長い一日になるはずでしたが・・・

令和2年8月17日

8月11日の建通新聞で新規事業の一般公募入札を掲載させて頂き明日17時が締め切りなので、お盆明けの今日はエントリーして下さる建設会社があるかと手ぐすねを引いて待っていたのですが只今16時50分ですが未だ1社もなし・・・。「明日1社も無ければ大変な事になる」と思うと、今夜は眠る事だ出来ないのかな。いやいや、こんなに一生懸命に頑張って岐阜県の為に盲養護老人ホームの建設を目指しているのだから絶対に大丈夫と信じて早くに寝て、明日は早くから首を長くして待つ事にします。

実は、本日も何もない一日なら滅茶苦茶長い一日になったと思うのですが、お陰様で9時過ぎには郡上の児童養護施設の高校3年生男子の2回目の職場体験の5日目で、最終日と言う事で会議室に呼んで話を聞きました。とにかく質問には一生懸命に答えてくれたので、私から「自分で思いっ切り考えて結論を出して自分の道は自分で切り開け。

研修をしたフロアには中卒で仕事についている同い年の男子が、親への仕送りもして、18歳の誕生日を迎えたら夜勤もして、車の免許も取りたい。との話を直接聞いて自分の甘さも分かったと思うし置かれている状況も分かったと思うので自分なりにしっかり考えなさい。8月14日の夏祭りの日には施設長さんも来て頂いたし自分を見守ってくれている方も多くいる事を理解したでしょう。」と話をさせて貰いました。そうこうしていると、10時20分になり、10時30分からの岐阜県老人福祉協議会正副会長委員長会議のウェーブ会議の準備をしてスタンバイをしていると、順次参加者が画面上の参加者に加わって下さる度に声掛けをして、定刻の10時30分に事務局の声かけで先ずは会長としての挨拶をさせて頂き、引き続き会長として進行をさせて貰いました。

主な議題は、『新型コロナウイルス対策においての支援体制について』と『外国人介護人材のマッチング支援事業について』と『介護の日の特集企画について』でしたが、どの議題についても大切なものばかりで活発な意見が出されて、進むべき方向性が示されました。会議が終了すると12時近くになってしまったので、13時30分には和合の施設に行き、幹部会とお参りがあるので急ぎ昼食を頂き、和合に向け車を走らせ、少し時間があったのでお茶を入れて貰いながら羊羹を頂き13時30分からの幹部会に挑みました。

それぞれの議題に対して私の意見もしっかり話をさせて頂きました。会議が終わって同じ会場でお参りがあるので準備をして1階の利用者さんと共にお参りをさせて頂きました。(2階、3階の方にはテレビ中継で参加して頂きました。)お経を腹の底から声を出してあげさせて頂くと気分も高揚してすっきりとした気分になったのですが、時計を見ると15時35分になっていたので、16時に郡上の高校生の迎えが来ることになっていたので、片付けは和合の職員に任せて事務所におみえになった佐藤施設長さんに挨拶をして急ぎ車に乗り本部施設に直行です。(車に乗った段階で本部施設に16時15分位にしか帰れない事を連絡してお客さんに待って貰う連絡をしました。)リピーターの皆さん今日のコラムの意味を理解して頂けましたか。その答えは、ばたばたの一日だったので本来長い一日になるところがお陰様で早く時間が流れましたと言う事で・・・。

 

 

朝から暑いですが

令和2年8月16日

昨夜も早く寝て、いつものように午前3時に目が覚め、(不思議な現象なのですが)一時間程色々な戦略を考えていて、二度寝をして6時の町内広報放送によって目がぱっちりと覚め、外を見ると雲一つ無い青空。「これは朝の内に活動すべし」と言う事で、パジャマのまま起きて仏壇の前に立つと12日に供えた仏華が「水をくれ」と言っているようなので、ウォーキングマシンで歩く時用に持っていたペットボトルの水を分け与えました。(私が少し飲んだ後のものですが、仏さんは喜んでいてくれていると私自身は納得してます。だって仏さんは寛大だし、バチを当てる仏さんはいないから)。そしてローソクと線香を立ててからウォーキングマシンに乗って歩きながらお経さんをあげ、汗びっしょりになったのでシャワーを浴び、今は(午前731分)横になって朝食までの時間でコラムを打ってます。

本日まで日本中がお盆と言う事で本日は本館1階の夏祭りはありますが、それ以外はゆったりとした時間が流れると思っていますが、『予定は未定で決定ではない』ですが、お盆明けの明日からは新規事業もガンガン進むので、本日はゆったりの時間を楽しんで、その報告は夜の時間で打つ事にします。

14時丁度に本館1階の夏祭りが私の開会の挨拶で始まり私は各フロアでオープニングで歌った北島三郎の『祭り』から、久しぶりに布施明の『霧の摩周湖』、砂田おさむの『人生夢の途中駅』と熱唱し最後に鳥羽一郎の『兄弟船』で歌は閉めたのですが、歌を歌っている間に私が着ている衣装の龍が何匹いるのかで盛り上がりました。(最近、写真のような服が少なくなって苦労してます。)

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歌謡ショーの後は職員と入居者さんが練習した炭鉱節の躍りで盛り上がりました。感心したのは車椅子の方の車椅子を職員が押しながら練り歩くと、歌に合わせて手を挙げて頂けたのは素晴らしかったし、目をつむっていた方がアイスクリームの提供には目を開け口を動かされるのも感動でした。

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入居施設の3日に分けての夏祭りを終えての私の感想は三者三様で甲乙は付けがたく、それぞれに創意工夫と職員のワクワク感を感じました。新型コロナの為にコロナ禍に対応した企画をしてくれた職員に改めて感謝です。そう言えば本日午前中に面会に来た家族の方に「ウェブ面会なら出来ますよ」と声掛けすると、最初は何の事かわからなかったようでしたので、詳しく説明すると、「お願いします」と言う事で、直ぐに準備をして実際にパソコンに入居者さんの顔が映り話ができると嬉しそうにお話をされていて、帰り際には「顔が見れて良かった。」と目を輝かせて帰られました。

このように、コロナ禍であっても嘆いてばかりいないで出来る事を精一杯にしていく事は大切なのでリピーターの皆さんこれからも色んな提案を実践していきますので、ご支援ご理解をよろしくお願いします。

 

 

終戦記念日に思う事

国民の祝日である記念日と言うのは楽しい日でなければいけないのかと少し穿った角度からみている私は変なのでしょうか。

確かに慰霊に伴う行事をテレビで写し出してはいますが、75年前の今日は悲惨な戦争の終わりを告げた日。私は昭和28年生まれだから勿論戦争体験はありません。しかし、今の日本の平和の日々は悲惨な戦争を二度と起こさない起こしたくないとの戦争体験者の思いからだと思うと『終戦記念日』は戦争で亡くなられた多くの御霊に対して思いを馳せ、今の平和を感謝する日なのではないかと思っています。

そんな日だったので朝イチ(6時30分)で仏壇にお灯を点け線香を手向けお経を挙げました。勿論お盆と言う意味では先祖の御霊に対してもしっかり手を合わせました。そしてお経をあげている間、父進さん、母秋江さん、養母英子さん、姉光子さんの写真に向かって一杯いっぱい話が出来ました。今私が遣り甲斐のある仕事に打ち込めるのも決して自分だけの力ではなくて多くの方々の目に見えてのお力添えと目には見えないお力添えがあったからと言う事で今日は一日『感謝の日』と位置付けて暑い一日を過ごしたいと考えています。勿論『予定は未定で決定では無い』ので、今日の一日がどんなものになるかはわかりませんので夕方に改めて報告します。(とりあえず朝食を頂きます)

施設に来て、資料の整理をしていて、岐阜県清流の国推進部外国人活躍・共生社会推進課長さんから、8月24日に『外国人材受け入れ企業交換会』での発表者依頼の書類を見付けたので、本日は午後にかつての入居者の方の家族の引き継ぎのみの予定なので、じっくりと資料作りをする事にしました。時間が無いときにはとっても失礼な話ですが、かつての資料を引っ張りだして、思い付くままに話をするパターンが殆どなのですが、社会福祉法人を代表しての参加で、珍しく時間的余裕もあったので、パソコンで厚労省社会・援護局が出している『福祉・介護人材確保対策』なる78ページからの資料を読み必要なページをコピーして、発表の為のレジメもしっかり作成する事が出来ました。いつもは「予習も復習もしたことない」等と半ば自慢気に話をしているのですが、しっかり資料が出来るとやはり効率良く話が出来るなと改めて思っている次第です。(当たり前の事を67歳の今気がつく私は変な男ですかね)

資料が出来たタイミングで丁度12時になり終戦記念日に合わせたサイレンが町内広報のスピーカーから鳴り響いてきたので、事務所内にいた私と五次事務長と吉田部長の3人が起立して黙祷を捧げました。その後パソコンで『終戦記念日』を検索すると日本大百科全書の解説に「8月15日。1945年(昭和20年)8月10日、日本は米英中3国によるポツダム宣言受諾を申し入れ、15日無条件降伏し、第二次世界対戦が終結した。戦争の誤りと惨禍を反省、平和を誓うため、63年以降毎年この日に全国戦没者追悼式が行われていたが、82年4月、有識者懇談会の意見を受けて、戦争を知らない世代に戦争の経験と平和の意義を伝えるため、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。」と記してあるのを目にして、戦後75年が経過しても平和への思いは持ち続けなければいけない。

私は「お盆中の一日なので祭日で無くても良い」と言う事なのかはわかりませんが、大切に語り継がれるべき日だと思うのですが、リピーターの皆さんはどのように思われますか。本日はゆったりとした時間の流れね中で考えた次第です。朝もお経をあげましたが、家に帰ってからもしっかり仏壇の前でお経をあげたいと思っています。

岐阜の最高気温予想は38℃だと報道してます

令和2年8月14日

朝から暑いし空を見たら雲一つありませ~ん。こんな時はいつも以上に水分を取りましょう。昨日体調を崩していた職員の情報では「水分を取らずにいると不思議な事に喉の渇きを覚えなくなる。」と言うので私は「その症状は正に熱中症の症状だ。薬だと思ってたくさん水分をとるように」と話をしました。(施設敷地内のアパートの住民なのでパン、バナナ、お茶、ポカリ等を差し入れしましたが、お腹に入れなければ意味がない。)さて、暑さを解消するのは日本では古(いにしえ)から夏祭りと決まってます。

本日は新館1階、2階のエリアで夏祭り『暑さ退散』の一助になればと私も色々と頭を巡らしています。本番まであと6時間。元気でなければ何も出来ない。しっかり食べて飲んで(決してアルコールではありません・・・。当たり前か)本番に備えます。今(午後6時07分)は家に帰り湯船に浸かりながら、施設に行ってからの出来事を書く事にします。

9時に施設に着き全国老施協21世紀委員長と21世紀委員会(三重県)の今後の方向性についての相談に乗っていると、12日から再び施設体験に来ている合掌苑の高校3年の男子の子が、新館の責任者である西川課長と共に事務所に来たので会議室で指導をしました。その中で、「自分の生きる道は自分で決めるしかない。」等と自分が高校3年の時には出来なかった事を真剣に語っている自分に違和感を持ちながら話をしてました。話の中で合掌苑の施設長さんが午後からおみえになる事も話しながら、「あなたの事を思っていてくれる人が何人もいて幸せだな」とも話をしました。

13時前に合掌苑の施設長さんがみえ、午前中の話をすると共に13時30分から新館での夏祭りの見学で体験学習をしている苑生がいるフロアに案内して1階2階の入居者が集まられているエリアで開会の挨拶をすると共にカラオケで『祭り』帰って来いよの替え歌である『三太郎』『お前しか愛せない』『兄弟船』の4曲を歌わせて貰い、歌を歌っている時に、本館2階が作成した神輿が練り歩きました。その後『炭鉱節』と『東京音頭』を職員と共に踊りました。

その後は4つのゾーンに別れて食べたり(かき氷、ポップコーン等)ゲームをしたり(射的、金魚すくい等)で遊んだりと楽しんで貰いました。合掌苑の施設長さんは高3男子の動きをハラハラドキドキで見られていたようですが、見終わってから会議室に戻り私と話をしている時に、施設での様子とは違う活発な様子を嬉しそうに話をして頂けました。高3の話の後は私の社福に対する話を一杯させて貰いました。施設長さんを見送った後は、私の携帯の着信歴を確認して色々なところに電話をかけて施設での対応を終了しました。

リピーターの皆さん。今日は新館1階2階の夏祭りでしたが、本館2階とは違う企画に甲乙つけがたいものを感じましたが、それぞれに味がありました。改めて職員の頑張りに感謝と共に法人が提唱している『今日一日楽しかったよ』が実践出来ている事にも感謝です。さてさて、16日の本館1階はどんな形で展開されるのか楽しみです。

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昨日の本館2階の夏祭りレポートです

 

令和2年8月14日

例年8月第1週の土曜日に地域行事のようになっている(参加者はボランティアも含めて約800人)夏祭りもコロナ禍対策の一貫として、大々的なものは『三密』をさける為に出来ないと言う事で、今年に限って(来年の事はわかりませんが)本館2階が12日、新館1階2階が14日、本館1階が16日でデイサービスは1週間実施することになり、それぞれのフロアの職員が知恵と体力を駆使して、入居者さん利用者さんの協力を得て準備をしてくれました。

そして昨日は本館2階の夏祭りだったのですが、事前に2階の西村課長と伊藤主任から「神輿を作ったので理事長に十八番である北島三郎の祭りを歌って頂き歌に合わせて神輿で入居者さんの回りを練り回りたいと考えています。」と言われて、勿体振るのは苦手なので「喜んで」と言う事で衣装も一枚替えて歌わせて頂きました。3月以降外で飲む事も歌う事もなかった割りには上手く歌えたと自惚れています。本館2階の職員は休日の職員も来てくれて、また、事務所の職員も協力してくれて、職員が生き生き動いてくれたので、私は歌の出番(結局3曲歌わせて貰いました。)以外はかき氷やアイスを食べたり、入居者さんとヨーヨー釣りをして楽しませて貰いました。殆どの職員は入居者さんが喜ばれている様子を喜んでいるのを見て、私は喜んでいました。神輿についてはオファーがあれば他のフロアに貸しても良いと西村課長が言っていたのも頼もしく思っています。改めて23年の重みを知った次第です。

明日は新館の1階2階の祭りです。企画の中で本物の金魚すくいをしたいとの事で玄関先に設置してある珊瑚のメンテをお願いしている大垣の『view』さんに金魚の依頼をしたところ、200匹程度なら無償で提供して下さると言う事で、例年よりも立派な金魚が手に入りました。ちなみに昨日はヨーヨー釣りと一緒におもちゃの光る金魚をすくって楽しんで貰ったのですが果たして本物の金魚ではどんな楽しみ方をされるのかが楽しみです。

ところで、合掌苑から施設体験2度目の高校生男子がいる新館での祭りなので、彼の祭りでの動きも楽しみの一つだと考えていたのですが、先程(1800分)合掌苑の施設長さんも彼の様子も気になるようで明日当施設に来て頂けるとの連絡を頂き、彼は本当に恵まれた中で育てて貰っているのだと30年前児童施設の指導員だった私としては嬉しい限りです。今年の夏祭りはコロナ禍の中、例年のような大大的な夏祭りは出来ませんが各フロアにオリジナリティがあり、災い転じたと思うと『コロナ禍だからできる』夏祭りと言う事でリピーターの皆さん、我が施設の職員は頼もしいと思いませんか。私は明日も張り切って歌を歌います。さてさて私も昨日とは違う衣装での登場にわくわくしてます。

 

父進の命日に思う

令和2年8月12日

父進が今の私の年齢(67歳)の時に私の目からどのように見えていたかと言う事について、命日の今日書く事にします。私は父進が42歳の時の子なので67−42=25歳。25歳と言えば私が教員を辞して父進さんにさり気無く勘当され私自身は半年近く旧徳山村で飲めや歌えの生活をしていた時期にも忍・忍を通した忍耐力は今の私にはいやいや10年後の私でも無理。と言う事は父進さんの忍耐力は計り知れないものを感じています。

私が結婚した30歳過ぎに(私の結婚記念は30歳と10日)父進さんと晩酌を共にすると、かなりお酒も弱くなっていたのか、「宏は今須生まれの今須育ちだから分からんだろうけど、父ちゃんは垂井から養子に来たので、70過ぎて宏より長く今須に住んでいても養子としての扱いを受ける。」と愚痴を言う事が度々ありました。父進は30歳を過ぎて遅くから(極度の近視の為になかなか兵隊さんになれなかったのに元気な男子がいなくて駆り出されたように聞いてます。)戦争に駆り出され、終戦後はどのような経過かはわかりませんがシベリアに抑留され捕虜の生活を1年近く過ごして日本に帰還したと聞いてます。戦争時代の話しの中には、はるかに年下の上官に随分理不尽な振る舞いをされたことや、上官の中には報告書を上手く書けない方がいて代書して喜ばれた事もあったとの話も聞きました。

シベリア抑留で捕虜の生活を強いられていた時には、ゼンマイの腕時計をロシア兵に取り上げられ、しばらくすると、取り上げられた時計が捨てられていて、再び自分のものにするとまたまた取り上げられると言う事があったと不思議な話を聞いてその種明かしはロシア兵の中には腕時計のゼンマイを巻く事を知らないからと教えてくれました。父進の忍耐強さは戦争中の『ひもじさ』『理不尽さ』を経験したたまものなのかとも思いますが、抑留先から帰り教員に復帰された頃の父は「とても怖い軍隊式の先生だった」と聞いた事がありますが、昭和30年代に父進の教え子の方の話を聞くと滅茶苦茶温厚な先生だったとの事だし、父進さんと一緒に教員生活をされた方々の話を聞くと「温厚で大変人情味がありいろんな面でお世話になった。」との話しばかりで、色々な情報をトータルすると、戦時中の軍隊方式の考え方を戦後の民主主義の考え方について理解してきちっと実践してきた。

表現を変えるとするならば時代の流れを読み形にしていき、苦労した経験により忍耐強い性格になっていったんだと思います。私は戦争を知らないし、その体験を想像すら出来ません。戦前、戦中、戦後と言う時代の激変期を体験された父だからこそ出来の悪い息子『宏』に対しても心広く信じてくれたからこそ今の私があるのだと思うと命日の今日お墓にお参りして頭を垂れるだけではいけないと思いつつ1年に1日だけでも父進を忍ぶのも親孝行の一つだと勝手に思っている私は何なんでしょうか。リピーターの皆さん。こんな私ですがこれからもよろしくお願いします。※本館2階の夏祭りレポートは明日にしますので乞うご期待と言う事で。

前回の半沢直樹での言葉の中で

半沢直樹が部下を諭すように言った『正しい事を正しいと言える事』『組織の常識と世間の常識が一致している事』『ひた向きで誠実に働いた者がきちんと評価される事』に対して部下が『当たり前のように聞こえますが奥が深いですね。』と言った事に対して半沢は『自分の為だけに仕事をするのではなく、客の為にする。強いては世の中の為にする。』には私自身『うんうん』と頷きながら私自身の生きざまとダブらせていました。今回の新規事業は岐阜県の福祉事業の観点からの必然だと考えています。一昨日の日曜日に視覚障害者協会の役員の方とお話させて頂いている中で『待望の施設が出来る』と喜んで頂けました。岐阜県にない施設を作るのが岐阜県老施協会長としての使命であり、喜ばれる施設を作る事は私にとっても至福の喜び。このような生き方が出来る自分は何て幸せ何だろうとも思っています。話しは変わって、本日は午後から全国老施協東海北陸ブロック会長会議がウェブ会議で実施されました。議題は2つあり、1つはブロック研修大会をこのコロナ禍でどのように進めていくのか。2つには各県のコロナ対策を組織としてどのように行うべきかと言う事で結局はコロナ禍でどのように組織を運営していくのかと言う事でした。結局のところ『コロナと如何に上手く付き合っていくのか』と言う事だと思います。その対策は私はシンプルに手洗い、手指消毒、うがいの徹底と不要不急の理解を職員に徹底することが大切でコロナ禍の終息を待ち、終息してからのスタートダッシュができるようにしておくべきだと考えています。明日は本館2階の夏祭りで私の北島三郎さんの『祭り』の歌に合わせて御輿を担いでのオープニングだと聞いてます。事前に聞いてしまったのでサプライズになりませんが、企画をした職員はワクワク感を隠しきれなかったのだと思うと『入居者さんに楽しんで貰うんだ。』との気持ちがビンビン伝わってきます。と言う事は本日のコラムの書き出しのように『自分の為でなくみんなの為に』に合い通じるものがあると思うと本部職員の心意気が心地良いです。法人設立23年で立ち上げて空中分解する寸前だった頃からの再生時はアパッチ野球軍(古い話でわからない方が殆どだと思いますが)のような集団が泣いたり笑ったり怒ったりしていく中で今の組織になったと思うと感無量です。どちらにしても一生懸命が一番大切だと思います。さて、明日は本館2階の夏祭りにどんなかっこうで登場しようか。わくわくだな。

明日、いよいよ建通新聞に掲載されます

令和2年8月10日

新規事業の盲養護老人ホームの計画はなかなか俎上に乗らず尚且つ、新型コロナウイルスの影響で地域住民への説明が実質的に2カ月半遅れ、垂井町との土地購入の契約が出来たのが5月12日で、契約を締結してからの町営住宅の解体と整地の入札執行日が5月30日で、6月中に解体と整地をして頂くのと同時進行で測量と土地利用計画作業をして頂き、デザインボックスの方で設計プランを作成して頂いたのを基に古田岐阜県知事からの建設に伴う内示を頂いたのが7月31日で、内示を受けての建設の一般入札の公募をする為の岐阜県高齢福祉課とのやり取りをして、ようやく明日8月11日の建通新聞で掲載する運びとなりました。

延べ床面積2850㎡の木造平屋建てのものに対してどれだけの岐阜県内Aランクの建設業者がエントリーして下さるのか、それとも全くエントリーして下さる業者がなかったらとドキドキの毎日が8月18日まで続くのかと思うと眠れぬ夜が続きそうです。私は午前中におみえになったお客様と色々なお話をさせて頂く中で、「会長さんはお金持ちだからこのような事業をされているのだと思っていました。」との発言に対して、平成6年からの特別養護老人ホームの建設に伴う紆余曲折について話をすると共に、「社会福祉法人は税金を納めない代わりに地域貢献の中で安心ある生活の一助になる事が使命何だ。」と答えて、先ずは自分が育った関ケ原の地で『介護保険導入前に特別養護老人ホームが必要になる』との思いで本部施設本館を完成させた頃の24年前の現実は認知症(当時は『痴呆』と言ってました)の理解も得られず平成10年風当たりの厳しい状況下でのスタートとなりましたが、少しずつ理解が得られ平成12年の介護保険法導入により、需要が増え地域のニーズが高まった平成16年に新館の増設が叶い、関ケ原町を中心としたエリアの安心に寄与してきたと自負しています。

そして、杉和会としてのエリアを西濃地区に拡げていく事が大切だと考え、その中でも低所得者層に対しての受け皿になる事の必要性を考えて大垣市和合に従来型の多床室の建設を平成26年に完成させました。そして本年度に岐阜県唯一の盲養護老人ホーム80床の計画をさせて頂いたのは、「岐阜県に盲養護老人ホームが無いが為に他県に行かなければいけない事が視覚障害者及びその家族に於いてどれだけ不利益な事か」と考えた時『社会福祉法人の使命としてやり切らなければいけない。』と考えたからです。平成26年に山形県に済生会と言う大きな法人が事業開始されて、岐阜県、富山県、鳥取県、沖縄県の4県のみに盲養護老人ホームがない状態からの脱却は視覚障害をお持ちの方にとっての朗報となり岐阜県の安心の一助になればとの思いでいます。

今日のお客様に言ったのは「決してお金儲けの為の施設作りではありません。但し、私自身お金がなかった時にも多くの支援者が有り出来た法人として出来る事は精一杯頑張って行きたい。だから盲養護老人ホームも頑張って完成させ岐阜県の安心に寄与しますのでご協力下さい。」とお話しました。リピーターの皆さん。私は常にこのスタンスですのでこれからもよろしくお願いします。

昨日、めっちゃ嬉しい連絡を頂きました

令和2年8月9日

8月4日から7日まで(実質3日間)施設の職場体験をした郡上の児童養護施設の高校3年男子が体験を終えてのお礼の電話と、もう一度12日から5日間の体験の依頼でした。電話を頂いたのは、送り迎えをして下さった指導員さんからのもので、帰りの車の中では「生き生きと体験した事をずっと話ししてくれて、あっと言う間に施設に着きました。」との事。指導して頂いている指導員の方も嬉しそうに話して頂けたのには私自身も嬉しくなりました。そして、「施設長にも参加して貰った報告会では書いたものも一切見ないで堂々としっかり発表してくれて嬉しくて涙が出そうになりました。」とまるで母親のように話されたのにはまたまた嬉しくなりました。私の思想の中には『一点突破の全面突破』と言うのがあるのですが、12日からの体験も上手くいき、次につながる様な仕組みを考えていきたいと考えています。

私はお陰さまで、今160人の職員が所属する法人であり、本部施設の敷地の中には1Kのアパートを20部屋も持つ組織の理事長として、「自分としては働きたいけど、今一勇気がでない」と考えている方の背中を押す為の一助になれば、38歳で児童施設の職を辞した時の思いの一つをようやく叶えれるのではと考え深いものがあります。先般岐阜労働局と岐阜県との共同開催で就職氷河期と言われている時代の方の救済策の為の会議があり、福祉団体代表で私が参加させて頂いた時に痛切に感じたのは、「提案されている対応の手法があまりにも縦組織になっていて横の連携が発想の中にない」と言う事に驚きを隠す事が出来ませんでした。

私が30年の間、思い描いてきたこととは、児童養護施設を退所したのに親の支援は得られず社会での活躍が許されずバーンアウトしているにも関わらず、支援がないままに立ち往生している状況でいる者に対して、就職のチャンスを与えれる横の繋がりの持てる支援組織を作りたいと考えています。『マッチング』の為の組織作りと言っても法務省、厚労省、文科省の垣根を取っ払う事は至難の技だし、何から手を付けて良いのやら。しかし、一人の人を手助けするのに領域にこだわっていたのでは何も進まない。だったら、出来る事から初めていくしかない。気が付いた者が気が付いた事をして行く事によって活路を見出だす事こそが肝要と考えています。もっと正直な事を書くならば「あんな清んだ目をした高校生を生かさないでどうするんだ」と言う気持ちです。大学時代の若き血が騒いでいます。『鉄は熱い内に打て』の格言通りに突き進みたいと考えています。

リピーターの皆さんもこの高校生にエールを。今度来た時には社会の厳しさの中の一つに『朝が弱い』等と軟弱な事は言わさんから。自分の道は自分で切り開く事の素晴らしさと大変さと達成感の喜びを理解できるように頑張らせたいと児童施設カリスマ指導員時代の血が騒いでいます。わくわくワクワク。

 

昨夜は絶食をして『半沢直樹』の録画をみました

あいからわず、『半沢直樹』はヒヤヒヤドキドキの急転直下の流れに引き寄せられながら観ていて、その中で『感謝と恩返しが未来に繋がる』との言葉に私自身の生きざまをダブらせていました。最近の私のコラムでも『感謝』と言う言葉はよく使わせて貰っていましたが、改めて『恩返し』と『未来に繋がる』についても私の生きざまの中で考えてみました。まず、『感謝』について述べる時、私が今生きている事すら『感謝』です。私が小さい頃、今須に診療所があり女医さんで本多先生、看護師さんで通称『つるちゃん』(正直この呼び方しか知りません)の二人の存在がなければ、我が家の軒下に酸素ボンベを放置することは出来なかっただろうし、心臓が5分程度止まって復活することはなかったわけだから。そして、勉強が嫌い(と言うより苦手)だった私が曲がりなりにも大学を5年で卒業し小・中・高の教員資格がとれたのは父進さんの滅茶苦茶大きな包容力と忍耐の賜物だと思うと『感謝』等と言う言葉だけでは意を尽くせないものを感じています。そして、大学を卒業し教員に名を繋げる事が出来たのも私の努力ではなくてこれまた父進さんが色々と根回しをしてくれたからだと思っています。そんな父進さんを裏切る形になったのは、25歳の時に勝手に教員を辞めた時の父進さんの心情を考えるとあまりにでかい父進さんの深くて広い心に感謝の気持ちしか浮かびませんが決して恩返しは出来てない自分がいます。但し、最近は父進さんや母秋江さんの事をご存知な方とお会いすると「お父さんが(あるいはお母さんが)生きてみえたら喜ばれるのに」との話がでるので、今『恩返し』をしているのかもしれません。だって、父も母も私の手の届かない天国なので・・・。私の人生は正直最初から計画性があったわけではありませんでした。ところが、半沢直樹のような急転直下ぎりぎりのタイミングとまでは言いませんが、それでもそれに近いタイミングで救世主が現れて今があると言っても過言ではありません。胃に穴が開くのではないかと思うほどの大ピンチの時に何度となく救って貰い、その都度私自身大きく成長させて貰いました。その出会いは全て『感謝』です。次に『恩返し』ですが、これはあまりに大きな出来事に対して小さな『恩返し』をした話ですが一つ書きます。それは、私が今須の地に初めて施設を建設する事になった時に(本部本館)資金作りの行脚をしていて、その当時の法人筆頭理事になって頂いた中部圏の福祉の重鎮であった吉田宏岳先生(当時日本福祉大学中央福祉専門学校校長)の家へお願いに行った時に即座に1500万円の寄付を約束して頂いた時には『感謝』等と言う言葉では言い尽くせない思いで「私のしてきた対応にそれだけの価値があったのか」と自問自答しましたが、先生の自坊で毎月第3日曜日にお参りと写経会があったので、先生がお元気で開催されている間は時期に合わせて山菜おこわとか竹の子ご飯とか栗おこわ等を作って貰い届けました。これは小さな小さな『恩返し』だったと思いますし、それが今(未来)に繋がっていると考えています。勿論、色々な皆さんに『今あるのは皆さんのお陰』と言う事で『感謝』を込めての『恩返し』の一つとして、『盲養護老人ホーム』の新規事業としてさせて頂いてます。と言うのも、岐阜県内のどの法人も必要性は理解していても「経営が厳しい」と言う理由で建設に至らなかったものに対して、関ヶ原と大垣の施設の頑張りの中で何とか視覚障害者の方々にも安心して頂けるようにすることも『恩返し』の一つと考えています。リピーターの皆さん私は土地もないお金もない中から今がある以上決してお金儲けでなく地域の方の為(関ヶ原、西濃、岐阜県と地域が拡がっていますが)なるために今まで以上に頑張りますのでこれからも宜しくお願い致します。

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