片付け下手の宏君の話です

4月10日に歯医者さんに9時の予約に間に合うように車を走らせていて、『しまむら』の基地があるところで信号でもない所で前のトラックが停車したので「そう言えば工事の看板が出てたな。」と思いながら車を停止させて間無しに思いっきり後から来たノーブレーキの車にぶつけられました。それなりにトラックとの車間距離をとっていたのに前のトラックにぶつからなければ私の車は止まる事が出来ず、結局私の車は前も後ろも思いっきりへこんでしまって、ディーラーの代車に今は乗っています。

ぶつけた車の中の荷物をいつまでもそのままにしておくのが嫌だと思っていたので、午後から岐阜県庁で地域福祉課長と補佐との打ち合わせを終えて、先般亡くなられた入居者さんのお通夜までには時間があると考え、「荷物を入れる箱が必要だ。」と、途中にあるドン・キホーテによりました。適当な箱を2つ手に入れ、車を預けているディーラーに行き、私の車を持って来て貰い、何ヵ所かに分かれて入れてある荷物を買ったばかりの箱に適当に入れていくと、しっかり箱二個が一杯になりました。

そして、私は改めて私の片付け下手のだらしなさを理解しました。さてさて、2つの箱に納めた荷物の整理はいつできるのやら。『時間はつくるものだ』とか『忙しいからこそ時間を上手に見つけて何事やれるのだ。』等と言っている私なのですが、片付けばかりは大の苦手。

このような人間になったのは、上手に片付ける事が出来る父進さんがいたので、『片付けはしなくて良い』的な生活習慣が身に付いてしまった等と、父進さんの性にしている私がいるのです。魚の身をほぐすのも下手なのは父進さんの性。『親の背中を見て育つ』と言う言葉がありますが、父進さんには私にとっての母秋江さんにベタぼれだったので母秋江さんに絶対服従で、母秋江さんは我が子宏君が可愛くて可愛くて、息子が出来ない事は全部父進さんがして下さって当然等と思って育ってしまったのです。

今となっては何ともならない欠点と言っても過言ではありません。片付けが出来ない私に対して天国から父進さんが飛んできてくれると嬉しいのですがそんな事は『有り得へーん。』神戸北小学校に勤務していた時でさえ、資料作りこそ私がしましたが、片付けは父進さんがしてましたっけ。等と感傷に更ける前に宏や頑張って片付けをやったらんかーい。

『やれば出来る。と言われ続けて60有余年。』等と他人事のように言っている私は何者だと思われますか、リピーターの皆さん。

1979年の国際児童年から始まった『ふれあい広場』

私が徳山村の居候生活(勘当生活、飲めや歌えの生活等色々な言い方がありますが。)を終え児童養護施設の指導員になったのは、1979年の9月で、勤めだした当初は『家庭教師』のような扱いだったのに、9月半ばになると、『ふれあい広場』の準備の渦中に巻き込まれ、午前10時には施設に来て、保母さんの協力を得て看板作りを毎日毎日していました。また、子ども達が作成した手作りのポスターを公共の掲示板に貼ることも大切な仕事で部活を引退した中学3年の男子を同乗させてポスターを貼りに行くのですが、最初の年は何処に公共の掲示板があるのかもわからなくて苦労しました。限られた予算の中での実施なので招待状は私の私物の年賀状を刷る時の『プリントごっこ』(懐かしい響きがあるなあ)で一枚一枚印刷してハサミで形を作って完成させたものです。大きなイベント企画は経営者の方がいろんなコネクションを駆使して立てられました。例えば、『ミニSLコーナー』『小動物園コーナー』『人形劇コーナー』です。また、『110番・119番コーナー』は警察や消防署にお願いに行き打ち合わせするのは私の担当でした。それから、『即売コーナー』の不用品を連絡を頂くと集めに行くのも私の係りでした。『模擬店コーナー』は卒業生の中に板前さんがいて、その方の指示で美味しいと好評のうどんや焼きそばを販売しました。(ちなみに、うどんや焼きそばは40年前から100円です。だからですかね、優・悠・邑の夏祭りの模擬店も100円です。)何人参加者が集まるかわからない中で、第1回は小学校区の規模で開催したのですが1500人の参加があったのには感動しました。2回目は旧穂積町全域に拡げた結果3000人が参加して下さったのですが、準備が大変だし協力をして頂く方も毎年は大変だからと2回実施した段階で一旦実施しないことに決まったのですが、盛大なイベントだと言う事とNHKが資金援助をして下さる事になり、3回目も開催され、今も続いてます。不思議なものです。何かをやり遂げる時には不思議な力が働くと言う事を。但し、基本的には一生懸命に行おうとするものに対しての後押しがあると言う事です。私が主体的に担ったのは13回なのですが、準備に対して主体的に関わっていて、何が何処にあるかをわかるのが私以外にいなくて大会が始まると本部席から「若山さん」と大会終了の15時30分まで呼ばれては走り回るばかりでした。今から考えるともっとみんなにわかるようにしておくべきだったと思うのですが多分今でも、同じやり方なんでしょうね。だって、夏祭り等の時は走り回っていますから。いやいや、近年は来賓対応をするばかりで職員が頑張って実施してくれてるか。とにかく、私のイベント好きは児童養護施設の時に培われたんだと思います。リピーターの皆さんこんな生き方しか出来ない私をどう思われますか。

『お陰様で』に感謝。PART2

令和2年4月12日

救急車を呼ぶと共に施設に連絡して、救援を呼びました。と言うのは私は事故対応の為に現場に残らなければいけないからです。私は助手席にいた高校生がフロントガラスに突っ込み顔から血を流しているのでハンカチを渡すと一瞬の内にそのハンカチが真っ赤になり私自身は真っ青になり頭は真っ白になったのを覚えています。

そして何とか「目は大丈夫か」と聞くと「まぶたが切れたので血は沢山出とるけど目は見えとる」と答えてくれましたが、不安でいっぱいでした。やがて救急車が来て四人を祈るような気持ちで見送り、少し気持ちを落ち着かせてから事故の状況の凄まじさを確認すると、私の車も相手の車も前タイヤは全部パンクしてましたし、ゴムの焼けたような異常な臭いがしていて、(お互いに60キロで走っていたのが、一瞬で無理矢理止まった為にタイヤに凄い摩擦がかかった為)無惨な形に驚いてしまいました。

しばらくして、パトカーが2台到着して、相手の方はみんな救急車で行かれてしまった事を話しすると、1台のパトカーは救急搬送先の大垣市民病院に行かれてから、私一人が現場での事情聴取を受けました。落ち着いてあったままに話をして多分矛盾点がなかったからだと思うのですが、警察の方から「正直、堤防道路の正面衝突事故と聞いたので何人かは死亡あるいは重傷者があると思ってきたし、現場を見ても今のところ重傷者もないのには驚きだし奇跡に近いよ」と言われて改めて『ぞっ』としました。

結果的には大垣市民病院に行って診て貰った助手席の子はまぶたを切って沢山の血が出たものの瞼を5針縫ったがこれも奇跡的に目は傷ついてないとの報告を後から聞き、思わす私は「お大師さまありがとうございました。」と手を合わせました。但し、事故当日は緊張もありどこも痛くないと感じていたのですが、一晩寝た翌日に新聞を読もうとしたら目がちらちらして全く読めない状態で、病院にかかるとむち打ちの症状だと言われて、施設の経営者の方のアドバイスで針治療に長く通いましたが今は全然影響ありません。二回目の事故について書きます。

車は廃車になり、新車をブルーバードに買い換え、いつもの道をいつものように23時過ぎに走っていて夜になると私が走る方向が優先道路で黄色の点滅になる交差点で右側がビニールハウスで車が見えない赤の点滅で、右側からノーブレーキで突っ込んで来たのて思いっきりブレーキを踏んだのですが私の運転席側の後ろ側面に思いっきりぶつかり、ハンドルは思いっきり回ったまま制御できず、私の車は右方向に信号内をスピンして、スピンしている時に私が考えたのは「電柱にぶつからずに停まってくれ」と願うばかりで、私は震えながら「ナムタイシヘンジョウコンゴウ」を唱えていました。そして不思議な事に私の車は信号の真ん中で停まり全く電柱等にぶつかりませんでした。相手の車はと言うと進行方向とは逆向きで路側帯に器用に停まっていました。

私は飲酒運転でもしている車だと思い、スピンした興奮もあり「酒、飲んどるのと違うか」と詰め寄ったのですが酒の臭いはなく、警察を呼びお互いに怪我がないと言うことで後はお互いの話し合いでと言うことど、私の方も黄色の点滅で突っ込んだと言うことで若干の過失があるとの事でしたが、今回はお互いに怪我無しと言う事でしたが、スピンの時間が如何にも長く感じた事を覚えています。車がダメになる事故は今回で3回目ですが、体に支障もなく今があるのは正直目に見えない『お陰』を頂いているとしか考えられない。しかも3回も。これは生きての役割があるからだと思うとこれからもしっかりと地域の為に貢献しなければいけないと思うのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。

『お陰様で』に感謝

昨日は36年ぶりの出来事としての交通事故の対応とショックによって異常に疲れていたのか21時からのテレビでの『コナン』の映画の楽しみより睡魔に勝てず(そんなに大袈裟に書く事ではなかったね)爆睡しました。

そして今、目が覚めて一番にしたのはベット上で体を動かしてみて痛いところはないか確認しました。そして『どこも痛くない』事に『お陰様で』等と薄ぺらな表現では申し訳ないくらいに感謝してます。もしかしたら、天国にいる父進さん、母秋江さん、姉光子さんがぶつかった瞬間に頭を支えてくれたのかもと真剣に思っています。

リピーターの皆さんの中にはひょっとして「そんな事ができるのなら、最初から事故を起こさないように、その場にいないようにしたら良かったのに」と思われた方があったかも知れませんが、人生にはどうしても免れる事が出来ない『災難』はあると思います。『大難』を『小難』にして貰うのも、摩訶不思議な世界であり理屈では説明出来ない事なのです。

どうしてそのように断定的に話す事が出来るのかを私が29歳の時に一度ならず二度経験した交通事故の体験からお話します。一度目は29歳の秋の事です。その当時は児童養護施設の指導員で例年11月23日に開催される『ふれあい広場』と言う大きなイベント(その頃は6千人の入場者がいました。)のイベントの一つとして、カニのプレゼントコーナーがあり、長良川の下流にたくさん生息しているカニを捕まえる為に高校生男子4人を私の車(当時はカムリに乗っていました。)に乗せ右岸道路を走っていたら、夜釣りを徹夜でした若者の居眠り運転の車に正面衝突をされたのです。(ぶつかる直前の事は駒送りのように鮮明に覚えています。)

相手の車は私の車と対向する直前にガードレールにぶつかりそうになり、そこで気が付いたのか、私の車目掛けて急ハンドルを切ったので防ぎようがなかったのですが、ぶつかる瞬間が駒送りで長い時間が過ぎたように感じたので「あれ、ぶつからずに何処に行ったの」と思った瞬間にドカーンと衝撃がありその当時シートベルトをしてなかった私はハンドルをねじ曲げてまでハンドルを握っていました。

「大変な事になった」とうつむいたままでいたら、健気にも助手席の高校生が「先生大丈夫か」と声をかけてくれたので、助手席の子が声をかけてくれたのなら大丈夫と助手席の子を見ると顔から血が吹き出ていて愕然としました。取り合えず救急車を呼ばなければいけないと考えたのですが、当時は携帯電話などと言う便利なもの等ない時代なので、堤防を走って降りて、民家に飛び込み事情を話して救急車を呼びました。

※本日は私の奥さん『かをりさん』の誕生会を19時から長男家族と共に我が家でするので、今はお風呂でコラムを書いているのですが、明日続編を書きますので『本日はここで打ち止め』ハラハラドキドキは明日に持ち越します。

なかなか終息しない『新型コロナウイルス』について私の思いを書きます

最近の世の中はいわゆる『想定外』と言われる事があまりに多いと言わざるを得ません。阪神淡路大震災による火災にしても、東日本大震災による津波と原子力発電所の破壊にしても、関東を襲った洪水にしても、誰も想定した方はいなかったと思います。そう言う意味では『東南海沖地震』による津波の予想を『30年以内に来る確率が高い。』とは言え、具体的手立てを東南海沖の住民でされている方がどれだけみえるでしょうか。ちなみに私は当法人の顧問である烏野先生(びわこ学院大教授でこの4月から大学のナンバー2の立場である学部長に就任。)の指導により多少の受け入れる側の準備はしてますが、1法人で出来る事は限定的なので本当に危機的状況だと国が認識しているのであれば国家的施策を打つべきだと思います。

さて、本題の新型コロナウイルスについて私なりの考えを述べたいと思います。昨年の暮れに中国武漢で新型コロナウイルスが大きく取り上げられた時には「また、中国からか」程度の感想しか持たず、1月になりぼちぼち日本にも出てきたとの報道があっても「私には無縁の事」程度の認識でしたが、先月の岐阜県老施協正副会長委員長会議においての席上で副会長の一人が「新型コロナウイルスが恐かったので2月4日の全国老施協が開催したセミナーはキャンセルしました。」の発言に私は思わず「ここまでの事を想定していたの」と聞くと「ここまでの事を考えていた訳ではありませんが、新型コロナウイルスに対する感染リスクを考えての事です。」と答えられたのには「素晴らしい発想だし、世界中の人がそのように考え行動してたら今のような状況にはなっていなかっただろうな。」と言うのが私の精一杯の答えでした。しかしながら、今の世界中での拡がりを言い当てた方がいたでしょうか。確かに結果論で論評する方はいっぱいいます。また、それぞれの国の長と言われる大統領であったり首相と言われる方の初期対応に対する認識の甘さを指摘される方もたくさんみえますが、そのような批判をされている方は今の状況が理解されていた方なのかなと思うと共に、それぞれの国の責任者の方は異口同音に「これほどに拡がり、これ程に資本を投入しなければいけないとは考えられなかった。」と言うのがホンネだろうと思います。今は、一日も早く治療薬と予防薬を開発して貰う事を私は祈るしか出来ませんが、少なくとも日々の生活の中で手洗い、うがい、手指消毒は徹底しなければと朝早くにここまでのコラムを書いて・・・。

8時33分に9時からの予約がしてある歯医者さんに向け車を走らせていて、関ヶ原から垂井に入り衣料品基地の『しまむら』の前で信号でもないところなのに前のトラックが停まったので「工事の看板があったので仕方がないな」と思っと停止した瞬間に後ろからノーブレーキの車が突っ込んできて、私の右足はブレーキのペダルを踏んでいたので、そのペダルを思いっきり踏んだのですが、私の車は後ろからぶつかった車の勢いに押されて一瞬、車が宙に浮いたようで、前のトラックにぶつかり停まりました。後ろの車の方がなかなか出てみえないので、様子を見に行くと怪我はされてないようだったので、少し安心してから「警察に連絡しますよ」と確認してから110番に連絡して(自分でも落ち着いた形で報告出来たと思っています。)道路上では危ないと思い、取り合えず『しまむら』の駐車場に3台とも移動して警察が来るのを待っている間にお互いの連絡先を教えあっていると、パトカーが来て、それぞれに事情聴取を受けたのですが、一段落した時に事情を聞いて下さった警察官は私の事を思い出して下さり「理事長さん。理事長さんの車が頑丈な車で良かったですね。もし、車が軽自動車だったらクチャクチャになっていて大怪我をされたかもしれませんね。」と言われて、改めて自分の車を確認すると前も後ろもかなりのへこみがあるのに驚きました。警察の方も事故対応が終わりお礼を言ってから外見は悲惨でもタイヤも大丈夫だったので、取り合えず施設に帰り保険会社と車のディーラーに連絡をして、昼食を済ませてから、ディーラーが持ってきた代車で岐阜県庁高齢福祉課の対応と烏野先生の学科長就任のお祝いを予定通り済ませ、一旦施設に帰ったものの、どっと疲れが出たようで早くに家に帰らせて貰いました。

リピーターの皆さん。本日のコラムの書き出しで『想定外』について書いたのですが、本日は末尾にも『想定外』の報告をする羽目になりましたが、リピーターの皆さんコロナも怖いですが交通事故も怖いですから安全運転をしていてもぶつかってくる車もありますので、お互いに無事故であることを感謝して下さい。私は怪我をしなかった事に感謝してます。但し、事故後に整形の先生に診て貰ったのですが「痛いところが出てきたら改めて来てください。」と言われた時に児童施設に勤務していた時に居眠り運転の車に正面衝突をされた時に事故の翌朝新聞の文字がちらちらして読めなかったのを思い出しました。明日の朝、そんな事がないようにリピーターの皆さんも祈って下さい。

初体験のテレビ会議をしました

令和2年4月9日

新型コロナウイルスの影響で全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会が本来であれば東京に本部がある平河町の塩崎ビルで開催すべきところを、テレビ会議で実施されました。テレビ会議参加者は総務・組織委員会のメンバーが7人と事務局側が3人の合計10人です。最初の内はどのタイミングで話して良いのかがお互いに分からず、結構戸惑ったのですが、13時30分から16時25分までほぼ3時間休憩もなく実施されました。

無事に終わってからの感想は正直「疲れたー」でした。時には一生懸命に話されているのが途中で聞きつらくなったりしながらでしたが、それぞれの委員が積極的に意見を述べてくれたので初めてのテレビ会議としては充実したものになったと思っています。

全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会は組織の見直しをしていく中から組織強化と拡大を実践していく重要な委員会で、昨年度は全国にある8ブロックの役員さんとひざ詰めの懇談会を札幌市、秋田市、金沢市、東京、大阪市、徳島市、博多市と順調に行く事が出来たのですが、3月に予定していた、広島市の予定は残念ながら新型コロナウイルスの影響で中止になったのですが、それぞれのブロックで成果を収める事が出来て、総務・組織委員会委員長としての重責はそれなりに担えたと思っています。

また、ブロック懇談会の他に『タウンミーティング』と言う事で、東京都と埼玉県の施設の方々と親しくお話をさせて頂き、令和2年度は令和1年度に築いた実績を基に会員促進を積極的に進めて行こうと胸算用していた矢先の新型コロナウイルスにより、日本中が停滞してしまっている中ですが、新型コロナウイルスが終息したら直ぐに活動できる戦略を本日正に話し合えたと思っています。

しかしながら、便利な世の中になったものだとつくづく実感したのは、パソコンの画面をみながら相手と話が出来てリアルタイムに意思疎通が出来るのです。しかも、私を含んで10人の方でです。確かに最初の内は10人となると、混乱するような事もありましたが、監事の田中君が(岐阜県)上手く進行してくれたのと、経験豊かなメンバーばかりなので、初体験の方ばかりのわりには成果が上がったと思います。

会議の最後に徳島県の森岡副委員長が、経費があまりかからない(旅費が必要ない)この会議を複数開催して総務・組織委員会の充実を図れたら良いのではないかと言う提案には正に『禍を転じて福と為す』だと思った次第です。但し、最終的には新型コロナウイルスが終息して、東京本部で顔を突き合わせて周知をしなければいけないとは考えています。

初体験のテレビ会議の為に、昨日メールで届いた本日の資料を10時からのお客さんとの対応が終わってからしっかり2時間、予習が出来て満足がいく形になったので、私が今しみじみ思うのは、66歳になった私がまだまだ知らない事を経験させて貰える幸せを・・・。リピーターの皆さん、そう思いませんか。、

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昨日は姉光子さんの命日でした

令和2年4月8日

丸々50年前の4月7日が姉光子が急逝した日。姉光子さんには、私が小学3年生頃から実質的な母親替わりで、私より6歳年上の高校1年生だったのですが今から考えると姉光子さんは高校1年生にしてはしっかりしていたと思います。甘えてばかりの私の強敵であった直ぐ上の姉春子さん(とは言え4学年上ですが)の恐怖から私を守っていてくれたし(✳お断りしておきますが今の春子さんは決して、そんな春子さんではありませんよ)先日も書きましたが私がピンチの時も助け船を出してくれたし。(ラケット事件)

私が高校1年生になり姉光子が10月に嫁いで行ったのはめっちゃ悲しかったけど、私が高校を終えて関ヶ原駅で降りるのを待っていて、お小遣いを渡してくれたり・・・。(いやいや私が意図的に姉光子の時間に合わせていたのかも)でも、最高の感謝は私が高校に入ってからお嫁に行くまでの半年間は毎日お弁当を持たせてくれて、その中に必ず玉子焼きが入っていたのですが、その玉子焼きは正に絶品だったと正直このコラムを打ちながら涙を一杯ためながら思い出しています。(✳春子さんが姉光子さんがお嫁に行ってからはお弁当を作ってくれてましたので、感謝してますよ。おいおいついでのように書くな。またまた春子さんに怒られるやろ。いやいや今の春子さんは決して怒りませんから。)

昨日は姉春子さんと共に父進、母秋江、養母英子が眠る墓参りに行き、その後、姉光子さんが眠る姉光子の嫁ぎ先のお墓に行きました。勿論メインは姉光子さんが眠る墓参りだったのですが。一言で50年前とは言え、言い尽くせないものを感じながら朝5時からこのメールを打ってます。姉光子が50年前のままで、今現れたら今の私を見てびっくりするだろうな。先ずは私の体型に・・・。だって、高校生の時には既に身長は160㎝でストップしていて、その頃の体重は40㎏を少し越えた位だったので・・・。(と言うことは倍の体型だから縫いぐるみを着ているようなものか)そして、話をしだしたら自信を持った話し方をするし、まさかまさか私が社会福祉法人の理事長として施設経営をしているとは・・・。でも、驚く事はないか。だって、母秋江さんと共に天国から支えてくれたわけだし、私が38歳からは父進と3人で、私の無鉄砲な生き方を支援してくれていたのだから。

私は時々自分で話をしながら、自分が話をしている自分に驚くと言うより感心してしまう事があります。その最たるものが、入学式でPTA会長として朦朧としてでも何とか話をした事だし、講演をした時のビデオ等を見て自分で良くこんな内容で話が出来たなと思ったり、厳しい状況にさらされながらも堂々と話をしている時、頭の後ろからささやいてくれる誰かがいるのではないかと思う事があるものですから。(大阪吉兆のバカボンのような事ではないですが)私が今あるのは『運』では片付けられないものがあります。『運も実力の内』との考え方もありますが、『もし、あの時にあの支援がなければ』とか『あの時にあの方との出会いがなければ』と言う事があります。立ち上げの資金繰りにしても綱渡りだったけど何とかなったし。しかしながら『自転車操業』などと言う半端なものでは無くて資金が入る先が見えない中での文字通りの綱渡りだったので、今から考えてもぞっとするような状況でしたが、そう言う意味では奇跡を天国の3人が起こしてくれていたのかも知れません。

ところで私にとって唯一の姉になった春子さんですが、姉光子が急逝してからは、若山家の長子としての自覚が出来たのか、父を支える存在になり、私が38歳になりフリーになり無納税者の生活の時には色々な面でサポートしてくれ、春子さんの子ども達から(私にとっては甥っ子、姪っ子)は、「本当に仲の良い兄弟やね」と言われると、姉春子さんは必ず無気になって「当たり前やがな。二人だけの兄弟なんやから」との答えが返ってきます。春子さんが丸くなると共に二人だけの姉弟だからこそ、お互いに助け合うのは当たり前になり、私も年齢と経験を積む中から姉春子さんに迷惑をかけるだけでなく、頼りにして貰える事も多くなってきたように思っています。しかしながら、4学年も上の姉が「あんたのお兄さん頑張っとるね」と言われて喜ぶのは止めて下さいね。リピーターの皆さん。姉光子の話から春子さんの話になってしまい申し訳ありませんでしたが、姉弟がお互いに支えあっている事を言いたかったので、そのところを宜しく。と言うことで・・・。

思いがある奴は思いも通じる

令和2年4月7日

デイサービスの現場の責任者は言わずと知れた北島部長です。デイサービスの『桜を見る会』(誤解を招く表現だったかな。)は4月3日,4日と本日の7日の予定で起案されていたので、「不思議な組み方をしているな。」と思いつつ、北島部長からカラオケのオファーを受けていたのですが、3日も4日も残念ながら活躍出来なかったのですが、本日は今の段階でデイサービスの利用者さんが楽しくされている所に参加出来そうです。何故、5日と6日が飛んでの本日7日なのかはわかりませんが、本日は風も無く今の時期としては暖かい日和だったので、北島部長の思いを天気も味方してくれるのだとつくづく実感した次第です。私が、『上を向いて歩こう』『すきま風』『酒よ』を熱唱していると、不気味な二人が花見に乱入して・・・。どう見てもバカ殿に扮した北島部長を見て、模範的な化け方を12月のクリスマス会で披露して北島部長に『ぐーのねも言えんようにしてやるぞ』とわけの分からないライバル意識を持っている私はやっぱり変ですかね。花見の花を見ながらつくづく実感したのは、平成10年5月15日の本館竣工式を前にしてその当時の岐阜県庁から桜の苗木を取りにくればいくらでもわけてあげますとの連絡を頂き50㎝位の苗木を貰って来て植えたのが立派に咲いているのを見て正直感無量の気分にもなりました。(私の母親秋江さんの教えである『蒔かん種は生えない』を改めて理解しました。)伝統とは単に年数を重ねたから出来ると言うものでは無くて、『思い』を積み重ねていくものだと思います。そう言う意味で言うと北島部長が『デイサービスの利用者さんを喜ばせたい』と言う思いからの企画を評価すると共にこの思いを大切にしたいと思うと共に北島部長に続く職員をドンドン輩出していければと思っています。『思い』と言えば、平成10年5月18日に事業開始した当初は私の高齢者福祉に対する経験がない中で空回りして、白い封筒が乱れ飛び胃に穴が開くのではないかとの試練も経験させて頂きましたが、その後職員とのコミュニケーションをを取りながらの実践と、入居者さん利用者さんに色々な場面で教えて貰いながらの日々の中、地域のニーズに合わせた展開の中から平成16年4月に新館が事業開始して、西濃の中心で展開したいとの思いの中で平成26年4月に大垣市和合での事業開始が出来、今は岐阜県に盲養護老人ホームがないのを何とか解消したいとの思いで令和3年4月事業開始にの展開の為、日々活動出来る幸せを感じています。リピーターの皆さん、私は少々くらい、いやいやかなり大変な状況であっても突き進む事は厭いませんのでこのコラムでこれからもその事も含んで書き続けていきますのでこれからも宜しくお願い致します。

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本日、関ケ原中学の入学式です

令和2年4月6日

本部施設の吉田部長が関ケ原中学校の入学式でPTA会長として午後から挨拶に行くと言う事だったのですが、午前中に全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会の初めての試みで4月9日にテレビ会議を実施する為の試験的操作があるので、機械の操作をしに公休日だったにも関わらず来てくれたのですが、新型コロナウイルスの為の対応としての一貫とは言え大変な状況になっていると言わざるを得ないです。

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ところで、入学式と言えば、今須小学校のPTA会長を平成8年度と9年度にさせて頂いたのですが、PTA会長2年目の平成9年度の入学式でのPTA会長としての挨拶は朦朧とした状態で何とか挨拶をしたのを、吉田部長と話をしていて思い出したのでコラムとして書くことにします。

平成9年4月と言うのは関ケ原町に高齢者福祉施設建設計画の申請の最終段階で、その当時の補助金申請は、県の担当者が申請書類の作成の為の指導をして、その書類を県の担当者が持って厚労省の担当者の審査を受けるシステム(今は地方分権で岐阜県での審査のみ)だったので、その当時の県の担当者も厚労省での審査直前ではピリピリしていて、入学式の前日に心配な書類の添付資料をあれこれ作成して欲しいとの連絡を貰い、その資料が結構な量のもので、しかも翌日には欲しいとの事で、連絡を受けたのが午後4時で・・・。夜を徹して資料が完成したのは午前9時30分。慌てて家に帰り、朝食と着替えを済ませて県庁に行き、資料の確認をして貰い、急ぎ県庁を出たのが11時30分。12時30分には学校へ行かなければいけないのに結局学校に着いたのは12時45分でした。

校長室に入って行くと校長先生が「遅いので心配してましたが会長さんのお顔を見たので安心しました。誠に申し訳ありませんが早速入学式会場に移動して貰えますか。」と言われ体育館に歩いていきながら、「バタバタしていて会長の挨拶は何も考えてないし、徹夜だったので頭がぼーっとしていて何も浮かんでこない。」と思っていました。何人かの挨拶があり、会長である私の出番になり、頭は朦朧としながらも何とかしっかりとした挨拶が出来たなとほっとしながら壇上を降りたのを思い出しています。

今コラムを打ちながら、私の生き方はいつも綱渡り。でもこんな生き方でかれこれ半世紀(高校生時代から)。先程も全国老人福祉施設協議会の平石会長との電話でのやり取りにしても、自分にプレッシャーを掛けながら『有言実行』あるのみの生き方しか出来ない私を心配して貰っている次第です。でも、良い事もありますよ。だって4月9日には13時30分から3時間のテレビ会議を体験出来るのですから。これもワクワクですよ。66歳になっても(来月には67歳)わくわく感を持った生き方が出来る事に感謝。

 

ハチャメチャだった高校2年生時代でしたが生徒会活動には頑張ってました

令和2年4月5日

私が高校2年の新学期の日(4月7日)が姉光子が急逝した日で、もやもやの日々の中でやんちゃをしては父進に迷惑ばかりかけていた私を、その当時担任だった西田先生が多分『エネルギーが有り余っているから何かに熱中させないと危なっかしい』と考えられていた時期に、生徒会選挙の応募があったのです。その当時は『三無主義』だとか『シラケ時代』とか言われている時代で定員に至らない状況があった事もあり、西田先生がクラスの同級生を誘導する形で副会長に立候補することになりました。そして、見事無投票当選を果たしたのです。しかしながら、実際に役員の一員になると元役員の3年生の先輩の中には結構熱くうるさいことを言ってくる方がいて、その当時の私は結構激論していたように思います。

但し、後期の改選期前になって、一年生から生徒会批判をする輩が出てきて自ら会長に立候補する生意気な女子が現れたのです。しかしながら私的には「批判は誰でも出来るが実際に形に出来ると思うならばやったら良い。私は出ない。」と考えていました。ところが、その動きを知った同級生のスポーツクラブ所属の女子が中心になって決起して(これも西田先生が影で糸を引いていたのかも知れませんが確証はありません。)私を会長立候補者に祭り上げたのです。その頃のスポーツ系の女子は元気な子ばかりで、足のこぶしの所まであるズルズルのスカートをはいて学校内を闊歩している子ばかりだったのですが、私は自らは出ないと考えていたので全く選挙活動をする意志がなかったのですが、一年生の候補者が必死な運動を繰り広げているのを見て、例えば相手候補者が登校する生徒達に玄関先で呼び掛けているのを見て、翌日にはズルズルスカートの賑やかな(いやいや不気味な)メンバーが玄関先を占拠して選挙活動をしているのです。

私が登校してくると「若山君。タスキをして立って立って。」と言われてしぶしぶタスキを掛けると彼女達はますますヒートアップして・・・。いつもは基本的に近寄る事のない存在の女子軍団が可愛く(いやいや不気味かな)「若山君を宜しくお願いしま~す。」と言われるのはかえって逆効果でないのかと思いつつも、「こんなに一生懸命になってくれているけど相手は本気だし勝てないよ。」と思っていました。しかしながら、その時の選挙では、私以外の女子軍団を中心としたこちら側の勢いは凄まじくて、立ち会い演説会で私が演壇に上がって話をしようとしたら、ズルズルスカート軍団がずらっと後ろに立っていて私が話をする度に「お願いしま~~~す。」を連呼して、流石にスポーツ系は縦社会です。上級生にも下級生にも根回しがしてあったんだと思います。

私は開票の場所にも行かずにいたのですが、開票結果は圧倒的に私の票が多かったと女子軍団のリーダー(と言うよりボスかな)が興奮気味に知らせに来てくれました。せっかく会長になったんだから今まで出来なかったような生徒会活動をしようと考えた私には強い味方がついたのです。と言うのは、今までだったら生徒会活動にあまり協力的でなかったスポーツクラブのメンバーややんちゃな生徒達がこちら側についたのです。だから、私が会長の時の卒業生を送る為のイベントは例年になく参加者が多くて準備も盛り上がりました。いつもは学校生活も一生懸命でない子達がバンドを組んで練習に打ち込む姿は感動もんでした。

当日を迎え『いつもと同じでくだらないイベントだろう』と思っている送られる側の3年生が開会の挨拶を教頭先生がされていてもザワザワしていてうるさい中、私が会長挨拶をする段階でもうるさくて、私は一生懸命に準備してくれたメンバーに申し訳ないとの思いで一杯になり、「やかましい。後輩が一生懸命に準備したのを静かに見たらんかい。」と思わず叫んでいました。その後は先輩達も『いつもとは違う』と感じて貰えたのか一番最初のバンド演奏が良かった為か成功裏に終わり、参加してくれたメンバーと共に喜んだものです。(当然の事ですが祝杯はやりました。)

しかしながら職員の中には私の行動を善しとしない方がおみえになったのだと思います。(多分、私の前に挨拶をした教頭先生一派)例年だと卒業式の送辞は生徒会長がするのですが、「若山だと、卒業式でも何を言い出すかわからない。」と言う事で代わりがたてられ送辞の挨拶は出来なかった次第です。リピーターの皆さん私の生き方をどう思われますか・・・。

新型コロナウイルスの報道ばかりの中でかつての自分を振り返る時間がコラムを通じて出来たのは有り難いことだと思います。勿論、絶対に許してはいけないことは新型コロナウイルスを施設に持ち込まないことが必須なのでこれからも職員が一丸になり阻止する事は勿論ですが、家族、地域、ボランティアの方々の理解も得て終息まで頑張りたいと考えています。改めてリピーターの皆さんも手洗い、うがいと消毒をしっかりしていきましょう。

 

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