されて「そうそう、そうとも言うけどそれは昔は示すを書いていたけど今は『ネ』を書くのだから『ネへんで良いの』などとわけの分からんことも言って胡麻化したものの動揺していたから。考えてみたら非常勤講師時代も波乱万丈だったので、リピーターの皆さん、明日も阿保な話にお付き合い下さい。(こんな事してると、リピーターの皆さんが逃げてまうかな・・・。

平成26年4月2日に事業開始をした優・悠・邑和合のこだわり

令和2年3月27日

平成24年度に大垣市が特別養護老人ホーム80床の計画を2法人に決める為の企画が大垣市のホームページにて提示されました。関ケ原町において、従来型50床とユニット40床を運営している当法人にとってまたとないチャンスと考え理事会・評議員会の承認をあて、大垣市が実施するプレゼンテーションに手を挙げる事にしました。

企画書を作成するに当たって大垣市の特別養護老人ホームの個室率を調べてみました。その中で分かった事は、当法人が平成15年事業で新館増築を計画した時はユニットで40床と言うものでしたが、先般のコラムでも書いたように岐阜県で2番目のユニットの計画だったのですが、その後は特別養護老人ホームの建設ラッシュはユニットオンリーのような形で作られてきた経過があり、大垣市の個室率は入居においては75%でショートステイに於いては80%を超えていました。その結果を基に『多床室であってもプライバシーが守れるハード』と言う考え方で提案骨子を作成しました。

その時の提案時間は4分と言う考えられないほど短いものでしたが、4分の中に杉和会の思いを原稿にすると共に、根拠となる資料を作成しました。プレゼンテーションの持ち時間は4分なので3分45秒で話が出来る為に何度も何度も読み合わせをしました。(小学生の時に国語の本読みもたどたどしかった私としてはめっちゃプレッシャーでした。)『居室は一人以下』等と言う通知がでたり、平成24年度介護報酬改正において『新設の多床室の単価は従来の多床室の基本単価よりも低く設定する』と言う『従来型を目の敵』のような制度設計の中での、ある意味『無謀』とも言える提案だったのですが、「今後の社会保障と西濃地区の現状を考えた時に個室オンリーの考え方では需要に合わなくなる。」との思いも盛り込んだ内容にしました。

プレゼンテーションの実施当日は非常に緊張しましたが、自分で言うのも変ですが落ち着いて予定通り3分45秒で話が出来、質問に対してもしっかり答える事が出来、結果的には一番良い成績を収める事が出来、めでたく平成26年4月2日に事業開始が出来ました。

その間に介護報酬改定による不思議な現象について岐阜県議会に理解を求める活動もしました。その時の私の説明の仕方は「同じような条件で建っているアパートが新しくできました。古くから建っているアパートと比較して新しいアパートの値段は高いと思いますか安いと思いますか」と県議会の先生に聞いてみました。当然の結果として「新しい方が高いに決まっているだろう。」との答えが返ってきたので、私は間髪入れずに「ところが、介護報酬のルールでは新しい方の単価が安いんです。」と答えると、議員の先生から「どのようなシステムにしたらいいのか」と聞かれたので「少なくても差額分を県単独補助をして頂けると、岐阜県は多床室を応援している強いメッセージになると思います。」と話をしたことを議会で予算をつけて頂けました。

現実的に優・悠・邑和合において従来型の使い勝手が良いとの意見を多く頂いてます。残念ながら岐阜県からの強い発信に追随する県はありませんでしたが、多床室の単価は平成27年度改正で統一されました。リピーターの皆さん、先を見るのは難しいですがこれからも精いっぱい頑張りますのでよろしくお願いいたします。

看取りに対する優・悠・邑(関ケ原)のこだわり

令和2年3月26日

本日看取りの方が残念ながらご逝去されました。家族の方がお見えになり、お医者さんの死亡診断をして頂いた後に、「家族さんのご希望があればお風呂に入れさせて頂きご自宅まで送らせて頂きます。」とお話させて頂くと家族の方から「そんなことまでしていただけるのですか」と言われたので「ご縁を頂いた以上は当然の事としてさせて頂いてます。」と答えると是非お願いいたします。」と言う事で、先生の死亡確認後、お風呂に入って頂き、浴衣を着て頂き、お化粧も職員が思いを込めてしてくれました。本日亡くなわれた方は、最後の⒉週間位は清拭のみだったのでお風呂に入られてからは私の思い込みかも知れませんがほっとしたお顔になられたようにみえました。お風呂に入って頂くようになったのは職員の思いが始まりでした。

それは、随分前の事ですが、看取りだった方が最後に吐血をされ、いつものように清拭をしていて「何度も何度も綺麗に拭いても血の匂いがして何とかしたいのですが」と言ってきたのを副施設長が聞いていて「お風呂に入って貰ったら良いのではないか。」とのアドバイスを貰い、大きなたらいのような物を倉庫から持ち出し、浴室で職員が洗っていて、匂いが無くなると同時に顔がピンク色になったのに洗っている職員が感動してから、亡くなったらお湯に浸かって貰う事になったのですが、洗っている時に職員の姿勢が辛そうだったので、『本当の浴槽でないと大変だ』と感じた理事長である私が感じて先ずはホーローの浴槽を手に入れ、施設に近い養老町で車椅子を製造している『松永製作所』の常務さん(大学の後輩)と技術者の方に来て頂き「ホーローの浴槽にタイヤを付けて移動がし易いようにして欲しい。」とお願い(半ば命令)すると、技術者の方が「ホーローの浴槽にひびが入る可能性があるので難しいです。」と言われたので、「職員の亡くなってからお風呂に入れて差し上げたいの思いを実現するために何とか英知を結集して作って下さい。」と話すると常務さんが「あいからわず理事長さんは無茶ぶりされますが何とか職員さんの思いに応えれるように頑張ってみますがひびがいったりしてもお許し下さい。」で完成して今は職員の負荷もかなり軽減して湯灌が出来るようになりました。

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本日は亡くなられたのが午後1時過ぎだったので職員が多くいる時間帯だったのですが、何故か亡くなられる時間帯は深夜から早朝が多くて職員が少ない時間帯が多いのです。そんな時も必ず湯灌とお送りをするのですが、宮沢賢治の『雨にも負けず』で対応してます。それは、ご縁を頂いた以上とことんお世話をしたいとの思いからです。この考え方を一貫して実践すれば、『最後の看取りだけ』ではなく、当然ながら元気な時から精一杯のお世話の充実は作られると考えています。リピーターの皆さん杉和会の理事長はこんなに面倒くさい人間ですがこれからも宜しくお願い致します。

 

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