全く充実した一日です。(幸せな一日)

令和2年5月25日

午前9時から乾町議会議員同席で垂井町役場での新規事業の打ち合わせをする事になっていたので、垂井町へ向かう前に施設で資料を作成して、8時45分に役場に到着して乾町議会議員を待っていて、9時前になってもおみえにならないようなので携帯に連絡すると、既に別件で役場内で打ち合わせをされていたとの事で(一流は時間を無駄にされない)庁舎内に入って行き合流しようとすると、法務局での打ち合わせを済まされた若園先生(司法書士)も来て頂けたので、打ち合わせに参加して貰い、新規事業が円滑に進む為の協力体制について話し合いました。

施設に戻ると配管漏れの修理の為の打ち合わせの約束をしていた大倉商店社長が既にきていたので、早速会議室で打ち合わせをして、事務所に戻ると本日の全体会の打ち合わせに西村課長が待っていて(夜勤明けで)研修や供養祭の話し等を済ませ昼食を済ませようと急いで食べていると、監事監査のメンバーが順次来てくれたので挨拶や資料の確認をし、出席者の方が揃ったので予定の13時30分より前に監事監査を開催し無事に監事監査が14時45分に終わりました。

15時からは改めて理事会が行われ、16時終了の予定が議案が多くて16時25分に終了して、会場設定だけ変えてメンバーを代えて引き続き評議員の選任委員会を行い、終了後は和合の佐藤施設長と人事についての意見交換を行いました。

17時30分から地元の電気設備の社長との打ち合わせがあり、19時からは全体会があり遅くからの夕食はしたくないのでローソンにおにぎりとパンと牛乳を買いに行き、予定の打ち合わせの17時30分を少し回って施設に戻ったのですが、まだ施設に来て見えなかったので連絡をすると、「もう少し待っていて欲しい」との事なので急ぎパンとおにぎりを牛乳で流し込んでいると生駒社長がみえたので、慌てて会議室に行き打ち合わせをしました。

本日の一日は色々な根回しで終了してしまいそうですが・・・。いやいや杉和会理事長の役割としては最も大切な事ですし、19時からの全体会では効率よく話し合いを持ち明日からの充実を図って行けるように頑張りたい。いみじくも本日の全体会は6月からの新体制の為の辞令授与もあるので、理事長としての思いもしっかりと話して行きたいと考えています。しかしながら、一日根回しに走り回ったわけですが、根回しが色々出来るのは沢山の協力者がいて頂けるからと思うとしみじみ一つひとつ積み上げてきた証しだと思いました。

話が少しずれますが、「歳を取ると一年が早い」とよく言われますが、小さい頃は一日の中での興味ある出来事が多く有り一年が長く感じるのに対して大人になると単調な生活を淡々と過ごす方が多いから一年が早く感じるとの考え方があるそうです。そう言う意味では私の一年はめっちゃ長く感じるのはリピーターの皆さんとても幸せな人生だと思うのですが・・・。

 

朝早く(4時30分)に目が覚め過去に書いたコラムを読んでいます

本日は新規事業の計画がより充実する為に予定地の南側に道路をつけたいと言う事で、1週間前に地元の要望を聞く形により急展開で土地を提供して貰う話が持ち上がり(私自身はそのようになれば良いと考えていたのですが、直接話をする機会が垂井町との絡みでなかなか持てなかったのですが『思いは通ずる』ですかね。)本日仲介をして下さる方のお骨折りで地主の方3人との話し合いを持つ事になり、テンション高くモチベーション高くて昨夜は早くに就寝しての目覚めで、ガラケーの携帯で打って記録に残っている(パソコンでも打っているので全てではありませんが)昨年3月8日からのコラムを読んでみました。そして、改めて人間の記憶力の凄さを感じています。

と言うのは、ランダムにページを開いて読んでみても、その時々の記憶が鮮明に思い出せるのです。そして、改めて感じたのは『私の日々の生活は自分で言うのも変だけどめっちゃ充実しとるな』と・・・。

今までの人生(そんなに大袈裟な表現をする必要はないのですが)の中で自慢ではありませんが日記をつけると言う充実した日々を1ヶ月いやいや1週間と継続した試しがないし、それどころか夏休みの宿題で日記の課題があっても毎日書けなくて夏休み終了3日前に恐い、こわーい春子お姉さんににらまれながら泣き泣き書いていた記憶しかない。(事実を書いただけですから春子さんご勘弁を。小さいときには色々とお世話になりました。)つまり、今の私は小さい頃より、日々の生活が充実しているからこそのコラムの継続だと思っています。

さてさて、今日のコラムの前段(滅茶苦茶長い前段ですみません。)は布団から出る前に書きました。多分本日も充実した報告を夜の布団の中で書きますので・・・。

10時の約束の高校の10年後輩のブロ歌手聖はじめさんが9時40分に来て、新型コロナの関係で一切の出演がなくなり、大垣のソフトピアでの9月の大きなイベントも12月26日になったとの事で、聖さんと話をしていてつくづく感じたのは「人前で歌を歌う機会がないといつものような活力がないな」と言う事です。だから先輩として、新型コロナが終息してイベントが出来るようになったら速やかに活躍できるように支援をしていきたいと思っています。

その後昼食を頂き14時からの新規事業の駐車場南に道路を設置する為の土地所有者との話し合いに行きました。仲介をして頂く方にご挨拶をしていると、3人の地主の方がおみえになり、理事長である私から道路設置の有意義性について話をさせて頂き地主さんの意向を話して貰い基本合意に達しました。その後施設に帰り、基本合意により土地の有効活用が出来る事によっての次の手立てを進める為に、測量会社、設計会社、司法書士、農業委員の方等に連絡して、明日は朝一で垂井町での打ち合わせが円滑に行くように電話で根回しをしました。

リピーターの皆さん。私は多方面にわたる専門性は持ち合わせていないので色々な方にお願いするばかりですが、法人を設立から23年が経過して色々なネットワークが出来て段取りの仕方も手早く出来るようになっているのでこれからも岐阜県にない盲養護老人ホーム建設に邁進して、岐阜県のセーフティネット作りの為に頑張りますので私の動きに対しても見守っていて下さい。

大谷徹奘師の『メールde法話会』に対する感想を書いたお礼の品について

令和2年5月23日

『メールde法話会』の感想を書いて送ったところ、色々な品を送って頂いたのでリピーターの皆さんにお裾分けの意味を込めて写真を添付しました。

色紙には、『こころ まるく まるく』と書いてあり、徹奘師らしい書体で心から『心温まる』気持ちになりました。

kokor

『深沙大将』(じんじゃだいしょう)の絵葉書には、【薬師寺の教えの始祖である玄奘三蔵は、インドへ法を求める旅の中で生死にかかわるような困難に直面されました。その時に観音様の化身である『深沙大将』が出現して、玄奘三蔵をお救いになられるのです。その深沙大将は疫病を伏する神としても、いにしえより信仰されています.】とあり、現在起きている新型コロナウイルスに立ち向かうものとして送って頂けた事に深い慈悲を感じました。

大将

また、大谷徹奘師から頂いた手紙の最後に「この活動は感染が終息するまでは、続ける所存です。引き続きお読みいただければ幸いです。末筆になりますが、お薬師さまのご加護による、あなた様の身心安楽を心よりご祈念申し上げます。」と書いてあり、私の思いのままの感想に対してもきちっと答えて下さった事に対して感謝の念で一杯になりました。

折り曲げ 縁

そしてもう一つ頂いた新聞記事は、リピーターの皆さんも絶対に伝えたいと思いましたので以下に書きます。【40歳のとき茨城県の潮音寺の副住職に就き、6年かけて寺を復興した。本堂などの修復完了から半年たった平成23年3月、東日本大震災が発生。寺の復興に力を貸してくれた東北の人々の力になりたいと、薬師寺(奈良市)の花会式の法要を終え、すぐ東北へ入った。宮城県石巻市で経を上げ、高台から被災したまちの風景を見たとき、ふと心がつぶやいた。「ここに生まれていなくてよかった」。修業を重ね、いっぱしの僧侶になったつもりだったが、追い込まれたときに出た本心にショックを受けた。うつ状態になりながら、それでも時間があれば東北へ行き、仮設住宅などを回って被災者と話をした。中でも東京電力福島第一原発事故の影響を受ける福島県には何度も通った。福島第一原発20キロ圏内にある浄林寺の住職が「寺が移れば、いま避難している人たちが帰る場所がなくなる」と寺にとどまる姿を見て、同寺復興のため毎年、義援金を届けるようになった。(中略)自分だけは大丈夫という「慢心」、人の話を聞かない「傲慢(ごうまん)、今までの自分をかえないのが「怠慢」。この三つの「慢」を捨てなければコロナ禍は乗り越えられない。福島第一原発事故もコロナ禍も同じ。それぞれがいまの環境と向き合い、どう生きていくかを考え、体験したことを次に伝えていくことが大切だ。】

この記事を読み大谷徹奘師の心のままに正直に書かれている分私はより迫力と信念を感じました。師は私より10歳若いのですが私も結構な体験をしてきたと思っていましたが脱帽です。しかしながら、人の生き方はそれぞれで他の人と比較するのではなく、自分に与えられた使命を全うする事が大切と思いなおし、今は社会福祉法人杉和会理事長としての使命を精一杯するのみと思っていますのでリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

hana

 

全国老人福祉協議会のウェブ会議をより良いものにする為に

令和2年5月22日

昨日午後1時30分から16時過ぎまで実施されたウェブ会議を終えて、改めてより良いものにする為には何を充実させたら良いのかを色々と模索してみました。そして究極の答えは『会議前の事前資料で決まる』と言う事です。

この事は当施設の幹部会での事前資料でも言える事ですが、幹部会の場合は幹部職員がそれぞれに作成して提案するのですが、全国老人福祉施設協議会の場合の資料作成は、各委員会の今置かれている状況と進むべき方向を委員会の幹事が示し、委員会担当事務局が資料としてまとめ、幹事と担当事務局員が委員長に報告し修正を加えたものを事前に資料として参加者にメールで送る。しかも送信は少なくても最低3日前には送る必要がある。何故ならば昨日の資料もそうだったのですが100ページ以上のボリュームがあり、参加者が事前チェックをするには前日のしかも20時を回ってからの送信ではなかなか全部を読みきれない。

確かに事務局も大変なご苦労をされていると思います。例えば予想される事は各委員会の資料が事務局に届くのが催促をしてもなかなか事務局に届かないと言う事もあるでしょう。事務局にしたら、幹事と言えども全国の役員ですから締め切りがきていてもなかなか言い出せないと言う事もあると思います。しかしながら、よーく考えてみるに役員の任命は最終的には会長から依頼を受けて『頑張ります。』と約束をしてそれぞれになったのだから、それぞれの役割を理解して粛々とやって貰わないと組織は持ちません。

全国老施協は今回の新型コロナでは、どの組織よりも早く適格な情報を発信してます。それは全国社会福祉協議会の組織から離れ独自路線を勝ち取り、会員施設にとって必要な事を具体的に形にしていく事を目指しているから。厚労省にしてみたら『しっかり物を言う組織』と言うのは鬱陶しい存在かも知れません。しかしながら、だからこそ自分の足で立ち考えるから新型コロナに対しても速やかに考えて提案ができたのだと思います。自分達の組織は自分達で守る。その為の活動に対しては『労を惜しまず』の信念を持った対応こそ大切だと思っています。

自分達の組織を守っていく事は国民の安心を守る事と考えています。社会福祉法人の使命は国民のセーフティネットを守る事。今年で我が杉和会が盲養護老人ホーム・養護老人ホームを建設するのもその証しです。本日は11時から中部電力とNTTと垂井町の立ち会いで電柱撤去の打ち合わせをしたのですが、一般的な対応だと申請から3ヶ月を要するとのお話だったので、公共性や視覚障害者の方の期待に答える為には私も色々な手だてをしていきたいと考えています。私個人の利害だったらそんな事を絶対にしません。しかしながら私が頑張らねばの思いでいます。

また、午後からは岐阜県健康福祉部長さんと高齢福祉課長さんと担当課長補佐の方に垂井町の副町長、高齢福祉課長、係長さんと共に面談をさせて頂き『素晴らしい施設造りに邁進出来るように協力する』との言質を頂きました。これも、岐阜県の福祉充実の役に立ちたいとの思いからです。リピーターの皆さん二つの出来事は決して長い時間を要したわけではありませんが、施設に帰ったらどっと疲れが出てしまいましたが(自分自身驚く程に)一晩しっかり寝て明日もガンガンやっていきますので下支えを宜しくお願いします。

 

ウェブ会議を55人で実施しました

朝一で看取りの家族の相談を受け、和合での全体会が10時からあるので話し合いの後、急ぎ車を走らせ和合に到着したのが9時40分で窪田室長と新規事業の打ち合わせをしていると10時になり1組目の全体会が始まり(新型コロナの関係で2組に分かれての会議です。)事前に佐藤施設長から「理事長の考え方を熱く語って下さい。」と言われていたので、しっかり15分掛けて話をさせて頂きました。

1組目の全体会は11時5分に終了して、2組目との入れ換えを5分でして貰い、11時10分から2組目が開始されたのですが、11時30分から猫田県議とお会いする事になっていたので10分で私の話を終えてぴったり11時30分から猫田先生にお会いして色々な事をお願いしたり、私の思いを聞いて貰いました。

ちょうど12時まで話をさせて貰い、これまた急ぎ本部施設に帰り13時30分から全国老人福祉協議会正副会長委員長会議がウェブ会議で行われるのでこれまた昼食も急ぎ食べてから、ウェブ会議の為のパソコンの準備をして、画面を開くと平石会長は既にスタンバイされていたので二人でしばらく話をしていると会議に参加される方が続々増えていくのがわかり、改めて参加人数を確認すると会長、副会長、理事、委員長に幹事が52人で北條専務(昨年9月末まで厚労省審議官)、北村事務局長に事務局のメンバーを入れると総勢55人。会議が始まる前には正直、こんなに多い参加者で果たしてウェブ会議が成り立つのかと心配になりましたが、流石に役員の方々は色んな経験を積まれた方ばかりなので平石会長の進行で会議は順調に進んでいきました。

進行をされる平石会長から「委員会報告は2分以内でコンパクトに頼みます。」と言われて私の出番は経営戦略の今室長の次に総務・組織委員長として話をさせて頂くのに長々と話しないように留意しながら端的に話をさせて頂きました。委員長の中には2分ルールをはるかに越えてしまう方もおみえになりましたが、あまり長いときは平石会長がやんわりと注意されて、円滑に進んで行き報告の後の検討にしても、意見を述べる方が重なる事無く出来て非常にスムーズでした。

委員会報告の後、事務局から情勢説明があり、新型コロナの関係で国の動きが遅れ気味だとの感は歪めませんが情報を聞きながら戦略が見えてきました。全ての議案検討が終了して16時までにあまり時間がないなかでしたが、敢えて「岐阜の若山ですが三点提案させて頂きます。」と声を張り上げ手短に意見を述べさせて頂きました。そして、平石会長から「今の提案に対しては今後の会議で生かしていく。」とのコメントを頂き会議終了時に鴻江副会長、久藤政治連盟会長からご挨拶をして頂き、終了間際に園田参議院議員が「今委員会が終了した。」と言われてご挨拶を頂いて全日程が終了して、パソコン画面を閉じてから、改めてウェブ会議がこのように開けるのは平石会長が新型コロナを予測されていたわけではないでしょうが、ウェブ会議の良さを見抜かれていたと思うと、改めて平石会長に精一杯仕えていきたいと思いました。

リピーターの皆さん。私はこんな人間ですが、これからも宜しくお願いいたします。

一昨日に引き続き週刊現代からのネタです

「ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の30年」と銘打った特集だったのですが、私にはいわゆるホームドラマをみる趣味がなかったのか全くと言って良い程にこのドラマの記憶がないのです。もっとも30年前から10年前と言うと児童養護施設での生き方に疑問を持った時期で正直テレビを見て楽しむような状況でなかったし、児童施設を退職してからは大学等の非常勤講師を週13コマと家庭教師と個別ケアを頑張りながらも自分がやるべき事を模索していた時期から法人設立と特養建設に奔走し、事業開始後の10年は遮二無二に施設経営に取り組んできた時期。(もっとも今もその生き方は変わりませんが)

さて、本題に入ります。私は先週号のプロデューサー石井ふくこさんの記事で興味を持ったばかりだったので読んで行く内に「こんな人間ドラマやったんや」とますます興味を持ったのでコラムで書く事にしました。

先ず驚いたのは丸々20年間10回シリーズで行われた出来事が、それぞれの出演者の成長に会わせて物語が進んで行く手法には驚かされます。その典型のような俳優が前回にも書いたえなりかずきさんです。えなりさんが5歳の時には家業の中華料理店を手伝う健気な小学1年生を演じて、11歳の時に小学6年生を演じられた時は子どもながら口が達者なキャラで、13歳の時には中学2年で反抗期真っ盛りを演じ、17歳の時は勉強が嫌いな高校3年を。25歳の時には困難を乗り越えての結婚をすると言う設定にはえなりさん自身の生き方とは違うけれども一人の人生が10シリーズで描かれていて、その役を見事になりきって演じられたのは素晴らしいし役者人生としては非常にラッキーな方だと思うと同時に、その後の役者人生でそのキャラを破るのは大変だろうなとも思いました。

と言うのも私自身の人生そのものの中で小さいときは対人恐怖症の赤面症を演じてきたので、そこからの脱却に苦労したし、今でも中学時代の方と出会うとどのように接したら良いのか悩む事さえあります。これはドラマだからのなせる術ですが、えなりさん演じる眞は高校では覇気のない生活で高校卒業後は家業を継ぐのが順当な生き方だと思いますがネット上で知り合った年上の女性に感化され猛勉強をして一浪の末に東大に入学。と有り得ないような設定ではありますが、その頃を風刺した設定が長寿番組として視聴者に受け入れられたのだと思います。

この記事を読んで私自身も福祉事業の中でも、地域のニーズや職員の思いを良く理解した展開をしていかなければと気が引き締まる思いにもなりました。

さて、本日は午後1時30分からデイサービスで利用者さんとのお参りをして、新型コロナの関係で分散お参りで依頼を受けていたのが、新館2階と1階だったので、3会場を回った関係上(新館ではカラオケもさせて貰いました。)全部終了したのは午後3時をはるかに回っていました。正直喉がからからになりましたが、不思議な事に奈良薬師寺の大谷撤奘師からメール法話に対する感想等を書いた手紙のお返しに色紙と絵はがきを頂いた事も紹介しました。

リピーターの皆さん私の考えが地域のニーズに合ってないと思われた時、逆にそのまま突っ走れと思われた時にもご意見を下されば有り難いです。

『ちゃん』『君』『理事長さん』と呼ばれて

令和2年5月19日

私が小さい頃は虚弱だった故に『骨皮筋衛門』等と揶揄されていて(今の姿からは全く想像も出来ない体型でした。)当然の事ながら外で遊ぶのは御法度だったからでしょう。(田舎の大事な大事な『お坊っちゃん』・・・)色白で極端な言い方をするならば「少し風が吹いても倒れてしまう」ような、そんな私だったのでその当時私の母秋江さんは私の小学校入学を一年遅らせようかと真剣に考えて、その当時今須にあった診療所の本多先生に相談したと何度か聞かされました。

そんな私が一年遅れての入学でなく無事に小学一年になった時の担任の先生が塚原外尾と言う女の先生で私が受け持って下さった時(一年から三年まで)は今から考えると若い先生だったのに随分威厳のある結構わがままな先生だったようですが(この感想は姉春子さんの感想です。)私は随分可愛がって貰った記憶しかありません。その頃の学校は随分とフレンドリーだったんだと思います。

塚原先生は私の事を教室では「宏君」と呼んで貰っていたと思うのですが、塚原先生が日直をされている時に母秋江さんの手作り料理を持って遊びに行った時には「ひろっちゃん」と呼ばれていたように記憶してます。これは塚原先生なりの使い分けだったんだと今になって思います。今から考えるにその当時の私は非常に甘え上手だったんだと自分の事ながら感心してます。

それから大きく時間が流れて私が社会福祉法人杉和会を設立し特別養護老人ホームの事業展開をして3年位経過した頃米原市の敬老会の記念講演に招かれた時に塚原先生も足が悪くて杖をつきながら講師控え室まで来て下さり「宏君が講演に来ると聞いていたので楽しみにしていて来たんやわ」と言われ「宏君やないね。講師様なんだから若山先生かな。それとも理事長さんと呼ばなあかんのかな」と言われたので私は「昔のままでひろっちゃんか宏君で大丈夫です。」と言うと「宏君も立派になったね。あの頃はお母さんの後ろに隠れるようにしていた子だったのに」と言われて、正直「塚原先生に誉められた。先生に誉められたのは、その当時の脱脂粉乳のミルクを先生が嫌いで誉められたい一心で飲んだ事位だから本当に頑張って来て良かった」と思いました。

その当時、50歳前だったと思うし、講演の講師に来ていた私でしたが、塚原先生の二人の関係の中では『ひろっちゃん』であり『宏君』で良いわけです。

さて、施設の入居者さんや利用者さんは、いわゆる『顧客』であり『高齢者』として敬う存在である以上『ちゃん』や名前を呼ぶのではなく名字で『⚪⚪さん』と呼ばせて頂き、『お世話させて頂く』『相手を敬う』事が大切だと考えていますし、相手の尊厳を大切にした日々の対応こそ大切だとも思います。少し話はずれてしまいますが、平成12年(西暦2000年)4月1日に介護保険が施行され『特別養護老人ホームが措置から保険に変わり福祉的意味合いをあまり意識しない法人も実際にはある事を否定できません。その意味で令和2年度事業で盲養護・養護老人ホームを開設出来るのは意味深いものがあると考えています。

リピーターの皆さん私の考え方に対して是非にも論評下さい。

いつものネタもと『週刊現代』

令和2年5月18日

プロデゥーサーの石井ふく子さんの『身の丈のしあわせ』のサブタイトル『若い人との付き合い方』でえなりかずきさんの事が最初に書いてありました。【『渡る世間は鬼ばかり』の第1シリーズ(1990年)ではまだ5歳だった彼が今では35歳。驚かされたのは、えなり君が思春期を迎えた時でした。彼の声が突然、それまでと違っていることに私は驚いてしまったのです。「これは大変」と、とても慌ててしまい、えなり君のお母さんに「すぐにお医者さんに診てもらいましょう」と伝えました。するとお母さんが「これは声変わりなんです・・・」となんだか照れ臭そうに答えていらっしゃいました。そうかと安心する一方で、大仰にした自分が恥ずかしくなりました。

しばらくした後、こんな事もありました。収録前、化粧室で誰かがヒゲを剃っていました。えなり君でした。「えーっ!」声変わりと同じく当たり前のことなのに、「あのえなり君がヒゲを剃るようになるとはねえ・・・」びっくりしました。】このエピソードでは、子どもの成長に驚いて『新たな成長』を楽しんでみえるようで役者さんの成長が自分の喜びのような感性の持ち主なのだと思いました。

次は今をときめく坂上忍さんのエピソードです。【今は歯に衣着せぬトークが評判ですが、なぜか私の顔を見ると、ちょっと怖がります。たぶん、忍君が子役のころ、彼の利き手について、私がうるさいぐらいに指導したからでしょうね。忍君は左利き。私生活はそれでいいんですけど、古い時代設定のドラマだと困りました。昔はみんな右手でご飯を食べていましたから。だから「収録中は右手で食べるのよ」と繰り返し言いましたが、それでも左手で食べるので、厳しく叱ったことがありました。

当時の役者さんにとって。左利きは大きなハンデになったからです。今でも忍君は左利きですが、私と一緒に食事をする時には気を遣っていたらしく、一生懸命右手で食べていました。私に言われたことを守っていると訴えているつもりでしょうか。もっとも、私がちょっと横を向くと、左手で食べている。何だか微笑ましいです。】のエピソードには小さい頃の恩師にはどんなに偉くなっても敬意を持って接し、恩師の側はそれを温かく見守ると言うのは学ぶべき事だと思いました。次は『【ここ数年で知り合い、心通じ合った若い役者さんもいます。その一人が宮崎あおいさん。

2年前に『あにいもうと』にでていただいてからのお付き合いです。以前から「心のこもったお芝居をする魅力的な女優さんだなぁ」と思っていました。驚いたのは出演してくれることが決まった後のこと、宮崎さんは大型トラックの運転手という設定の役だったのですが、「収録前に大型免許を取ります。代役は要りません」と言うのです。私が「万が一のことがあったら大変ですから、運転シーンは代役を立てましょう」と提案したのですが、それを固辞されました。こんな女優さん、まずいませんよ。一途に役に取り組む凄い方だと思いました。(中略)コロナ禍で、若者と年配の人々の間に溝が生まれているという報道がありました。なんて悲しいことでしょう。私は93歳になりながら、若い方と仕事ができるのは、プロデューサーという仕事の特権の一つだと思っています。

若い方とうまく付き合うコツは、いくら年が離れていようが、子供扱いしないことでしょうね。私は宮崎さんの仕事に取り組む姿勢に胸を打たれ、たくさんのことを教えてもらいました。自分より若い方からも、学ぶことはたくさんある。そう思って接すれば、自然なお付き合いができるようになりますよ。】石井ふく子さんは93歳にして若い方からも学ぶべきものは学ぶべきとの考え方は素晴らしいし私も「今時の若い奴は困ったものだ。」ではなくて、「常に学ぶ姿勢を大切にする」でのスタンスこそ心掛けなければと改めて教えて頂いた気分です。そうするとどこからともなく、「いつまでお山の大将をしとるの」との言葉がなり響きそうですが私は人間が出来てないので「まだまだ若い者には負けん」と頑張っているのが良いのか悪いのか。リピーターの皆さん私は『不惑』など遥か昔に過ぎたのに・・・。困ったものです。

 

新規事業の地元の方との話し合いが行われました

午後1時に現地集合で行われる事になっていたのですが施設にいても落ち着かないし地元の方や垂井町の職員の方より遅く行くのは失礼に当たると早くに出掛けました。それだけでは安心出来ず昼食はゲンキーでパンとおにぎりとお茶を購入して、車で現地に行く前に車の待機所で食べてから現地の手前の空き地に駐車して歩いて行きました。現地にも駐車スペースはあるのですが多くの方が車で来て下さり地元の方や垂井町の職員さんの車が停まらない状況は避けたいと考えたからです。

現地に行くと地元の方や役場の職員の方はみえてなくて(当然ですよ。12時15分に着いたのですから)予定された敷地の中の確認をしながら行ったり来たりしていると、副町長さんを始め多くの職員の方が歩いて来られるのがわかったのでご挨拶をしていると順次地元の方が来て下さりました。

地元の方から一つひとつ要望を聞きケースバイケースで垂井町さんが答えられるところは垂井町の担当者の方に答えて頂き、法人側が答えるべき事は理事長として私が答えさせて貰いました。

その中で敷地に入る道路は一本でなくて二本あると良いとのお話があったので私は「私も二本あった方が施設にとっても、地域の方が色々な形で通って頂くにも便利ですがその為には土地の提供を地主さんにしていただかなければいけない」と話すると本日参加して下さった方の中に土地の所有者の方がみえて、「提供しても良い。」との言質を頂いたので明日以降速やかに話を進めていきたいと考えています。

実際に地元の方と現地で話をしていると前向きな話を沢山頂き、尚且つ、施設が出来てからの展開に色々な期待を持たれている事を理解できたのは大変有意義でした。昔の『案ずるより産むが易し』の格言通りの結果でした。勿論大きなプロジェクトはスタートしたばかりですが幸先の良いものになりました。

全てが終了して副町長さんや自治会長さんに挨拶をして再び車に乗って、ホッとしたのか昼食の為に購入したおにぎりが残っていたのを運転をしながらムシャムシャと食べてしまいました。その後施設に戻りまたまたホッとしたのかどっと疲れを覚えたので早い時間に帰らせて貰い、昨日誕生プレゼントに幹部職員から貰ったカラオケセットでリラックスしようと開けてみました。

我が家のテレビに差し込んで歌おうとしたのですが、我が家のテレビは2006年の購入で15年も前のだからか差し込みが合わなくてカラオケを挫折し、今はコラムを打っているのですが、我が家のテレビはまだまだ新しいと思っていたのに既に古いものとは・・・。

せっかく贈ってくれたカラオケセットだからこれはテレビを買って楽しまなければ。リピーターの皆さん我が家でのカラオケが上手く行ったらカラオケのコラムも乞うご期待と言うことで。

本日は67歳の誕生日です

令和2年5月16日

67歳の誕生日の朝の目覚めは早く、ふと「昨年の66歳の誕生日はどんな一日だったかな」とガラケーの携帯での記録を見たら載っていました。(と言う事は私のコラムは日記のようなものかも。小さい頃は全く日記など書けなかった私なのに・・・。)その内容では、昨年は全国老施協東海北陸ブロック正副会長会議の為に福井県に出掛けているのですが、出掛ける前に本部施設に行くと事務所の私の机の後ろに大きく『若山理事長66歳誕生日おめでとうございます』のような掲示があり、デイサービスの北島部長が代表で高級革の鞄を手渡された事を克明に思い出しました。そして改めて人間には、ちょっとしたきっかけで過去の思い出を思い出す能力を持っていることを改めて理解しました。だから、昨年の今日書いたコラム以上の事を思い出す事が出来ました。それは、東海北陸ブロック正副会長会議の懇親会の時にサプライズとして、誕生日ケーキが準備してあった事を。今年の誕生日は長男家族と共に我が家でホームパーティ型式で開催して貰うので、これはこれで嬉しく思ってます。

本日午前10時から垂井町の新規事業である盲養護老人ホーム並びに養護老人ホーム建設の為旧町営住宅地の解体及び造成の為に指名業者への仕様書渡しと説明を行ったのですがそれぞれの業者の一生懸命な質問に「どの業者になっても安心だ。」と正直に思いました。

説明会が全て終了して、昼食を摂っていると五次部長が「少し時間を下さい」と言うので「不思議なことを言うな」と思いつつ事務所に行くと幹部職員が揃っていて、大きな花束とプレゼントを渡してくれました。「本部施設の幹部職員は毎年気を使ってくれて感謝だな」と思いつつ、プレゼントの中味を確かめるとテレビを活用してのカラオケセット。「めっちゃ嬉しいけど、家でも歌えと言うことか。しかしながら、毎年毎年私が喜ぶものを考えて贈ってくれて本当にありがたい。」と思いました。

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その後、垂井町地域包括からの依頼でご縁を頂いた方の手続きに同席をして、14時を回ったので慌てて新館2階でオファーがあったカラオケに行くと、いきなり入居者さんが『ハッピバースデー』の歌を一斉に歌って下さり先ずは感謝です。本日のカラオケは事前に選曲をして携帯に入れておいたのでスムーズに歌える状況で、選曲は本邦初公開で『銭方平次』『花の首飾り』等も織り混ぜて10曲を歌いました。

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夕食は我が家で私の誕生会ですが久々に冷酒をしたたかに孫翔(かける)のお酌で飲んで楽しんで明日からもガンガン頑張りますのでリピーターの皆さん、私の67歳での動きも宜しくお願いします。(これでコラムを終了しようとしたら宅急便で埼玉県の法人理事長さんと常務理事さんから立派な花を送って貰ったので写真でおすそわけをします。)

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