『石の上にも三年』とよく言いますが
私は高校も大学も全くと言って良い位に努力をせずに「行ける所に入学出来たら。但し父親はあまり遠くに行かせたくないと思っているので、名古屋までの選択をしなければ」との考えくらいだったので、名城大学法学部に進学した次第です。
どうして法学部かと言うと私は中学1年の春のゴールデンウィークが明けた日から腸捻転の手術(同時に盲腸も切除して貰いました。)をして学校に復帰した時に英語の授業がまるでチンプンカンプンで、しかも当時の英語担当の先生が優秀な生徒を大切にする先生で・・・。とにかく英語が嫌いで尚且つ何の手立てもしなかったので英語は特に点数が取れない受験生(と言うのは当てはまらないかも)だったので各教科で最低点が決まっている所は自信を持って駄目だったので、ことごとく不合格で何故か合格したのは名城大学と愛知学院大学(最低点がない学部だったのだと思います。)の共に法学部だったので、二つの内の名城大学を選ばせて貰った次第です。
そんな風ですから「法律を学びたいから」とか、ましてや「弁護士になりたいから」とかの志しを持っての進学ではなかったので大学では友達の影響を受けて落語や演劇や音楽や学生運動モドキに明け暮れ「大学の単位は1年次と4年次に、教職課程は1年次と5年次に取得した。」と言っても過言ではないと思っています。(お父さん、ご免なさい)そんな私に初めての試練を与えて頂いたのが、児童養護施設での指導員時代です。
誠心寮で仕事をするようになって半年が経ち「児童施設で骨を埋めよう」と考えていた頃に、私の直属の上司で経営者の息子さん(私は当時『お兄ちゃん』と呼ばせて貰っていました。寮生もみんなそう呼んでいたので)から「石の上にも三年と言う諺があるので三年間は施設の生活にどっぷり浸かれ」と言われ、午前10時には出勤して午後11時過ぎまでほとんど休みも取らずに頑張っていました。
結果的には三年目になった頃から「誠心寮に頑張っている指導員がいるのにどうして研修にも出さないのか」との発言を他の施設の施設長さんから度々出たと言うことで三年目の途中から研修にも出させて頂くようになったのですが、何せ基本的に一年目に受講する新人研修も二年目で受講する中堅研修も受ける事なく(今更受けても仕方がないと上司に言われて)その当時頻繁に開催されていた指導員部会に参加させて貰うと共に自分が参加した事のない新人研修や中堅研修の講師役もさせて頂いていましたし、委員会にもその当時の調査広報委員会にも参画させて頂きました。
特に印象に残った事は最初に指導員部会に参加した時に他の施設の指導員さんから「若山さんは午前中から出勤して夜も遅くまで頑張っていて公休もあまりとらないと聞いているけど何か理由があるのか」と聞かれて即座に「私は大学も一年余分に行かせて貰い教員を辞めてから5ヶ月も徳山村で仙人のような生活をさせて貰ったので公休を前倒しで頂いているし、私の勤務はいわゆるフレックス性に近いものだから大丈夫です。」と答えたのでみんなから呆れ顔をされたのを今でも覚えています。また、出張に行った時に他の施設の職員さんはそのままご自宅に帰られるのですが、私は例え高山市内の出張であっても施設に帰り少なくても中学生の勉強会は通常通りしていました。
リピーターの皆さん。私がそこまでにした理由は私にとって天職のように思い、子ども達に寄り添い時には兄貴のように、時には父親のようにやらせて頂ける事に喜びを持っていたからだと思っています。

